午前六時半、狭いワンルームに目覚まし時計の音が鋭く響き渡った。古びたカレンダーが一枚だけ掛けられた壁、最低限の家具しか置かれていない殺風景な部屋だ。四十五歳の男が住むにはあまりにも質素な空間だった。篠崎悠人は重い体を起こすと、量販店で買った一万円のスーツを手に取った。これが毎朝のルーティンだ。専務取締役社長という立場でありながら、彼が一般の社員と変わらない机に座り、百円のコーヒーを片手に満員電車で出社するのは有名な話だった。社員たちは誰もがその理由を知らなかった。新入社員にも清掃スタッフにも、彼は誰に対しても変わらず優しく声をかける。だが、その背中に抱える過去を話したことは一度もなかった。
その日もいつものようにオフィスへ向かうと、顧問弁護士の堀内が待っていた。何やら神妙な面持ちだ。篠崎が声をかけると、堀内は少し間を置いてから口を開いた。
「実は、少しご相談がありまして」
「その顔は、仕事の話ではなさそうだな」
「ええ。私が顧問を務めております神谷中央銀行の遠藤家から、お嬢様のお見合い相手を探してほしいとご相談を受けたんです。四十代で誠実な方をということで、真っ先に篠崎さんのお顔が浮かびました」
篠崎は窓の外に目をやった。自分を育ててくれた施設のこと、そして何も持たずにここまで来たことを、初対面の人間に話すことへのためらいが、ずっと心の奥にあった。断る理由を探したが、長年付き合ってきた堀内の頼みでもある。
「堀内先生、一つだけ条件があります。私の会社名も資産も、一切先方には伝えないでください。IT関係の仕事をしている、ということだけにしておいてほしいんです」
「それは構いませんが……よろしいのですか? 」
「ええ。ありのままの自分を見てもらいたいので」
堀内は少し考え込んだが、やがて静かに頷いた。一方、その夜。神谷中央銀行の重役宅では、この話が持ち上がっていた。父である遠藤一臣は六十八歳。銀行内でも一目置かれる厳格な男だ。妻の千鶴は六十五歳で、高級ジュエリーが似合う品の良い女性。そして一人娘の沙織は二十八歳。堀内から「四十代でそれなりの実績を持つ誠実な人物がいる」と聞かされていた。
「堀内先生の紹介なら間違いないだろう。楽しみにしていましょう」
「ええ。どんな方かしら。私、ワクワクしてしまいますわ」
沙織だけは、いくつか条件が変だなと薄々感じていた。自分の肩書きや家柄を好んで隠す相手が、これまでにいなかったからだ。
見合い当日。篠崎は堀内に指定された高級料亭に足を運んだ。石畳の庭には手入れの行き届いた松が植えられ、池には鯉が優雅に泳いでいる。とても一見の客が予約できる場所ではない。中居に案内された個室の扉が開くと、そこには家族三人が座っていた。一臣は鋭い眼差しで、千鶴は微笑みを浮かべ、沙織は興味深そうにこちらを見つめている。
「篠崎様でいらっしゃいますね。お会いできて光栄です。私は遠藤一臣と申します」
「こちらこそ。お招きいただきありがとうございます」
沙織がテーブルに並ぶ料理を見ながら、さりげなく質問を始めた。
「堀内先生からIT関係のお仕事と伺いましたが、どのようなことをされているのですか? 」
「はい。パソコンやネットワークを使ったサービスを手掛けております」
「まあ、今時なお仕事ですわね。私も銀行でシステムを使うことが多いので、興味深いですわ」
最初の三十分ほどは、料理の味や趣味の話で和やかな時間が流れた。だが、料理が一段落した頃、一臣が本題を口にした。
「篠崎さん。差し支えなければ、会社の規模や実績を聞かせていただけませんか? 」
篠崎は静かに箸を置いた。
「申し訳ございませんが、お答えすることができません。何卒、先に私という人間を見ていただきたいのです」
場の空気が一瞬で冷めた。一臣の目つきが鋭くなる。
「なぜ隠されるんですか?

我々はただ、紹介を受けたお相手のことを知りたいだけです」
「これは決してお見合いを軽んじているわけではございません。ただ、名刺や会社名で判断されたくないのです。誠実なお付き合いをしたいと思っておりますので」
千鶴が口元に手を当てて、嘲るように笑った。
「まあ、よくある話ですわね。私たちを試していらっしゃるのかしら? 」
「そうではありません。私のわがままだと理解してください」
沙織が横から口を挟んだ。
「では、年収はおいくらほどいただいていらっしゃるのですか? 」
「それもお答えできません」
沙織は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに冷たい微笑みに変えた。
「まあ、何もお聞かせいただけないのでは、こちらとしても判断のしようがありませんわ。お父様、このお話はなかったことにされてはいかがでしょう」
一臣も深く頷いた。
「結論から言います。娘の相手として認めることはできません。身の程を弁えてください」
篠崎はゆっくりと立ち上がった。
「仰る通りです。私ごときがお見合いの席に相応しくなかったのでしょう。本日はありがとうございました。契約についても、また後日改めてご連絡させていただきます」
「契約? 何のことです?
