カイトがリビングのドアを開けるなり、妙に明るい声を出した。今日、面接が三つもあってさ。疲れたけど、手応えは悪くなかったよ。
モネは台所から顔も上げずに、皿に盛り付けながら答えた。「そう。よかったね。ご飯できてるわよ。」
カイトはスーツをハンガーにかけながら、何気ないふりをして切り出した。「あのさ、ちょっと言いにくいんだけどさ。服、新調したいんだ。面接のときに着る服、見繕いたいから。」
モネは手を止めて振り返った。「スーツはもう持ってるでしょ。就活用に買ったばかりじゃない。それに、私が海外出張から帰ってきてまだ一週間も経ってないんだから。先月も、面接用の靴が要るって言って、あなた靴買ったじゃない。」
「いや、それはあれだよ。急に必要なもんが出てきてさ。スーツ用の消臭スプレーが切れたんだよ。あと、クールビズ用のシャツが一枚足りないんだ。あと、靴下とか、まあ細かいもんばっかなんだけどさ。」
モネはため息をついた。「それなら別に、買い物リストを渡してくれたら私が行っておくけど。何が必要なの? 」
「いいよいいよ、自分で行くから。だから、その、金を貸してくれないかな。三万円でいいんだ。」
「また借金? 」モネの声が一段低くなった。「ねえ、カイト。あなた、先月も十万円借りたわよね。『面接に行くための交通費とスーツ代』だって言って。それで今月の家賃が払えなくなりそうって言うから、私が貯金から出したじゃない。あの十万円はどうなったの? 」
カイトは視線をそらした。「あれは、飲み会があってさ。就活の情報をもらえるっていうから、先輩たちに奢ったんだよ。そしたら酒の勢いで、ホテルにまで連れて行かれてさ。で、ちょっとキャッシングして、その翌日に返すはずが、あれよあれよと言う間に……」
「飲み会?

」モネの顔から血の気が引いていくのが分かった。「あなた、あの十万円で何をしたの。正直に言って。今月の給料日まであと二週間もあるのよ。私が海外にいる間に、あなたが何をしてたのか、本当に言いなさい。」
カイトはイライラしたように髪をかき上げた。「うるさいなあ。別に大したことじゃねえよ。ただの飲み会だって言ってるだろ。会社の連中と飲んで、その流れでカラオケ行って、ああいうときって金がかかるんだよ。それだけだっての。」
「会社の連中? 」モネはスマホを手に取り、何やら操作しながら近づいた。「じゃあ、これを見て。一昨日の夜、あなたが銀座で女の子と二人で飲んでるところを、友達が写真撮って送ってくれたのよ。ここに映ってるのは、あなたの会社の同僚かしら? 」
カイトの顔がサッと青ざめた。写真を見ると、確かにカイトが若い女性と肩を寄せ合い、ほろ酔いの様子で笑っているのが写っている。しかも、その後ろには女性用のホテルが見切れている。
「あ、あのな、これはな、友達の彼女の紹介で、就活の相談に乗ってもらってただけだって。すごく落ち込んでるから、慰めてほしいって言われて、俺も断り切れなくてさ。それで喫茶店で話してただけだ。ホテルなんて、ホテルなんてのは、ただ単に場所を移動しようとしてただけで、決してそういう、あれだ。俺は悪くない。」
「じゃあ、そのホテルで何をしてたの? 」モネの声は異様に静かだった。
「別に何もしてねえよ!
ただ、用があってだな……ああ、もう、面倒くせえなあ。どうせお前は俺が何を言っても信じないんだろ。何が妻の海外出張だよ。好き勝手に働きに行って、戻ってきていきなり疑いの目で見やがって。俺の何が悪いんだよ。俺は働いてるんだぞ。毎日面接に行って、必死にやってるんだ。それなのに、てめえは家でぬくぬくと……」
「家でぬくぬく? 」モネの声が怒りで震えた。「私が何のためにこの家を守ってきたと思ってるの。あなたが仕事を解雇されると言ったとき、私がパートを増やして食いつないだのを忘れたの? 私のパート代がどれだけ家計を支えてきたか、計算したことあるの? 」
「はいはい、いつものお前は俺の金で生活してたくせに、俺は育てた恩を忘れたのか」
カイトはそう吐き捨て、冷蔵庫からビールを取り出すと、プルタブを開けて一気に半分ほど飲み干した。「もういいよ。文句ばっかり言うかみさんはたくさんだ。離婚しよう。俺はお前とやってける気がしない。」
モネは一瞬、何かを言おうとして、唇を噛んだ。テーブルの上に、離婚届を突き出した。「そう。分かった。だったら、これにサインして。離婚届よ。私の方で役所に出すから。」
カイトの顔から、一瞬、血の気が引いた。それは、酔いを覚ますような強烈な一言だった。「は?
