姑が突然訪ねてきたのは、昼下がりのことだった。顔には「今日は機嫌がいい」という微笑みすら浮かんでいる。それがもう不気味だった。ふかは台所からお茶を運びながら、訪問の理由を探る。姑はいつもの強気な態度ではない。何かを決意したような、妙に落ち着いた顔をしていた。
「ふかさん、息子の浮気を許してくれてありがとう。本当にあなたは最高のお嫁さんだわ」
何の話をしているのか、一瞬分からなかった。広告や会社の書類の話ならまだしも、夫の浮気? 確かに、つい先日、けんかをした。つい一週間前、夫のひろつぐから「浮気をした」と聞かされたのは。だが、それを姑に話した覚えはない。姑が何かの勘違いをしているのは明らかだった。
「お母さん、何の話でしょうか? 私は何もお聞きしていませんが」
「ひろつぐに聞いたわよ。浮気したけど、許してもらえたって。あの子、あなたに言ったんでしょ?」
「……まあ、少し。確かに、そんな話はありました。ですが、私はまだ何も決めていません。許したわけでは」
「あら、そうなの? でも今、怒ってないわね。アンタの顔を見れば分かるわよ。男は必ず本斎の元に戻ってくるのよ。自信を持って堂々としてれば、それでいいの」
ふかは湯呑みを置いて、ゆっくりと息を吐いた。この姑が急に優しくなった場合、何か裏がある。これまで三年間、毎日のように辛く当たってきた人間の態度とは思えなかった。
「ふかさんは会社を立ち上げて、立派に経営してらっしゃるしね。こんなことで同じる弾じゃないわよ」
「お母さん、仕事のことと夫婦のことは別です。それに、お母さんが急にそうやって態度を変えられると、正直困ります」
「あら、どうして? 私はアンタのことを考えて言ってるのよ」
「そんなこと、お母さんは一言もおっしゃいませんでしたよね。『女社長なんか、三文の値打ちもない』って、何度も言ってましたよね。会社にまで押しかけてきて、『こんな小さな会社、潰してしまいなさい』って。社員の前で怒鳴ったことも忘れたんですか?」
姑は一瞬、言葉に詰まった。それから気まずそうに目をそらして、手に取った茶碗をじっと見つめた。何かを隠しているときの癖だ。
「……言った記憶はないけど。言ってたとしたら、ごめんなさいね」
「妙に態度が違うのが怖いですよ。何があったんですか? ひろつぐに何か言われたんですか?」
「アンタね、私、やっと自分の謝ちに気づいたのよ。確かに、息子が可愛いがあまりにアンタに強く当たってきちゃったわね。でも、それに気づいたのはホントの気持ちに気づくまで、時間がかかったみたい。可愛い息子が選んだ人だからこそ、大事にしなきゃいけなかったのよ」
「気づくのに三年かかったんですか?」
「そうなのよ。でも、今からでも遅くないわよね?」
「……どうでしょう。だいぶ遅いと思いますよ」
姑の表情が一瞬、こわばった。が、すぐに話題を変えた。手をポンポンと叩きながら、何か思いついたような顔になった。
「そうだ、ちょっと話は変わるんだけど、車が欲しいのよ」
「は? いきなり何の話ですか?」
「人生で一度でいいから、ベンツに乗りたいのよ。あれに乗ってみたいのよ、ずっと」
「買えばよろしいのでは? お好きにすればいいじゃないですか」
「え? いいの? 本当に買っていいの? 嬉しい! 若い頃からずっとアルファードに憧れてたんだよ。あ、違う、ベンツ。ベンツに乗りたいの」
「……まあ、お好きなものをお買いになれば」
「やった! 早速ディーラーに行ってくるわ! ありがとうね、ふかさん!」
姑が帰った後、ふかは深いため息をついた。何だったんだ。急に優しくなって、車を買うお金はどうする気だ? それに、あのときの会話の中で、姑は「アルファード」と言いかけた。ベンツと言いながら。あの人が本当に欲しいのはベンツではないのかもしれない。いや、そんなことはどうでもいい。それよりも問題は夫のだ。
「お母さんから連絡が来たんだけど、どういう風に話をすれば、あんな勘違いになるわけ?」
