「さきさん、今日の献心はどうだった?」
お母さんからの電話は、いつものように私の心をざわつかせる。だって、母の口から「献心」なんて言葉が出てくること自体が、もう不自然でしかない。
「どうだったも何もありませんよ。至って正常順調です」
「本当に?本当なの?疑うんじゃないわよ。じゃあ聞くけど、お酒とタバコはもうきっぱりとやめたの?」
「いや、それは……ああ、そんなことだろうと思った」
「妊婦の喫煙や飲酒は、他でもないこの子への悪影響なのよ」
「ちょっとくらいは大丈夫ってネットで見ましたし」
「ダメに決まってるでしょ。何度も注意してるわよね」
「ああ、はいはい」
「本当に分かってるの?そうやって後悔してきた母親が一体どれだけいると思ってるの?」
「元産婦人科の看護師様の経験則ですか?」
「そうよ。妊娠出産を甘く見てる人は多いの。タバコやお酒が原因で流産してしまう人だって」
「私はそうはなりませんよ」
「その根拠のない自信はどこから来るの?本当に危険な行為なのよ」
「てか、お母さんと話すのが一番ストレスなんですけど」
「さきさん、あのね」
「細かい小言ばっかで疲れるし、私が酒とタバコをやめられないのはそっちの責任です」
「あなたの意思の弱さの責任でしょう。母親としてもう少し自覚を持った方がいいと言ってるだけ」
「責任転嫁やめてください」
「してないわよ。妊婦にストレスは禁物よ」
「義理の母親が妊婦のストレスためるとか最低」
「この程度でストレスって……幸恵さんは、あなたのお母さんは何も言わないの?」
「ママはお母さんたちと違って優しいんです。ちょっとくらいならって目をつぶってくれますよ」
「それは優しいんじゃなくて甘いだけよ。子供に嫌われるのが怖くて母親ができますか?」
「そうやって何でもかんでも厳しくするから。お母さんって考え方が古いですよね」
「なんですって」
「今の時代、子供の自主性を重んじるのが主流なんで。押し付ける教育は時代遅れです」
「あなたはむしろ大人の自覚を持ちなさい。何が悲しくて息子の嫁を叱りつけないといけないのよ」
「嫌ならやめてくださいね。私はお母さんとは違って教育熱心なんです。今も胎教してますし」
「胎教?お腹の子に音楽とか聞かせるってやつ?」
「そうそう、それです。この子にはモーツァルトとかベートーヴェンとか、いい感じの音楽を聞かせてます」
「いい感じって何よ。小学校の頃、授業で聞いたことあるけど。あれでしょ?有名なんでしょ?義務教育で何を習ってきたの?」
「ついでに英語もリスニングさせてます。バイリンガルで東大卒のエリートに育てるんで」
「子供の自由はどこ行ったのよ。押し付けてるのはあなたの方じゃない」
「ああ、もう、小言とかいりません。時代遅れのババアのお節介とか一番迷惑なんで」
「これはお節介じゃなくて、あなたと赤ちゃんのためを思っていってることなのよ」
「だからそれが押し付けだって言ってるんです。まあいいんで、黙っててください」
その日、私は電話を一方的に切った。ああ、むかつく。あの口うるさいババア。妊娠してる私の気持ちも知らないで、何が「母親の自覚」だ。こっちはこっちでちゃんと考えてるのに。
三十分後、今度は夫の友人である裕子さんから電話がかかってきた。
「幸恵さん、さっきさきさんから聞きました」
「あら、裕子さん。聞いたって何を?」
「喫煙や飲酒をしているそうですね。見逃していると」
「これはその、ほら、ストレスが溜まると良くないって言うから」
「だからなんだって言うんですか?さきさんや達也さんと同居してるんですよね。なら普段から言って聞かせて、やめさせるべきです」
「そうは言うけどね。あまりきつく言ったら、さきが可哀そうじゃない」
「可哀そうって。一番可哀想なのはお腹の赤ちゃんですよ。最悪の場合、障害が残るかもしれないんです。それに流産のリスクだって高まるんですよ」
「でもさきは、少しなら平気だってネットで見た程度の知識を信じるんですか?冗談やめてください」
「だからってねえ、ゆう子さんみたいに厳しくして嫌われたくないし」
「呆れました。それが母親の言うことですか?自分が嫌われたくないからって子供や孫を危険にさらして。親なら、嫌われてでも止めるのが優しさでしょう」
「うーん。でもでも……」
「言い訳も減ってくれもありません。赤ちゃんに何かあった時、責任が取れるんですか?」
