ロビーの空気が一瞬で凍りついた。新任店長の四室琢磨が、窓口係の私に向かって吐き捨てるように言った。「高卒の分際で偉そうに口を挟むな」。二十四歳、契約社員三年目の私、若林リカは、困っているお客様に声をかけずにはいられなかっただけだ。でもその日、私は即日解雇を告げられた。「明日から来なくていい。高卒の契約社員なんていくらでもいる」。悔しさで視界がにじんだその時、ロビーの隅で床を磨いていた白髪の清…

ロビーの空気が一瞬で凍りついた。新任店長の四室琢磨が、窓口係の私に向かって吐き捨てるように言った。「高卒の分際で偉そうに口を挟むな」。二十四歳、契約社員三年目の私、若林リカは、困っているお客様に声をかけずにはいられなかっただけだ。でもその日、私は即日解雇を告げられた。「明日から来なくていい。高卒の契約社員なんていくらでもいる」。悔しさで視界がにじんだその時、ロビーの隅で床を磨いていた白髪の清...

東王銀行桜町支店のロビーに、張り詰めた空気が走った。新人士店長が吐き捨てるように言い放ったのだ。

「高卒の分際で偉そうに口を挟むな」

窓口係の若林リカ、二十四歳。契約社員として三年目になる彼女は、困っている客に声をかけずにはいられない。まっすぐな性格だ。しかし、効率と数字しか見ない新任店長の四室琢磨、三十四歳は、着任からわずか数日でその応望をエスカレートさせていった。

それでもリカは折れなかった。

「私は間違ったことをしていません」

理不尽に立ち向かい続けた彼女に待っていたのは、即日解雇という残酷な通告だった。

「明日から来なくていい。高卒の契約社員なんていくらでもいる」

その言葉を、ロビーの隅で聞いていた老人がいた。腰の曲がった白髪の清掃員。誰もその老人の正体を知らない。

「だが、四室よ。覚えておけ。お前が踏みにじったその言葉は、必ずお前自身に帰ってくる」

朝五時半。東王銀行桜町支店の通用口の鍵を開ける音が、まだ眠る街に静かに響いた。腰の曲がった白髪の老人が、清掃用具を手にゆっくりと支店へ入っていく。桐宗介、七十二歳。この支店に清掃員として入って三日目だった。

「おはようございます」

誰もいないロビーに向かって、宗介は小さく頭を下げた。返事はない。当然である。それでも宗介はモップを手に取り、床を磨き始める。その手付きは迷いがなく、どこか達者な雰囲気があった。

組織の本質は、一番下の場所を見れば分かる。宗介はただ黙々と床の光沢を確かめていた。

八時十五分、たちが続々と出勤してくる。その中に、一人だけ際立って明るい声があった。

「おはようございます! 今日もよろしくお願いします」

若林リカ。二十四歳、契約社員の窓口係。すれ違う先輩たちにも深く頭を下げ、ロビーの端で清掃している宗介にも迷わず声をかけてくる。

「あ、新しい方ですか? 私、若林リカと言います。分からないことがあれば、何でも聞いてください」

「桐と言います。よろしくお願いします」

宗介は腰を曲げたまま、穏やかに頭を下げた。

やがて開店時間になり、ロビーの入り口から杖をついた高齢の女性客が入ってきた。大きな荷物を抱え、困った様子で周りを見回している。フロントスタッフは電話で手が離せない様子だった。リカはそれを見て、すかさず窓口から飛び出た。

「お客様、お荷物お持ちしますね」

「まあ、助かる。今日は通帳の再発行に来たんだけど」

「承知しました。足元にお気をつけてください」

「ありがとうね」

リカは女性客に寄り添い、ゆっくりと案内していった。宗介は微笑ましいその背中を目で追いながら、モップを動かし続けた。しかし、その光景を冷たい目で見ている人物がいる。その目に、ばかばかしいほどの冷たさが宿っているのを、宗介は見逃さなかった。

その男が桜町支店に現れたのは、春の穏やかな風が町を包んだ月曜日のことだった。高級スーツに身を包み、磨き上げられた革靴でロビーに足を踏み入れた四室琢磨、三十六歳。本部から送り込まれた新人店長である。

