お母さん、お話したいことがあるので、お時間を作っていただいてもよろしいでしょうか?すぐにでもそちらに伺わせてもらいます。
はあ、いきなり何よ。そんな急に言われて「はい、どうぞ」なんてならないでしょ。こっちはあんたたちと違って貧乏暇なしで仕事をしてるんだからね。
定年じゃなかったでしたっけ?
定年退職はしたわよ。でも年金だってもらえるようになったけど、それでも将来のことを考えると不安だからね。仕事をしないといけないのよ。夫も私も別のところで今は働いてるの。
必要であれば支援はさせてもらいますが。
馬鹿にしないで。私たちのことを見下してるの?
いや、そんなわけじゃ。たまたま仕事で金を手にしただけのくせに偉そうにするんじゃない。少なくともあんたにそんな顔をされる筋合いはないのよ。
不快に思われたなら申し訳ありません。私は少しでもお母さんたちの力になれればと思ってるだけです。
そんなのあんたに気にされるようなことじゃないわ。こっちはこっちで好きにさせてもらいますから。
お母さん、弘樹と仲直りをしてください。お母さんと弘樹の間に色々あったのは知ってます。でも今はそんなことを言ってられる場合じゃないんです。
何よ、それ。
夫がずっと体調が悪いということで病院に行ったんです。そしたら膵臓癌だということが判明して。
水ですって。
お医者さんかなり進行しているようです。放射線治療などである程度進行を遅らせることはできるようですが、もう回復することは難しいと言われました。それつまり、もうあまり長くないということです。
あの子が。
お母さん、お願いです。これからはお互いのわだかまりなんてなくして、夫と親子として昔のように触れ合ってください。夫に1つでも心残りを持って欲しくないんです。
ちょっと考えとくわ。
お母さん、考える時間なんてないんですよ。
うるさい。あんたは出しゃばってくるな。これは家族の問題よ。私があいつにどれだけ裏切られたと思ってるの?そのことを今更なかったことになんてできないのよ。
どうしてそこまで?
あんたにどうこう言われる筋合いじゃないわ。
弘樹はもう長くないと言ってるでしょ。
だから何よ。どうするかはこっちが決めるわ。病気を盾に攻めてこないでよ。こっちの気持ちを無視しになんてしないでよ。
お願いします。懸命な判断をしてくれると思ってますよ。
は、あんたに言われる筋合じゃないわ。
10分後。
お父さん、まりです。
おお、久しぶりだね。どうかしたのか。
お母さんから話は聞いてないですか?
話?
お母さんから弘樹が膵臓癌になりました。そしてあまり長くないと言われています。
なんだって。
それでお2人には弘樹のお見舞いに来てもらいたいんです。色々あったのは分かりますが、お願いできますか?
私は個人的には弘樹に何も怒りなんかはないんだよ。
喧嘩しているのはお母さんと弘樹だったんですよね。
そうだな。そして私はできるだけ間に入るようにしていた。そんな時に弘樹は君と結婚をしてね。それで私が弘樹の味方をしてしまうとお母さんが1人ぼっちになってしまう。それは避けないといけないと思ってたんだ。
ずっとお母さんのために一緒になって距離を取っていたということですね。
夫婦としてあいつの味方ではいてあげたい。まりさんがそばにいてくれれば弘樹は大丈夫だろうと思ってたからな。
今までお気遣いありがとうございます。ですが、今後はお母さんを説得する方向でお願いできますか?弘樹はもう就活をしないといけないので。
君も大変だね。
まだ現実感がないんです。だからこういうことができてるんだと思います。お願いします。弘樹のために動いてください。
分かった。なんとかやってみる。
うちのマンションのカードキーを送らせていただきます。これを使えばいつでもうちに入ることができますので、オートロックの暗証番号も送らせてもらいます。
ああ、分かった。なんとかしてみるよ。
1週間後。
お久しぶりです。覚えてらっしゃいますか?木島明彦です。弘樹とは学生時代からの友人で、何度か食事にも行ったことがあるんですけど。
はい、覚えてますよ。
突然すみません。弘樹から連絡先を教えてもらいました。病気についても聞かされましたよ。
そうでしたか。
まさかあいつがこんなことになるなんて。本当に神様なんていないんだって分かりました。誰よりも仕事を頑張って、誰に対しても優しく接していた夫に、こんな仕打ちをするなんて。
そうですよね。
すみません、愚痴を聞かせてしまって。それで、どう言うご用件なんですか?
