母さん、ちょっといい?
なあに、七美?急に改まって。
この間、そっちに行ったとき冷蔵庫に英語和牛あったじゃん。あれ、ちょうだい。
あったわね。でも、あれはご近所さんからいただいたものよ。それに、あれはあなたにあげるためにうちに置いてあるんじゃないの。
今度の日曜に、り介の会社の人が家に来るのよ。それで手料理を振る舞わなきゃいけないの。あの和牛、使いたいのよ。
あれはダメよ。私とお父さんで、って言われていただいたんだから。さすがに私たちが食べずに人にあげるわけにはいかないでしょ。
大丈夫だって。適当に「おいしい」って言っておけばいいんだから。
ダメに決まってるでしょ。それにああいう高級なお肉は年寄りには脂っこすぎるわ。お母さんたち、もう年なんだから。
あのね、そうやって何でも欲しがるのはやめなさい。この間だって、うちに来たときに…
ああ、はいはい。もういいです、その話は。要らないです。
七美、あなたねえ…
私がわがままなんでしょ?わかりましたよ、じゃあリビングに飾ってある花瓶で我慢してあげます。あれ、ちょうだい。
何言ってるの?あれは結婚記念日に買った大事なものよ。あげられないわ。
ちょっと、あれもダメこれもダメって、いい加減にしてくださいよ。
いい加減にするのはあなたでしょ。前から思ってたけど、七美、あなた言動がひどすぎるわよ。
あーあ、また始まった。そうやってすぐ怒るんですね。更年期ってやつですか?
そういうことじゃないでしょ。うちに来るたびに何かを持っていこうとする。恥ずかしいと思わないの?
そういう古臭い考え方を押し付けないでくれます?
古臭くなんかありません。最低限の礼儀をわきまえなさいと言ってるのよ。
礼儀とか言われても、よくわかんないですもん。
あなた、り介と結婚したんでしょ。あなたの言動はあなただけの問題じゃないのよ。
また始まった。説教ですか。
子どもができたらどうするの?あなたの言動のせいで、子どもに嫌な思いをさせるつもり?
何なんですか、もう。口を開けば説教ばっかり。昭和の口うるさいお姑さんみたいなの、もう時代遅れなんですけど。
生まれが昭和の口うるさいお姑さんですよ、ええ。
開き直るとか、最悪なんですけど。
お説教されたくなかったら、されないような言動をしなさい。それができたら、私も卒業してあげるから。
はいはい、もういいです。お母さんの説教なんて、お腹いっぱいです。
まだ話は終わってないわよ。
ブーブー。ケチケチおばさん。もう知りません。
数十分後。
お父さん。ねえ、ちょっといい?
おう、七美か。どうしたんだ?
お母さんがね、意地悪するんですよ。ひどいんです。
意地悪?また何か言われたのか。
ちょっとお肉を分けてくださいって言っただけなのに、ダメだって。それで、他にもいろいろひどいこと言われて。私、何も悪いことしてないのに。
ふうん。そうか。
お父さん、私がかわいそうでしょ?ねえ、お父さんもそう思うでしょ?
まあなあ。七美も大変だったな。
お父さん。ねえ、ずっと思ってたんだけどさ。
うん?なんだ?
お父さん、あんな人といつまで夫婦やってるつもり?正直言って、お父さんには釣り合ってないと思うよ。
釣り合ってない?俺と、さち子が?
そうですよ。お父さんって、年齢の割に全然若く見えるし、かっこいいじゃないですか。
おお、そうか?
そうですよ。渋かっこいいっていうか、色気のある大人の魅力っていうか。私、お父さんのそういうところ、素敵だと思いますよ。
へへ、若い子にそう言われると、お世辞でも嬉しいもんだなあ。
お世辞じゃないですよ。ねえ、お父さんって、もうすぐ定年でしょ?
ああ、今月で定年だな。
全然、定年には見えないですよ。私、最初に聞いたとき、びっくりしましたもん。
ははは、七美は口がうまいなあ。それに比べて、うちのやつは…まあ、年相応のばあさんって感じだし、口うるさいし、金に細かいし。まあ、我ながらよく我慢してやってるよ。
でしょ?だったら、これを機に離婚しちゃえばいいじゃないですか。
離婚?それはちょっと…
今時、離婚なんて普通ですよ。熟年離婚だって、よく聞きますし。
そうは言うけどなあ。俺たちの世代は、やっぱり離婚には抵抗があるっていうか。
お父さんくらい素敵な人なら、いくらでも再婚できますよ。私が独身だったら、絶対狙ってますね。
え、本当か?それはちょっと自信になるな。
なってくださいよ。あんなおばさんより、もっと若くてかわいい人がお似合いですよ。
そうか。そうだよな。俺も、もう少し自分を大事にしてもいいよな。
でしょ?じゃあ、離婚しましょう。ついでに、私と同居とかどうですか?
