病院の個室のベッドで、陽介は窓の外を見つめていた。夏の日差しがカーテンの隙間から差し込んでいる。今日はいつもより少し決意が固まっていた。隣で付き添っていた私、なみは、そんな夫の異変に気づいていた。なにを考えているのか、何となくわかるような気がした。三ヶ月。医者からそう言われたとき、二人の間に重い空気が流れたのは記憶に新しい。本当なの、と私が泣きそうになりながら尋ねたら、俺だってそうだと願いたいよ、と陽介は弱々しく笑った。
それから数日、陽介はやけに落ち着きがない様子だった。仕事の引き継ぎやら入院の準備やらで忙しいのは事実だったが、それだけではない気がした。私はてっきり、病気のことを考えて塞ぎ込んでいるのだと思っていた。だから、彼が口を開いたとき、まさかそんなことを言い出すとは思わなかった。病室の静かな空気の中、陽介は意を決したように口を開いた。
「なみ、頼みがあるんだ。」
「何? 毎日お見舞いに来るから。仕事だって、必要なら休むから。私にできることなら何でもするよ。」
「そう言ってくれると助かる。じゃあ、早速なんだけど…」
彼は一息置いて、まるでこれから始まる会話を噛みしめるかのように言葉を選んでいた。
「俺と離婚してほしいんだ。」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。頭が真っ白になる、というのはまさにこのことだった。もちろん、病気を理由に私が離れていくことを心配して、そう言ってくれているのだと思った。私は安心させるように微笑んだ。
「もしかして、私のこと心配してるの? 私は大丈夫だよ。病気になっても支える覚悟で、あなたと結婚したんだから。最後まで寄り添うって決めたんだ。だから、そんなこと言わないで。」
「いや、普通に金が嫌になったから、離婚したいんだけど。」
私の思いを、彼は何のてらいもなく、水のように冷たい口調で切り捨てた。拍子抜けするというか、現実感がなさすぎて、変な笑いが込み上げてきた。
「え、私、何かした?」
「言ってなかったけど、彼女がいるんだ。大切な部下であり、大切な彼女でもある、あっこがな。」
「…誰それ? 浮気相手の名前?」
「違う。これは浮気なんかじゃない。出会う時期を間違えただけの、真実の愛だ。」
「それを世間では浮気って言うんですけどね。」
さっきまでの自分の発言が嘘のように、私は冷静な口調になっていた。気がつけば、心臓はバクバクと鳴っていた。彼の中では、どうやら私の返事はお見通しだったらしい。彼の頭の中は、とっくに別の女でいっぱいなんだろう。
「まあ、なんか今ので心配する気失せたんだけど。新手の冗談じゃないんだよね?」
「なわけあるか。あっこには、ハリーウィンストンの指輪を送ったんだ。結婚する覚悟がなきゃ、こんなもんプレゼントしねえよ。」
「ハリーウィンストン? …嘘でしょ? いくら払ったの?」
「200万円だったかな。愛子のためなら安いもんだよ。」
「…陽介の年収の半分以上じゃない。私、身に覚えがないよ。もしかして、うちに来てた陽介の支払いってそういうこと?」
「お前には関係ないだろ。それに、愛子のことを悪く言うなよ。そんな疑いの目で見るな。」
「言うに事欠いて、なんでそうなるのよ。浮気をして、妻の金でチヤホヤしたお相手と、また暮らすっていうの?」
「いいから、愛子を悪く言うな。愛子はな、俺の仕事のミスの溜飲を下げてくれたんだ。同僚なら助け合うのが普通だろ。こんな話、普通は崖っぷちでも手を差し伸べるもんじゃないんだよ。」
「待って待って、何があったかは知らないけど、それを聞いて私が納得すると思ってるの?」
「言っただろ、俺はこの話を聞いたら、お前だって金だって考えを改めて離婚してもいいって思うって。それに、愛子にはちゃんと才能があるんだ。お前の助けがないと、酒に逃げてダメになっちまうんだ。」
「もう、どうでもいいわ。とにかく、離婚届の準備をするから、書類を出しなさいよ。」