実は弘樹から、これからのことについて色々と相談を受けたんです。
相談?
俺は司法書士をしていますので、権利関係のことを任せたいと言ってくれたんです。まあ、昔からの付き合いだから信頼してると言ってくれてね。
そうだったんですか。
それで奥様とも色々と話し合いをしたいので、お時間を作ってもらうことは可能ですか?LINEでのやり取りは可能でしょうか?
できれば、時間がある限り今は弘樹と一緒にいたいんです。
もちろんです。ではLINEでやり取りをしていきましょう。
ありがとうございます。お手数をおかけしますが。
そんなの気にしなくていいんですよ。友人の頼みです。喜んでやらせてもらいます。ではまた手続き関係で連絡をさせてもらいますので。
分かりました。
1年後。
お母さん、弘樹が天国に旅立ちました。
あら、そう。随分と長かったわね。私が聞いた時は半年くらいって聞いてたんだけど、抗がん剤治療などで頑張って、長生きをしようと戦ってくれてたんですよ。
あらあら。そんな余計なことはして欲しくなかったわね。
何ですって?
ああ見たいな、無駄なことはして欲しくなかったわ。天命だと思って、素直に受け入れるべきだったわ。
ふざけないでくださいよ。よくもそんなことが言えますよね。
私たちからしたら、あいつはそれくらい憎らしい存在ってことよ。
信じられない。あんたは何も知らないでしょ。
知ってますよ。弘樹が大学受験に失敗したことを、今も根に持ってるんでしょ。でもそれから弘樹は仕事を頑張って、さらに独立して事業を成功させてるんですよ。それなのに、どうしてそんなに憎んでるんですか?
受験を失敗したことも、もちろんむかついてるわ。こっちがあいつにどれだけの金をかけて塾とかに通わせたと思ってるのよ。でもね、それだけじゃないわ。私は浪人してもう1度受験をしなさいって言ったのよ。なのにあいつは就職するって言いはって。
それは弘樹としても、大学に行くよりも仕事をした方がいいって思ってたんですよ。弘樹は高校時代からプログラミングが得意で、その分野で活躍できると思ってたんです。実際にそうなりましたし。
そんなのは全部結果論。私の思う通りにならない奴は、私は家族だなんて認めないから。
何ですか、その偏った考え方は。
とにかく、あいつに対する愛情なんて1つもないから。
じゃあもういいです。これから私たちに関わらないでください。1度もお見舞いにも来ない人を、私は家族だなんて認めませんから。
は、そりゃどうも。葬儀は明日なの?
それについては、もう取り決めは済んでますから。来る必要はありません。
何を言ってるんですか。あんた、遺産のことを考えてるんじゃないでしょうね?
遺産?
そうよ。あいつが遺したものは、全て私たちがもらうんだから。
弘樹は何も残してませんよ。彼が遺したのは、借金だけです。
何ですって?
事業が上手くいってなかったんです。だから借金を抱えたまま、亡くなりました。お母さんたちが相続するなら、それはあなたたちの責任になりますが。
ふざけないで。そんなことが許されるわけないでしょ。
うるさい。とにかく全額遺産は私たちがもらう。他人のあんたはさっさとどっかに行ってちょうだい。
そんなこと、誰が許すもんですか?
許すも許さないもないでしょ。あんたは弘樹の妻で、私たちは親よ。親の権利の方が優先されるんだから。
親の権利?ふざけんな。あんたたちは、息子が亡くなっても1度も顔を見に来なかった。そんな人間に親の権利なんてあるか。それに弘樹は、あなたたちに何も残すなって言ってましたよ。だから、財産を全部、はんだくんに寄付するように遺言書を書いてたんです。
じゃあ、あんたたちがもらえるのは、借金だけってことよ。
何を言ってるんですか?
だから、弘樹の借金を相続するのかって聞いてるんだ。どうする?放棄するか?
あんた…。
正直に言って、遺産なんてどうでもよかったんです。でも、あなたが息子の死に対して、何も感じてないのが許せなかった。弘樹がどれだけ苦しんでたか、分かってない。
うるさい!黙れ!