四室は支店内をぐるりと見回し、眉間に深いしわを刻んだ。睨むような視線が宗介へと流れたが、その目はすぐに興味を失ったようにそらされた。清掃員など、見るに値しないとでも言うように。

その日の朝礼は、四室の第一声から始まった。

「なんだこの支店は。数字が落ちているのも当然だ。緊張感のかけらもないな。今日からここは変わる。結果を出せない人間に居場所はない。それだけは覚えておけ」

「はい」

職員たちの顔が強張った。前任の店長は温厚な人柄で、職員との信頼関係を大切にする人物だった。その空気が、たった一言で塗り替えられた。

リカは窓口の席で背筋を伸ばしたまま、唇をわずかに引き結んでいた。

朝礼が終わり、職員たちが散っていく中、四室は清掃の責任者を呼び止めた。

「清掃の外注費用を見直したい。うちが掃除に年間これだけの費用をかけている。経営感覚を疑うよ。社員にやらせるか、より安い業者に切り替えるか。今週中に案を出せ」

「はい……ただ、現在の清掃業者は十年間この支店を担当しており、お客様からの評判も……」

「評判? それはデータで出せるのか。出せないなら感情論だ。以上」

責任者は何も言い返せず、小さく頭を下げた。宗介は床を拭く手を止めなかった。ただ、その手がモップをわずかに強く握った。

着任三日目の昼前、ロビーで花瓶の水を変えていた宗介に、四室が初めて直接声をかけてきた。

「おい、君。清掃の方ですね」

宗介が振り返ると、四室は腕を組んだまま宗介を上から見下ろしていた。

「はい。桐と申します。よろしくお願いします」

「ロビーでお客様に話しかけているのを見たが、あれは即刻やめろ。挨拶だろうがな。清掃員は清掃だけしていればいい。余計なことをして苦情が来たら、責任が取れるのか」

「承知しました」

宗介は四室に一礼を返した。その背中が見えなくなってから、宗介は花瓶に視線を落とした。お客様への挨拶や声かけが苦情になったことは一度もない。むしろ、支店のアンケートには感謝の声が何件も寄せられている。しかし四室は、そのアンケートを調べた様子すらなかった。

午後の窓口業務が始まった頃、ロビーに一人の高齢の男性客が入ってきた。杖をつき、振り込み用紙を手に、困った様子で立ち止まっている。リカはその様子に気づき、窓口から立ち上がった。

「お客様、お手伝いしましょうか?」

「ああ、助かる。この用紙の書き方がよくわからなくて」

「こちらでご説明しますね。どうぞ、こちらへ」

リカが男性客を案内しようとした、その瞬間だった。

「若林さん」

四室の声がロビーに響いた。リカの足が止まる。

「あなたの席はどこですか?」

「窓口です」

「窓口係は窓口にいなさい。お客様の案内はロビー担当の仕事だ。持ち場を離れるなら事前に申告しろ」

男性客が困惑した様子で、二人を見比べている。リカは一瞬だけ四室を見た。その目には、怯えではなくはっきりとした何かが宿っていた。しかし、リカは深く頭を下げた。

「……申し訳ございません」

結局、男性客は待たされたあと、別のロビー担当に案内された。宗介は、その一部始終を柱の影から見ていた。

夕方、誰もいない地下の清掃エリアで、モップを動かしながら宗介はポケットから携帯端末を取り出した。短いメッセージを打つ。

「調査、継続」

送信ボタンを押し、そしてまた黙々とモップを動かし始めた。

事態が次に動いたのは、着任から二週間が経った月曜日のことだった。その日の昼休み、休憩室に入ってきたリカは、隅のテーブルに座っていた清掃員たちに気づき、声をかけた。

「皆さん、一緒にお昼どうですか? せっかくなので」

清掃員たちは驚いた顔をした。リカの笑顔は自然体で、嫌味がなかった。宗介は少し迷ったが、リカの隣に場所を移した。

「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて」

リカはそう言うと、隣の席に座った清掃員たちと談笑し始めた。宗介も、ほんの少しだけ口元を緩めた。だが、その昼休みも長くは続かなかった。

「若林さん」

四室が休憩室の入り口に立っていた。

「何してるんですか。窓口係が清掃員と休憩を取るなんて、感覚が分からないんですか。あなたがそういう立場を弁えないから、周りから浮くんですよ。明日から昼休憩は別で取ってください」