なんだか急に馬鹿馬鹿しくなってきて、私は怒りを通り越して呆れていた。ああ、この人はこの人で、自分のことしか見えていないんだ。私の思いは、彼にはまるで届かない。
「わかった。じゃあ、離婚届を取りに行くわ。入籍のときと違って、今は役所が休みじゃなくてよかった。」
そう言って、私は立ち上がった。しかし、彼に引き留められる。彼には、まだ大事な話が残っていた。
「まあ待て、最後にひとつ、お願いがあるんだ。」
「何よ。もう離婚するんでしょ?」
「ああ。…入院中、つまり俺が死ぬまでの間なんだが、看護はお前に任せたい。」
「…は? 何言ってるの? それ、都合よすぎない?」
「わかってる。だが、愛子にはこれ以上負担をかけられないんだ。愛子はな、母さんの面倒を見てるんだよ。どこにでもいる、気弱な女なんだ。俺がこの老いぼれの面倒を見てくれって、頼めるわけがないだろ。」
「私には関係ないわ。愛子さん、あなたの部下なんでしょ? ああ、そうだ。自慢の部下であり、恋人だもんね。私は自分の夫に浮気されて、さらにその女の病気の看病まで押し付けられるってわけ? あんた、本気で言ってるの? ふざけるな!」
「うるさいなあ。じゃあ、お前に言ってるんだ。愛子にはここで死んでもらうしかないんだ。わかったら、荷物をまとめて出て行ってくれ。」
彼は言うことを聞かない。私は怒りで震えながら、持っていた鞄を握りしめた。ああ、そうか。この人には、最初から私の存在なんて、最初から最初から、手のかかる邪魔者でしかなかったんだ。そう思うと、涙よりも先に、冷たい何かが心の中に広がっていった。
「わかったわよ。ふん。じゃあ、好きにすればいい。」
そう言って、私は病室を出た。パタン、と静かにドアが閉まる。少しして、今度は自分が病室の外にいることに気がついて、はあ、と長い息を吐いた。
しばらくして、私は義母の家にいた。病院からの帰り道、いても立ってもいられずに、つい足が向いていた。チャイムを押すと、何も知らない義母がにこやかに出迎えてくれた。
「あら、なみちゃん。久しぶりね。どうしたの? お母さん、今、お茶でも飲みながら話をしていたのよ。ちょうど、季節の和菓子でも買ってきたんだけど、一緒にどう?」
義母は何も知らない。彼の病気のことも、離婚のことも。何もかも知らない、あの屈託のない笑顔。それが、胸に痛い。
「お母さん。お時間、大丈夫ですか?」
「あら、どうしたの、改まって。何かあったの?」
「…陽介が、病院で倒れました。」
「あら、またあの子ったら。徹夜続きだったの?」
「いえ、それが、今度は本当みたいで。医者から、あと三ヶ月って言われました。」
「…え? 待って、なみちゃん、それ、どういうこと?」
「だから、三ヶ月って。寿命だそうです。で、私…陽介と、離婚することになりました。」
「離婚? 何を馬鹿なことを言ってるんだね。そんな時になんで、あの子は! なみちゃんを困らせるような!」
「そういうわけで、手続きをしに来ました。書面はこれで。」
私は鞄から取り出した白い封筒を、テーブルの上に置いた。義母は、それを見てはっと息を飲んだ。何か言いかけたが、言葉が続かないようだった。
「…本当なの? あの陽介が? あの、いつも元気で、バカな子で、こっそり定年退職後の夢を語っていたような男が、病気?」
「ええ。何だか、信じられないですよね。私も、頭が真っ白です。」
「…それで、あの子は何か言ってたの? あんたに何かひどいことでもしたのか?」
「それが、自分は死ぬから、その前に好きな女性と結婚したいって。どうやら、職場に」
「…女?」
義母の声のトーンが、変わった。私は、本当のことを言うか迷ったが、もう我慢する必要もないかと思った。義母は、決して悪い人ではないとわかっている。それでも、息子のしたことを、知っておいてもらわなければ。
「ええ。愛子さんっていう女性がいるみたいです。陽介の部下だとかで、私には、入院中はそのあっこさんの代わりに、私が看病しろって言ってきたんです。」
