「お前たち、ばあちゃんの財布から金を取っただろ?」――その一言で、私は一瞬にして我が子を見失った。あの日、いつもは穏やかなサトルが、まるで知らない人間のように冷たい目をしていた。数か月前、彼は仕事を辞め、嫁のシオリと共に私の家に転がり込んできた。「もう家を売ったから帰るところがない」と。最初は一時的なものだと思っていた。でも、冷蔵庫を勝手に開け、私の部屋に無断で入り、ついには私の財布から金を…

「お前たち、ばあちゃんの財布から金を取っただろ?」――その一言で、私は一瞬にして我が子を見失った。あの日、いつもは穏やかなサトルが、まるで知らない人間のように冷たい目をしていた。数か月前、彼は仕事を辞め、嫁のシオリと共に私の家に転がり込んできた。「もう家を売ったから帰るところがない」と。最初は一時的なものだと思っていた。でも、冷蔵庫を勝手に開け、私の部屋に無断で入り、ついには私の財布から金を...

母さん、いつまで家にいるつもり? ほら、あの集まり、ただの一時的な感じだったんじゃないの? もう一週間になるんだけど。

帰れって言われてもな。もう家、売っちまったから帰るところなんてねえんだよ。

は? 何言ってるの?

だから、このままここに住むから。よろしくな。

いきなりそんなこと言われても困るわよ。私だって生活があるんだから。いきなり息子夫婦と同居なんて、まっぴらごめんだわ。

失礼だな、母さん。もう七十だろ? 足腰も弱ってきてるのに。一人息子の俺が嫁を連れて帰ってきて、同居してやるって言ってるんだぞ。普通に考えて喜ぶ場面だろ、これは。

世間的に見たらありがたい話なのかもしれないけどね。こっちは何の相談もなく転がり込まれて、心よく「いらっしゃい」って言える人のほうが少ないわよ。

まあいいよ。一緒に住むんだったら、こっちにも色々と決め事はさせてもらうからな。それが一番揉めなくて済むんだ。

ああ、分かった分かった。そういうのは嫁のシオリと相談してくれ。俺は言われた通りにするからさ。

数分後。

シオリさん、さっきサトルから聞いたんだけど、どうやら一時的な規制じゃなくて、正式に同居になるって話みたいね。間違いないの?

ええ、そうですよ。

まあ。サトルときたら、何も言ってなかったの? ごめんなさいね。お義母さんから許可はもらってるって聞いてたから、てっきり歓迎されてるものだと思ってたわ。

いや、でも、だって、引っ越してきたにしては荷物が少なすぎると思わない? 家具とか家電は全部処分しちゃったんで、もう。

何か問題でもあるんですか? こっちも家は解約しちゃったし、帰る場所がないんですよ。それに、お義母さんも一人で暮らすより安心でしょ?

私は何も知らされなくて、ただ混乱してるのよ。安心よりも、戸惑いのほうが先だわ。……でも、まあ、すぐに帰れないってことは分かったわ。なら、一緒に暮らす間は、ちゃんと生活のルールを決めさせてもらうからね。お互いが快適に暮らせるようにさ。

正直、今までの一週間みたいな暮らしをされたら困るわよ。冷蔵庫の中を勝手に食べたり、私の部屋に勝手に入ったり。あと、戸棚から私の財布を出して見てたでしょ?

え、うるさいなあ、もう。お説教ですか? サトルが好きにしていいって言ったから、そうしただけですよ。文句があるなら、サトルに言ってください。本当、口うるさいばあさんだな。

……サトル、正直に言うわ。あんたたちと同居はしたくない。それははっきり言わせてもらう。

何でそんなこと言うんだよ。

分からないの? 勝手に冷蔵庫の中身を食べられたり、シオリさんが私の部屋に入ってきたり、財布の中を荒らされたり。あれは窃盗よ、立派な犯罪よ。非常識なんてもんじゃないわ。正直、二度と家の中に入れたくないくらいよ。

……悪かったって。悪かったよ、母さん。俺が悪かった。

どういうことなの?