リカの手が止まった。周りの清掃員たちも、空気を読んで下を向いた。宗介はスプーンを置き、何かを言いかけたが、リカが先に口を開いた。

「分かりました。すみません」

その返答に、四室は満足そうに微笑んで去っていった。

「……あの人、何なんだろうね」

リカがぽつりと呟いた。周りの清掃員たちは何も答えられなかった。宗介は無言のまま、塩を一つまみ取って振りかけた。

その夜、地下の清掃用具室で、宗介は再び携帯端末を取り出した。届いたメッセージには、こう書かれていた。

「四室琢磨、元・中央銀行本店勤務。過去に不正融資の疑い。現在調査中」

宗介はそのメッセージを読み終えると、端末を上着のポケットに戻した。そして、静かに闇の中へと消えていった。

次の週、四室はさらにエスカレートした。リカが受け持った振り込みの書類に、いちゃもんをつけたのだ。

「若林さん。この書類、二桁と三桁を書き間違えてるよ。これでお客様の預金が無駄になったらどう責任を取るつもりだ」

リカが書いた書類を確認すると、確かに封筒に書かれた数字が読みにくかった。

「すみません。だが、これは特に問題ございません。ここまでが百円で、こちらが一万円の位ですから」

リカが丁寧に説明しても、四室は納得しなかった。

「言い訳は結構。あなたはいつもそうだ。部下に注意されても、すぐ言い訳ばかり。信頼できない」

しかしリカは、窓口に来た客全員に「ありがとうございます」の一言を忘れなかった。その対応を見た常連客が、支店長に手紙を出すほどだった。あて先は、本部である。

「桜町支店の社員の方が本当に素晴らしい対応をしてくださいました。特に、若林リカさんという方には何度も助けられました。この手紙をお伝えいただき、感謝申し上げます」

その手紙がきっかけで、本部から桜町支店に監査が入るのは、もう少し後の話である。

ある週の終わり、リカが退勤しようとした時、四室が待ち構えていた。

「若林さん。来月から、あなたの担当を変更します。受付から、電話交換に」

リカは足を止めた。

「どういうことですか?」

「どういうことと言ってる。あなたが客にどう言われるか分からないような対応をしてる以上、窓口は外れるべきだと判断した。これは命令ではない。警告です」

「……分かりました。ですが、私は自分の仕事に自信を持っています。お客様から感謝されたこともあります」

「感謝? お客様に何度も身内扱いされたり、馴れ合いになるのは窓口係としての務めの外だ。明日からは、持ち場を変えてもらいます」

リカは唇を噛んだ。何か言い返そうとしたが、四室が先に手を振った。

「もういい。下がりなさい」

その夜、リカは帰り支度をしながら、涙をこらえていた。清掃の準備をしていた宗介は、それを見て、何も言わなかった。ただ、静かにホウキを動かす音が、夕闇に響いていた。

次の日、リカが出勤すると、ロビーに見知らぬ男性二人が立っていた。スーツ姿の、どこか物々しい雰囲気だ。二人はリカに声をかけた。

「すみません。店長の四室さんにお会いしたいんですが」

「あの店長が何か? お客様なのにご案内します」

「いや、あなたに用があるんです。若林リカさん、ですね。私たち、本部から来た者です」

リカは息をのんだ。まさか、クレームを本部に言ったと思っているのか。逆に、あの手紙が何か曲解されたのか。

「……どのようなご用件で?」

「心当たりがあるなら、ついて来ていただけませんか。あそこの会議室で」

二人の男の後ろには、先ほど来たばかりの本部マークが輝いた封筒があった。リカは不安を抱えながらも、大人しくついていった。

会議室に入ると、そこには先に待っていた男がいた。五十代半ば、小柄で目つきの鋭い男。名刺には「取締役 神原」とあった。

「若林さん、ですね。お会いできて光栄です」

「あの……私、何かやりましたでしょうか」

「いえ、とんでもない。あなたの行動に、あるお客様からお褒めの言葉をいただいておりましてね」

神原はにこやかに笑った。

「実は、鍵をかけておきたいんですが」

その瞬間、ドアがノックされた。

「はい、どうぞ」

「失礼します。高卒で無能な契約社員にかける時間があるなら、私の話を聞いてくださいませんか」

四室が入ってきた。神原は眉をひそめた。

「四室店長。今、大切な話の途中です」

「大切な話? あの程度が神原さんの大切な話なんですか」

四室は嘲笑しながらリカを指さした。

「この女、本部に裏で取り入って自分の立ち位置を確保しようとしてるんですよ。ここで退職届を書くなら、今のうちですよ」

リカは拳を握りしめた。言い返したいのをこらえた。しかし一歩間違えば、自分の身は終わる。ここは大人しく引くのが得策だと分かっていた。

「……失礼します」

リカは頭を下げ、会議室を出た。扉を閉めた瞬間、涙が溢れそうになった。

そこへだった。地下から清掃用具を持った宗介が、階段を上がってきた。

「若林さん」

「……桐さん」

リカは慌てて涙を拭いた。宗介は、それを見て、ぽつりと言った。

「自分の仕事に、誇りを持ってください」

リカは目を見張った。この清掃員の老人が、何を知っているのだろうか。

「桐さんは、どうして清掃員をしているんですか?」

宗介は少し黙り込んだあと、静かに答えた。

「私はね、もう何十年も、ここに勤めていた男の部下でした」

「え?」

「今の店長、四室琢磨は、私が知っている男じゃない。いや、分かってるよ。彼に問題があるのは。組織が大きくなって、古い人間は邪魔になった。そして、男は道を間違えた。私は今日まで、そのことを黙って見てきたんだがね」

宗介はそう言うと、ロビーを指さした。

「今、あなたがあの男と戦わなくて、誰が戦うんですか。大丈夫、あなたは正しい。会社の数字だけを見るのではなく、人を大切にできる人間が、いずれはこの銀行を支えるんだ」

