母さん、俺、たぶん父さんが戻ってきたら、あの人の顔を見たら、もう何も言えなくなっちまいそうだ。そう思うと、今ここで聞いておきたいんだ。母さん、それは何かの間違いだろ?どうして俺じゃないんだ?俺はずっと、父さんの後を継ぐために勉強も仕事も頑張ってきたんだぞ。それなのに、何十年も隠れていた愛人との子供に社長の座を渡すって?「十分だ!俺は俺の責任で決めた。お前たち一家は、もう十分に俺からもらったは…

母さん、俺、たぶん父さんが戻ってきたら、あの人の顔を見たら、もう何も言えなくなっちまいそうだ。そう思うと、今ここで聞いておきたいんだ。母さん、それは何かの間違いだろ?どうして俺じゃないんだ?俺はずっと、父さんの後を継ぐために勉強も仕事も頑張ってきたんだぞ。それなのに、何十年も隠れていた愛人との子供に社長の座を渡すって?「十分だ!俺は俺の責任で決めた。お前たち一家は、もう十分に俺からもらったは...

わかったわ。でも、どうして急にそんな話になるの? あなたがそこまで取り乱すなんて、本当に珍しいわね。お願い、教えて。今日はちゃんと話したいの。

母さん、俺、たぶん父さんが戻ってきたら、あの人の顔を見たら、もう何も言えなくなっちまいそうだ。そう思うと、今ここで聞いておきたいんだ。父さんの口からじゃなくてもいい。

あなた、何をそんなに改まって言うの? まさか、私が怒るようなこと?

いや、違うんだ。ただ、今の父さんの考え方って、少し変だと思わないか? 会社を孫に継がせるって言い出したことだよ。しかも、急に。俺はああいう話、父さんから一度も聞いたことがなかった。

ああ、それね。私もあなたにちゃんと話さないといけないと思ってたの。お父さんはね、昔から息子であるあなたに会社を継いでもらいたいって言ってたのよ。それは本当よ。でも、昨日、病院でお父さんと話した時に、彼は「会社は直に任せる」ってはっきり言ったの。愛人の子供である直にって。

母さん、それは何かの間違いだろ? どうして俺じゃないんだ? 俺はずっと、父さんの後を継ぐために勉強も仕事も頑張ってきたんだぞ。それなのに、何十年も隠れていた愛人との子供に社長の座を渡すって?

あなたの気持ちは分かる。私だって、あの人がそう言った時は、耳を疑ったわ。でも、あの人にはあの人の考えがあるんでしょ。それに、あの人も好き好んでそういう関係を続けてきたわけじゃないかもしれない。

はあ? 母さん、まさか父さんの肩を持つ気か? 父さんはずっと私たちを裏切ってたんだぞ? 母さんに隠れて愛人を作って、しかも子供まで作って。その上、その子供に会社を継がせるなんて、どう考えてもおかしいだろ。

あなたの言う通りよ。でもね、怒鳴っても、恨んでも、あの人が癌で死ぬって事実は変わらないの。あの人は緩和ケアを選んで、残りの時間を自分の好きなように使いたいって言ってる。私は、あの人を無理に延命治療させるつもりはないわ。

だったら、なおさらだよ。死ぬ間際になって、何も隠すことはないだろ。なんで俺に相談してくれなかったんだ? 俺は父さんの息子だぞ。

安明、あなたは怒って当然だと思う。でも、お願いだから、今日だけは、お父さんとちゃんと話し合って。お父さんも、あなたにどうしても伝えたいことがあるんだと思う。そして、それで縁を切るかどうかを決めるのは、あなたが冷静になってからにして欲しい。

冷静になれるわけないだろ!

安明、声を荒げないで。お母さんは、あなたがそう言うと思って言ってるんじゃない。ただ、本当に大事なのは、血の繋がりだけじゃないってことを、あの人に教えてあげて欲しいの。

何を言ってるんだ、母さんは。俺はもういい。父さんには会わない。そう言って、安明は電話を切った。

裕子は受話器を置いて、深くため息をついた。病院からの帰り道、彼女はずっと考えていた。直美という女性のこと。ナツキという愛人。そして、いつか安明に伝えなければならないであろう、もう一つの真実について。

あの日、病室で夫が明かしたのは、浮気の事実と隠し子の存在だけではなかった。

「それで、アンタは私にどうしろって言うんだい? 何も知らないふりをして、これからもアンタの愛人と子供を見て見ぬふりをしろって言うのかい?」

「違う。そうじゃない。ただ、直には会社を継がせたいんだ。お前は父の命令として受け入れてくれ。」

「お前のいうことはよくわかったよ。あんたの息子、直くんを厄介なことにしたくないんだろう。だからって、私に何の相談もなく、よくも勝手なことを…!」

「十分だ! 俺は俺の責任で決めた。お前たち一家は、もう十分に俺からもらったはずだ。家も、金も、地位も。何不自由なく暮らしてきただろう? この何十年、俺がどれだけ働いてきたと思ってる?」

