朝5時、スマホが鳴った。画面には「父」と表示されていた。嫌な予感しかしなかった。数時間前、私は病院の個室で義母の手を握っていた。義父が娘をフルスイングで殴ったと聞かされたのは、ついさっきのことだ。「傷害事件です。絶縁して、慰謝料も請求します」と言う私に、義母は静かに首を振った。「あの子の心のケアを優先したいの」その優しさに、私は涙を堪えるのが精一杯だった。なのに電話越しの父はこう言い放った。…

朝5時、スマホが鳴った。画面には「父」と表示されていた。嫌な予感しかしなかった。数時間前、私は病院の個室で義母の手を握っていた。義父が娘をフルスイングで殴ったと聞かされたのは、ついさっきのことだ。「傷害事件です。絶縁して、慰謝料も請求します」と言う私に、義母は静かに首を振った。「あの子の心のケアを優先したいの」その優しさに、私は涙を堪えるのが精一杯だった。なのに電話越しの父はこう言い放った。...

病院の個室の空気は、消毒液の匂いで満たされていた。娘の手を握りながら、私は静かに言った。

「お父さん、私の父があなたのことを本当に許せないって言ってたわ。あんなこと、絶対に許せないって」

「私が謝ることじゃないわ」と、義母が優しく首を振った。「気にしないで。検査の結果も異常なかったみたいだし」

「でも、僕がもっと早く止めに入っていたら、あなたが痛い思いをせずに済んだのに」

「ええ、あの瞬間、私も目を疑ったわ。娘のことをフルスイングで叩くなんてね」

「義父は剣道部だったんです。手癖が悪くて。だから急所に当たったんでしょうね。本当に許せない。すぐに警察に行きましょう。傷害事件です。絶縁して、治療費と慰謝料も請求します」

「気持ちは嬉しいけど、少し待ってちょうだい」

「なぜですか? あんな奴の言いなりになる必要はない」

「警察沙汰にしたら、あの子の傷に塩を塗るようなものよ。まずは七の心のケアを優先したいの」

「それはそうですが。でも、ただ警察に突き出すだけじゃ生ぬるいです。私が責任を持って教育するから、任せて」

「教育って、何をされるおつもりですか? 」

「それは見てからのお楽しみ。止めないでね」

「止めません。僕だって許せない気持ちは同じです。でも、気をつけてください。相手は狂ってますから」

「心配ないわ。ゴミ掃除には慣れてるもの」

「分かりました。俺は七のそばにいますから」

数時間前、私たちは結婚式の二次会に顔を出していた。娘が気分が悪くなったと聞いて、慌てて病院へ駆けつけた。そこで衝撃の事実を知ったのだ。私の父親が、娘を殴ったと。

翌朝、まだ五時にもなっていない時間に、私はスマホの着信音で叩き起こされた。画面には「父」と表示されている。イライラしながら通話ボタンを押した。

「大起、起きろ」

「なんだよ。まだ朝の五時だぞ。俺は一睡もしてないんだ。知らねえよ」

「昨日あんなことしておいて、よく連絡できるな。七は一晩中泣いてたんだぞ。もうあんたなんか父親とも思いたくねえよ」

「ああ、俺こそが被害者だぞ。あの女のほっぺたが硬すぎて、手首を捻挫したわ」

「自分の娘くらいの女性を殴って、よく言うよ。病院行けよ、頭の方な」

「親に向かってなんだ、その口は。誰のおかげで就職できたと思ってるんだ」

「普通に面接して、実力で就職したけど」

「あー、俺が裏から手を回してやったんだよ」

「嘘だろ? 」

「まあいい。今から母親と嫁を再教育してやる」

「は?