「…なに、それ。あの子、何て恩知らずなことを」
「もう、私の気持ちは決まりました。離婚します。籍を抜く手続きを、済ませてしまおうと思ってます。」
「よし、わかった。だったら、こうなったら、うちで面倒を見るわよね。もう、あんな息子は知らない。今日から、お母さんと一緒に暮らしましょう。」
義母のあまりの剣幕に、私は目を見張った。義母は、私のことを本当の娘のように思ってくれていたんだ。私はじんわりと心が温かくなるのを感じた。
「ありがとうございます、お母さん。お母さんと離れるのは心苦しいですが…」
「いいのよ。あの子が言うなら、なおさらよ。私が、あのバカ息子を、とっちめてやるからね!」
「…頼もしいです。でも、もういいんです。自分から、好きな女性と結婚したいって言ってるんですから。結局、私は最初から、必要とされてなかったんですよ。何の役にも立てなかったんです…」
「なみちゃん、謝ることはないよ。お母さんが謝るからね。うまくやってあげられなくて、本当にごめんね。」
義母が、私の手を握って一緒に泣いてくれた。その温かさが、かえって切なかった。ああ、私はやっぱり、この家が好きだった。この人が、お母さんで、本当に良かった。
「それにしても、あの元気だった陽介がねえ…。健康には気をつけてたつもりだったんですけど、不摂生が祟ったのかもしれませんね。飲み会の行き過ぎとか、あったんでしょうね。」
「まったく、自業自得よ。…でも、幸せに離婚したから、どうにかできるね。どこかで悪戯に生きてくれればいいけどね。」
「でも、本人が決めたことですから。生きるも死ぬも、自分の人生です。お金をかけても、無駄にはしたくない。」
「そうねえ。それより、なみちゃん、あの女は怒らせちゃ駄目よ。もしなにか、お前に火の粉が降りかかってきたら、ちゃんと私に知らせなさいね。」
「大丈夫ですよ。私のことは心配しないでください。それに、私は一人じゃないですから。」
「…何言ってるのよ。あなたは、もうずっと、うちの娘でしょ。いいから、これからも何かあったら、ちゃんと相談しなさいよ。」
「ありがとうございます。じゃあ、離婚届を出してきます。」
「気をつけてね。今日からは、今日からはもう、病院に来る必要はないからね。」
病院に戻ると、陽介はベッドの上で、落ち着かない様子でスマホを眺めていた。私を見るなり、何やら用があると言わんばかりの顔をした。
「どったの、急に。荷物をまとめてさっさと帰ったのかと思ったよ。」
「言うことを聞いてくれて、ありがとう。それで、つまり、なみ、もう一度だけ、聞いてくれるか?」
「何よ、まだ何かあるわけ? 看護は無理って言ってるでしょ。」
「違う。そうじゃなくて、なみに死んでもらったら困るんだ。俺が家を空けてる間に、愛子に何かされるんじゃないかって、心配でさ。お前、俺のことを恨んでるだろ?」
「恨むも何も、いつまで私を引きずるつもり? 私はあなたの面倒をみるって約束、ちゃんと守るつもりだから、勘違いしないで。」
「だから、なんでそうなるんだよ。お前は、俺のいうことを何も聞かないんだから」
「あの女に看護させて、あんたの遺産をギリギリまで毟り取ろうとするは、あんたは鬼か。私には関係ないけどね。それより、生きてる間に、あんたがあっこさんに何ができるって言うのよ。俺が死んだら、あっこさんは路頭に迷っちゃうんだ。それを思うと、いても立ってもいられないんだよ。」
「はいはい、そうでしたね。どっちにしろ、私はあなたの言い分を聞く気はないし、あなたも、私を説得できると思って病院に来たんじゃないんだろうけど。」
「…どういう意味だ?」
「そのまんまの意味よ。あんたは、あっこさんに義理とお金を残して死ぬことしか考えてない。私がどれだけ傷つこうと、お構いなしなんだから。」
「何を…」
「いいから聞きなさいよ。あなた、生命保険、入ってるんでしょ? それって、ちゃんと権利者がいるのよね。あっこさんに渡すつもり?」
「…まあ、な。それが何か?」
