玄関を出る直前、スマホが震えた。画面には母からのLINE。今日は娘の内定祝いに高級寿司を食べに行く。ひろさん、今日は高級店なの。ちゃんとTPOをわきまえた服装で来てね。ああ、TPOって言葉わかるかしら?中卒さんには難しい単語を使っちゃってごめんなさいね。
俺はため息をついて、妻を見た。昨夜、一番上の兄から「明日の集まり、大丈夫か?」って連絡が来たときから嫌な予感はしてたんだ。
「そんなの送ってきたのか?マジかよ。」
妻はスマホを置いて、肩をすくめた。「お母さん、暇な人なのね。」
「本当にごめん。俺だけ遅れることになって。俺の家族ってまともじゃないだろ。だからひろ子だけを行かせるなんてしたくなかったのに。」
「多分、あなたが忙しいのをわかっててやってるわ。」妻は優しく言った。「でも、きちんと声をかけられたんだし、無視するわけにはいかないもの。今回はお祝いだから特別よ。仕方ないわ。これが終わったら、これまで通り距離を置いておけばいいんだし。まあ、何かされてもいつも通り言い返してやり返すわ。」
「本当、強いよな。その強さに甘えて申し訳ないよ。」
「私が強く出れるのは、あなたが味方ってちゃんとわかってるからよ。」妻はそう言って、鞄を持った。「それじゃ行ってくるね。そっちは焦らなくていいから。」
「わかった。なる早で仕事終わらせてくるから。」
「だから急がなくていいってば。」
妻が笑ってドアを閉めた。一時間後、スマホに妻から連絡が入った。
「もう帰ってるから。」
「え?帰ってるの?」
「お母さんに追い返されたの。中卒の他人は帰れってさ。そもそも私の分は予約もしてなかったわ。」
「え、わざわざ呼んだのに?」
「社交辞令だったらしいわよ。」
妻は、少しも悲しんでいない様子で話し始めた。店に着いたら、母が待っていて、「あら、やだわ。ひろこさん本当に来るなんて」と嫌味を言ってきたという。旦那さんを呼んだのはそちらなのに、いざ夫婦で来てくださいと言われたから来たのに、中卒の嫁は場違いだ、邪魔だ、存在自体が迷惑だ、と散々言われたそうだ。
「○○さん(夫のこと)に言っておいて。中卒が高級店に来るなんて100年早いって。もう二度と来ないでって。」
妻は言った。「じゃあ、お言葉に甘えて、もう二度と嫁としては来ないことにします。でも、そのかわり、もう二度と私を呼ぼうとしないでくださいね。呼んでも無視しますから。」
母は言った。「中卒のくせに生意気なのよ。あんたみたいなのがいるから、まゆみが恥ずかしい思いをするのよ。現に昨日は高級店に中卒が入って、お店の雰囲気を壊したでしょ。」
妻は笑ったらしい。「呼んだのはそちらでしょ。でも、わかったわ。こっちから願い下げよ。毎回毎回、嫌みばかり言われて面倒だったのよ。これで心置きなく行事も断れるわ。本当、お母さんと一緒の行事なんて時間の無駄でしかなかったから、助かるわ。」
「なっ……なんですって、あなた、何様よ。」
「周りくどく嫌味を言ってますけど、まだ何かある?昨日は大人しく帰りましたよね。それで満足では?」
「昨日の件で釘を刺しに来たのよ。そんなのもわからないのね、あなたみたいな学歴のない人がいると、まゆみが恥ずかしい思いをするかもしれないじゃない。」
「釘を刺すって、そういうことですか?中卒には難しいかしら、なんて気取ったことを言ってましたけど、あなたの言ってることはただの嫌がらせですよ。よく覚えましたよね、覚えたての言葉を。」
「あら、中卒のくせに、よくそんな風に言い返せるわね。まあ、いいわ。とにかく、あなたは無学なんだから、これ以上顔を出さないでちょうだい。」
「ええ、もう出ませんよ。来たくて来たわけじゃないんで。ふんだりけったりだけど、今日でようやく解放されるんでしょ?それはよかった。」
妻は、そう言って店を出た。そして、一人で回転寿司にでも行こうかと思ったが、足が向いたのはコンビニだった。何だかんだで、今日は高いお店でお祝いしてもらえると思ってたから、少しだけショックだったのかもしれない。
それから数分後、家に帰ると、俺がソファに座って待っていた。
「おかえり、早かったな。」
「うん、追い返されたからね。」
「そうか。で、何を言われたんだ?」
「『中卒の嫁は場違いだ』『学歴がないくせに』『存在自体が迷惑』って、それはもう念入りに。最後には『もう二度と顔を出すな』ってさ。だから、『はい、もう出ません』って言っといたわよ。」
「それはすごい、すっぱりした。」
