「ねえ、悠一、浮気してるよね。」
「は? いきなり何言い出すんだよ。俺、残業中なんだけど」
「その残業、本当に仕事なの?」
「千尋、お腹の子のために働いてるのに、なんでそんなひどいこと言えるんだよ」
「この間、あなたのスマホの画面に出てた通知、見たよ。さゆりって人からメッセージが来てた。『新しい下着買ったから、早く見せたいな』って」
「お前、人のスマホ見るってプライバシーの侵害だぞ」
「たまたま見えてしまっただけ。ごめんなさい。でも、ちゃんと説明してくれる?」
「ゲームのキャラクターからの通知だよ。LINEからの通知だったけど、連動して実際にやり取りができる疑似恋愛ゲームなんだよ」
「じゃあ、そのゲームの名前、教えて」
「しつっこいな。妊婦のくせに俺の浮気を疑って離婚をちらつかせるのかよ」
「離婚したいなんて、まだ一言も言ってない。疑うなら離婚でいいぞ」
「一人で育てればいいんだろ。八月か? 父親がいないかわいそうな子になるけどな」
「だからそうならないためにも教えてって言ってるの。私だって疑いたくて疑ってるわけじゃないの」
「なんでゲームの名前まで教えなきゃいけないんだよ。俺に自由はないわけ? 千尋って、そういう奴だったんだな」
「違うし。そんなこと言ってないでしょ。どうしてそこまで教えてくれないの?」
「そんなに知りたいかよ。なら、何でも教えてくれる男と結婚すればよかっただろう。俺みたいな男が嫌なら離婚して一人で生きろ」
「じゃあ、離婚して一人で頑張ってみるね」
「やめとけよ。千尋にできるとは思えないけどな。俺がいないと弱くて何もできない生産性のない女なんて、社会の荒波に簡単に飲まれてゲームオーバーだぞ」
「悠一と結婚する前は、製薬工場で八年間働いてたけど」
「それは高卒で若かったから優しくしてくれてただけだろ。しかも工場勤務だろ。なめてんのか」
「何それ? 工場勤務をバカにしてるの?」
「バカにはしてないけど、社会的立場は俺の方が上だろ。俺は大卒で営業だから、こっちの方がもっと厳しいんだぞ」
「業種が違う時点で比べられないし、どんな仕事だろうと大変なことに変わりはないでしょ。大体、あなたが専業主婦になってくれって言ったんじゃない」
「そこまで怠けるとは思わなかったんだよ。妊娠してからつわりを言い訳に家事をサボってるよな」
「本当にしんどかったの。ご飯はおろか水さえ飲めなくて、吐き続ける毎日。つわりがひどすぎて、点滴入院したの、もう覚えてないの?」
「その割には編み物とかしてたじゃん」
「嘘おつ。かぎ針編みのこと? あれは気が紛れるからやってたの」
「金にもならない無駄な趣味だな」
「別に悠一には迷惑かけてないでしょ」
「俺の稼いだ金で毛糸買っただろうが」
「私の独身時代に貯めたお金で買ったのよ。そんなこと言ったら、悠一だってゲームに課金ばっかり。それこそ無駄遣いなんじゃないの?」
「俺の金なんだから、別にいいだろうが」
「じゃあ、私の趣味だって同じことだよね。悠一にとやかく言われる筋合いはない」
「じゃあ勝手にしろ」
「分かった。実家に帰るね」
「待て待て。なんでそうなる? まだ離婚してないだろうが」
「一人で育てればいいって言ったのは、悠一の方じゃない」
「だけど本当にいいのか? あんなに結婚を喜んでくれたお母さんのこと、裏切ることになるんだぞ」
「それは心苦しいけど、私にいてほしくないんでしょ?」
「そんなことは言ってない。離婚するまでの間だけ。ちゃんと家事するなら、家に置いておいてやってもいいぞ」
「それって、選択とか掃除とか、自分がやりたくないだけじゃない? 私を火(世話をする奴)としてしか見てないことが、よく分かったわ」
「今からお母さんに連絡して、今晩中に実家に帰ります」
