「ねえ、私、三月で定年退職することになったから。これからはもっとあなたたちのサポートに時間を使えると思うわ」
昼食の席で、義母が何気なくそう切り出した。夫の司聡と向かいに座っていた私は、箸を止めて義母を見た。
「え、本当? めっちゃありがたいよ」
司聡が目を輝かせる。私も驚きつつも、心のどこかで安堵していた。正直、子育てと家事を一人で回すのは限界があった。義母がいてくれるなら、どれだけ心強いか。
「でもお母さん、せっかく仕事辞めるなら旅行とか、自分のために時間使ってもいいんじゃない?」
「まあ、それはおいおい考えるわよ。とにかく、家にいる時間が長くなるから、そのことだけ佐苗さんにも伝えておいてくれるかしら」
「オッケー。苗絵も喜ぶと思うよ」
数日後、私は義母に呼び止められた。
「佐苗さん、お母さんが定年退職されるって聞いたんだけど」
「ええ。そうみたいです」
「そうなのよ。家にずっと義母がいるのは嫌かしら?」
「そんなことないです」
義母は急に真剣な表情で身を乗り出してきた。
「そうじゃなくて、ちょっとご相談したいことがありまして。私、パート始めてみたいんです」
「あら、ついに復職するの?」
「子育てとの両立に自信がなかったんですけど、朝の送り迎えも四月で保育園児も卒園しますし。お母さんがお家にいてくれるなら、私もやってみたいなと思いまして。ご迷惑をおかけするかもしれないんですが、いいでしょうか?」
義母は嬉しそうに笑った。
「もちろんよ。頑張って。むしろ子育てにはこれからお金がかかるんだし、働きに出るのはいいことだわ。私もできる限りサポートするからね」
「ありがとうございます。うち、実家が遠くてなかなか頼れないし。お母さんがいてくれて本当に良かったです」
あの時は、本当にそう思っていた。
—
数ヶ月後。夕方、保育園から帰ってきた私の携帯に、見覚えのない着信履歴が並んでいた。全部、子供の保育園からだ。嫌な予感がして折り返すと、先生の慌てた声が聞こえた。
「どうなってるんですか? お子さん、お迎えが誰も来なくて、学校で一人で待ってるんですけど!」
時計を見ると、午後六時を回っていた。パートが長引いて、義母に連絡を取るのを忘れていたのだ。慌てて学校に迎えに行き、子供を連れて家に帰ると、義母が居間に立っていた。機嫌が悪いのが、背中だけで分かった。
「ちょっと、佐苗さん。何度も連絡してるのに、なんで出ないのよ」
「仕事してたに決まってるでしょ。職場にまで電話してくるなんて、何考えてるんですか?」
「当たり前でしょ。今日は司聡が午前中で帰ってくる日で、私も病院で注射するから、あなたが今日はパートを調整して家にいるって、一ヶ月前に話してたわよね? なんで家にいないの?」
「……急に仕事が入って。それに、病院はお母さん一人で行けるでしょ?」
「そういう問題じゃないの! 私、学校から電話がかかってきて、迎えに行ったんだから。あなた、何考えてるの? 連絡の一つもできないの?」
「パート先で詰みがあったから、出てきたんです。私だってこれでもそれなりに頼りにされてるんですから。それに、お母さんに一々いちいち抜け駆けされたら、仕事どころじゃないんですよ」
「抜け駆け? なんで私の仕事に口出しするのよ!」
「だって、お母さん無職じゃないですか。定年退職して暇なんだから、家のこともっとしっかりしてくださいよ」
「あなたね……」
その日は、それで終わった。少し前まで、あんなに分かり合えていたのに。義母の定年退職が、何かを狂わせてしまった。
数日後、今度は夫の司聡が電話で声を荒げていた。
「姉さんから聞いたよ。仕事に行ったんだって? なんで一言も言わないんだよ。俺と母さんにだって、連絡するぐらいできるだろ?」
「仕事が忙しかったの。連絡する余裕なんてなかったのよ」
「余裕がないでしょ? 母さん、ぷんぷんだったよ。もう一度ちゃんと謝って、今後のことは話し合おうよ」
