「ねえ、悠一、浮気してるよね。」その一言から、私の日常は音を立てて崩れていった。八月の蒸し暑い夜、臨月の大きなお腹を抱え、私はスマホの通知を見てしまった。「新しい下着買ったから、早く見せたいな」——差出人は、さゆり。問い詰めると、悠一は「ゲームのキャラだ」と言い張った。ゲームの名前を聞けば「妊婦のくせに疑うのか」と逆ギレし、「一人で育てればいい。父親がいないかわいそうな子になるけどな」と吐き…

「ねえ、悠一、浮気してるよね。」その一言から、私の日常は音を立てて崩れていった。八月の蒸し暑い夜、臨月の大きなお腹を抱え、私はスマホの通知を見てしまった。「新しい下着買ったから、早く見せたいな」——差出人は、さゆり。問い詰めると、悠一は「ゲームのキャラだ」と言い張った。ゲームの名前を聞けば「妊婦のくせに疑うのか」と逆ギレし、「一人で育てればいい。父親がいないかわいそうな子になるけどな」と吐き...

「ねえ、悠一、浮気してるよね。」

「は? いきなり何言い出すんだよ。俺、残業中なんだけど」

「その残業、本当に仕事なの?」

「千尋、お腹の子のために働いてるのに、なんでそんなひどいこと言えるんだよ」

「この間、あなたのスマホの画面に出てた通知、見たよ。さゆりって人からメッセージが来てた。『新しい下着買ったから、早く見せたいな』って」

「お前、人のスマホ見るってプライバシーの侵害だぞ」

「たまたま見えてしまっただけ。ごめんなさい。でも、ちゃんと説明してくれる?」

「ゲームのキャラクターからの通知だよ。LINEからの通知だったけど、連動して実際にやり取りができる疑似恋愛ゲームなんだよ」

「じゃあ、そのゲームの名前、教えて」

「しつっこいな。妊婦のくせに俺の浮気を疑って離婚をちらつかせるのかよ」

「離婚したいなんて、まだ一言も言ってない。疑うなら離婚でいいぞ」

「一人で育てればいいんだろ。八月か? 父親がいないかわいそうな子になるけどな」

「だからそうならないためにも教えてって言ってるの。私だって疑いたくて疑ってるわけじゃないの」

「なんでゲームの名前まで教えなきゃいけないんだよ。俺に自由はないわけ? 千尋って、そういう奴だったんだな」

「違うし。そんなこと言ってないでしょ。どうしてそこまで教えてくれないの?」

「そんなに知りたいかよ。なら、何でも教えてくれる男と結婚すればよかっただろう。俺みたいな男が嫌なら離婚して一人で生きろ」

「じゃあ、離婚して一人で頑張ってみるね」

「やめとけよ。千尋にできるとは思えないけどな。俺がいないと弱くて何もできない生産性のない女なんて、社会の荒波に簡単に飲まれてゲームオーバーだぞ」

「悠一と結婚する前は、製薬工場で八年間働いてたけど」

「それは高卒で若かったから優しくしてくれてただけだろ。しかも工場勤務だろ。なめてんのか」

「何それ? 工場勤務をバカにしてるの?」

「バカにはしてないけど、社会的立場は俺の方が上だろ。俺は大卒で営業だから、こっちの方がもっと厳しいんだぞ」

「業種が違う時点で比べられないし、どんな仕事だろうと大変なことに変わりはないでしょ。大体、あなたが専業主婦になってくれって言ったんじゃない」

「そこまで怠けるとは思わなかったんだよ。妊娠してからつわりを言い訳に家事をサボってるよな」

「本当にしんどかったの。ご飯はおろか水さえ飲めなくて、吐き続ける毎日。つわりがひどすぎて、点滴入院したの、もう覚えてないの?」

「その割には編み物とかしてたじゃん」

「嘘おつ。かぎ針編みのこと? あれは気が紛れるからやってたの」

「金にもならない無駄な趣味だな」

「別に悠一には迷惑かけてないでしょ」

「俺の稼いだ金で毛糸買っただろうが」

「私の独身時代に貯めたお金で買ったのよ。そんなこと言ったら、悠一だってゲームに課金ばっかり。それこそ無駄遣いなんじゃないの?」

「俺の金なんだから、別にいいだろうが」

「じゃあ、私の趣味だって同じことだよね。悠一にとやかく言われる筋合いはない」

「じゃあ勝手にしろ」

「分かった。実家に帰るね」

「待て待て。なんでそうなる? まだ離婚してないだろうが」

