母が倒れたと連絡が入ったのは、火曜日の夜のことだった。スマホの画面に映る姉の名前を見た瞬間、嫌な予感しかしなかった。出れば、電話の向こうから姉の焦った声が聞こえてきた。
「母さんが脳梗塞で倒れたの。緊急手術になるって。すぐに病院に来てくれないかしら」
「お姉さん、こんな時間に何の冗談ですか。私と夫はその間、温泉旅行に行くんで」
「は? 何言ってるの。本当なのよ。お願いだからすぐに来て」
「脳梗塞で手術とか、人の迷惑考えてくださいよ。無理です。来週、温泉なんで」
「来週? だったら今日来られるんじゃないの? 今日は木曜日でしょ。手術は今夜か明日朝には終わるわ」
「いや、心の準備とか色々あるじゃないですか。1週間以上ありますし」
「1週間以上あるなら、なおさら来られるでしょ。足りないものがないかとか、そんなこと言ってる場合じゃないわよ」
「足りないものがないか、チェックに余念がないんです。冗談はそのくらいにして、早く病院に来てください」
「お前、それ本気で言ってるのか? 俺からも頼む。弘樹に連絡してるんだけど、電話に出ないんだ。今、一緒にいるんだろ?」
「今、一緒にいますけど。でも、伝えても無駄ですよ。俺が言って何になるって言ってます。あ、旅行の準備の邪魔すんなとも言ってます」
「ひどいわよ。本当にありえないんだけど」
姉の声が、怒りで震えているのがわかった。でも、私には関係ない。私は黙って電話を切ろうとした。すると、受話器の向こうからため息が聞こえて、姉が言った。
「正直に言いますね。姑トメの脳が溶けようが焼けようが弾けようが、ぶっちゃけ私にとってはどうでもいいんですよ」
沈黙が落ちた。姉が何も言えないでいるのを感じながら、私は続けた。
「なんてこと言うの。血の繋がりはなくても、あなたが選んだ弘樹のお母さんなのよ」
「私が好きなのは夫だけです。お母さんに何の感情もありません」
「結婚した以上、家族になったっていう自覚はないのか?」
「はい。ありませんね。同居してあげてるだけで感謝して欲しいくらいです」
「分かったよ。もういい」
「あと、前から言いたかったんですけど。義理の姉だけで偉そうにするの、やめてくれます?」
「別にそんなつもりはないよ」
「じゃあ、なんで私が敬語で、そちらはタメ口なんですか?」
「それは単に年下だったから。特に意味もなくそうしちゃったけど、不快だったならごめん」
「分かってくれたならいいです。今度からはそっちも敬語でよろしく」
「……そう、分かったわ」
「敬語、忘れてますよ」
「はい、わかりました。連絡もなしで。はい。はい。返事は1回でしょ。本当、常識ないですね」
そう言って、私は一方的に電話を切った。スッキリした気分だった。でも、胸のどこかで、何かが引っかかっているのを感じていた。
翌日。スマホには、姉からの着信履歴が何十件も並んでいた。LINEも既読無視のままだ。無視し続けた。でも、さすがに無視し続けるのは無理になってきた。電話に出ると、姉はもう怒鳴るというより、呆れたような声だった。
「いい加減、返事してよ。なんで電話もLINEも出ないのよ。お母さんの件、リカさんから聞いてないの?」
「何の話? 姑が濃厚で倒れて、昨日緊急手術したの?」
「は? あんた、何言ってるの。お母さん、脳梗塞で倒れたのは一昨日の夜よ。手術は無事に成功したわ。でも、まだ脳が晴れてるから、意識は戻らないけど」
「病院はどこ?」
「昨日、LINEしたでしょ。リカさんにも伝えたわよ」
「……そっか。何も聞いてないの。ごめん、俺、スマホ見てなくて」
「だったら電話くらい取りなさいよ。何度着信入れたと思ってるの?」
「俺、家に帰ったらスマホを取り上げられるんだ」
「は? なんで?」
「浮気のためだって。友達とか家族の連絡は許されてない」
「ちょっと、どういう夫婦関係なのよ。束縛がすごすぎない? 情けないわね。あんた、それで幸せなの?」
「正直、限界だよ」
「その状態で、温泉旅行なんて行くの?」
「何の話だよ。来週、温泉行くんじゃないの?」
