電話越しの義母の声は、最初から怒り狂っていた。
「なんで葬儀場にいないのよ!義父の葬儀を欠席するなんて、人でなしよ!さっさと来なさい、この出来の悪い嫁め!」
私はスマホを耳に当てたまま、隣にいる夫と目を合わせた。夫は眉をひそめて、首をかしげている。
「え、お母さん、どうしたんですか?葬儀?今日、誰かの葬儀をやるなんて聞いてませんけど」
「何言ってるの!昨日、お父さんが亡くなったことは伝えたでしょ!」
「はい、それは伺ってますよ」
「なら、葬式をするのは当たり前じゃない!今、どこにいるのよ!」
「結婚式に参加しています。ですので、葬儀には参加できません。それがお父さんの葬儀なら、なおさらです」
「結婚式?葬儀より結婚式が大事なの?しかも、お父さんの式に参加したくないなんて、失礼よ!」
「そうでしょうか」
「そうでしょうかって、何よ!さっきから人を馬鹿にするのも大概にしなさいよ!」
「そんなつもりはないんですけど」
「こんなバカ女だったなんて!いい?今すぐ来ないなら、息子と離婚させるわよ。覚悟しなさい!」
私は一度、深呼吸をした。感情的になるのは、もうやめようと思った。
「お母さん、こちらの事情も聞かずに強制参加させるって、そもそもお葬式ってそういうものなんでしょうか?それにこちらは事前に、母の結婚式だとお伝えしていました。今さら行くことはできません」
「義父の最後より、自分の母親を優先するっていうの!」
「はい、そうです。というか、大抵はそうなると思いますが。それに、生前、お父さんにも『結婚式を優先してくれ』と言われていましたし」
「それでも行くのが、嫁の務めよ!全く、これだからシングルマザー家庭は嫌なのよ!常識も躾もなってない!」
「あの、失礼ですよ。その発言、撤回してください」
「本当のことでしょ?シングルなんて、お金もなくて貧乏じゃない。そんな貧乏人のくせに、結婚式なんて分不相応よ。それが理解できてないんでしょ!」
「母は立派に私を育ててくれました。結婚式を挙げることを不甲斐ないとは思いません」
「育てたって、あんな貧乏な暮らしで?貧乏奨学金でやっと学校に行ったくせに!」
「確かに裕福な暮らしではありませんでした。それでも幸せです」
「うちの息子と結婚できたことが幸せでしょ!それなのに、こんな無礼なことをして、伴侶の親を大事にするものでしょう!」
「伴侶の親だから大事にするのではなく、人として尊敬できるかどうかも大事かと」
「ああ、こう言いやがって、鬱陶しいわね!とにかく、早く葬儀場に来なさい!葬儀の準備も片付けも、全部あんたがやるべきでしょ!」
「なぜ、そうなるんですか?」
「私は悲しんでるのよ!最愛の人を失ったの!嫁なんだから、そういう時は働くのが当然でしょ!」
「お母さん、葬儀の準備は、お父さんと相談して決めるべきでは?」
「葬儀の準備は嫁の務めでしょ!息子に聞いてどうするのよ!あんたが来ないせいで、息子に負担がかかってるの!さっさと来ないと、離婚させるわよ!」
「お母さんの要望は分かりました。でも、離婚は私たち夫婦の問題です。お母さんが気に食わないからって、それは口の出しすぎですよ」
「息子は私の味方よ!あんたみたいな非常識な嫁のことなんか、見限るわ!私がこんなに悲しんでるのに、あんたは自分の母親のことしか考えてないのね」
「私はお父さんに言われたことを優先しているだけですよ」
「なんですって!お父さんが何を言ったって関係ないわ!今は私が一番辛いのよ!親族の前であんたの非常識さを全部話してやるわ!息子にも離婚を説得するから!」
「それは困りますね」
「困る!当然でしょ!嫁失格なんだから!今すぐ来なさい!来ないなら、本当に離婚させるからね!」