いや、正直に話すとさ。最近、金に困ってたんだよ。仕事もあんまり入らなくなって、もう何週間か、満足に飯も食えてなかったんだ。それで、母さんの財布に金があったら、少し借りようと思っただけっていうか。

何よ……。

俺、半年前に体壊してさ。正社員辞めて、派遣になったんだよ。そうしたら、収入が半分くらいになっちまって。シオリのほうも、長く続く仕事じゃなくて、全然稼ぎにならないし。まあ、とにかく二人ともカツカツでさ。家賃が抑えられれば、まだ何とか回るかなって思ったんだよ。

……そういう事情か。でも、ちゃんと話してくれたら、いくらでも方法はあったでしょうに。まあ、いいわ。事情は分かったわ。ただし、ここで暮らすのは一年だけよ。それまでにちゃんと仕事を決めなさい。もし住み続けるんだったら、生活費は入れてもらうわし、同居のルールをいくつか決めさせてもらうわ。

ああ、分かった。それでいいよ。ありがとうな。

あと、その辺のことはシオリさんにもきちんと言っておいてね。私の部屋に勝手に入るのとか、やめてもらわないと。

分かってるよ。言っておく。

数週間後。

ねえ、ばあちゃん、平気? 最近、お父さんたちと何か連絡取ってる?

……取ってないわね。向こうから一方的に連絡が来るけど、全部無視してるわ。

本当? それならいいんだけど……。まさか、ばあちゃんにすごく迷惑かけてないよね?

うーん。一週間前から、うちに住み着いてるのよ。突然やってきて、何も言わずに居座ってるわ。あ、でも、そういうわけじゃないのよ。ちょっとずつ、生活が苦しくなってるみたいでね。

……はあ。なんだよ。それマジな話? お父さん、仕事変えたって言うか、辞めちゃったんだよな。

そうみたいね。前は正社員だったけど、今は派遣だとか。それで収入が落ちて、家賃も払えなくなっちゃったみたい。シオリさんも仕事が長続きしてないみたいだし、もう全然稼げてないのよ。

大丈夫なの? それじゃあ、ずっとここに住むつもりなのかもしれないよ?

だろうね。まあ、お金を取られるわけじゃないけど、家にお金を入れてくれないし、冷蔵庫の中身は勝手に食べられちゃう。注意したら「じゃあ、俺たちは飢え死にしろってのか」って逆ギレされるし。お手上げだよ。

……本当に最悪だな。

ああ。まあ、サトルも仕事を探してるみたいだし、シオリさんも何とかしようとはしてるみたいなんだけどね。とにかく、少しの間は我慢するしかないみたいだわ。

俺からも何か言ってみようか? 流石に、二人に言い過ぎだって。

そうしてくれる? 助かるわ。無理強いはしないで、ちょっと注意してくれるだけでいいから。お願いね。

ああ、任せて。……ところで、ばあちゃん。今回の連絡で、いきなりだけど言おうと思ってたんだ。

何? 改まって。給料日はまだ先よ。

いや、違うんだ。この前、親戚の集まりがあったんだろ?

え? 何でそれを知ってるの?

手紙が届いてたんだよ。母さんの代わりに、俺が出席しようと思ってるんだ。それで、スーツ代と交通費なんかを出してほしいんだけど、いくらかかる?

まあ、あんたが来てくれるのかい? 助かるわ。人数が多いところは苦手だから、ちょうど良かったんだ。いいよ、いくらだい? 三万で足りるかい?

足りるよ。ありがとな、母さんじゃなくて、ばあちゃん。

ふふ。人の顔を立てるのが上手いね。あんたはそうやって、あの二人よりずっと大人なんだね。はい、これで足りるかい?

サンキュー。そんじゃ、行ってくるよ。……あ、それと。ばあちゃん、心配しなくていいからな。お袋たちが変なことを言ってきたら、俺が何とかするから。

ああ、相談に乗ってくれるだけで、本当に助かったよ。本当に、あの二人が来るようになってから、私は全然疲れが取れなくてね。ああいうのは、やっぱり血の繋がった身内だからって、何でも許されるわけじゃないんだよ。それを、あの親子は分かってないんだから。

まあ、俺に任せてよ。それじゃ行ってくる。

ありがとう。

親戚の集まりから帰ってきた後、サトルは義母に言った。

なあ、母さん。ちょっといいか?

どうしたの、サトル。集まりは楽しかった?

ああ。会う人会う人に、挨拶してきたよ。……ところで、さっきばあちゃんに聞いたんだけどさ。

何?

お前たち、ばあちゃんの財布から金を取っただろ?

……へ?