「一人で育てればいいって言ったのは、悠一の方じゃない」

「だけど本当にいいのか? あんなに結婚を喜んでくれたお母さんのこと、裏切ることになるんだぞ」

「それは心苦しいけど、私にいてほしくないんでしょ?」

「そんなことは言ってない。離婚するまでの間だけ。ちゃんと家事するなら、家に置いておいてやってもいいぞ」

「それって、選択とか掃除とか、自分がやりたくないだけじゃない? 私を火(世話をする奴)としてしか見てないことが、よく分かったわ」

「今からお母さんに連絡して、今晩中に実家に帰ります」

「ああ、そうかよ。せっかく引き止めてやったのに」

「最後にもう一度聞くけど、本当に離婚でいいのね?」

「いいよ。だから、とっとと帰れ」

「分かった。さようなら。お世話になりました。残りの荷物は処分して構いませんから」

「おい、おい、本気か? 今なら謝れば許してやるぞ。おい」

数分後、千尋は実家の母、玲子に電話をかけていた。

「お母さん、ごめん。今、時間ある?」

「ちょうど夕飯を食べ終わったところよ。どうしたの? 今度は後期づわりがしんどいの?」

「それは大丈夫。申し訳ないんだけど、お願いがあって」

「何? 何でも言ってごらん。私にできることなら何でも手伝うわ」

「ありがとう。その、今からそっちに帰ってもいいかな?」

「今から? うん、別にいいけど。また急ねえ。何があったの?」

「実は、悠一が浮気してるかもしれなくて」

「なるほどね。確かに、そんな男と一緒にいたくないわよね」

「まだ確定はしてないけど、もしそうだった場合は」

「いいわ。好きなだけうちにいなさい」

「お母さん、本当にいいの?」

「当たり前でしょ。千尋は私の娘よ。帰ってきていいし、いくらでもうちにいていいわ。何より、お父さんが毎日うるさいのよ。『千尋は元気か? 孫は大丈夫か?』って」

「お父さんたら……そういうことなら、分かった」

「じゃあ、最終の新幹線で帰るから、仙台駅に着いたらお迎えをお願いしてもいい?」

「もちろんよ。気をつけてきてね」

「うん。じゃあ、また後で」

一週間後。

「千尋さん、お義母さんから聞いたわよ。あなた、勝手に実家に帰ったんですって」

「お母さん、それには訳があるんです」

「言い訳しないでちょうだい。全く、弱気でめんどくさがり屋のあなたのことだわ。甘やかしてくれる実家のところに帰りたくなったんでしょ」

「違います。話を聞いてください」

「何よ、そんなに必死になって、あなたらしくないわね。さては、よからぬことでもあるの?」

「そんなもの、私にはありません」

「私には、まるで悠一に何かあるかのような言い方ね」

「今はまだ、何も言えません。でも、少なくとも実家に帰ったのは甘えではないです」

「帰省ってことなら、今すぐに帰りなさい」

「帰るつもりはありません」

「赤ちゃんはどうするの? あなた、もう八月でしょ」

「ご心配なく。出産もこちらでします。ちょうどさっき、こちらの病院に検診に行ったところです」

「何よ、私に孫の顔を見せないつもり? 困るわよ。ご近所さんに話しちゃったんだから」

「何をですか?」

「決まってるでしょ? 『もうすぐで孫が生まれるのよ』って」

「私のことを、勝手に話さないでもらえませんか」

「でもね、でもね、美沙子さんたら、かわいそうなのよ。娘さんが産めない体らしくってね。だから、代わりに赤ちゃんを抱かせてあげるって約束したの」

「あの、それ、大丈夫ですか? 私が美沙子さんだったら、デリカシーがないって思いますよ」

「それはあなたの主観でしょ。私だったら嬉しいけどね。もっと人の気持ちを考えた方がいいわよ。あと、私、ご近所さんに抱っこさせていいって言いましたから」

「私の孫よ。なのに、千尋、あんたの許可を取らないといけないの?」

「お母さんではなく、私の子供ですから」

「……何よ、その言い草は」

「本当にだらしない嫁ね。あんたが弱々しくしてるから、お義母さんが余計に世話を焼きたくなるんでしょ。親戚のみんなに言いふらしてやるわよ。今まで、私がどれだけあなたの尻拭いをしてきたと思ってるの?」