「……分かったわ。ごめん、ちょっと言い過ぎた。お母さんにも謝る」
その日の夕方、部屋のドアがノックされた。
「佐苗さん。ちょっといいかしら」
義母が、眉をひそめたまま立っていた。手に、わたしのスマホを持っている。
「これ、あなたの携帯。職場に置き忘れてたわよ。それより、あなた最近、私の言うことに対して何かと噛み付きすぎじゃない?」
「……何かって、別に」
「『別に』って。あなた、私が定年退職したのを、いいように利用してない?」
「利用って、何言ってるんですか。私は働くって決めたんです。お母さんに何かしてもらおうなんて思ってません」
「じゃあ、なんでパートの人に『遅くなる』って連絡もせずに、堂々と帰ってくるの? あなた、もう大人なんだから、ちゃんと自分で管理しなさいよ」
「……はあ。もう分かりましたよ。じゃあ、今日はこれで」
そう言って、私はリビングから出て行こうとした。義母が何か言いかけたが、無視した。ドアの向こうから、義母のため息が聞こえた。もう、何が何だか分からない。
—
その夜、遅くになって、妹からLINEが届いた。
「ねえ、姉さん、今大丈夫?」
「どうしたの? 夜遅くに珍しいね」
「ちょっと、モヤモヤしててさ」
「なに?」
「姉さん、最近、お義母さんと何かあった?」
「……なんで知ってるの?」
「司聡くんが愚痴ってたよ。母さんが働き始めて、家のことが疎かになってるとか。定年退職したはずの母さんが、若い嫁に振り回されてるとか」
「ちょっと待って、それは私のせいなの? 母さんは仕事を辞めたから暇なんだから、少しは家のことをやってくれてもいいじゃん」
「いや、そうじゃなくてさ。姉さん、仕事が入ったら急に連絡つかなくなるときがあるじゃん? それで、結局お義母さんがフォローしてるんだよね」
「仕事だろうが何だろうが、定年退職した人がちょっとした雑用を手伝うぐらい、何が悪いのよ。それに、働くって決めたのは私なんだから、文句言われる筋合いはないでしょ」
「……姉さん。そんな言い方、お義母さんが可哀想だよ。自分が仕事辞めたからって、『暇だから何でもやれ』って言われてるみたいじゃん」
「誰もそんなこと言ってない」
「言ってるのと同じだよ。あとさ、お義母さんのこと『無職のくせに』みたいに言うの、やめなよ。お義母さんが嫌がってたよ」
「……はあ。もういい。俺はもう知らないから」
その日、夫の司聡も、義母のことをひどく気にしていた。夕食の時に、私がパート先の愚痴を言ったら、司聡が言った。
「まあ、母さんも働き始めてるし、今までのように家のことを完全にやるってわけにはいかねえかもな。佐苗も、無理せずに頼めるもんは頼んだらいいよ」
「司聡は分かってないよ。お母さんがさ、私が仕事に行く日の朝に、文句言ってくるんだよ。『今日は病院で注射してくる』とか『買い物行く』とか、そっちの都合を優先するなって」
「そりゃ、今まで家のことは全部母さんがやってきたから、ビーバーが覆るって感じだろうな。しばらくは慣れるまで大変だろうけど、我慢しなよ」
「我慢ばっかりだよ」
—
そして、週末。
「佐苗さん。今度の日曜日、あなたの誕生日でしょ? せっかくだし、外でも食べに行かない?」
「あ、それなんですけど、その日は職場の人たちが祝ってくれるんで。帰ってきたら司聡とケーキでも食べますよ。それだけ、買ってきておいてくれたらいいんで」
義母が黙った。一瞬、何かを言いかけて、やめたようだった。
「……分かったわ。じゃあ、ケーキだけ買っておくわね」
誕生日当日。パート先からの帰り道、司聡からLINEが届いた。「今日、早く帰れるか? 母さんが何か準備してるみたいだ」
スマホをしまった。仕事から上がると、急に慌ただしくなった。バイト先の飲み会が長引いて、気づけば夜の九時を回っていた。LINEを見ると、義母から何件も未読が溜まっている。全部、「今日は何時になるの?」という内容だった。
