「おい、ポンコツ。もう7時だぞ。まだ寝てるのか。朝飯もできてないとか、専業主婦として失格だろ。」
まどかは布団の中で体を丸めたまま、声だけで答えた。
「ごめんなさい。アラームは聞こえてたんだけど、どうしても体が動かなくて」
「はあ?何言ってんだよ。昨日残業で遅かった俺が起きられたんだぞ。一日中家にいるお前がなんで起きられないんだよ」
「私、一人でお父さんとお母さんの介護してるのよ」
「知ってるよ。俺が頼んだんだから」
「疲れが出る日もあるわ」
「それは甘えだろ」
まどかはゆっくり体を起こした。顔は真っ赤で、額にはうっすら汗をかいている。
「さっき熱を測ったら39度あって。節々が痛くて」
「ああ、すごいね。で、それが朝飯作らない理由になるのか?」
「フラフラして起きれないのよ」
「LINEはできるんだろ。さっきまで返事してたじゃねえか」
「返事をしなかったら怒るじゃない。本当はLINEするのもきついのよ」
「じゃあ、包丁も持てるだろう。手を動かせるんだろ」
「お願い。今日はパンでも焼いて食べてくれない? それだけでもしてくれたら助かるんだけど」
「ふざけんな。俺はこれから仕事に行くんだぞ。パン一枚でパワーが出るわけねえだろ」
まどかは唇を噛んだ。言い返したい言葉を飲み込んで、もう一度だけ頼んだ。
「ごめんなさい。でも本当に辛くて。今日はヘルパーさんも来るし、薬飲んで少し休めば昼には動けるようになると思うから」
「高が風邪くらいで大げさなんだよ。お前はいつもそうだ」
「そんなことないよ。お母さんの徘徊がひどくて、昨晩だって一睡もしてないんだから」
「それは大袈裟すぎるだろう。また何かあったのかよ」
「本当よ。10分おきに起きて、家の玄関の鍵をこじ開けようとするのを止めるだけで精一杯だったの」
「はいはい。クソアピールおつ。あのさ、親の面倒を見るくらいで恩着せがましいこと言うなよ」
「家にいるのが楽だと思ってるの? お母さんはもう私の顔も分からないし、目を離すと外に出ようとするのよ。お父さんは私に気を使ってくれるけど、ほっておけないし。ここ一ヶ月、毎日睡眠3時間もないのよ」
「容量が悪いんだよ。適当に手を抜けばいいだろう」
「命を預かってるのに、そんなことできない」
「だから大げさすぎるんだって。介護なんて、三食昼寝付きの楽な仕事でいいよな」
まどかは声を荒げそうになるのを堪えた。
「はあ? どういう意味?」
「だってそうだろう。上司に怒鳴られることもない。満員電車に乗る必要もない。ただ狭い部屋でボケ老人と遊んでればいいだけじゃん」
「よくそんな言い方ができるわね? 自分の親でしょ」
「うるせえな。お前なんて、介護をサボったら何の価値もないんだぞ」
「は? 私のことを寄生扱いする気?」
「寄生中って言ったんだよ。読めば分かるだろ。お前は家にいて何もしてないんだよ」
「私が必死にあなたの両親を守ってきたのに、それを寄生中扱いするの?」
「事実だろ。現にお前は一文も稼いでないじゃん。俺の稼いだ金で飯を食って、俺の家に住んで、電気代も水道代も全部俺持ちだ。これを寄生中と言わずして何と言うんだよ」
「あなたが家で見てあげたいって言ったから、私がキャリアを捨ててこの家に入ったんじゃない」
「うるせえな。口答えする元気があるなら、さっさと飯作れよ。あと、ついでにお袋のオムツも変えとけ。さっきから汚れてるんだよ」
まどかは何も言えなかった。本当は言いたいことが山ほどあった。でも言えば言うほど、この男はさらに酷い言葉を投げてくることを知っていた。
「そうだ。オムツが切れるんだ。ネットスーパー使いたいから、カードを使ってもいいかな」
「カード? 何言ってんだよ。配達手数料がかかるだろう。買いに行けよ」
「熱があるって言ったよね」
「だから何だよ。金食い虫もいい加減にしろよ。先週も2万渡しただろ」
「あれは食費とオムツ代で消えたわ。介護用品って、本当にお金がかかるのよ」