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やめろよ。これ以上二人に関わるな。七は絶対安静なんだぞ」

「余計な口出しをしたら、お前の会社潰すからな」

「は? どういうことだよ」

「お前の会社の経理部長が、先週銀行に融資の相談に来てたんだ。それがどうした? 」

「どうやら他の銀行に断られたらしいぜ。確かに資金繰りは厳しいけどな。だが、メインバンクに断られて、うちの銀行が最後の頼みなんだよ。担当者に、あることないこと吹き込んでやるよ。そうなれば、お前は職を失う。子供も生まれるのに」

「おい、卑怯だと思わないのか? 」

「こういうのを権力って言うんだよ。嫌なら、ババーと一緒に嫁に行っておけ。俺様の言うことは絶対だ」

「七は妊娠してるんだぞ。昨日のお前の暴力で流産したらどうするんだ?

」

「大体、結婚前に妊娠とは、不貞な女だな」

「結婚を前提に付き合ってたんだ。そんな言い方するな」

「散りがる女のことはどうでもいいが、嫁は嫁いだ瞬間に糞だよ。文句あるなら、会社への融資を止めるぞ。三秒で決めろ」

「父さんにそんな権限ないだろ」

「融資部に同期がいるんだ。そいつが不倫してることを、俺だけが知ってるんだよ。その弱みを握ってる。それで十分だ」

「人の弱みを握るなんて、最低だな。でも、俺はそんな脅しには屈しない」

「はあ。じゃあ、好きにしろ。お前の人生だぞ。後悔するなよ」

「後悔なんてしない。俺は七と結婚するんだ」

「言ったな。後悔するなよ。あと、母さんが病気で倒したのは、お前のせいだぞ。謝罪しろ」

「…謝罪とは、私が殴られた件ですか? 」

「それもあるが、それだけじゃない。お前のせいで、家族がバラバラになったんだ。謝罪が足りない」

「私は何も悪いことをしていない。あなたが一方的に暴力を振るった。謝るべきはあなたの方だ」

「お前、本当に俺が怒りすぎたと思わないのか? 俺はお前のためを思って言ってるんだぞ。あんな女と結婚して、幸せになれるわけがない。将来、絶対に後悔する」

「私の人生だ。後悔するかどうかは私が決める。あなたに決められる筋合いはない」

「強がってろ。どうせすぐにヒモになるぞ。自分より格下の女と結婚して、惨めな思いをするのはお前だ」

「それはどうかしら。私はあなたのような人間にならない。仕事に上下はない。清掃員の仕事は、あなたが思っているほど卑しい仕事じゃない」

「清掃員の何がいいんだ。あんな仕事、誰にでもできる」

「じゃあ、あなたはトイレを掃除したことがあるの? 誰かが使った後に、汚れたトイレをきれいにすることの大変さを知らないくせに、そんなことよく言えるわね」

「お前みたいな年寄りが、口ばかり達者になって。どうせ田舎の出だろうが。俺みたいなエリートの家柄とは、昔から付き合いのある上品な人間とは違うんだよ」

「何か、生意気なこと言ってるみたいね。エリートの家柄が何よ。私は、あなたが口にする『人間性』こそが、エリートと呼ぶにふさわしいと思うわ。地位や肩書きじゃない。人を思いやる心よ」

「お前、言い過ぎだぞ。謝れ」

「謝るのは、私の方じゃないわ。あなたが謝るべきなのは、七さんと、私の息子と、私に対してもよ。娘をこんな目に遭わせて」

「うるさい!

女のくせに、よくそんなに喋れるな」

「女のくせにって…… あなたにとって、女は黙って何も言わない方が都合がいいってわけ? だったら、本当に残念ね。私はそんな風に育てられていないから」

「もういい! この話は終わりだ」

「ええ、終わりにしましょう。こちらから望んで始めた話じゃないから。でも、一つだけ言わせて。もしあなたが、息子と七さんを引き離そうとするなら、私も全力で阻止するわ。子供の幸せを、自分のエゴで壊すのはやめて」