「はっ、やっぱりね。それって、もしかして、保険金を独り占めして、あの娘を悲しませるつもりなんでしょ? あんた、保険金のためにそんなことしたら、死んだら地獄に落ちるわよ。そこまでして、あの女に無体を働くのか?」
「お前には関係ないだろ。それより、お前に頼みたいことがあるんだ。離婚する前に、ちゃんと公正証書にしてもらったんだ。秘密は守るから、俺が死んだあとも、愛子に手を出さないでくれるな。」
「…は? 公正証書? 何のため?」
「遺言だよ。お前が遺産を独り占めするための、遺言なんかじゃない。これで、お前が何の権利も主張できなくなるんだ。良かったな、これで身一つで、綺麗さっぱりおさらばってわけだ。」
「それをあたしに、さも正義みたいな顔して話すなんて、馬鹿なんじゃないの?」
そう言って、私はようやく、病室を足早に去った。廊下に出るのと同時に、涙が溢れてきた。悔しくて、悔しくて、仕方なかった。でも、もういい。この人とは、ここでお別れだ。
それから私は、言われた通り、マンションを引き払い、義母に勧められるまま、どこか遠くの街に引っ越した。離婚届は、役所に提出した。あれから私は、陽介のことは一切連絡していない。あの三ヶ月、私は病院には行かなかった。義母の家には、たまにお茶を飲みに行くくらいだ。あんな男に捕まっていた馬鹿な自分を、ずっと引きずりたくはなかったけど、やっぱり切ないものは切ない。そうして、秋の終わりが見えた頃、一通の封書が届いた。
中を開けると、一通の手紙と、書類が入っていた。そこには、ある人物の名前があった。
「…陽介 こと、宍戸陽介氏、死亡に付き、お知らせします。」
内容は、簡潔だった。彼は、やがて三ヶ月の余命を全うし、この世を去ったらしい。本当に、三ヶ月と数日で。正確な日付は書いていなかったが、どうやら、彼は私が知らないところで今日という日を迎えた後、眠るように息を引き取ったようだった。
書類には、一通の小さなメッセージカードが添えられていた。それは、かすれた字で、こう書かれていた。
「なみへ。お前には、本当に感謝してる。俺がわがまま言って生き方を間違えていなければ、一緒にいられたかもしれないな。大事なことを頼んでなかったな。頼りない夫ですまなかった。俺の帰りを、待っててくれる有能で心の広い妻がいたことを、俺は誇りに思う。」
最後の一行は、言うまでもなく、彼の遺言によるものだろう。私に対する、彼なりの精一杯の謝罪と、感謝の気持ちの表れなのかもしれない。
「そして、こちらの生命保険金は、残されたお子さん…あっこさんのものではなく、あなたに支払われることになりました。」
その一文に、私は思わず目を見張った。あんなに頑なに、彼女に全財産を残すと言っていた陽介が、保険金の受取人を、私のままにしていたのだ。私のことを、恨んでいたとばかり思っていたのに。
「それが、離婚に至るまでの事情を反面教師にしたのか、こうして、この保険金はあなたに支払われます。使ってください。」
それだけ書かれた書類が、写真と一緒に同封されていた。それは、若い頃の私と、すごく嬉しそうに笑っている陽介の写真だった。きっと、この写真は、私たちが結婚した頃の、一番幸せだったときのものだ。
「…こんなの、遅いよ。馬鹿。」
私は、写真が滲んで見えなくなるまで、しばらくその場で泣いていた。あの人が遺してくれた、最後の優しさが、何よりも切なかった。結局、この人も、どこまでいっても、不器用で、不器用な人だったんだ。
私はそっとその写真を胸に抱き、通夜の席に足を運んだ。あの日、病院で会ったときに、一度は離れると決めた、あの人のために。もしもあの場所で、もっと上手い言葉をかけられていたら、私たちは違ったのかもしれない。それでも、あの日、彼が私に言ってくれた「愛している」という、あの言葉だけは、私は今でも信じている。今度、もし会えることがあったら、そのときはちゃんと笑って、「ばか」って言ってやるから。あんたは、一生私の気持ちも知らないまま、勝手にいなくなるんだから。