「だけど、私が急に強く言うなんて今までやったこともないし、虐待みたいじゃない」
「二十五歳の娘相手に何言ってるんですか?今、さきさんがやってることの方が虐待ですよ」
「そんな大げさな。お腹の中の子に暴力を振ってるわけでもないのよ」
「子供の将来を根本から壊しかねないんです。これ以上の虐待はありません」
「分かったわ。分かった。私の方から少し言ってみます。それでいいでしょう」
「今まで私が何度も言ってきてやめてないんです。タバコとお酒を取り上げるくらいしないと。行って聞くならこんなことにはなってません」
「そんな暴力的なこと。あの子だって、子供のためを思って頑張ってるのよ。頑張ってるから目をつぶって……」
「もしもの時、一番後悔するのはさきさんなんです。それはそうかもしれないけど、幸恵さんも母親なら分かりますよね。今のさきさんは自覚がないだけです。実際に自分のせいで子供に何かあった時、母親がどれだけ自分を責めるか」
「本人だってリスクは理解してるでしょうし」
「理解してるから、まあいいやってなるんですか?」
「いや、いやいや、そんなことは思ってないわよ」
「だったら可哀そうとか、嫌われたくないとか、そんなことは今は忘れて、多少強引にでもやるべきです。結果としてそれがさきさんのためにもなります」
「……言ってることは分かるけど」
「そうですか。残念です。そちらが動く気がないなら、仕方ありません。私が直接そちらへ出向いて、タバコとお酒を捨てます」
「そんな勝手なこと。さきや達也君が何て言うか」
「子供に嫌われるのが怖くて親ができますか?それは自分可愛さに、子供を止められない。そんな親に私はなる気はありません」
電話が切れた後、私はリビングのソファに座り込んだ。頭の中はぐるぐると回る。確かに、私はいつも「嫌われないように」とばかり考えていた。厳しく言って、もし嫌われたらどうしようって。でも、そんなのは言い訳に過ぎないのかもしれない。
翌日。
鍵が回る音がして、玄関の扉が開いた。帰ってきたさきの足音が、いつもより荒い。私はリビングから声をかけた。
「さきさん、事後報告になってごめんなさい」
「は?何ですか?急に事後報告って、何が?」
さきが目を丸くして立っている。私は静かに立ち上がった。
「あなたの家にあったタバコとお酒、全て私が没収しました」
「はあ?! 」
「一応、タバコ台とお酒台は、幸恵さんに渡してます。それと達也には事前に伝えてあるので」
「いやいやいや、何言ってんの?達と買い物中なんでしょ?」
「あの子にはあなたを連れ出すようにお願いしたから。今頃、駅前のスーパーで待ってるはずよ」
「は?たも…ぐる?意味わかんないんですけど。てか、今ってうちにいるんですか?」
「いますよ。幸恵さんたちと一緒に、帰りを待ってます」
さきの顔が一瞬で赤から白に変わった。
「あの、私のタバコとお酒、没収ってどういうことですか?」
「そのままの意味よ。どれだけ言ってもあなたは聞かなかったからね」
「何勝手なことしてるんですか?てか、パパとママは家にいるのに、何やってんの?」
「一応、幸恵さんたちの名誉のために言っておくわ。これは私が独断で行ったことです」
「ありえない。人の家に押しかけて物を没収するとか、こんなの窃盗ですよ」
「さっきも言ったけど、代金は払いました。まあ、そんなの言い訳でしかないけど。警察に連絡したいなら好きにしなさい」
「いや、さすがに警察は呼びませんけど。大事になっても面倒ですし」
「そう。ありがとう」
「普通に考えてありえないでしょ。常識とかないんですか、あなたには」
さきが震えている。その目には涙が溜まっていたけれど、私はその言葉で止まることができなかった。
「常識の問題よ。あなたはお腹の子に何かあったら、自分を責められないの?」
「責めるも何も、何もないって言ってるんです。私はちゃんと自分で考えてるんです」
「じゃあ、この前言ったわよね。『ネットで大丈夫』って。自分の目で確認したわけでもない情報で、赤ちゃんの命を預けるの?」
「うっ……ぶつかってくるんですね」
「当たり前でしょ。私にはあなたの方がよっぽど無責任に見えるの」
「私みたいな、あなたの言う『無責任な女』が、お母さんには何が分かるって言うんですか」