翌日、会社から帰ってきた夫・ひろつぐは、開口一番にそう言った。ふかはスマホを見つめたまま、返事をしなかった。
「『息子の浮気を許してくれてありがとう』だって。俺、お前に言った覚えはないけどな。何言ったんだ、お前が?」
「何って……許してくれたじゃん、って言っただけよ」
「その『許してくれた』ってのが、もう勘違いの元だろうが! 俺はまだ許したとは一言も言ってないぞ?」
「でも、あのとき、『反省してる』って言ったじゃない。『これからはちゃんとする』って。あれが許したことになるんだろ? 私、勘違いしてたかな」
「そりゃ、2時間も粘って謝ってきたら、逆にこっちが悪者になるだろ。事実、怒鳴ったらいきなり『離婚届』をプリントアウトして、俺に投げつけてきたの、忘れたか?」
「あの……あれは、一時の怒りというか。頭に血が上ってたっていうか。反省してるって意味で書いただけよ。本気で切るわけなかったし」
「じゃあ、お前、その『反省してる』って言葉に、俺の「浮気した」って事実が上書きされたわけ? すごい解釈だな」
「はぁー……まあ、そのままの意味よ。お母さんが急にべったりしてきて、あれでもう少し変わったかもね」
「お前、何言ってるんだ? 何で俺の母さんが急にべったりしてくるんだよ。逆じゃないのか? あっちは、『お前、ふかにもっと優しくしてやれ』って、先週突然電話してきてなんだよ。何か知らないのか?」
「知らない。私、何も言ってないし。逆にあっちから、『息子を許してくれてありがとう』って。気のせいだと思った。どうせ何か企んでるに決まってる」
「まあ、車のことは何となく分かったけどな。ベンツ欲しいんだって? 買ってやったのか?」
「買ってない。『買えばいいですね』って言っただけよ。まさか本当に買いに行くとは思わなかったけど」
「ふうん。まあ、あの母さんは、何か企んでるってのは間違いないけどな。でも、まあ、その企みに乗ってやってもいいんだぜ。俺が母さんに何か言ったとか、そういうのはやめてくれよ」
「何言ってるの。私は何も聞いてない。ただ、あんたが浮気したって事実だけが私の中でぐるぐる回ってるのよ」
「ああ、そのことか。……信じられないんだろ?」
「信じられないと思うよ。だって、三日連続で別の女と会ってたんだろ? しかも、ぜーんぶ黒髪ロング、金髪ショート、パーマに、チャパツのロング。バリエーション豊かだもんね。スーパーの試食コーナーじゃあるまいし」
「待って待って、その情報、誰から聞いた? もう探偵でも雇ったのかよ?」
「何か不満ある? 職場の後輩の叔父さんが探偵やってたのよ。ちょっとお願いすれば、簡単に調べてくれるって言うからさ」
「……本当に金使ったのか? あの探偵の叔父って、おっさんだろ? 見た目も」
「見た目はともかく、仕事は本物だったわよ。三日間、あんたの後をつけさせたけど、毎日、違う女と歩いてるの。嘘よな、って思ったよ。21時のスナックのママとか、カフェの店員とか、ホントに手当たり次第なのな」
「……誤解だ。全部、仕事の付き合いだって」
「あっそう。仕事の付き合いで、ホテルに入ることもあるんだ? いや、さすがにそれはなかったか。どうせ一晩、適当に流して帰ってきたんじゃないの」
「違う! 本当に何もなかったんだ! 向こうが一方的に俺にベタベタしてくるから、断る理由もないだろ? しゃあなくだぞ」
「はあ? 何それ? その理屈、外周り回ってるよ? 浮気って、そういうのを言うのよ。本当にもう、あんたって男は……」
ひろつぐは頭を抱えた。しばらくうなって、不意に顔を上げた。
「……信じる気はあるのか? 俺が反省してるって」
「100パーセントはない。2パーセントくらいは、信じたいかな。『コーヒーにタバスコ』とか『お寿司にワサビ大量』ってのと同じで、何年も何年も、相手を試してばっかしの関係は続かないんだよ」
「試されてたのか?」
「あんたに言ったんだよ。うちの母さんに、じゃなくて!」
「それ、俺の母さんの話か?」
「……そうだよ。お前がこの前、俺に『ビル群の中に高いビルが建ってるのは当たり前だよな』とか、そういう変な理屈、言い出したときのことだよ。分かったな」