「知るか。お前のやりくりが下手なだけだろ。安いもの探そうとか、節約しようとか、そういう努力が全く見えないんだよ」
「私、自分の化粧水でさえ、もう半年も買ってないのよ」
「うるさい。口を開けば金くれ、金くれ。うるせえんだよ」
「生きていくには必要なんだから、仕方ないじゃない」
「分かったよ。そんなに金が足りないなら、これからは俺が管理してやる」
「え?」
「おい、財布とカード出しとけ。全部没収だ」
まどかは信じられない思いで夫を見た。
「ちょっと待ってよ。それじゃあ今日のお買い物はどうするの?」
「甘えんな。寄生中が金を持つな。金が欲しければ、そのつるつるの床に頭を擦りつけて頼めよ。本当に必要なものかどうか、俺が毎回審査してやるから」
「あんまりだよ。私、あなたの奴隷じゃないのよ」
「奴隷以下の寄生中だろ。嫌なら稼いでみろよ。まあ、35過ぎたおばさんなんて、どこも雇ってくれないだろうけどな」
「今の私に、どこに働く時間があるって言うのよ」
「じゃあ俺は会社に行くから、帰るまでに家中ピカピカにしとけよ。熱があるなら、汗かいて動いた方が治るだろう」
そう言い放って、夫は玄関に向かった。まどかは何も言えず、ただその場に立ち尽くしていた。
「こんな体で、お金もなくて、どうやって生活しろっていうのよ」
そう呟いたとき、LINEの着信音が鳴った。
「10分後、さなさん起きているかい?」
義父からのメッセージだった。
「お父さん、どうされました?」
「直はもう出たかな?」
「まだトイレにいるみたいですが」
「直がいるなら、このまま話そう。LINEなんて珍しいですね」
「ああ、お腹空きましたよね。すぐ行きますから」
「来なくていい」
まどかはスマホの画面を見つめた。
「え?」
「熱があるんだろう。無理するな」
「どうしてそれを?」
「さっき直が言いに来た。『熱があると言っているが嘘だから信じるな』と。そう言われたが、お前の顔を見れば分かる。あれは本当に熱がある顔だ」
まどかは唇を噛んだ。
「そうですか……」
「起き上がることもできないんじゃないか。無理をするな」
「大丈夫です。ちょっと熱があるだけですから。お薬飲んで気合い入れれば、何とか動けますから」
「直が暴言を吐いているのが、全部聞こえていたよ」
「……!」
「最初はLINEで言われていたんだが、我慢できなかったみたいだな。朝から騒がしくしてすみません。聞いていて腹が立って仕方なかったんだが」
「お父さんまで気を遣わせてしまって、すみません」
「君はわしらのために、十分すぎるほど尽くしてくれた。君が来てくれてから、家の中はいつも綺麗だし、食事だって、歯の悪いわしらに合わせて細かく刻んでくれてるだろう。わしは毎日感謝していたんだよ」
「そう言っていただけるだけで、嬉しいです」
「さなさん、今すぐにこの家から逃げなさい」
まどかは一瞬言葉を失った。
「え?」
「こんなところに居ちゃだめだ」
「でも、私が出ていったら、お父さんとお母さんが……」
「わしらのことは気にするな。このままここにいたら、君が持たないぞ」
「お父さん……」
「わしらが今すぐ施設に入れば、息子の世話にならずに済むんだが、情けないよ。わしはもう年だし、身体も動かん。だが、君をこれ以上苦しめるくらいなら、わしはどこへでも行く」
「そんな言い方、しないでください。お父さんたちに悪いところなんてありませんから」
「いいから荷物をまとめなさい」
「お父さんたちを置いて、なんか行けません」
「さなさん、聞いてくれ。この家を出なさい。今すぐだ」
「あと3日、頑張れば……きっと何とかなりますから」
「3日? どういうことだ?」
「直さんも、そのうち落ち着きます。きっと分かってくれます」
「そんなわけがあるか。あやつは自分のことしか考えておらん。君がここにいれば、あやつはどんどん君に当たり散らすぞ」
「でも、私がいなくなったら、お父さんたちは……」