「何も分かってないのはあなたの方よ。私は、小さい頃からあなたが生まれる前の話まで聞かされて育てられた。『さきちゃんはね、ずっと待ち望んだ子なんだよ』って。でも、今のあなたを見て、ああ、この子は大好きだった人を怒らせる方法だけ覚えて大きくなったんだなって思うわ」
「……何言ってるんですか」
「あなたがタバコを吸うたびに、お酒を飲むたびに、あなたのお母さんは何も言わなかったんでしょ?ここで言ってやるわ。あなたの親は、あなたに優しくしただけ。私はあなたの味方じゃない。赤ちゃんの味方よ」
さきは唇を噛み締めた。しばらくの沈黙の後、声を絞り出すように言った。
「……分かりました。じゃあ、一つだけ、聞きます」
「何?」
「あなたは、お母さんを許せますか?私のことを取り合えずでも、一番苦しめた人。あなたの人生には干渉しなかったくせに、赤ちゃんだけには干渉してくる。そういう人を、本気で尊敬できますか?」
私の手が止まった。いつの間にか、私の目にも涙が浮かんでいた。
「……さきさん。尊敬とか、愛とか、そういう話をしてるんじゃないの。私は、あなたが自分の後悔をしないで済むように、してることなの。私はね、あなたの立場だったら、誰かに止めてほしかった。タバコをやめられなくて、でも赤ちゃんのためにって頑張ってた当時の私に、誰かが『もう十分よ』って言ってくれる人がいたらって、ずっと思ってた」
「……うっ」
「私はもうあなたのために泣かないわ。泣くのは、私じゃない。あなたよ。もしも、このまま産まれてくる赤ちゃんに何かあったら、あなたは一生自分を責める。私にできることは精一杯やった。後はあなた次第よ」
さきは黙っていたが、涙を拭うこともせず、声を震わせながら言った。
「……ありがとう、ございます。私、考えてみます」
その夜、さきの部屋のゴミ箱から、詰めかけのタバコの箱が全部消えているのを見た。私は何も言わなかったけれど、さきは何かを堪えるように、唇を引き結んでいた。
三日後、さきが突然、部屋にやってきた。
「お母さん、…あ、いや、ちょっと話が」
私は顔を上げた。さきは手にエコー写真のコピーを持っていた。
「これ、もらってきたの。前はひどいこと言ってごめん。あれから、ちゃんと病院にも行って、産婦人科の先生に相談したのよ。そしたら、禁煙外来も紹介されたから、もう通うことにした」
私は何も言えずに、ただ写真を見つめた。
「それと、さっき、幸恵さんからも電話があってさ。『さきさんをよろしくお願いします』って。なんか、馬鹿みたいに泣けてきちゃって。私、本当に、皆に心配かけちゃってたんだなって思ったら、すごく恥ずかしくなって」
「さきさん……」
「これからは、タバコもお酒も本当にやめる。達也にも、ゆう子さんにも、陰で隠れてなんか買わないって、言ったんだ。だから、もう見守っててください。いや、見守るじゃなくて、私がちゃんとやる番だと思うから。ちゃんとやります」
私は写真を受け取って、その小さな命の姿を見つめた。手が震えた。声はうまく出なかったけれど、口元はほころんでいた。
「……ええ。ちゃんと、待ってるわよ。何がって、この子が生まれるのを私は待ってる」
そう言って、私はさきの肩を抱いた。さきは最初こそぎこちなかったけれど、ゆっくりと手を伸ばして、私の背中に触れた。
「……ありがと、お母さん」
その言葉が、これまでのどんな言葉よりも、はっきりと私の中で響いた。
数か月後、病院の待合室で、私は産着を縫っていた。隣でさきが、お腹を撫でながら言う。
「ねえ、お母さん」
「なあに?」
「あの時、本当に、タバコを取り上げてくれてありがとう。あのままだったら、たぶん死ぬまで後悔してた」
「言ったでしょ。私があなたにしてほしかったことを、あなたにしてただけよ」
「……ねえ、ばあばになっても、これからもよろしくね」
私は針を置き、さきの手を握った。
「こっちこそ。生まれてくる子にも、よろしくって伝えておいて」
遠くで赤ちゃんの産声が聞こえた。私は窓の外の空を見上げ、産着のさきに咲いた花の刺繍を、そっとなぞった。
その日から、我が家には新しい小さな命が増えた。さきは約束を守り、タバコにもお酒にも手を出さなかった。赤ちゃんはすくすくと育ち、私は婆として、今日も憎まれ口の一つや二つは、相手のためだと信じて言い続けるだろう。
だってそれが、私のやり方だから。