「でしょ?ああ、すっきりした。これで向こうから何か言ってきても、無視できるもん。」
「いや、でも、大丈夫か?」
「大丈夫よ。」妻は俺の隣に座って、ぽつりと言った。「でも、本当に高級なお寿司が食べたかったわ。」
「帰りにでも食べてくればよかったのに。」
「一人で高級寿司屋には入れないわよ。それに、今日のところはもういいの。ああ、でも、お腹すいた。夕飯まだでしょ?」
「そうだな。回転寿司行くか。」
「あ、いいね!じゃあ、○○(夫)は回転寿司で、私はタコの唐揚げが食べたい気分!」
「は?なんでタコの唐揚げなんだよ。」
「だって、あなたのせいよ。お母さんに追い返されて、何かされるかと思ったけど、あなたの話を聞いてたら、私がタコになった気分だったから。」
「え、俺、タコに見える?」
「見える。タコの唐揚げは、タコの身でしょ?私はタコにされるかと思ったんだけど、お母さんの目には、私はもうとっくにタコだったのよ。なら、いっそ美味しく食べられてやるわ。」
「ははは。意味がわからん。」
「笑い事じゃないわよ。でも、まあ、もう気分は晴れたから。」妻は笑った。「行きましょう。今日は、あんたのおごりで、おいしいタコを食べるわ。」
「俺の給料から、だろ。わかったよ。」
その後、二人で回転寿司に行って、妻は念願のタコの唐揚げと、大トロを何皿も食べた。俺はとりあえず、無事に帰ってきてくれたことに安心しながら、ビールを飲んだ。
そして、数日後のことだった。
妻がスマホを手に、難しい顔をして立っている。聞けば、今度は母から、また別の長文のLINEが来ているという。
「昨日の件で思ったのだけど、あなたは文をわきまえていないというか、知能的に多分理解ができてないのよね。理解していると思い込んで話していたから、きっと困惑されたと思うわ。ねえ、困惑しています。こんなすっごく遠回しな罵倒を初めて見ました。悪い意味での日本語の奥ゆかしさを存分に発揮していて、さすがはお母さんですね。学歴にはできない芸当よ。」
「何これ、中卒には難しすぎてわからないって、嫌味を言ってるんじゃなくて、文化的なレベルが違うって言いたいのね。」
妻は呆れた顔で笑った。「そういうことね。相変わらず、私のことは嫌ってるのね。で、今回は何が言いたいんだろうね?」
「さあ。『あなたは文が理解できない』って言いたいんじゃないか?で、『中卒には無理』って。」
「だろうね。もう慣れたよ。でも、この前みたいに呼び出されて、追い返されるのはごめんだし、今回のことはスルーしておくわ。」
そのまま、また数日後、今度は俺の母から、直接電話がかかってきた。電話の向こうからは、早口の母の声がした。
「あのね、息子さんに言っといてよ。奥さん、ほんとに中卒で恥ずかしくないの?っつーの。まゆみは一流企業に内定したのに、あんなのがいるから別のところに……なんて、あれよね。とにかく、もう呼ばないから。」
「はいはい。わかりました。じゃ。」
俺は、一言だけ言って、電話を切った。これで本当に、この家とは縁が切れたな。そう思った。
そして、その日の夜、妻が言った。
「ね、今日さ、お母さんからLINEが来たんだよね。『まゆみの内定祝いの会を、ねえさんと私たちでやることになったの。あんたは来なくていいから』って。」
「ああ。俺のところにも、母さんから電話があったよ。同じようなこと言われた。」
「やっぱりね。で、どうする?まゆみにも来てほしいって言われたんだけど、さすがに姉としては、行くのちょっと気まずくない?」
「まあ、向こうが呼んでるんだから、妹だけでも行かせてやろう。」
「だね。そうしよう。」
翌週末、妹のまゆみだけが、その会に行った。高級なフレンチの店らしい。そして、しばらくして、まゆみから妻にLINEが来た。
「お姉ちゃん。今、会から帰ってきたんだけどさ。」
「おかえり。どうだった?」
「うん、まあ、楽しかったよ。でも、お母さん、ずっと、『やっぱり世間体が悪い』って愚痴ってた。『あんたが一流企業に勤めたら、周りの目が変わるわよ。お姉ちゃんは期待できないから、あんただけはちゃんとしなさいよ』って、ずっと。」
「はあ。相変わらずだね。」
「うん。あと、これ、お母さんから。『お姉ちゃんに渡してくれ』って。」
後日、妻の元に、母から一通の封書が届いた。中を開けると、一枚の紙が入っていた。そこには、こう書いてあった。
「中卒のあんたに、このお店の良さがわかるはずがないから。無理に来なくていいわ。開店前に並べば、中卒でも入れるかもしれないわよ。これはおごりじゃないわ。迷惑料よ。」