「わしらのことは、何とかする。心配するな」
「どうやってですか?」
「この家から出て、役所に相談する。すぐにとはいかんかもしれんが、何とかなる」
「でも……」
「それより、君のことが心配なんだ。ここにいたら、本当に体を壊すぞ」
まどかは涙をこぼした。この家に来てから、誰かに本気で心配してもらえたのは初めてだった。
「……分かりました」
「そうか。よかった。荷物をまとめなさい」
「でも、お父さんたちを置いて行くわけには……」
「さなさん、君はもう、わしらに十分すぎるほど尽くしてくれた。あとはわしらが何とかする。君は自分の人生を生きなさい」
「お父さん……ありがとうございます」
まどかは部屋に戻って、キャリーケースに着替えを詰め始めた。手が震えて、なかなか服が畳めなかった。
ふと、枕元の引き出しを見ると、何かの封筒が入っていた。開けてみると、そこには一万円札が数枚入っていた。彼女が少しずつ貯めてきた、緊急用の隠し金だった。
「これで……いいわよね」
そう言って、まどかは封筒をバッグにしまった。そして、施設から持ってきた小さな写真立てを手に取った。若い頃の両親と、自分が写った一枚。それをバッグの奥に大切にしまった。
部屋の時計を見ると、午前8時半を過ぎていた。夫が家を出てから、もう30分は経っている。
「直さんが戻る前に出ないと」
まどかはそう言って、一階に降りた。台所には義母のオムツが置きっぱなしになっている。替えてあげようと思ったが、もう時間がない。
「お父さん、私、今から行きます」
「ああ、気をつけてな。タクシーを呼んでおいた。運転手に『乗れと言われて』と言えば、こちらから伝えてあるから」
「タクシーまで呼んでくれたんですか?」
「わしの年金から払ってある。気にするな」
「お父さん……本当に、ありがとうございます」
「わしの方こそ、今まで世話をかけてすまなかった。今日からは、君の人生を歩きなさい」
まどかは深く頭を下げた。そして、玄関に向かおうとして、もう一度振り返った。
「お父さん、この家から私がいなくなったら、直さんが少しは落ち着くといいんですけど」
「あやつは……いずれ分かるさ。君の気持ちが分かる日が来るまでは、わしが何とかする」
「頼りにしてますね」
「うむ。さあ、行きなさい」
まどかは、そのまま家を出た。外には青空が広がっていた。深く息を吸って、ゆっくりと吐き出す。
「ああ……広い空だな」
思わず口元が緩んだ。数分後、タクシーが家の前に停まった。運転手が早足でドアを開けてくれる。
「乗れと言われたものです。どうぞ、ご乗車ください」
「ありがとうございます」
まどかはタクシーに乗り込んだ。ドアが閉まると、家を見上げた。二階の窓から、義父がこちらを見ているのが見えた。手を振ると、その手は杖を握るようにして動いているようだった。
「お父さん……ありがとう」
タクシーがゆっくり走り出す。道が曲がって家が見えなくなったとき、まどかは前を向いた。
運転手が口を開いた。
「どこまでご一緒しますか?」
「ええと……一番近くの駅までお願いします」
「かしこまりました」
タクシーは車窓を流れる街並みを抜けていく。まどかの目に、涙がにじんだ。
「これで……いいんだ。私、自分の人生を生きるのよ」
そう自分に言い聞かせて、彼女はくしゃくしゃのティッシュで目元を拭った。バッグの中には、義父からもらったお金と、母から借りた小さな幸せのかけらが入っていた。
その日、まどかは二度と夫の家には戻らなかった。施設から見つけた小さな空と、自分で手に入れる新しい一歩のために、彼女は動き出したのだった。
タクシーは街を抜けて、少しずつ駅に近づいていく。まどかは、持ってきた写真立てを一度だけ眺めてから、そっとバッグにしまい直した。めまいがする。まだ熱は下がっていない。でも、不思議とふらふらすることはなかった。今ここに立っているのは、ひとえに義父の優しさと、自分自身の決意があったからだ。