いや、ちょっと待って。今のは……今のは勢いで言ったんだ。俺はそんなつもりで言ったわけじゃなくて、あの、今、就活の最中だし、仕事もまだ決まってないし、お前が海外から帰ってくるまでは、ここに住んでてもいいだろ? 」
「嫌よ。」モネははっきりと言った。「カイト、あなたには今月中に出て行ってもらうわ。荷物をまとめて、みつかるところは探してちょうだい。もちろん、離婚届は、サインしてからね。私はそれまでに、自分で家の更新をするから。あなたの名前も、私の名前も、ほどいておくから。」
「ちょ、ちょっと待てよ、おい。俺を追い出す気か? ここは俺の家だぞ! 」
「今はね。」モネは静かに答えた。「でも、この家の名義は私の母から贈与されたものよ。あなたは結婚するときに、籍を入れるまでローンの加入をしてくれなかった。だから、今は私のものよ。そしてカイト、あなたに一つ聞くけど、先週、母のところに行ったでしょ。何を借りたの?
」
カイトは声を詰まらせた。「何で……何で知ってるんだ。」
「母から電話があったわ。『離婚するって聞いたけど、カイトくんが十万円借りに来たよ』って。あの金は何に使ったの。」
「もう、うるさいなあ! 借りた金はちゃんと返すって言ってるだろ! それに、俺は当分、面接のたびに交通費と、恥ずかしくない恰好をするための費用が必要なんだよ。スーツも新調しなきゃならねえし、靴も買わねえと、面接官にいい印象を与えられないんだよ。お前には、何で、こう、飯を食うだけで精一杯な男の、この切迫感が分からないんだよ! 」
「カイト、もういい。」モネは立ち上がり、台所の引き出しから通帳と領収書の束を取り出した。「これは、あなたが『就活用の経費』だと言って、毎月、請求してきた金額の履歴よ。最初の三ヶ月は、あなたが仕事を解雇されて収入がなかったから、生活費として渡してた。でも、四ヶ月目からは、あなたが『交通費が嵩む』『スーツを買わなければいけない』『靴を買わなければいけない』と言って、その度に私から引き出してた。その総額、いくらだと思う?
」
「知るかよ! 」
「百二十万円よ。」モネは淡々と言った。「私がパートを掛け持ちして、一銭でも無駄にするまいと貯めてきた百二十万円が、もうどこにもない。あなたは、その『面接のための出費』と称する金で、いったい何をしてきたの? 三万円、今度は何に使うの? 」
カイトはテーブルを叩いて立ち上がった。「もういい、もういい!
そうやって、いつも、いつも、金の話ばっかりしやがって! 俺はこんなに頑張ってるんだ! てめえは、自分のことばっかりだ! 」
「カイト、私はあなたに言ってるのよ。どうして、こうなるまで隠したの?
借金がいくらか、正直に言えないの? 」
その時、玄関のチャイムが鳴った。モネが肩を震わせ、カイトは舌打ちしながら玄関に向かった。ドアを開けると、見知らぬスーツ姿の男が一人、立っていた。そしてその後ろには、モネの母、美恵子が居た。
「お母さん、どうしたの? 」モネが玄関に顔を出すと、美恵子はスッと手に持った封筒を掲げた。
「聞いたわよ、何だってね。カイトさん、うちのモネを泣かせるとはよくもやったわね。あんた、この間、私の家の鍵を借りて、何をしてたの? 」
カイトの顔が、今度こそ完全に血の気を失った。
「俺は、一切合財、細かいことは言わず、俺の方で全部、処理しようと思って……その、アレですよ、借金の整理をね、うん、俺の口座から、一括で、な、何の話ですか、あなた」
「嘘をおっしゃい!