」
篠崎は笑みを浮かべた。
「篠崎悠人と申しましたね。どうぞお忘れなく。また会う日まで」
そう言って彼が部屋を出た後、しばらく沈黙が続いた。沙織が先に口を開いた。
「余計なことは言わなくて結構よ。どうせ大した家柄でもないんでしょうし」
でも、一臣の手がわずかに震えていた。何かが引っかかる。あの男の落ち着き。負け惜しみだけではない、確信のようなものを感じた。
数日後。遠藤家に信じられない知らせが届いた。神谷中央銀行の株が前日比マイナス七%、急落したのだ。ショックで、銀行全体の取り付け騒ぎが起きかねないという噂まで出始めている。一臣はパソコンの画面を眺めたまま動けなくなった。
「お父様、何事ですか!? 」
沙織が部屋に飛び込んできた。千鶴も続く。
「何かあったの? 」
「この株価の下落……原因が分かった。篠崎という男だ」
「何をおっしゃいますの? あの仕立ての悪いスーツの男が?
」
一臣は手元の資料を落とした。そこには、篠崎悠人の名前が書かれていた。
「彼は……言っていた。IT関係の仕事だと。でも、あれは隠れ蓑だ。彼はあの男は……麒麟堂の創業者だ。あの日本を代表する銀行グループの」
千鶴の手からコップが滑り落ち、床で砕け散った。
「そんな……嘘だわ。あんな男が、どうして」
「どうしても、何も。彼は我々にとって最大のクライアントだ。中央銀行の筆頭株主の一人で、先月も我々の融資の条件を握っていた。その彼を私が口座解約はおろか、身の程を知れだと蔑んだんだ。取り返しのつかないことをしてしまった」
沙織は青ざめた。あの日、自分が馬鹿にした相手が、実は一族の運命を握る人物だったのだ。
「お父様、私、何も知らなくて……」
「もういい。堀内先生に連絡を取ってくれ。何としてでも謝罪の場を設けたいと」
一方、その頃。篠崎は自宅の小さなダイニングテーブルで茶を飲んでいた。スマートフォンの画面に映る株価の数字を見て、静かに呟いた。
「遠藤家との取引は、そろそろ潮時かもしれないな。とはいえ、あの日のお嬢様たちの顔は見事だったな」
彼は決して復讐心で動いたわけではなかった。だが、身分で人を判断するような連中の本質を見抜いた以上、切り捨てるのは自然な流れでもあった。
翌朝。堀内からの電話が鳴った。
「篠崎さん、遠藤家から多大な申し出がきています。何とか面談の機会を設けてもらえないかと」
「堀内先生、私は既に彼らとの関係を見直しました。今後は直接の取引は考えていません。あの日、私の条件を聞かなかった以上、彼らにも落ち度があるはずですので」
「しかし……」
「先生には感謝しています。ですが、この話はここまでにしましょう」
正体を明かさなかったこと。それが彼なりの誠実さであり、同時に遠藤家への最後の配慮でもあった。だが、人を見下す者には、その話題すら与えない。
数ヶ月後、神谷中央銀行の経営悪化のニュースが報じられた。遠藤家は傍系の銀行に転出し、地位も名誉もすべて失った。沙織はお見合いの話もすべてキャンセルとなり、地方の小さな実家で両親と暮らすことになった。
一方、篠崎は変わらず質素な生活を送っていた。その日の午後、事務所に一人の女性が尋ねてきた。かつて沙織の友人だった、と名乗るその女性――。
「篠崎さんでいらっしゃいますか。私は、遠藤沙織の友人だったと聞きまして。いえ、あなたのことを知ったのは最近なのですが……」
「何か御用でしょうか? 」
「あの日、沙織があなたに言ったことを、お詫びしなければと思って。あの家族は、人間を見る目が無かったのです。私……いえ、何でもありません。お目汚ししました」
その女性が立ち去ろうとした時、篠崎は声をかけた。
「お名前を伺ってもよろしいですか? 」
「伊藤美咲と申します」
「伊藤さん、お時間があれば、この後お茶でもいかがですか?
話だけでも」
美咲は一瞬驚いた後、微笑んだ。
「ええ、ぜひ」
彼の心に、何かが変わり始めた予感がした。見合いではなく、初めて人として対等に向き合える相手に出会ったのかもしれない。外は春の陽気が、静かに二人を照らしていた。