夫が、私の手からそっとスマホを奪い取った。そして、電話に向かって口を開いた。
「母さん、俺も結婚式場にいるよ。美咲と一緒にね」
「え、あなた?どこにいるのよ!」
「言っただろ、結婚式場にいるって」
「なんでそんなことを!お父さんを悲しませるつもり?」
「悲しませる?俺は父さんの遺言に従ってここにいるんだよ」
「遺言?何のこと?」
「とぼけないでよ。父さんはちゃんと伝えてたはずだ。『葬儀はするな。そのまま火葬してくれ』って。ちゃんと聞いてたし、母さんもその場にいたはずだ。むしろ、なんで勝手に葬儀をしてるんだ」
「お父さんが亡くなったのよ!お見送りくらいしたいじゃない!」
「確かに、気持ちの整理として葬儀は大事かもしれない。でも、それはあくまで気持ちの整理であって、俺たちに強制するべきことじゃないだろ」
「うるさいわね!お前までそんなこと言うの!」
「母さん、LINEのやり取りは全部見せてもらったよ。『準備を押し付けてこないで』って言ったら、罵倒してさ。何がしたいんだ」
「お前、何言ってるの!」
「母さん、はっきり言わせてもらうけど、悲劇のヒロインぶるのはやめろよ。いい加減、見てて痛々しいし、息子としても本当に情けないよ」
「え、何言ってるの?私は悲しんでるのよ!お父さんが亡くなったのに!」
「父さんが一番悲しむのは、母さんが父さんの死を利用することだよ。母さんが葬儀をしたいのは、父さんを送り出したいって気持ちじゃない。『夫を失った妻』っていう立場で、みんなから同情されたい。ただそれだけだろ」
「あ、あんた、なんてことを言うのよ!そんなことないわ!」
「なら、なんで父さんの言葉を忘れてるんだ?『俺が結婚式にいる理由』も、ちゃんと話してたはずだよ」
「何のことよ…」
「父さんは言ってたんだ。『もし自分が死んだら、お前は美咲の結婚式に行け。俺の葬儀なんかするな。お前たちの幸せを優先しろ』って。母さん、その場にいたはずだ。なんで俺がここにいるのか、分かってるくせに」
義母の声が、少しだけ小さくなった。
「…お父さんの葬儀をしたいのは、お父さんのためじゃないわ。私のためよ。私がどれだけ辛いか、みんなに知ってほしいの」
「だから、それは『悲しむことを利用してる』って言ってるんだよ。父さんの葬儀を盛大にして、自分がどれだけ悲しいかアピールしたいんだろ?そんなことして、何になるんだよ」
「いきなり、なんでそんなひどいことを言うの!私はあなたの母親よ!」
「母さん、言っただろ。留守番はLINEで全部見てたんだ。『母さんが美咲に葬儀の準備を押し付けて、来ないと罵倒してる』って、美咲に聞いたんだ。それで、俺はようやく分かったんだよ。母さんは父さんの葬儀をやりたいんじゃない。自分が悲しんでることを、ただみんなに認めてもらいたいだけなんだって」
「そんなこと…」
「残念だけど、俺は母さんの味方になる気はないよ。俺は父さんの遺言を守る。父さんの言葉を守る。ただ、それだけだ。美咲を離婚させるって言ったって、俺は絶対に離れないからな。それが父さんへの一番の供養だって、俺は信じてるから」
電話の向こうから、義母の声が深く聞こえた。
「…あんたまで、私を裏切るのね…」
「母さん。父さんが一番言ってほしかった言葉、覚えてるか?『幸せに生きろ』だよ。父さんは、母さんにも幸せに生きてほしいって言ってたはずだ。悲しみに生きるんじゃなくてな。だから、俺と美咲は、父さんの想いを背負って生きていくよ」
しばらく、沈黙が続いた。
「…もういいわ。あんたたちが来ないって言うなら、私一人でやるわよ。葬儀は、私がちゃんとやるから!」
そう言い残して、義母は電話を切った。私は、夫の顔を見上げた。夫は、ため息をつくと、私の頭をそっと撫でた。