「話をすり替えないでくれ。浮気、だ。それで、俺はどうすりゃいいんだ?」
「どうすりゃいいって……。とりあえず、あんたは少し考えることね。私はしばらく実家に帰るから。あんた、独身気分を味わいたかったんだろ? どうぞご自由に」
「待て、本気か? 離婚する気か?」
「しないよ、大人になったら。でも、こっちも色々と考える時間がいるんだよ。じゃあな」
そう言って、ふかは一方的に電話を切った。残されたひろつぐは、しばらくスマホを見つめながらため息をついた。
「……こうなったら、実家に帰るしかないか。ハハ、まさかな」
その頃、ふかは実家に帰って、ボンヤリと畳の上で転がっていた。そこへ、幼い頃から世話になっている探偵の海から電話がかかってきた。
「もしもし、どうした?」
「あ、おじさん。まだ調べ続けてくれてる?」
「ああ。お前が言った日から、高橋(ひろつぐ)の男をずっと尾行してる。で、だんだん事態が面白くなってきた。今日、駅前で500万円の束をカバンから出してるのを見たぞ」
「へえ。やっぱりそうなんだ。やっぱり、単なる男の浮気じゃないんだ」
「ああ。どうやら、あの姑さんが絡んでるみたいだな。高橋の母のスマホに、『金は用意したか?』ってメールが来てるのを、俺がどうやって知ったと思う?」
「またウルトラ探偵の力?」
「まあな。で、だ。今から奴らに張り込みをする。お前も来るか? 面白いものを見せてやるぜ」
「……行く。今どこにいるの?」
「駅前の、喫茶店の前。で、これから、あの夫の高輪のマンションに向かう。待ち伏せだ。遅くなるなら、車出して」
「分かった。すぐ行く」
数時間後、高輪のマンションの前。ふかは海の車の中から、無人の薄暗いエントランスを見つめていた。すると、そこに一台の高級車が止まり、ひろつぐが降りてきた。そして、その隣には予想通り、姑の姿があった。
「やっぱりね。あの二人、つるんでる」
「ああ。どうやら、あの姑。息子に高級車を買い与える代わりに、お前から金を引き出そうって魂胆みたいだぜ」
「ふうん。そういうこと。私の会社の金を、私が許可したように見せかけて、どんぶらこってわけ?」
「そうだな。さっき、高橋が携帯で俺の知らない銀行口座に振込をしてるのを見た。これは、ちょっと面白くなってきたな。面白いから、こっちも少々、仕掛けをするか」
「おじさん、やるの?」
「ああ。まず、このデータを全部、警察に送っておく。で、その後、お前からは、こうして金をだまし取ったって証書類ができる。後は、ほっとけばいい。あっちから、何か言ってくるはずだ」
そして、三日後。決行日がやってきた。ふかの許に、姑から電話がかかってきた。
「もしもし、ふかさん? 今日、時間あるかしら。ホテルのラウンジでお茶しない?」
「いいですよ。何時ですか?」
「3時でどうかしら。あと、ひろつぐも呼んでるから」
「分かった」
ラウンジに着く。テーブルの向こうには、にこやかな笑顔の姑と、目を合わせようとしない夫が座っていた。ふかは無言で隣に座った。姑が切り出す。
「今日はね、ふかさんに話があって来てもらったの。この度、私とも、ひろつぐとも、手を切っていただくことはできないかと思ってね」
「……は? どういうことですか?」
「聞いてちょうだい。私ね、息子のくせに最近、会社の金を使い込んでるみたいなのよ。言葉にできないって、あの子、相談してくれたのよ。もう、私が泣きましたよ。でね、ふかさんの会社から、生活費としてガッポリと金を出させて、夫婦の連絡を取るのを制限しようって、そういう作戦に決めたのよ」
「はあ? ちょっと待ってください。何言ってるんですか? お母さん、逆じゃないですか? 私が会社のこと全部任せろって言って、あの会社を大きくしたんです。あげたっていいんですよ。ですが、ね? せいぜい、自分の首を絞めなさいよ」
姑の顔がこわばった。だが、すぐに強気な笑みを浮かべ直す。