同居?
そうですよ。今後のこと考えたら、一緒に暮らした方が安心ですよ。家事だって、ちゃんとやりますし。
そこまで言ってくれるなら、考えてもいいかもな。
ですよね!じゃあ、決まりですね。早速、お母さんに話しちゃいましょう。
ああ。ついに、あの口うるさいのとおさらばか。正直、俺の稼ぎのおかげで生活できてるってのに、酒をやめろだの、うるさくて仕方なかったんだよ。
お父さんのお給料がないと生きていけないくせに、感謝の気持ちがないんですよ。あんな人、お父さんにはふさわしくないです。
まったくその通りだ。あいつとは、このまま離婚だな。
じゃあ、決まりですね。早速、明日にでも追い出しちゃいましょう。
翌日。
おめでとう。今日で定年か。
おう、ありがとう。
今日は定年祝いの飲み会でしょ?帰りは何時ごろになるの?
飲み会の帰りに時間なんて気にするかよ。酒の席で、そんなくどいこと言ってると、酒がまずくなるだろ。
何言ってるのよ。誰が迎えに行くと思ってるの?
いいよ、今日ぐらいは。ただし、飲みすぎね。あなたって、癖が悪いんだから。
せっかくの定年祝いの日に、てめえに頭下げて回るなんてごめんだよ。
何よ、偉そうに。私が何度、飲みすぎて暴れるあなたを回収しに行ったと思ってるの?お店の人に頭を下げて、会社の人に頭を下げて…。
今はそんなことはいいだろ。
そんなことって何よ?大事なことでしょ。それに、何度も言ってるけど、この家のことだって…
分かってるよ。それよりも、だ。俺から、大事な話がある。
何?帰ってきてからじゃダメなの?
今、すぐに伝えたいんだ。
分かったわよ。何?
今日で定年退職したし、な。俺は、お前とこの先も一緒にいるつもりはない。離婚だ。出て行ってくれ。
…は?ちょっと、待ってよ。
待たないよ。言っておくが、俺の気持ちは変わらないからな。
そうじゃなくて!この年で離婚って、ちょっと…
何が不満なんだよ。
周りの目とかあるでしょ。こんな年になって、離婚なんて…私、恥ずかしくて。
今時、離婚なんて普通だろ。熟年離婚だって、たくさんあるんだし。
そうかもしれないけど…でも…
古臭い考え方はやめろよ。今の時代、合わないと思ったら別れるのが一番だ。
あんた、私のことをずっと前からそう思ってたの?
さあ、どうだろうな。とにかく、俺は決めたんだ。お前みたいな思いやりのない女のために、残りの人生を費やす気はない。
思いやりがない?あんたの方でしょ。散々飲み歩いて、暴れて、私に迷惑かけてきたくせに。
うるさい!俺はお前の作る飯も、その口うるさい性格も、もうたくさんなんだ。
じゃあ、後悔しても知らないわよ。
するわけないだろ。そこをどけ。俺は荷物をまとめて出て行く。
あんたこそ、後悔するんじゃないわよ。
大きなお世話だ。
そうして父は家を出て行った。数日後。
ねえ、お母さん。調子はどう?
何が?
1人きりの生活は。急なことで大変だったんでしょ?でも、案外快適だったりするんじゃない?
強がらないでくださいよ。お父さんに追い出されて、寂しいんじゃないですか?
寂しくなんてないわよ。せいせいしてるわ。
ふうん。でも、私のせいでお父さんと離婚することになって、悪かったかなって思ってるんですよ。
あら、七美。あなた、何かしたの?
いや、別に。
あのね、正直言うと、私も前からお父さんとは合わないと思ってたの。あなたのせいじゃないわ。ずっと我慢してたのよ。
そうだったんですか?
ええ。お互いのためになったと思ってる。今はね。
そう。それなら、私も安心しました。
まあ、あなたもああいう性格だから、いつかは誰かに嫌われるかもしれないわよ。気をつけなさい。
ちょっと、お母さん。最後の最後に余計なこと言いましたね。
さあ、私は台所を片付けるから。今日はこれで帰ってくれないかしら。
はいはい。相変わらず素直じゃないんだから。じゃあ、また来るよ。
うん。気をつけて帰りなさい。
私は家を出た。空は青くて、どこまでも晴れ渡っていた。これから始まる新しい生活に、思わず心が軽くなるような気持ちだった。
