「ねえ、翔平。お母さんの介護のことで話があるんだけど」「またその話か。何回目だよ」「もう私だけで介護するのは限界なの。ヘルパーさんを雇ってほしい」そう切り出した瞬間、夫はまるで数字を見るような目で私を見た。「ヘルパーなんて雇ってもコスパが悪いだけだ」毎日のように義母の車椅子を押し、夜中も呼び出され、眠れない日が続いていた。それでも耐えてきたのは、家族だから。なのに彼の口から出たのは「愛人が妊…

「ねえ、翔平。お母さんの介護のことで話があるんだけど」「またその話か。何回目だよ」「もう私だけで介護するのは限界なの。ヘルパーさんを雇ってほしい」そう切り出した瞬間、夫はまるで数字を見るような目で私を見た。「ヘルパーなんて雇ってもコスパが悪いだけだ」毎日のように義母の車椅子を押し、夜中も呼び出され、眠れない日が続いていた。それでも耐えてきたのは、家族だから。なのに彼の口から出たのは「愛人が妊...

「ねえ、翔平。お母さんの介護のことで話があるんだけど」
「かおり、またその話か。何回目だよ」
「だって、もう私だけで介護するのは限界なの。ヘルパーさんを雇ってほしいの。せめて週に何度かだけでいいから」
「いや、ヘルパーなんて雇ってもコスパが悪いだけだ」
「またそれ?いつもそればっかりね」
「費用対効果の高さは何よりも大事なんだよ」
「いくらあなたが経営コンサルだからって、日常生活にまで持ち込まないでよ。それに、離婚した後も介護は私に任せるって話でしょ?」
「離婚?まだ言ってなかったっけ?」
「言ってないってか、聞いてないわよ。何?離婚?どういうこと?」
「いや、愛人が妊娠しちゃってな」
「愛人?妊娠?」
「だから、離婚するけど介護は引き続き任せるから」
「ふざけないで。さっきから何言ってるのよ」
「感情的になるなよ」
「これで冷静でいられるなら、そいつはロボットでしょ」
「お前が騒いでも結果は変わらないんだ。なのに感情的になってもコスパが悪いだけだろう」
「そういう問題じゃないでしょ!何がコスパよ。そんなの合理的な判断だと思ってるの?」
「ああ、そうだ。俺は経営コンサルとしての経験から、最も効率的な判断をしているだけだ」
「はあ?離婚してヘルパーを雇う?すぐには無理だろうな。手続きとか契約とか、色々あるからな」
「その間、母さんの介護を俺がやるのはコスパが悪い。でもお前はタイムラグなしで毎日介護できる」
「だからって、普通の状況で私に介護させるの?」
「まあ安心しろ。できませんけど」
「何?」
「つまり、お前には母さんの介護を続けてもらう」
「普通の状況でって、今の状況はどうなのよ」
「俺と離婚したら、お前は生活に困るだろう」
「確かに私は専業主婦だしね。結婚前はネットニュースを書いてたけど、あれももう数年前のこと。今さら仕事に戻れるようなことはないわね」
「そうだろ。だから母さんの介護をしてくれるなら、金は払ってやる。条件だけ見れば、世話できることを感謝してほしいくらいだ」
「信じられない。あなた、バカなんじゃないの?」
「収入もないお前が断る方がどうかしてる」
「断る方が正常でしょ!」
「冷静になれって言ったろ。離婚後の自分の生活をしっかり考えろよ。金はもちろん、俺の稼ぎからも出て行ってもらうんだからな」
「調子に乗るなよ。クソ野郎」
「あ?今何て言った?」
「ああ、でも、確かにあなたの言ってることも一理あるわね」
「だろう?」
「でも、さすがにこのままLINEで詳細を説明するのも非効率的でしょ。書面でまとめるから、後で内容を確認して」
「そんな事務的な…」
「帰ったら契約条件と詳細を伝える。金をもらわずに離婚するか、仕事だけはもらって離婚するか。バカでも分かるだろう。どっちがマシか」
「はいはい、分かってますよ。どうせ私に選択肢なんてないんですから」