「お母さん、もうその話は結構です。私、あなたに好かれようと、今まで色々としてきました。でも、もう限界です」

「何よ、今になって泣き言? あんた、私に押し付けられて、親戚全員分の料理を作らされて、お盆で草むしりをさせられて、座敷の中を長時間、十キロのお米を持って運ばされて。全部、嫁がやって当たり前のことよ。『生け物嫁』って言われたくないなら、ちゃんとやりなさい」

「親戚にどう思われようが、もうどうでもいいです。なので、どうぞお好きにしてください」

千尋は、はっきりとそう言い放ち、義母の顔をじっと見つめた。

「……本当にいいのね? あんたのその態度、後悔しても知らないわよ」

「ええ。後悔はしません」

義母は、悔しそうに唇を噛み、そのまま帰っていった。

千尋は、深く息を吐いた。

「……これで、よかったのよね」

窓の外には、実家の庭で咲く紫陽花が見えた。雨上がりの午後、その花びらには水滴が光っていた。

その夜、千尋は一人、スマホの画面を見つめていた。

「……悠一は、何をしてるかな」

もう、連絡を取ることはない。決めたことだ。

翌朝、千尋は母の玲子に手伝ってもらい、赤ちゃんのための荷物を整理した。

「千尋、本当に一人で育てていくの?」

「うん。……私が選んだ道だから」

「強くなったわね。昔のあんたなら、目の前の問題から逃げてばかりだったのに」

「そうかもね。でも、もう自分のことは自分で決めるの。誰かに決めてもらうのは、もうたくさんだわ」

玲子は、そんな千尋の頭を優しく撫でた。

「そうね。お母さんも、できる限りのことは手伝うから。孫のためにね」

千尋は微笑み、また赤ちゃんの服をたたみ始めた。

それから数ヶ月後。

千尋は、無事に女の子を出産した。

「……可愛い」

生まれたばかりの娘を抱きながら、千尋は涙をこぼした。

「あなたのことが、ずっと大好きだったよ」

その部屋には、玲子と父の和夫の姿もあった。

「ああ、可愛いなあ。こんなに小さいのに、ちゃんと生きてるんだなあ」

「おじいちゃん、涙でてるよ」

「してないわよ! ……ちょっと、目に埃が入っただけだ」

和夫は、そう言いながら何度も孫の顔を見つめていた。

数日後、入院中の千尋のもとに、見慣れた男が現れた。

「……悠一」

「千尋。……元気にしてたか?」

「何の用?」

「その、な。俺、ずっと考えてたんだ。あの時、離婚届を出したけど、やっぱり間違いだったかもしれないって思ってる」

「何を今さら」

「その、赤ちゃん。……見せてくれないか?」

千尋は、少し迷ったが、隣で眠っている娘を抱き上げ、悠一に見せた。

「……すごく、小さいんだな」

「うん。二千八百グラムだったの。ちょっと早かったけど、元気よ」

悠一は、自分の手のひらよりも小さい足を指でそっと触った。

「……俺に、できることがあるならさ。何でも言ってくれよ」

「何って……」

「養育費とかさ。ちゃんと払うよ」

千尋は、少し驚いた顔をしたが、すぐに笑った。

「……そうだね。じゃあ、これからよろしく」

「ああ。……なあ、千尋。もしも、もしも俺がちゃんと働いて、変わったらさ。やり直すとか、そういうのって」

「……それは、また今度ね」

千尋の言葉を、悠一はそっくり返して頷いた。

「うん。……そうするよ」

その日は、それだけだった。

千尋は、抱いていた娘をそっと胸に寄せ、そして、窓の外、雨上がりの空を見つめた。そこには、大きな虹がかかっていた。

「虹、綺麗」

次の瞬間、娘が目を覚まして泣き出した。

「ああ、ごめんね。お腹すいたよね。……さあ、おいで」

千尋は、泣き止まない我が子をあやしながら、静かに歌を口ずさんだ。

それは、母が子守唄として、昔、自分にも歌ってくれたメロディーだった。

その姿を、玲子と和夫は、そっと離れたところから笑顔で見守っていた。

千尋は、確かに言った。

「大丈夫。私、ちゃんと一人でやってみせるから」

そうして、新しい日々が、ゆっくりと始まっていった。

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