「ああ、そうかよ。せっかく引き止めてやったのに」
「最後にもう一度聞くけど、本当に離婚でいいのね?」
「いいよ。だから、とっとと帰れ」
「分かった。さようなら。お世話になりました。残りの荷物は処分して構いませんから」
「おい、おい、本気か? 今なら謝れば許してやるぞ。おい」
数分後、千尋は実家の母、玲子に電話をかけていた。
「お母さん、ごめん。今、時間ある?」
「ちょうど夕飯を食べ終わったところよ。どうしたの? 今度は後期づわりがしんどいの?」
「それは大丈夫。申し訳ないんだけど、お願いがあって」
「何? 何でも言ってごらん。私にできることなら何でも手伝うわ」
「ありがとう。その、今からそっちに帰ってもいいかな?」
「今から? うん、別にいいけど。また急ねえ。何があったの?」
「実は、悠一が浮気してるかもしれなくて」
「なるほどね。確かに、そんな男と一緒にいたくないわよね」
「まだ確定はしてないけど、もしそうだった場合は」
「いいわ。好きなだけうちにいなさい」
「お母さん、本当にいいの?」
「当たり前でしょ。千尋は私の娘よ。帰ってきていいし、いくらでもうちにいていいわ。何より、お父さんが毎日うるさいのよ。『千尋は元気か? 孫は大丈夫か?』って」
「お父さんたら……そういうことなら、分かった」
「じゃあ、最終の新幹線で帰るから、仙台駅に着いたらお迎えをお願いしてもいい?」
「もちろんよ。気をつけてきてね」
「うん。じゃあ、また後で」
一週間後。
「千尋さん、お義母さんから聞いたわよ。あなた、勝手に実家に帰ったんですって」
「お母さん、それには訳があるんです」
「言い訳しないでちょうだい。全く、弱気でめんどくさがり屋のあなたのことだわ。甘やかしてくれる実家のところに帰りたくなったんでしょ」
「違います。話を聞いてください」
「何よ、そんなに必死になって、あなたらしくないわね。さては、よからぬことでもあるの?」
「そんなもの、私にはありません」
「私には、まるで悠一に何かあるかのような言い方ね」
「今はまだ、何も言えません。でも、少なくとも実家に帰ったのは甘えではないです」
「帰省ってことなら、今すぐに帰りなさい」
「帰るつもりはありません」
「赤ちゃんはどうするの? あなた、もう八月でしょ」
「ご心配なく。出産もこちらでします。ちょうどさっき、こちらの病院に検診に行ったところです」
「何よ、私に孫の顔を見せないつもり? 困るわよ。ご近所さんに話しちゃったんだから」
「何をですか?」
「決まってるでしょ? 『もうすぐで孫が生まれるのよ』って」
「私のことを、勝手に話さないでもらえませんか」
「でもね、でもね、美沙子さんたら、かわいそうなのよ。娘さんが産めない体らしくってね。だから、代わりに赤ちゃんを抱かせてあげるって約束したの」
「あの、それ、大丈夫ですか? 私が美沙子さんだったら、デリカシーがないって思いますよ」
「それはあなたの主観でしょ。私だったら嬉しいけどね。もっと人の気持ちを考えた方がいいわよ。あと、私、ご近所さんに抱っこさせていいって言いましたから」
「私の孫よ。なのに、千尋、あんたの許可を取らないといけないの?」
「お母さんではなく、私の子供ですから」
「……何よ、その言い草は」
「本当にだらしない嫁ね。あんたが弱々しくしてるから、お義母さんが余計に世話を焼きたくなるんでしょ。親戚のみんなに言いふらしてやるわよ。今まで、私がどれだけあなたの尻拭いをしてきたと思ってるの?」
「お母さん、もうその話は結構です。私、あなたに好かれようと、今まで色々としてきました。でも、もう限界です」