あなたは、最後まで弘樹を許さなかった。だから、弘樹もあなたを許すことはなかった。それだけの話です。
私は…。
どうぞ、出て行ってください。もう来ないでください。
葬儀は明日よ。もしどうしても来たいって言うなら、関係者として参列してもいいけど。でも、あんたが来たら、私は泣くことすらできやしないから。
そんな…。
お父さん、あなたもどう思う?
うーん…。私は、まりさんの言う通りだと思うよ。俺たちは、あの子のことを最後まで理解してやれなかったんだ。悔やんでも悔やみきれない。
お父さん…。
だから、俺は来ないよ。葬儀には出ない。それが弘樹のためにも、嫁のためにもいいんだろう。
お父さん…。
すみません、まりさん。今までありがとう。そして、弘樹を一番支えてくれて、ありがとう。
お父さん…。
まりさん、弘樹のことはよくやったよ。ありがとう。君は立派な妻だった。
来てくれて、ありがとうございます。
うん。俺は、ここにいるとあの子の思い出が蘇って、辛いんだ。だから、今日でお別れだ。元気でな、まりさん。
お父さん、これ、弘樹の形見です。いつも身につけててくださいね。
ああ、これは…。
弘樹が、お父さんにって。形見に身につけて欲しいって言ってました。
お父さん…。
なんて、素直な子なんだ。こんなに貰って、どうすればいいんだ…。
あの子は、お父さんが大好きでしたから。いつも、父ちゃんはとにかく優しい人で、俺は育った環境に対して恵まれすぎてるって言ってました。
そうか…。
あのね、お父さん。私、これからも、時々でいいから連絡をくれますか?家族みたいな付き合いができたらって思ってるんです。
もちろんさ。まりさんさえ良ければ、いつでも連絡をくれ。
ありがとうございます。お母さんは、これからどうするんですか?
何よ、あの人は。
お互い、年を取ったし、もう、あの人のことは放っておくわ。自分たちの暮らしがあるからね。私は、一生、あの人のことを許さないでしょうね。
そうですか…。
でも、生きてて良かったと思うのは、あんたとお父さんに出会えたことよ。ありがとね、まりさん。
お母さん…。
やっぱり、あなたもあの人の子どもよね。はっきり言って、私なんか、あの人の親として誇れるところが見つからなかったけど、あなたは、立派よ。あの人の妻として、お父さんを、自分のことを、そして、私たち家族のことを一生懸命守ってきた。本当に、ありがとう。
お母さん、そこまで言ってくれて…。
だけど、私は…。最後まで、あの人が許せないままだった。情けないわね。
いいんですよ、お母さん。それぞれの形がありますから。私も、弘樹が何を思ってあんな選択をしたのかは、分からないけど。でも、あれは、自分が蒔いた種だって、あの人は自業自得だって思ってるんじゃないかな。
自業自得…。
分かってます。あの人は、きっと、私に捨てられるのが怖かったんだと思います。自分から離れていってしまう私を見るのが怖くて、自分から壊れてしまったんだと思うんです。そんなのは、ただの私の想像ですけど。
まりさん…。
あのね、私…。今回のことで、色んなことを学んだ気がします。人を思いやるってこと、家族を大切にするってこと。もっと早くに気づいていれば、何かが変わってたのかもしれないね。
でも、もう遅いからね。
そうですね、もう遅いんです。だから、私たちは前に進むしかないんです。
私ね、あなたと出会えて、本当に良かったと思ってるの。あなたは、あの人の妻としてじゃなくて、一人の女の人として、とても素敵よ。これからも、どうか、お父さんと仲良くやってくださいね。
お母さん、それは…。
やっぱり、私は…。私はもう、この家には住めないから。荷物をまとめて、出ていくわ。
そんなこと、しないでくださいよ!
今の私には、あなたがいてくれるから、ちゃんと考えられるの。あの人が遺してくれた宝物は、きっと、あなたとお父さんだけ。だから私は、少し離れた場所で、静かに暮らすわ。
お母さん…。
ごめんね、まりさん。最後まで、あんたにだけは、いいトコ見せられない、情けない母で。
そんなこと、ありません。
お父さんのことは、ちゃんと支えてあげてね。いろいろと、情けない娘で、あなたには苦労をかけるかもしれないけど、それでも、あなたがいてくれて、本当に良かった。
私こそ、よろしくお願いしますね。
うん。