「そんな仲良くないよ。俺は仕事から帰ったら家事をして、リカのマッサージを2時間して寝るだけだ」
「何それ。あんた、アホなの?」
「何よ。俺だって嫌に決まってんだろう。でも、離れられないんだよ」
「それがなんでかって、聞いてるのよ」
姉の問い詰めるような口調に、私は観念して話し始めた。150万円のこと。それは、2ヶ月前のことだった。
「以前、実家の白あり駆除をしたのを覚えてる?」
「うん。お母さんから聞いたわ」
「あれ、実はぼったくり業者でさ。普通の業者なら20万くらいなんだって。でも、母さんは150万の契約をしてしまってた」
「嘘。それで?」
「母さんが俺に相談してきてさ。それをリカが払ってくれたんだ」
「どうして、あの人がそんなお金を持ってるのよ」
「独身時代の貯金が結構あったみたいで、気持ちよく出してくれたんだ。でも、その後が問題なんだよ。『貸してやったんだから、私の言うことを聞け』って言われてさ。そこから、奴隷みたいな扱いを受けてるんだ」
姉はしばらく黙っていた。そして、ぽつりと言った。
「自分を犠牲にするには、150万は安すぎると思う」
「母さんや俺にとっては、大金だったんだ」
「それは分かるけど。でも、相談して欲しかったよ」
「姉ちゃんに言ったら怒られるから、黙ってて欲しいって母さんに頼まれてたんだ。ごめん」
「私こそ、ごめん。高校の頃にお父さんが亡くなって、長女としてしっかりしなきゃと思いすぎてたの。相談できないような関係を作ったのは、私だわ」
「俺も母さんも、反省してるよ。本当にごめんなさい」
「もういい。終わったことは仕方ないわ。お母さん、そのことで俺に迷惑かけたって思い詰めててさ。それで病気になったのかもしれない」
「そんなの関係ないわよ」
「でも、俺がもっとしっかりしてれば、あの『なんとかオフ』っていうのも知らなかったんだ」
「今更、どこに行っても仕方ないわ。今はお母さんの回復を願うしかないわね」
「うん」
しばらく沈黙が続いた。そして、姉が口を開いた。
「あんた、離婚しないの?」
「お金を返したら、離婚する予定だよ」
「それは私がどうにかするから、心配しなくていいわ」
「本当に?」
「うん」
「でも、変ね。リカさん、どうしてあんたと温泉だなんて嘘をついたのかしら。病院に行かない言い訳じゃないのかしらね」
「だったら、明日から行くって言えばいいのに。来週だなんて言ったんだよ」
「あいつの言うことも、考えてることも分からないわ。まあ、あんたの夫婦問題はとりあえず後回しよ。今はお母さんのことしか考えられない。悪いけど」
「俺もだよ。今日、仕事を相対して病院に行くから。病院は分かるよね」
「履歴は全部消されてるんだ。また送っておいてほしい」
「あんたら夫婦、本当に何なのよ」
数日後。病院からの帰り道、私は姉に電話をかけていた。用件は、別のことだ。
「お姉さん、うちの夫と勝手に連絡取るの、やめてくれます?」
「スマホを取り上げてるらしいわね」
「はい。心配なので」
「縛りすぎよ。夫婦のことにお姉さんが口を出さないでください」
「弟は、相手の遠くからごと消したはずだけど。どうして気づいたの?」
「パソコン版のLINEでログインしてるんで」
「そこまでする? ちょっと異常すぎない?」
「ほっといてください。私たちの愛の形なんで」
「私たちは血のつながった姉弟よ。あなたに指図される覚えはないわ」
「あの人は私に逆らえないんですよ」
「150万で男を売った卑怯者のくせに、随分と偉そうね」
「……喋ったんですか?」
「人を縛りつけるには、安すぎるんじゃない?」
「だったら、お姉さんが返してくださいよ。まあ、貧乏専業主婦には無理でしょうけど」
「さっき、振り込んだわ」
「は?」
「あら、ごめんなさい。敬語を忘れておりましたわね。耳をそろえて150万。あなた名義の口座にお返ししましたわ」
「嘘でしょ? そんな金、あるはずない」