リカは息をのんだ。この老人は、あるいは自分と同じ立場の何かを知っているのかもしれない。

それから、リンカは大きく息を吸った。

「桐さん。私、やっぱりこの会社を担当します。ダメだと言われても、窓口を守ります」

宗介は微笑んだ。

「なら、安心したよ。あなたなら大丈夫。さあ、早く仕事を続けてください。あなたのことを待ってるお客様がいますから」

リカは深々と頭を下げ、窓口へと急いだ。

その日の午後、ロビーに救急車のサイレンが響いた。高齢の客が階段で転倒したのだ。あたりには、うめき声を上げる高齢の女性の姿があった。

「痛ててて……足が……」

リカは迷わず走った。

「動かないでください! 今呼びますから! 大丈夫ですか!」

四室はオフィスから出てくると、状況を見て顔をしかめた。

「何してるんだ、騒がしいな。この程度、自家処理で終わらせろ」

「違う! このおばあちゃん、骨折してるかもしれないんだ! 早く救急車を呼んで!」

「あんた、大きな声出すんじゃない」

四室がリカの腕を掴んだ。その時だった。

「静かにしてください」

鋭い声。振り返ると、宗介がスーツのジャケットを脱ぎかけていた。実際は、清掃員のベスト姿のままだ。その目が、四室を射抜く。

「あなた、清掃員が何をしてる」

「この連鎖を止めなさい。まずは救急車、次にこの方の介添です」

「あなたには清掃しか任せた覚えはありません!」

「四室店長」

突然、会議室から神原が出てきた。

「私が言うのもなんですが、この際、救助を優先してください。私が保証します」

そう言うと、神原は携帯を取り出して誰かを呼んだ。数分後、救急隊が到着し、高齢の女性は搬送されていった。リカは付き添いで一緒に病院へ行った。

数時間後、リカが戻ると、待っていたのは四室だった。

「若林さん。今日の対応を報告書にまとめてください。明日、本部に書類を回しますので」

「……分かりました」

「それと、あなたは明日から謹慎です。一週間、自宅で待機してもらいます」

リカは何も言い返せなかった。素直に頷くしかなかった。

一方、病院でのこと。リカが搬送された高齢の女性、田中トヨさん(八十二歳)の元に、一人の男性が訪れていた。スーツ姿の初老の男性。彼は涙をぬぐいながら言った。

「おかあちゃん、無事でよかった……」

同じ頃、宗介は自分の携帯で、本部から送られてきたメールを見ていた。

「四室琢磨、横領の証拠を押さえた。動かずに待て」

宗介は何も言わずに上着のポケットに端末を戻した。

そして、一週間後。リカが謹慎から戻ると、支店内の空気が変わっていることに気づいた。真っ青な顔をした四室が、自分のオフィスから出てきたところだった。

「どういうことだ……どうして俺が……!」

オフィスには、神原と、もう一人。見覚えのない男が立っていた。

「四室琢磨、本部から出頭命令が出た。ここで否認するなら、警察沙汰に切り替える」

横領の証が押さえられていた。高額な接待、経理からの不正流用。その調査を、何者かが行っていたのだ。

四室は机に手をつき、力なくうつむいた。

「……御託はいい。裁判で決着をつける」

そのまま護送されるように連れて行かれた。

騒然とする支店のロビー。リカも茫然と立ち尽くしていた。

