金の話を出したのは、本当に自分が正しいと思ったからだ。昨夜の電話のあの口調、大機が代わりに投げつけた言葉のひとつひとつが、母の感情を完全に無視していた。でも、泣き言を並べるつもりはなかった。ただ、自分がされてきたことを思い出せば、何を言われても仕方がないと思う部分も、正直、あった。
翌日、病院の個室のベッドで、みは赤ん坊を抱えながら、スマホの画面を見つめていた。隣で大機がベッドの端に腰かけ、スマホをいじりながら、妻の言葉に相槌を打っている。みが口を開いた。
「ねえ、お母さん、また連絡してきてない?」
「ああ、さっき着信が一件。無視してやった。」
「出なくてよかったの? 何かあったら、どうするの?」
「何もねえよ。あの人にかまってたら、きりがないだろ。」
みはため息をついた。昨夜のやり取りを思い出す。大機が電話口で、母に対して、思いの丈をぶつけた。みも、自分が言いたいことを全部言った。でも、スマホ越しに聞こえてきた義母の声は、思っていたよりもずっと小さく、か細かった。それが、胸に引っかかる。
「大機、ひとつ聞いていい?」
「何だよ、急に。」
「お母さん、私たちに何か言ってきたこと、後悔してるのかなって思ったんだけど。だって、あんなにすごい剣幕で怒鳴ったのは、私たちの方でしょ。」
「向こうが先に火をつけたんだよ。お前には関係ない。あの人の言い分聞けよ。」
「でも、お祝い金の話、私も出しすぎたわ。頭に血が上ってて、あんなこと、言うつもりなかったのに。」
「あれでいいんだ。あの人が本気で変われるなら、金を出せって言われても、仕方ないだろ。俺たちの子供のためだ。」
大機はそう言って、またスマホの画面に視線を戻した。みは、赤ん坊の小さな顔を見下ろした。すやすやと眠っている。この子を守れるのは、自分たちだけだ。そう思うと、少しだけ、心が強くなった。
一週間後。みは、大機の実家から車で十五分ほどの場所にある、自分たちのマンションの一室にいた。ベビーベッドの横で、洗濯物をたたんでいる。インターフォンが鳴った。モニターを確認すると、そこには、ぎこちない笑顔を浮かべた義母の姿があった。
「みさん、いるんでしょ。話がしたいの。そんなに長く時間は取らせないから。」
みは、大機に目で合図を送った。大機は、台所から出てきて、眉をひそめた。
「出なくていい。あの人は、また何か企んでるに決まってる。」
「ちょっと待って。さすがに玄関先で追い返すのは、大人げないわ。私が話す。」
「み、無理するなよ。」
「大丈夫。お母さんも、人間だから。何を言われるか分かったもんじゃないけど。」
みは、深く息を吸ってから、玄関に向かった。ドアの鍵を開けると、義母が立っていた。手には、紙袋。中をのぞくと、薄ピンクのベビー服が入っていた。
「みさん、この間は、ごめんなさい。言い過ぎたわ。私、あの時は、自分が情けなくて。でも、あなたたちのおかげで、いろいろ考えることができたの。」
「お母さん、私は……。」
「聞いて。あの日、大機に言われたことは、全部、本当なんだと思う。私は、仕事にかまけて、あの子の心を壊してしまった。でも、今度は、違うわ。孫には、ちゃんとしたおばあちゃんでいたいの。」
みは、紙袋を受け取って、あいまいにうなずいた。でも、玄関のタイルの上に立ったまま、道を譲ろうとはしなかった。
「それで、どうしても、というか、その……。お祝い金の件なんだけど。」
「もう、いいです。あんな話は、なかったことにしてください。」
「いえ、聞いて。私、あなたたちと、あの子の将来について、話し合いたいの。昨日、出かける前に、区役所で聞いてきたんだけど、児童手当のこととか、これからの教育資金のことを考えて……。」
「お母さん、お金のことなら、もう。」
「お金だけじゃないの! あの子に会わせてほしいの。もちろん、無理にとは言わない。でも、月に一度でいいの。いえ、二か月に一度でも、散歩に連れて行くくらいは、許してほしいの。」
みは、大機の方を見た。大機は、腕を組んで、黙ったまま、母の背中を見つめていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「母ちゃん。俺が言えたことじゃないけどよ。母ちゃんが働いててくれたから、今の俺がいるんだっていう、その事実は、本物だと思う。」