「どうしてそう思うんですか? あなたの旦那は安月給でしょ。ごめんなさいね。なんとなく生意気で、なんとなく不気気味な義理の姉とはなるべく距離を置くようにしてたから、報告するタイミングがなかったんですけど。夫は、独立して大成功してるんです」
「……へえ。成績が跳ね上がったのは、先々月ですけどね。人の稼いだ金を我が物顔で使うとか、マジでありえないんですけど」
電話を切った。しばらくして、病院から再び連絡が入った。
「母さん、目を覚ましたよ」
病室に駆けつけると、母はまだ酸素マスクをつけていたが、意識ははっきりしていた。弱々しく笑って、私を見つめる。
「……弘樹か。来てくれたのか」
「母さん、無理しちゃダメだよ」
「うん。気分もだいぶいい。ずっと長い夢を見てたような気分だけどね」
「ああ、よかった。実は、さっきまで姉ちゃんも来てくれてたんだ」
「そうだったんだ」
母は、ふと何かを思い出したように、目を細めた。
「白あり駆除の件、聞いたんでしょ? あなたがリカさんに言ったって」
「……ああ。全部聞いたよ。母さん、なんで黙ってたんだよ」
「だって、恥ずかしかったんだもの。あなたにまで、迷惑をかけたくなかった。でも、リカさんがね。何のご縁か、仲良くなりまして。旅行にお誘いしたら、一緒に行くことになったのよ」
「どうして?」
「あの人、あなたのことが好きみたいよ。ちゃんと離婚して、あの人は幸せになるべきよ」
私は何も答えられず、ただ母の手を握った。しばらくすると、病室のドアがノックされて、看護師が入ってきた。
「お見舞いの方が来てるわよ。ほら、あの……」
そこまで言って、看護師は意味ありげに笑った。振り返ると、病室の入り口に立っているのは、リカだった。私を見つけて、驚いたように足を止める。
「……何しに来たんだよ」
「お見舞いに決まってるでしょ。……まだ、怒ってるの?」
「怒ってる? 何のことだよ」
「姉さんに話したことでしょ。150万のこと」
「別に。怒ってないよ。それに、もう返してもらったからな」
「へ? どういうこと?」
「姉さんが払ってくれたんだ。お前の口座に振り込んだって」
リカの顔が、みるみる青ざめていく。口を開けて、何か言おうとして、でも言葉にならないようだった。しばらくして、ようやく絞り出すように言った。
「……そう。そう、なんだ。お姉さん、知ってたんだ。やっぱり、見透かされてたんだ」
「何の話だよ」
「何でもない。……ねえ、弘樹。私、家に帰るわ。また今度、来るから」
そう言って、リカは早足で病室を出て行った。私は呆気に取られて、その背中を見送るだけだった。母が、そっとため息をついた。
「リカさん、なんだか今日は変ね。何かあったのかしら」
「さあ……。俺にも分からないよ」
その夜、家に帰ると、テーブルの上に置き手紙があった。リカの字だ。
「ごめんなさい。あなたのことが好きだから、ずるいことをしてしまいました。お金は、しっかり返します。もう会えません。あなたの幸せを祈っています。リカ」
手紙を握りしめたまま、私はしばらく立ち尽くしていた。リカが何を言おうとしていたのか、考えて、そして、ようやく分かった。リカは、ずっと私を束縛して閉じ込めていたけれど、それは、私が自分から離れて行かないようにするための、必死の方法だったんだ。
でも、もう遅い。全てに、終止符を打とう。
翌朝、私は弁護士のところへ向かった。離婚の申し立てをするために。そして、母の病室へ、もう一度行った。母は、窓の外を眺めていた。
「母さん、リカがさ」
「うん。聞いたよ。置き手紙があったって。……あなた、追いかけるの?」
「いや。もう、いいんだ。あの人に幸せになってほしいって思うよ。俺じゃなくて、別の人と」
母は、黙って私を見つめた。そして、優しく微笑んだ。
「あなたも、自分の幸せを探しなさい。まだ若いんだから」
「分かってる。母さんこそ、しっかり治せよ」
「ええ。今度こそ、ちゃんと生きるわ。……大丈夫よ。もう、隠し事はしない」
しばらくして、私は空を見上げた。雲ひとつない青空。これから、どう生きていこうか。それだけを考えた。母の手は温かく、それだけが何よりも確かだった。