「あなたに何ができるって言うの? 」

「そうね。私は一介の清掃員かもしれない。でも、自分の息子を愛してる。守りたいものを守るために、私は何だってするわ。それがあなたにも分かる?」

電話の向こうで、父の息遣いが荒くなるのが分かった。しばらくの沈黙の後、父は吐き捨てるように言った。

「……覚えておけよ。俺の言ったことは、忘れるな」

「忘れないわ。でも、私はあなたの言うことを聞くつもりはない。もう二度と、あなたの理不尽には付き合わない」

通話が切れた。私はため息をつき、息子の大起を見た。彼は拳を握りしめ、私たちの会話を聞いていた。

「母さん、ありがとう」

「何言ってるの。あなたが選んだ相手を守るのは、当然のことよ」

「でも、父さんはああ言ってるけど、もし本当に会社に圧力かけてきたら…… 俺たち、どうしたらいいんだろう」

「大丈夫。私たちには、何も怖いものはないわ。たとえ職を失っても、家を追い出されたとしても、あなたと七さんが幸せでいられるなら、何も怖くないから」

数日後、私は職場の同僚たちに、息子の結婚のことを話した。皆、心から祝福してくれた。

「おめでとう、大起君。いいお嫁さんをもらえて」

「ええ、本当に。七さんは優しいし、しっかりしてるし。大起君が選んだ相手なら間違いないね」

その時、ふと一つの言葉を思い出した。

「そうそう、前に言ってたじゃん。『女は根性が生き物だ』って。あながち間違いじゃないね」

「は?

何、急に」

「いや、家に帰ったら教えてあげようと思って。私たちには、何かと戦うための力が備わってるんだって」

「何言ってるか分かんないけど、とにかくお祝い事は嬉しいよ」

「そうね。結婚式も終わったし、早く孫の顔がみたいわね」

孫、か。父はきっと、この知らせを聞いて何と言うだろう。七が妊娠していること、それが本当に知られたら、私は何と言われるだろう。

だが、もう怖がることはやめよう。私たちはもう、あの人の言いなりになる必要はないのだから。

ある日、大起が会社から帰ってきて、申し訳なさそうに切り出した。

「母さん、ちょっと話があるんだけど……」

「どうしたの、改まって」

「今日、父さんに呼び出されたんだ。今度こそ、融資を止めるって」

「あの人、まだ言ってるの? 」

「ああ。実は、もう言い出したら聞かないんだよ。聞く耳持たないし。でも、一つ分かったんだ」

「何を? 」

「父さん、自分が間違ってるって、実は分かってるんだと思う。ただ、それを認められないだけなんだ。プライドが邪魔して」

「……だろうね。昔からそうだった。あの人は、間違いを指摘されることが何より嫌いなのよ」

「でも、もういいんだ。俺は自分の道を行く。もし会社をクソしても、何とかなる。七のことも、生まれてくる子供のことも、俺が守るから」

「大起……」

「母さんは、昔からずっと俺の味方でいてくれたじゃん。今度は、息子の力を見せるときだよ」

私は、息子の目をじっと見つめた。かつて、ガキ大将で泣き虫だった男の子が、こんなにもたくましく成長するなんて。

「本当に、あなたは立派な大人になったわね」

「母さんには敵いませんよ。ところで、七の具合はどう? 今朝、顔を見たら、少し顔色が良くなってたけど」

「ええ、順調みたいよ。あと数ヶ月で、新しい家族が増えるのね」

「うん。もうすぐパパか。想像するだけで、ドキドキするよ」

「まだまだこれからよ。子供が生まれたら、今度は育児の戦争が始まるんだから」

「はは。母さんは本当に、常に戦ってばかりだな」

「女は強いんだよ。特に、母はね」

数日後、私は病院にいた。娘の七の診察結果を聞くためだ。

「ご家族の方、こちらへ」

医師に呼ばれ、部屋に入ると、七がベッドの上で微笑んでいた。

「お母さん、異常なかったって」

「良かったわ。本当に良かった」

「うん。この子は丈夫に育ってるよ。お腹の中でも、ちゃんと生きてる」

「絶対安静を言われてたんだから、もう無理はしないでよ」

「分かってる。仕事を休んで、すっごい家に居るんだ。もう退屈で死にそうだけど」

「元気な証拠だわ。そうだ、退院したら、これ食べにおいで」

診察室の隣にある、小さな喫茶店。そこで母はメニューを見ながら言った。

「ご飯が美味しいと評判らしいの。ずっと楽しみにしてたんだ。ねえ、何にする?