「大丈夫か?」
「うん…でも、お母さん、大丈夫かな…」
「ああいう人は、自分が一番かわいそうなんだろうな。父さんが亡くなって、悲しみに暮れる自分を、みんなに認めてほしかったんだ。それが、父さんとの最後の繋がりだと思ってるのかもな」
「…私たちは、間違ってないよね?」
「当たり前だろ。父さんは、俺の幸せを願ってたんだ。そして、お前との結婚を、一番喜んでた。父さんの遺言を守るのは、俺たちの役目だよ」
それから数日後、義母は静かに葬儀を終えた。そこに、私たちの姿はなかった。父さんの遺言に従って、私たちは小さな結婚式を挙げ、穏やかな時間を過ごしていた。
葬儀の後、義母からLINEが来た。
「葬儀は、滞りなく終わったわ。お父さんも、きっと喜んでるでしょう。あなたたちが幸せなら、それでいいのよ。私からも、この手紙を届けるわ。」
同封されていたのは、父さんの遺書だった。そこにはこう書いてあった。
「美咲へ。君と息子が出会ってくれて、ありがとう。君のおかげで、息子は本当に幸せそうだ。私は明日の手術で、もしかしたら目が覚めないかもしれない。でも、それでも私は、息子の幸せを願っている。もし私が死んでも、悲しまないでほしい。結婚式は、私が亡くなった日でも、絶対に延期しないでくれ。私の葬儀はしなくていい。君たちの幸せが、私の一番の供養だから。寂しがり屋の母を、時々は見てやってほしい。だが、一番は君たちの生活を大切にしてくれ。君たちの人生を、精一杯生きてほしい。それが、私の遺言だ。」
私は、その手紙を握りしめて、涙が止まらなかった。夫も、そばで静かに私の手を握っていた。
「父さんは、全部分かってたんだよ。母さんのこと、そして俺たちのことをさ。だから、父さんは『幸せに生きろ』って言ったんだ。それが、俺たちが父さんにできる、精一杯の報いなんだと思う」
家のベランダから、遠くの空を見上げた。雲の間から、太陽の光が差し込んでいる。父さんも、きっとこうして見守ってくれているのだろう。
義母はしばらくして、少しずつ私たちと普通に話せるようになった。まだ「美咲」とは呼んでくれないけれど、以前のように罵ることはなくなった。あの日、父さんの遺書を読み、「お父さんはこう言っていたんですよ」と伝えた時、義母は初めて涙を見せた。
そして、数年後の盆に、義母は私たちの家を訪れた。リビングの仏壇に手を合わせた後、私を見て、ぽつりと言った。
「美咲の言う通りだった。あの時、私は何も分かってなかった。お父さんが、あなたたちに何を遺そうとしていたのか、今なら少し分かる気がするわ」
「お母さん…」
「あの葬儀、来なくて正解だったんでしょうね。あんたたちは、あの場所にいなくても、お父さんのことをずっと想ってた。私よりも、よっぽどお父さんの本当の姿を、知ってたんだわ」
私は、首を振った。
「そんなことないです。お母さんが、お父さんを一番想ってたからこそ、あんなに手を尽くしたんだと思います。でも、私は…お父さんに『自分の人生を大事にしろ』って言われたので。それを守りたかったんです」
義母は、何度も頷くと、ポツリと言った。
「…これからも、正月には家族で集まりましょう。あんたたちに、子どもが生まれたら、その子にも、お父さんの話をしてやってね。棺桶の目まで、じいじはあんたたちの幸せを願ってるって」
私は、涙を拭いながら、力強く頷いた。
庭に植えた、父さんが好きだった向日葵が、風に揺れている。あの日、父さんが私たちに遺してくれた言葉がある。
「生きている人の幸せを優先しなさい」
その言葉を胸に、私たちは今日も幸せに生きている。それが、遠くで見守ってくれている父さんへの、何よりの供養だから。