とぼけるなよ。新しいスーツも買わずに、何に使ったんだ? 正直に言えよ。

いや、それは……。その、ちょっと生活費が苦しくて、少しばかり、シオリが借りたんだよ。そしたら返す条件で、ばあちゃんも分かってくれたんだ。

ふーん。それで、その返すってのは、いつまでに返すつもりなんだよ?

……何だよ、急に。ばあちゃんが何か言ってたのか?

言ってたかどうかは関係ないだろ。お前、こないだの集まりの時に、ばあちゃんの机から封筒を持って行っただろ? 中にいくら入ってたんだ?

知らないよ、そんなの。ちょっと借りただけだろ。悪いことしたか?

悪いことしたか? お前、それは窃盗だろ。警察にだって届けられるんだぞ。

大げさだな。ばあちゃんだって、俺たちを助けるために置いてくれたんだよ。親戚の集まりのためのお金だって、分かってたんだ。

お前、それ本気で言ってるのか? あれは、ばあちゃんが働いてためた金だ。お前たちの好き勝手に使っていい金じゃない。

はあ。じゃあ、ばあちゃんに聞けばいいだろ。俺たちが借りるって言ったら、きっとOKしてくれるさ。

お前、もういい。俺と一緒に謝りに行くんだ。

何でだよ。俺は悪くないだろ。

お前は悪くないのか? そうやって、いつも誰かのせいにしてばかりで。自分たちの生活が苦しいのは、自分たちのせいだって分かってるのか?

うっせえな。今日は帰るわ。シオリが待ってるし。

サトルがそう言って立ち去ろうとした時、玄関の扉が開いた。そこには、何も言わずに立っている妻の姿があった。

……シオリ。いつから、そこに。

旦那さん。今の話、全部聞こえたわよ。

シオリ……。聞いてなかったはずだろ。俺が悪いんだ。こいつが、ちょっと多めに金を使っちまってな。

違うでしょ。震えていたのは、妻の声だった。いつもは冷静で、どんな時も感情を出さないのに、今ははっきりと怒っているのが分かった。一体、どういうつもりなの? お義母さんには、あんなことを言ったくせに、私は全然聞いてないわよ。

お前、何を言ってるんだ?

私は前言ったはずよ。同居するのは仕方ないって言ったけど、お義母さんには絶対に手を出さないって。それがどういうこと? 私たちが生活に困ってるからって、お義母さんのお金を黙って盗るのは、どう考えてもおかしいでしょ。

あ、これはな。新しい冷蔵庫を買おうと思って、ちょっと借りたんだよ。返すつもりだったんだ。ばあちゃんに迷惑をかける気はなかったんだよ。

返せるわけないだろ! 今だって、まともに仕事もしてないし、収入もないんだぞ! どうやって返す気だったんだよ!

うるさいな、お前は。ぼちぼち言ってろ。

旦那さん、もういい。私、疲れたわ。

シオリ?

帰りましょう。今ここで、お義母さんに謝りに行くわよ。そう言って、妻は玄関から出ていこうとした。

だから、待てって! お前、何言ってるんだ! 後でちゃんと話せばいいだろ、こういうのは!

もう遅いのよ。あなたは何も分かってないんだから。

その場には、サトルの声が響き、やがて静かになった。

……シオリ。行かないでくれ。

シオリは、振り返りもせずに言った。

あなたのそういうところよ。何でも自分の思い通りになるところ。もう、たくさんだわ。

そう言い残して、妻は道路に出て、どこかへと歩いていった。

サトルは一人、立ち尽くすことしかできなかった。家の中で何か物音がしたが、振り返ることはできなかった。ただ、自分の人生が、この一瞬で音を立てて崩れていくのを感じていた。

それからの二人は、どうやって過ごしているんだろうな。

ああ、あの二人はね。サトルは、ばあちゃん家にいられなくなって、住む場所を失ったんだよ。今は、俺の方で何とかしてるけど、シオリさんは一度実家に帰って、どうやら離婚するって話まで出てるみたいだ。

……そうか。本当に、ろくなことはなかったな。

ああ。でも、あれでよかったのかもしれないな。お互いにとってな。俺は、あの二人の面倒を見るつもりはないし、無理にでも離れた方がよかった人間なんだろうさ。ばあちゃんにしてみれば、息子がまた一人、いなくなっちまったみたいで、寂しいかもしれないけどな。

それでも、いつまでもだらしない息子に頼るわけにはいかないしな。

ああ。まあ、自業自得ってやつだよ。俺たちが、何かしてやれることなんて、もうないさ。

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