ケーキ? それともドリンクバー? 」

「お母さん、それって、まさか……」

「ええ、言ったでしょ。私たちは、あなたたちの幸せを祈ってるって。そして、今日のために、ここで七さんを待ってる人からも、ちゃんとお祝いしてもらうの」

そう言って、母はもう一つの席に視線を送った。視線の先には、大起が立っていた。

「七、本当に大丈夫か? 」

「大丈夫だってば。心配性なんだから」

「心配になるだろ。絶対安静なんだから」

「だから、医者も言うほど心配ないって。あと、ここでお母さんと話ができるのも、今日で最後だと思うと、ちょっと名残惜しいよ」

「何言ってるんだよ。退院したら、うちに来ればいいじゃないか」

「夫婦は別々が長かったから、同じ屋根の下に住むのも、新鮮だったりするかもね。でも、その前に、お母さんにちゃんと言っておきたいことがあるの」

「何?

」

「この前は、病院に来てくれてありがとう。あの時、ちゃんと心配してくれたこと、ちゃんと聞いてくれたこと、すごく嬉しかったよ」

「うちの母さんのことか? 」

「うん、父じゃなくて、お母さんが怒ってくれた時。あの時、私のために怒ってくれて、本当に嬉しかったの」

「あの人は、俺の父だからな。文句を言うのは、いつも心の中だけだと思ってた」

「でも、あなたの母さんは違ったよ。ちゃんと言葉で怒って、ちゃんと守ってくれた。お母さんは、私の一番の味方だって、その時に分かったの」

「ありがとう。母も、そう言ってもらえると、きっと喜ぶよ」

「うん。だから、お母さんにもお義父さんにも、自慢できる家にしたいな」

「お母さんは、きっともう幸せだよ。こんな息子を持って」

そう言って、私は大起の顔をじっと見た。自分が思っている以上に、彼は大人になっていた。

「あの時言ったんだ。『あの人、自分が間違ってるって、分かってるんだね』って」

「そうだったな。ちゃんと分かってるよ」

帰り道、母はスマホを見ながら言った。

「職場の人から連絡が来たの。七さんのお母さんが、『いつもありがとうございます。退院したら、ゆっくりご飯をごちそうします』だって。あの一件以来、私たちも息苦しさから解放された気分だわ」

「ようやく普通の生活に戻れるね」

「そうね。何より、七さんに会えることが、一番嬉しいけど」

病院の玄関を出ると、外は少し風が強かった。母は立ち止まって、青空を見上げた。

「大起、本当にある日、全部が変わったな」

「そうだな。でも、どんなに辛くても、乗り越えられなかったものはないんだと思うよ」

「私、あの時初めて、『清掃員で良かった』って思った。仕事に貴族も庶民もないって、あの人が嫌な思いをする前に気付けたでしょ」

「母さんは立派だよ」

「ありがとう。さ、帰って孫の世話をしなきゃ。明日からまた、戦争は続くんだから」

「はは。母さんは本当に、戦ってばかりだな」

「女は強いんだよ。特に、母はね。さて、何から準備しようかしら」

そう言って、母は足を速めた。私たちは、新しい一歩を踏み出した。これからもきっと、いろんなことがあるだろう。だが、もう私たちは、二度と、あの人一人に人生を振り回されることはない。誰が彼女を認めなくても、私たちだけは、この結婚を認めていく。それが、私たちの選んだ道なのだから。