慌てて電話をしても、義母は出なかった。家に着くと、玄関で義母が仁王立ちしていた。
「今、何時だと思ってるの? パート先は十八時までって、言ったわよね? 連絡もしないで、こんな時間に帰ってくるってどういうこと?」
「飲み会が長引いたんです。別にいいでしょ? 司聡も寝てるんだし、うるさいな」
「そういう問題じゃないの! あなた、子供が寂しがってるのが分からないの? ママに宿題を見てもらう約束をしてたのに、って泣きながら布団に入ったのよ!」
「じゃあ、何ですか? 仕事をやめろって言うんですか?」
「仕事をするなとは言わないわ。働くことには、むしろ賛成よ。でも、やり方があるでしょ。あの子ももう一人で夜に留守番はできない。お母さんとして、ちゃんと優先順位を考えなさいよ」
「はあ。あの子ももういい学校に通ってるんだし、親孝行してる方でしょ。ていうか、お母さん、最近口うるさいんですけど」
「なんですって?」
「定年退職して暇なんだからって、私にアレコレ言わないでくださいよ。無職の人のやることって、案外こんなもんなんですね」
「なんで、そんなこと言うのよ? 話の本質が全然違うでしょ。私はあなたの仕事を応援してるの。その上で、司聡との向き合い方を考えなさいって言ってるの」
「何が本質ですか。お母さんは自分が暇になったからって、私が働くのが面白くないんでしょ。もう、ほっといてください。うちにはうちのやり方があるんですから」
義母は、何も言い返せなかった。唇を真一文字に結んで、台所へ消えた。少しだけ、視界が歪んだ。言い過ぎたと思った。でも、謝る気にはなれなかった。
—
深夜、スマホが光った。姉からだった。
「……もしもし。姉さん、寝てなかった? 急にごめん」
「何? どうしたの」
「いや、ちょっとモヤモヤしてさ」
「……なに?」
「お母さんのことなんだけど、最近さ、さっきから仕事を理由に、人の予定をすっぽかすじゃない? 今日も、病院の日だったのに、すっぽかしてさ。今、病院で採血してもらえなくて、結局来週に回ったんだよ。それで、俺が文句言ったら、逆ギレしてきてさ」
「なにそれ。お母さん、ひどくない? 自分が働くって言い出したくせに。ってか、定年退職したんだから、病院くらい一人で行けって感じだよ。なんで僕が合わせなきゃいけないのって言ったら、『じゃあ、もう来なくていいよ』って言われた」
「……」
「なあ、姉さん。俺、ちょっとお母さんと会うの、疲れてきたかも。前はあんなことなかったのにな。こんなに急に変わるもんなの?」
「……分かんない。私も同じような感じだよ」
電話を切った後、しばらく寒気がした。
—
数日後、家に帰ると、義母は一人で座っていた。
「ごめんなさい」
突然、義母が言った。
「はい?」
「パートの飲み会の日、あれからもう母さんに鍵貸して、って言っただろ? でも、母さんさ、もう子供の送り迎えもしてやれないと思ったんだ。だから、司聡に話して、出前を取ってもらうことにしたんだ」
「……何を言ってるんですか?」
「自分の非を認めるのが遅かったよ。ごめん。もう、家のことを頼むからって、あなたに言わないことにする。私がそれでいいなら……」
「お母さん、何言ってるんです?」
「私、あなたにすごく迷惑をかけた。そして、あの日、あなたが言ったこと、全部ひっくるめて、図星なんだと思う」
「……別に、私の方こそ言い過ぎました。ごめんなさい」
義母は首を横に振った。
「お互い、ここまでギスギスしたのは初めてだな。でも、これからも、お互いできることを分担していこう。あなたは無理に全部やらなくてもいい。私は、ちゃんと私のペースで、手伝えることを手伝うから」
「……ありがとうございます」
その日から、少しずつ関係は戻った。義母は自分の予定を言い、私は私で家の用事を手伝う。パートも、遅くなりすぎないように調整するようになった。全部が完璧に元通りには、ならなかったけれど、唐津家には、これがやっとの収まりどころなのだろう。