「何よ、今になって泣き言? あんた、私に押し付けられて、親戚全員分の料理を作らされて、お盆で草むしりをさせられて、座敷の中を長時間、十キロのお米を持って運ばされて。全部、嫁がやって当たり前のことよ。『生け物嫁』って言われたくないなら、ちゃんとやりなさい」
「親戚にどう思われようが、もうどうでもいいです。なので、どうぞお好きにしてください」
千尋は、はっきりとそう言い放ち、義母の顔をじっと見つめた。
「……本当にいいのね? あんたのその態度、後悔しても知らないわよ」
「ええ。後悔はしません」
義母は、悔しそうに唇を噛み、そのまま帰っていった。
千尋は、深く息を吐いた。
「……これで、よかったのよね」
窓の外には、実家の庭で咲く紫陽花が見えた。雨上がりの午後、その花びらには水滴が光っていた。
その夜、千尋は一人、スマホの画面を見つめていた。
「……悠一は、何をしてるかな」
もう、連絡を取ることはない。決めたことだ。
翌朝、千尋は母の玲子に手伝ってもらい、赤ちゃんのための荷物を整理した。
「千尋、本当に一人で育てていくの?」
「うん。……私が選んだ道だから」
「強くなったわね。昔のあんたなら、目の前の問題から逃げてばかりだったのに」
「そうかもね。でも、もう自分のことは自分で決めるの。誰かに決めてもらうのは、もうたくさんだわ」
玲子は、そんな千尋の頭を優しく撫でた。
「そうね。お母さんも、できる限りのことは手伝うから。孫のためにね」
千尋は微笑み、また赤ちゃんの服をたたみ始めた。
それから数ヶ月後。
千尋は、無事に女の子を出産した。
「……可愛い」
生まれたばかりの娘を抱きながら、千尋は涙をこぼした。
「あなたのことが、ずっと大好きだったよ」
その部屋には、玲子と父の和夫の姿もあった。
「ああ、可愛いなあ。こんなに小さいのに、ちゃんと生きてるんだなあ」
「おじいちゃん、涙でてるよ」
「してないわよ! ……ちょっと、目に埃が入っただけだ」
和夫は、そう言いながら何度も孫の顔を見つめていた。
数日後、入院中の千尋のもとに、見慣れた男が現れた。
「……悠一」
「千尋。……元気にしてたか?」
「何の用?」
「その、な。俺、ずっと考えてたんだ。あの時、離婚届を出したけど、やっぱり間違いだったかもしれないって思ってる」
「何を今さら」
「その、赤ちゃん。……見せてくれないか?」
千尋は、少し迷ったが、隣で眠っている娘を抱き上げ、悠一に見せた。
「……すごく、小さいんだな」
「うん。二千八百グラムだったの。ちょっと早かったけど、元気よ」
悠一は、自分の手のひらよりも小さい足を指でそっと触った。
「……俺に、できることがあるならさ。何でも言ってくれよ」
「何って……」
「養育費とかさ。ちゃんと払うよ」
千尋は、少し驚いた顔をしたが、すぐに笑った。
「……そうだね。じゃあ、これからよろしく」
「ああ。……なあ、千尋。もしも、もしも俺がちゃんと働いて、変わったらさ。やり直すとか、そういうのって」
「……それは、また今度ね」
千尋の言葉を、悠一はそっくり返して頷いた。
「うん。……そうするよ」
その日は、それだけだった。
千尋は、抱いていた娘をそっと胸に寄せ、そして、窓の外、雨上がりの空を見つめた。そこには、大きな虹がかかっていた。
「虹、綺麗」
次の瞬間、娘が目を覚まして泣き出した。
「ああ、ごめんね。お腹すいたよね。……さあ、おいで」
千尋は、泣き止まない我が子をあやしながら、静かに歌を口ずさんだ。
それは、母が子守唄として、昔、自分にも歌ってくれたメロディーだった。
その姿を、玲子と和夫は、そっと離れたところから笑顔で見守っていた。
千尋は、確かに言った。
「大丈夫。私、ちゃんと一人でやってみせるから」
そうして、新しい日々が、ゆっくりと始まっていった。