翌日。
「かおりさん、昨日の夜はどういうこと?」
「お母さん、昨日の夜って、本当に連絡を入れたんですか?」
「ああ、そういえば夜中に電話があったわね」
「なんで出なかったんですか?」
「いや、寝てましたし」
「はあ。寝てた?私の介護を差し置いて、よく寝られるわね」
「そう言われましても…」
「そもそもねえ、あんたは自覚が足りないのよ」
「自覚?何のですか?」
「嫁としての自覚よ」
「あの、翔平から聞いてませんでしたか?私、翔平とは離婚することになったんですけど」
「そんなの関係ありません」
「え、関係なくないと思いますけど…」
「あんたは私の介護要因よ。離婚しようと、嫁は嫁なの」
「謎理論やめてくださいよ。離婚したら嫁じゃなくて、ただの他人です」
「そもそもあんたは翔平に雇われたんでしょ?」
「いや、まあ、そういう話はされましたけど」
「なら、私の介護はあんたの仕事よ」
「ちょっと待ってください。翔平から提示された雇用内容を見ましたよ。何なんだ、あれ?」
「何が?」
「給料は日当払いで1日3000円。勤務時間は緊急対応も含めて24時間。しかも、その家に住み込みですよ」
「何が問題なの?」
「いや、問題しかないでしょう。24時間勤務で3000円って、時給換算したら125円ですよ。最低賃金を下回るとか、そういうレベルじゃない。ブラック企業を通り越して、もはや国家レベルの搾取です」
「今までタダでやってたんだから、贅沢を言わないで」
「30日間24時間働いて9万円?生活できないですよ。社会生活すら送れません」
「捨てられた嫁の分際で、よくそんなことが言えるわね。そんなに出すなんて、翔平は太っ腹よ」
「利用ですか?確かに、コスパ重視の翔平が考えそうなことですね」
「でしょ?」
「でも、経営コンサルとは思えない戦略ですね。こんな条件で雇われたい人なんていませんよ」
「何言ってるの?捨てられたあんたに、文句を言う資格はないわ。再利用してくれる翔平に感謝しなさい」
「はいはい。そうですね」
「あら、何よ急に」
「いやいや、こっちの話です。翔平の行動の意味が分かったというか…」
「意味が分からない子ね。まあいいわ。そういうわけで、今後もここに通うからよろしくね」
「はい、分かりました。早速明日から、そちらで住み込みで働きます。しっかりと再利用させていただきますね」
「再利用されるのはあんたの方でしょう。私の介護は任せたわよ」

1週間後。
「いや、助かったよ、かおり。まさかあの条件で働くなんてな」
「自分で出した条件なのに、ひどい言い草ね」
「いや、一般的な感性だったら断るだろうな」
「そうでしょうね。いくら住み込みとはいえ、労働条件が最悪ですからね」
「でも、お前は断ることができないだろう?」
「ええ、そうね。両親はもういないし、親戚付き合いもない。長年の専業主婦生活で、頼れる友達もいない。その上、今回の財産分与や慰謝料の支払いは、どれだけ頑張っても即座には完了しないでしょうね」
「俺の弁護士の見立てじゃ、数ヶ月は猶予を取れるとさ」
「で、行く当てもない私は、その間を食いつなぐために、この最悪な労働条件で働くしかないってわけね」
「そういうことだ」
「全部、計算だったの?」
「これでも経営コンサルとして、経営戦略を考えてるんでね。この程度のことは朝飯前だ」
「そういえば、今度本を出すんだって?おめでとう」
「ああ、母さんから聞いたのか?」
「ええ。『経営コンサルが教えるコストカットの極意』だったっけ?」
「これでも有名な経営コンサルだからな。この間もテレビでコメンテーターとして呼ばれたし」
「タレントの真似事もしてるのね」
「コンサルってのは知名度が命なんだよ。ああやって名前を売るのも仕事のうちなんだ」
「それはご苦労様ですね」
「あ、なんだ?母さんから連絡だ」
「お母さん、どうしたの?」
「車椅子の調子が悪いんだとさ」
「そんなことで、いちいち俺に連絡を入れなくてもいいだろうに」
「息子でしょ?母親に頼りにされてるんだから、喜べばいいのに」
「親がもういないお前には、分からないだろうな」
「何?」
「いや、喧嘩を売ってるわけじゃない。単純に、あんな感情的な親はコスパが悪いって言ってるだけだ」
「やっぱり…」
「何だよ、やっぱりって」
「いや、こっちの話よ。確かにお母さんは感情的だものね。効率重視のあなたとは相性が悪いかもしれないわね」
「そういうことだ。まあ、安心してくれ」
「何が?」
「これでも雇われの身だからな。お母さんからのご要望には、ちゃんと対応しておくよ」
「あら、そう。ありがとう」
「いえいえ、雇用主の言うことは守りますよ。雇われてる間はね」
「何か企んでるわね?」
「さあ、何のことやら」