「それを言うなら、アンタの子供のために自分を犠牲にした女性がここにいる! 私はアンタのために何を捨ててきたと思ってるんだ!」

「もういい。決めたことだ。これで話は終わりだ。私は今から直に連絡をして、正式に身の振り方を話し合う。ナツキにはここに来てもらうように言ってある。お前、もう下がれ。」

その日から、裕子は何かを諦めたような顔をするようになった。そして、安明には悪いと思いながらも、本当のことを伝えられずにいた。自分の夫が、実は若い頃に一緒に働いていた男性との間に産んだ子供だったということを。直が実の息子だと聞かされた時、裕子の心は複雑に乱れた。夫の長年の裏切りは、自分自身が重ねてきた一生の嘘によって、かえって清算されるような気がしたからだ。

廊下の時計が、夜の九時を指そうとしていた。安明からの返信はまだない。裕子はもう一度だけ携帯を手に取り、一番下に表示されている「ナツキ」という連絡先を押し込んだ。

コール音の後、聞き慣れない、でも若々しい声が応答した。

「もしもし、どちらさまですか?」

「…私よ。ナツキ、一度ちゃんと話がしたいの。今から駅前の喫茶店に来てくれないかしら? あなたにも、私にも、知ってもらわなければいけないことがあるんだ。」

ナツキは無言だったが、数秒の沈黙の後、静かに「…分かりました」とだけ言った。

喫茶店で、二人は向かい合った。ナツキの顔色は、覚悟を決めた者のように青ざめていたが、裕子はそんなことを気にする様子もなく、鞄の中から一通の封筒を取り出した。

「あなた、これを見たことがあるかしら? 古い写真よ。ここに写っているのは、若い頃のあなたの父親と、それからもう一人、男の人の二人。あなたの父親にそっくりだろう?」

ナツキは写真をまじまじと見つめ、血の気が引いていくのが分かった。そこには、知っている人物の顔があった。いや、知っている人物とはちょっと違う。若い頃の裕子の夫。いや、それだけはない。一番左に写っている男の顔。それは、間違いなく自分の育ての親である、一つ年上の叔父だった。

「あなたの叔父さんは、若い頃、うちの夫と恋仲だったのよ。公式には、あの人は私と結婚することによって、あなたの叔父さんが告白しなかったっていう話になっている。でも、本当は逆。あの人、あなたの叔父さんに告白して、断られたのは私なの。私はあの人のことが好きだった。でも、あの人は違った。ただの友達としてしか見てくれなかった。だから私は身を引いて、今の夫と結婚した。そういう過去があるの。あなたの存在も、実はずっと知ってた。」

ナツキの顔色が、見ているうちにさっと青ざめていく。違う、そういう話じゃない。そう思いたかった。自分の持っているものは、そんなものではないはずだ。

「違うわ。おばさんが話すのは、汚い大人の事情でしょ。私は、亮さんのために何かしたいだけ。そのために社長の座に興味があるわけじゃない。でも、あの人が望んだことだから、私はそれに従うだけだ。」

「ふふ。本当に健気ね。でも、直美さん。あなた、本当に自分が誰の子供だと思っているの?」

「…どういう意味よ。」

「あなたのご両親は、結婚していたの? あなたの育ての親は、あなたの叔父さんでしょう。そして、その叔父さんというのが、若い頃の私の夫の恋人。つまり、あなたは血の繋がらないあなたの家の事情も、全部知った上でずる賢く近づいてきた……わけじゃないのは知ってるけど、まさか」

「黙って!」

直美はテーブルを思い切り叩いて立ち上がった。近くの客が驚いて視線を向ける。だが、彼女の怒りは、そこから先の言葉を紡ぐことを許さなかった。

「彼が私のことをどう言おうと、私はもう何も聞きたくない。あの人は私に新しい人生をくれようとしている。あんたみたいな人に、それを止める権利はないんだ!」

そう言い捨てて、直美は財布も取らずに店を飛び出していった。テーブルの上には、慌てて置かれたコーヒーカップがまだ揺れている。

その後ろ姿を、裕子はただ静かに見送っていた。しばらくして、ひとりごとのようにつぶやいた。

「あなた、自分が何をやってるのか分かってないみたいね。私はあなたを守るために、あの人のもとを去ったんだ。あの人があなたのために用意した罠に、落ちないようにね…」

その頃、安明は自室でパソコンを閉じ、深くため息をついた。父の計画を調べるために、会社の関係者に連絡を取り、直美の素性について調べさせていた。かつて父が愛した女性の子ども。それが自分を陥れようとしている罠でないことを願いながら。

彼は窓の外の夜景を見つめ、誰にともなく言った。「あの人が、どうしてこんなことを…」そして、電話帳からある一人の男の名前を探し出し、通話ボタンを押した。

「もしもし、探偵事務所ですか。もし宜しければ、とある人物の身元調査を詳しくお願いしたいのですが…」

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