」美恵子は、封筒から一通の書面を取り出した。「これは、あなたの名前とモネの名前が書かれた借用書よ。何だい、この『カイト』っていう署名は。これは先月、あなたが私に十万円を借りたときの借用書だ。そして、こっちは先々週、あなたが私の家から盗んだ書類よ。あなた、私の家の保険の書類を探してたんでしょ、何の為に」
「お母さん、何を言ってるの? 」モネが書面を取り上げて読むと、そこには確かにカイトの署名があった。
「モネ、落ち着け、これはな、全て誤解だ。お義母さんの家に遊びに行ったら、たまたま机の上に保険の書類があったから、保険の効率がいいのがないか調べようと思っただけで……」
「黙りなさい! 」美恵子は凄んだ。「モネは何も知らされていないようだね。カイトさん、あなた、どうやら、自分が誰と結婚したのか、分かっていないようだ。モネには、モネの貯金とは別に、信用金庫に預けた『自由になるお金』があるんだよ。あなたは、それが目当てで、籍だけでも入って、そして逃げるつもりだったんだろう? 」
「違う!
そんなことはない! 」
「では、聞くが、先月、あなたが会社を辞めたというのは本当だろう? 」美恵子の声は静かだった。カイトは、寸前まで何か言おうとして、口をつぐんだ。
「……本当だ。会社は、居心地が悪くて、自分から辞めたんだ。」
「辞めた、ねえ。」美恵子は冷たく笑った。「では、先月末、会社の事務員さんが、モネと私に言ったんだよ。『カイトさん、退職の手続きをしていますよ』ってね。そして、一昨日、あなたが高円寺の飲み屋で知らない女に男の財布をすらせて、その女から『金を出さなきゃ警察に届ける』と脅された、っていう話を、あなたの同僚の佐藤くんが、モネのラインに電話で話してきたんだ。佐藤くん、あなたが横領しているのを知っているらしいね。」
カイトは腰を抜かし、そのまま床にへたり込んだ。モネは、震える指で、スマホを操作した。既読の付いていない着信履歴が何件も並んでいるのに気づいた。
「カイト、あなた、まだ何か私に隠していることはある? 本当のことを言ったら、今なら……」
「モネ、助けてくれ。」カイトは初めて、泣き崩れるように頼った。「俺は、もうどうしていいか分からないんだ。借金が、借金が膨らんでしまって、どうしようもなくなったんだ。サラ金に手を出して、利息が膨らんで、そして職まで失って……」
「いくらまで膨らんだの?
」
「……総額で、あとを、三百万。その他、ギャンブルで作った借金が、あと百万。」
モネは一瞬、目を閉じた。「カイト。私は、離婚する気、なかったのよ。あなたの夢のためなら、私たちで、国を選び直して、都会で頑張って生きていけると思ってた。あなたが音楽を辞めて就活をすると言ったときも、私は絶対に信じたの。あなたが金を無駄遣いしても、きっと、面接に行くために必要なんだろうって、そう思ってた。でも、違ったのね。」
「モネ……お前は……俺を見捨てるのか? 」
「私は、あなたに、裏切られたのよ。あなたは私と、私たちの未来を、ずっと、裏切っていたの。もう、あなたのことは、何が何だか分からない。」
モネは、カイトから目をそらすことなく、ゆっくりと続けた。「カイト、さっき言ったことは、今も有効よ。離婚届は、テーブルの上に置いておく。あなたの借金なんて、私が知ったことじゃないわ。行きなさい。どこへでも。もう、ホコリにまみれて生きるのは、おしまい。」
美恵子が冷たく言い放った。「警察が今、向かっているところだよ。カイトさん。明日には、あなたの名前は、全国に配信されているかもしれないな。さ、手を挙げなさい。お巡りさんの手を借りる前に、うちの手で捕まえてやる。」
カイトは、洗面所に駆け込むと、何度もゲロを吐いた。そして気が付くと、震える足で家を飛び出していた。街灯がススキのようなネオンに変わる紙質、夜の街がカイトを飲み込んでいく。モネの姿は、もう消えていた。
その二ヶ月後、モネは、夫――いや、元夫であるカイトから、一通の封書を受け取った。中には、離婚届が一枚、入っていた。それは、カイトが記入欄をすべて記入し、署名捺印したものだった。付箋には、一言「ごめん。そして、ありがとう。」と書かれてあった。
モネは、その紙をしばらく見つめていたが、一枚のティッシュで覆うと、そのまま封筒ごと、引き出しの奥の箱の中にしまった。窓から差し込む朝の光が、彼女の指輪のない指に当たっている。彼女は深く息を吐くと、今日のパートの準備をするために、キッチンへと向かった。