数週間後。
「かおりさん、あんた今どこにいるの?」
「ちょっと買い物に」
「私の介護をほったらかして、いったい何を考えてるの?」
「何と言われましても…」
「今すぐ帰ってきなさい!朝ご飯だってまだ食べてないんだから!」
「いえ、帰りませんよ」
「帰らないって…何を言ってるの?私の話が聞こえなかったの?」
「きちんと聞こえてますよ。でも、帰る必要がないので」
「あんた、まさか私の言うことを無視する気?」
「無視してるわけじゃありません。事実、私はあなたの雇用主である翔平から、あなたの介護を任されている。あなたの娘ではないんです」
「何を…」
「そもそも、あなたは私に何を期待してるんですか?私はあなたの介護のために、これ以上ないほど搾取される条件で働いてる。それなのに、いつも文句ばかり」
「あんた、私をバカにしてるの?」
「いいえ、何となく分かったんです。あなたは私を嫌ってるんじゃない。ただ、誰かに認められたいだけでしょ?」
「何を…!?」
「だから、いつも私に当たるんでしょう?私がいなくなったら、あなたの気が済まないんだ。私があなたの存在意義を確認させられてるんだ…」
「よくもそんなことが言えるわね!私は…私は…!」
「落ち着いてください。そうでないと、あなたの息子も、私も、誰も幸せになりませんよ」
「あ、あんた…!あんたなんかに、私の気持ちが分かるわけないんだから!」
「ええ、確かに分かりません。あなたは一番身近な人に捨てられた気がしてる。でも、それは私も同じよ。離婚話を切り出された私は、あなたと同じ立場になったんだから」
「…何?」
「あなた、私が離婚することになるから、こうやって逆上してるんじゃないんですか?」
「そんなわけ…」
「そうやって、自分の不安を私にぶつけてるだけなんでしょ?」
「違う!あんたは私をバカにしてる!あんたは…あんたは…!」
「使い捨てられる直前まで、ちゃんと稼いでくれると思ってたのに、思ってたのと違ったから…」
「何を言ってるの…!」
「あんたの息子は言ってたわ。『親がもういないお前には分からないだろうな』って。でもね、親がいなくても、バカにされてれば、気持ちは同じなのよ。あなたが今、私にしてきてるように」
「…」
「私はね、もうこりごりなの。みんなに使い捨てにされて、都合よく使われて…。でも、今回ばかりは、流されない。私は自力で生きていくって決めたの」
「…!」
「だから、もう二度と、あなたの思うままには動かない」
「な、何を…」
「お母さん、ご飯は、ちゃんと食べてますか?」
「…は?」
「稼いだ分だけしか、食べられないんですよね。私も」
「…ふん、分かったわよ。好きにすれば」
「どういう意味ですか?」
「好きに生きなさいよ。もうあんたのことなんか、どうでもいいわ」
「…!」
「でも、今まで面倒を見てくれたことは、感謝してる」
「…」
「私は、あんたのことが、そんなに嫌いなわけじゃない。ただ、私が弱いから、あんたにきつく当たってただけなの」
「…」
「でも、もう終わりよ。あんたは、あんたの人生を生きなさい」
「お母さん…」
「いいから、行きなさいよ」

それから数日後。
「かおりさん、荷物をまとめてるの?」
「ええ。もうすぐ、ここを出ていきますから」
「なんで?翔平が承諾したの?」
「いいえ。でも、もう私の役目は終わったんです。これ以上、ここにいても、誰の得にもならない」
「…そう」
「これまで、色々とありがとうございました。お母さんのことは、ちゃんと翔平に介護を頼めるように話をつけましたから」
「何を言ってるの?」
「翔平の愛人…いえ、新しい妻が妊娠してるって、知ってますか?あの人が出産したら、きっと、この家の家事も介護も、全部あの人がやるようになるでしょうね」
「…!」
「そうなったら、あなたは本当に、ひとりぼっちになる。だから、言っておきたかったんです。もしも辛くなったら、いつでも私を頼ってくださいって」
「…かおりさん」
「私、結婚する前は、介護の仕事に就きたかったこともあったんです。だから、今度こそ、自分らしく働ける場所を探したいと思ってる」
「…ごめんね、かおりさん。今まで、色々と…」
「いいえ。私こそ、何度もひどいことを言いました。ごめんなさい」
「…」
「それじゃあ、元気で」
「かおりさん、ちょっと待って!」
「何ですか?」
「…えっと、その、いつでも遊びに来てね」
「…!ええ。そうさせてもらいます」
「うん…。行ってらっしゃい、かおりさん」
「行ってきます、お母さん」

かおりは階段を降りていく。足取りは軽かった。
部屋の窓から見える風景は、以前と変わらない。なのに、世界が少し違って見えるのは、彼女自身が変わったからに違いなかった。

外に出ると、春の暖かな風が彼女を迎えてくれた。
「今日から、私は私の人生を始めるんだ」

彼女は空を見上げ、深く息を吸い込んだ。しばらく歩くと、スマートフォンが震えた。翔平からだった。
「何の用かしら」
彼女は一瞬だけ迷い、通話ボタンを押した。
「もしもし」
「かおりか。突然ですまないが、今日はこっちは忙しい。あいつのところの様子を見てきてくれないか」
「悪いけど、今日から私はあなたの会社とは一切関わらないわよ」
「何?どういう意味だ?」
「辞めさせてもらった。今までありがとう。それから、もう二度と、あなたにも、あなたの母親にも、何の連絡もしないから」
「ちょっと待て!かおり!」
「さようなら、翔平」
彼女は通話を切った。深呼吸をして、ポケットにスマートフォンをしまう。
ほんの少し、視界が潤んだ。それでも、彼女は自分の決断が間違っていなかったと確信していた。彼女はもう、誰かのために献身的に尽くすような人間ではないのだから。
そうして日中にかおりは、新たな住まいへと足を進めた。荷物はほとんどない。あるのは、使い込んで買ったバッグと、それから、一冊の本だけ。それは、彼女が昔、妻としてではなく、一人の人間として書いた最初の記事が載ったスクラップブックだった。ためらいのないわけではなかった。何年もの間、彼女の人生は主婦としての時間であふれていたからだ。それでも、もう迷ってはならない。彼女は強く強く、自分の歩んできた道を信じるしかなかったのだ。

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