「大機……。」
「でもな、あの時、母ちゃんが何を考えてたか、俺は知らない。知ろうとも思わなかった。それでいいんだ。でも、これからは、どうしても知りたいんだ。俺は、もう子供じゃないから。」
義母は、唇を震わせた。目の縁が、涙で光る。
「大機……。お母ちゃん、間違ってなかったって、思いたいだけなんだ。あの子に、ちゃんと伝えたいの。おばあちゃんになれて、本当に幸せだって。」
みは、ラップの音が鳴るように、心がはっと動くのを感じた。そして、ドアを広く開けて、一歩、脇に寄った。
「上がってください。お茶、淹れますから。でも、今日だけですからね。」
義母の顔が、ぱっと明るんだ。たくさんの皺が、一瞬で深くなるような笑顔で、こっくりとうなずいた。家に上がった義母は、手を洗って、ソファに座る前に、こう言った。
「ありがとう、みさん。もう、あなたをATM扱いするような、そんな恩知らずなこと言わないわ。私ができることなら、何でもするから。それで……、その、孫の名前、もう決めたの?」
みは、リビングのテーブルの上に置いてあった短冊を指さした。
「はい、これ。『ひなた』って書くんです。春に生まれたから。」
義母は、その文字を目で追って、何度も何度もうなずいた。
「ひなたか……。いい名前だね。ぴったりだ。」
その言葉を聞いて、みは、自分がずっと息を詰めていたことに気がついた。そして、ゆっくりと、息を吐き出した。
数時間後、義母はソファから立ち上がった。帰り支度をして、玄関で靴を履いている。大機が、近づいて、声をかけた。
「母ちゃん、今度の日曜日、何かあるか? もし暇だったら、こっちに来て、ひなたと遊んでくれよ。」
義母は、驚いた顔で、大機を見上げた。そして、ふっと、幼い子どものようにいたずらっぽい笑顔を見せた。
「いいのかい? 迷惑じゃないか?」
「迷惑だったら、言わねえよ。ただ、メニューは、作ってやるからよ。インスタントラーメンが食べたいって言ったら、すげえ怒るからな。」
「あら、インスタントラーメンくらい、昔から作れてたわよ。でも、今日みたいな手の込んだ料理ばかりじゃないけどね。」
「いいんだよ。母ちゃんの作る、あのチャーハンの味が、一番好きだったんだ。」
義母は、ふわりと微笑んで、小さくうなずいた。そして、ドアの外に出る前に、振り返って、もう一度だけ言った。
「あのね、大機。お母ちゃん、ずっと、あなたに謝りたかったんだ。ごめんね。本当は、あなたの隣にいるべきだったのに。」
「……悪かったよ。今度こそ、ちゃんとするから。だから、もう、逃げたりしないでくれよ。」
「ええ、もちろん。」
義母が帰った後、みは大機の隣に立って、赤ん坊を抱いた。太陽の光が差し込む窓辺で、ひなたが腕を伸ばして、のびをした。
「大機、今日はびっくりしたよ。お母さん、随分と素直になってたね。」
「ああ。多分な、あの人、俺が思う以上に、ずっと前から後悔してたんだと思う。俺、気づかなかったけど。」
「これからは、ゆっくりやればいいのよ。私たちも、親なんだしね。」
「ああ。そうだな。」
みは、赤ん坊を見下ろした。ひなたは、何か楽しい夢を見ているのか、口元をゆるめている。その顔を見て、みは、さっきまでのもつれた空気が、少しずつ解けていくのを感じた。
完璧な親なんて、いない。誰もが、手探りで、失敗しながら、親になっていく。みも、大機も、そして、義母も。そこに、対立はもういらなかった。
「ねえ、お母さんのこと、今度、味汁の作り方、教えてあげようか?」
「は? 何で俺が?」
「だって、お母さん、味噌汁の味噌を、何年も買い替えてないんだって。寂しいこと言うから、せっかくだし、教えたげようと思って。」
大機は、呆れたように笑った。
「それ、お前、優しいのか、意地悪なのか、どっちだよ。……まあ、でも、次の日曜日、来るんだし、その時にでも言えばいいんじゃねえか?」
「そうする。ちゃんと覚えてもらわないとね。ひなたのために。」
赤ん坊を抱きながら、二人、並んで、日差しの中に立っていた。ベランダから見える空は、高く、澄んでいた。今度は、季節が変わる。新しい命と同じように、少しずつ、新しい家族の形が、始まろうとしていた。