添えられていたのは、高級寿司チェーンのクーポン券だった。一人前分だけ。
妻はそれをしばらく見つめた後、くしゃくしゃになって捨てるでもなく、財布に入れた。
「ねえ、このクーポン、使っていい?」
「はあ?高級寿司屋で、なんでクーポンなんだよ。」
「だって、一人前分だもん。あんたと二人で行ったら、もう一枚別で頼まなきゃいけないでしょ。それは勿体ないから、今度の休みに一人で行ってくるわ。」
「……まあ、いいけど。でも、そんなやつ、使うなよ。何だか負けた気がするだろ。」
「こういうのは、勝ち負けじゃないの。向こうがくれたんだから、もらっておくの。お母さんは、私がこんな目にあったら、恥かいて、もう二度と近づかないと思ったんだろうね。でも、私はけっこうアッケラカンとしてるんだよ。これも、全部、あんたがそばにいてくれるからね。」
そう言って、妻は笑った。
それから、しばらくして、今度は母のほうから、また連絡が来た。今度は、スーパーのタイムセールみたいな軽い気持ちで、呼び出しをかけてきたらしい。
「今度、親戚が集まるのよ。あんたも来なさいよ。」
「親戚が集まるって、ちゃんとした会合なの?」
「ええ、ちょっとした食事会よ。」
「それ、私を呼んで、また何か言うんじゃないでしょうね。」
「何言ってるのよ。今度はまともなお店よ。前みたいに、あなたを追い返したりしないわ。」
「……本当?」
「本当本当。まあ、あなたが嫌ならいいけど。」
「……わかった。じゃあ、一回だけ行ってあげる。」
妻は、そして、その日のために、新しい服を買いに出かけた。俺はというと、正直、あんまり乗り気じゃなかった。また何か言われるに決まってる。でも、自分の口から「行かない」とは言えないかわいさが、妻の中にあるのかもしれない。ひょっとしたら、母が変わるかもしれないという、わずかな期待もあるのかもしれない。
当日、妻は少し緊張した面持ちで家を出て行った。そして、三時間後。帰ってきた妻は、何やら綺麗な折り詰めの箱を持っていた。それも、高級そうな板前さんが握ったであろう、立派なやつ。
「おかえり。どうだった?」
「うーん……。まあ、行ってよかったと思うことにするわ。」
妻は、箱をテーブルに置いて、ふう、と息をついた。
「お母さん、今度はちゃんと、人前で偉くしてくれるんだって。もう、あんな細かいことは言わないってさ。こんなの、謝りたいから、持って帰ってくれって。」
「はあ、そうなんだ。」
「うん。で、これ、あなたに。『お詫び』だって。」
そう言って、妻が差し出したのは、その高級寿司の折り詰めだった。
「俺に?まさか、何か毒でも入ってないよな?」
「入ってないよ。……たぶん。」
妻は笑った。そして、その綺麗な折り詰めを開けると、二人で仲良く、一番高いネタを食べ分けた。それは、とても美味しかった。これまでの嫌な思いが、全部チャラになるような味だった。
そして、母はというと、妻の「私から連絡するのは、もう、やめるから」という言葉に従って、あれ以来、何の連絡もしてこない。日常に戻った。いつもの、穏やかで、妻の笑い声が響く家。
たまに、母から届く、学歴に関する嫌味のLINEも、今はもう来ない。来るのは、スーパーの安売りのちらしだけ。
その分、家の中は、温かい匂いがする。
妻が買ってきた、高級寿司の折り詰め。二人で食べたそれは、ものすごく贅沢な時間だった。そんな週末の話。いつか、あのクーポン券、使う日がくるのかな。
母は今日もどこかで、誰かを傷つける言葉を探しているんだろうな。でも、もう、こっちからは何も言わない。これでいいんだ。距離は離れたけど、血はつながってる。まあ、いっか。
折り詰めに残った、いくらの寿司を、妻がこっそり俺の弁当箱に入れてくれた。明日の楽しみが、ひとつ増えた。
そして、その後も、俺たちの日常は穏やかに続いていく。鏡の前で、ネクタイを直す。その度に、玄関から聞こえる妻の声がする。
「今日は、何時ごろ帰れる?」
「わかんない。でも、今日は会議も長引かないと思うし、早く帰れると思うよ。」
「そ。じゃあ、晩ご飯に、お母さんにもらったお寿司、食べようか。まだ、冷蔵庫で生きてるから。」
妻はそう言って笑った。
その言葉に、俺も自然と笑顔になった。たぶん、これが俺たちの家族の形なんだろうな。他人は他人。そして、俺たちは俺たち。
今日も、妻の笑顔が、部屋に増えていく。