「ふん。何を言っても無駄だよ。今日でお前は終わりだ。こっちには、お前の会社の顧問弁護士にでも連絡したっていいが、今、ここで『よかったね、おめでとう』としか言えないようにしておいたから」
「……何が言いたいんですか?」
「お前の会社の、内部告発資料。知ってるか? 粉飾決算の証拠は掴んだぞ。社員に賃金不払いがあったことも調べてある。これ、税理士から出した報告書のコピーだよ。どうだ? 言いたいことは言ったか?」
姑がバッグから書類の束を取り出した。その中には確かに、ふかの会社の内情が事細かに記されていた。だが、ふかは微動だにしなかった。代わりに、ニッコリと微笑んでこう言った。
「なるほどね。で、お母さんは、その資料をどうするつもりですか? 私が払わなければ、外部にばらすと? まさか、そんな下らないことのために俺の作った会社に泥を塗るとは思わなかったな」
「何を偉そうに! これでも、私は……」
「黙れください。こっちだってね、探偵社を付けて調べてもらってるんですよ。あなた達の企み、全部、録音してあるから。ほら、バッグの中のレコーダーでも聞きますか?」
そう言って、ふかがバッグから古いICレコーダーを取り出した。ボタンを押すと、つい先ほどの三人の会話がそのまま流れてきた。
「! 何、これ!?」
「終わったな、バーカってね。で、次、ひろつぐ君は喋る?」
ひろつぐは青ざめた顔で、がたがたと震えながら座っていた。かたわらのカバンには、知らない男が握らせた札束が詰まっていた。ふかは立ち上がり、スカートの裾をはらって続けた。
「夫婦は終わったかな。会長(?)は、どうだ。好きなだけあるがいいさ。ていうか、もうとっくに、こうなる運命だったんだよ。あなたの好きな『運命』ってやつだ。さあ、裁判でも何でも起こせば? こんな録音、裁判所に出せば、一発でひっくり返るよ」
「つまり、離婚ってことでいいんだな?」
「ああ、とっくのとうに。私はあんたのような男と一生を添い遂げる気はない。上手いところで、俺の会社の役員の誰かと結婚でもさせてもらうから」
「何てことだ……。ふか、相談に乗ってくれ。俺、仕事を失ったら、もう生きていけない……」
「生きていけない? だったら死ね。今、この瞬間に、だ。他の女にゃ、いくらでも生きていられるんだろ? 私にも、腹をくくれってんだ。真っ黒な心を持ってやがって。ああ、言っておくが、探偵代はそっち持ちだからな。100万、今日中に振り込んでくれ。じゃあな、永遠に」
ふかは、がたんと椅子を蹴って、ラウンジを出て行こうとした。だが、二歩進んだところで、振り返った。
「あ、そうだ。海さんに聞いたよ。あの新車のベンツ、ローン組んで買ったんだってね。まさか、あのローン、私名義で組んでるんじゃないだろうね? 無茶な真似は、やめとけよ。破産するぞ」
そう言って残した後、ふかは初めて、余裕の笑みを浮かべた。後ろの方で、何かを叫ぶ姑と夫の声が聞こえたが、もう二度と振り返ることはなかった。
一週間後、ふかの会社の顧問弁護士を通じて、正式な離婚届が提出された。実家で、母が「やっかい払いができてせいせいするよ」と、ほっと息をつく隣で、冷めた麦茶を一口飲みながら、ふかはゆっくりとテレビのニュースを見ていた。今日から心機一転、再出発である。
「まあ、いい生活をするよ。うん、絶対、幸せになってやる。私だけの力で」
とりあえず、パソコンを開き、会社の経理資料をひっくり返しながら、ふかは誰にも言うことのない一つの「企み」をそっと胸に抱えた。それは、探偵の海からもらった、あるユニットバス会社との提携プランだった。勝ち取った自由。それを何倍にも膨らませるのは、自分の腕次第だと、彼女は心の中で決意していた。その日の夜、ふかの携帯に、一本の着信が入る。相手は、夫、いや、元夫のはずだった。だけど、ふかはその着信を無視して、素っ気なく電話を切った。アクリル板で遮られた向こう側で、何かが終わった。すっきりした顔で立ち上がり、この日初めて、深く、深く、深呼吸をした。そこにはもう、何かに縛られる女はいなかった。