そこへ、宗介が清掃用具を下げて現れた。

「桐さん、まさか……」

リカが振り返ると、宗介は穏やかな微笑みを浮かべていた。

「私は、ただの清掃員の桐ジですよ。若林さん、あなたの仕事は素晴らしかった。だから、仕事に戻ってください」

そう言うと、宗介は振り返らずに裏口へと消えていった。しかし、その背中を追いかけるように、神原が声をかけた。

「会長」

リカは耳を疑った。

「え? 会長?」

神原は振り返り、リカに近づくと、小声で言った。

「今の方は、合同銀行の前・頭取、桐宗介さんです。今は隠居されてるはずですが、なぜかこの支店の清掃員になってて」

リカは言葉を失った。何か言おうとして、だが何も言えなかった。

その時、リカの携帯が鳴った。見知らぬ番号からだ。

「もしもし、若林さんですか? 病院の者ですが。先日、あなたが助けてくださった田中トヨさんの息子です。」

「あの、助けて……」

「母がどうしても礼を言いたいと言ってるんです。それに、あなたに謝ってほしいお客様がいるらしいんですが」

数日後、リカは病院を訪れ、田中トヨと息子にあった。

「おばあさん、良かった……足の骨を折っただけで、大事じゃなかったんですってね」

「坊や、あんたには本当に世話になったね。ありがとう。それでね、主治医の許可が出たから、自分で言いなさい、って言われて」

トヨは息子の顔を見た。息子は深く頷くと、名刺を差し出した。

「私は、東王銀行の代表取締役の竹野原です。母は、当行の筆頭株主でして」

リカは固まった。

「え……?」

「母が、あなたを気に入ったんです。もしよければ、うちの銀行で一緒に働きませんか? 契約社員ではなく、正社員として。あの、大手町の本店で」

リカの目に涙が溢れた。何年も経って、契約社員として満足に働けていた。こんな日が来るなんて思ってもみなかった。

「ぜひ……お願いします!」

「よし。では、来週から来てください。給料も、一度、話をしましょう」

病院を辞するリカは、まだ桜町支店の裏口の前まで来ていた。すると、清掃用具を置いた宗介が待っていた。

「若林さん。それは本当ですか」

「ええ。本店に異動になることになりました。……それで、桐さん、あなたは誰なんですか?」

宗介は微笑んだ。

「若林さん、あなたはね、私の孫がずっと好きだった娘さんですよ」

リカが息をのんだ。

「ただし、それは今は言わない約束だ。私は明日から別の支店を訪ねることにしました。この仕事も、今日で最後かもしれません」

「明日から……また、清掃ですか?」

「清掃はね、誰かを支えるいちばん大切な仕事ですから。では、若林さん。時々は、ここの銀行にも顔を出しに来てください」

リカは涙を拭い、深々と頭を下げた。

「ありがとうございます。桐さん。あなたのおかげで、私は信じることを学べました。人の助けのためなら、清掃員でも誰でも、敬意を持って仕事ができるということを」

宗介は黙って頷き、持っていたモップを手に取ると、歩き出した。その後ろ姿が見えなくなるまで、リカはずっと、深々と頭を下げた。

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