あの日の電話は、まさにその一言から始まった。「あんたの月祝いでバーベキューやるから、週末うちに来なさい」。義母の声はいつも通り有無を言わせなかった。臨月の私は「できることなら家でじっとしておきたいです」と穏やかに断った。でも「妊婦は動かないといけないのよ」「あんたはうちの嫁なのよ」と畳みかけられ、さらに「夫の父が末期なの。おじい様が、もしかしたら出産に間に合わないかもしれない」と言われて、私…

あの日の電話は、まさにその一言から始まった。「あんたの月祝いでバーベキューやるから、週末うちに来なさい」。義母の声はいつも通り有無を言わせなかった。臨月の私は「できることなら家でじっとしておきたいです」と穏やかに断った。でも「妊婦は動かないといけないのよ」「あんたはうちの嫁なのよ」と畳みかけられ、さらに「夫の父が末期なの。おじい様が、もしかしたら出産に間に合わないかもしれない」と言われて、私...

あの日の電話は、まさにその一言から始まった。

「あんたの月祝いでバーベキューやるから、週末うちに来なさい」

義母の声は、いつものように有無を言わせない調子だった。私は腹に手を当て、もうすぐ生まれる子のことを考えながら、できるだけ穏やかに返した。

「お祝いなら、3でお願いします。元気な子が生まれるよう、気を使ってやってるんでしょ」

「できることなら家でじっとしておきたいです」

本当にそう思っていた。臨月の身体は重く、無理をすればすぐにお腹が張る。病院からも安静にしろと言われているわけではないが、無理は禁物だと医師にも言われていた。

「本当に常識がないのね。妊婦は動かないといけないのよ」

「はい、知ってます。自宅付近を毎日散歩してますので」

「じゃあ問題ないじゃない」

問題ありまくりだ。私はため息を飲み込んだ。お母さん主催のバーベキューには、嫌な思い出しかない。結婚して初めてのバーベキューでは、準備に追われて肉にありつけなかった。次の回は買い出しに行かされている間に終わってしまい、誰もいなくなった後の炭の残り火だけが残っていた。その次は、私の服に火の粉が飛んで軽い火傷をした。あれは火の粉なんかじゃなかった。義母がチャッカマンで私の服を間違えたんだ。いや、違う。あれはわざとだ。あの時、義母は笑っていた。

「お母さん、私は行けません」

「はあ? 何言ってるのよ。あんたはうちの嫁なのよ。我が家にとってバーベキューは伝統的なイベントなの」

「私、あれはやめた方がいいと思います」

「はあ?」

「前回、ご近所さんが怒鳴り込んできたじゃないですか。うるせえって」

「あんな変屈いさんの言うことなんて聞くことないのよ」

「住宅街の真ん中でバーベキューして大騒ぎっていうのは、いかがなものかと」

「あんたはうちの伝統を知らないから、そんなこと言うのよ」

「そうですか。では、伝統を守るべく頑張ってください」

「文句あるの?

「いえ、人ごとだと思ってるので」

「人ごとじゃないのよ。あんたも来なさい」

「何度断れば分かっていただけますか?」

「どうしても来て欲しい理由があるの」

「なんですか?」

義母の声が急に低くなった。何か企んでいる時の声だ。嫌な予感がした。

「夫の父が末期なのよ。おじい様が、もしかししたら出産に間に合わないかもしれないの」

一瞬、言葉を失った。義父は去年まで元気だった。沖縄に引っ越したと聞いていたが、病気だったのか。お世話になった人だ。孫の顔を見せられないかもしれないと言われれば、断る理由もなくなる。

「それは知りませんでした」

「大きいお腹だけでも見せてあげて欲しいのよ」

「おじい様にはよくしていただきましたし。そういうことでしたら、伺います」

「本当? 長時間は無理かもしれませんが」

「それでいいわ。あなたは何もしなくていいから」

「最初からそう言ってくださればよかったのに」

「義父は自分の病気のことを伏せたいらしいのよ」

「そうなんですか」

「だから、あってもそういう話はしないであげて」

「わかりました。夫のスケジュールも確認します」

「息子は連れてこないで」

「なぜですか? おじい様も私より孫に会いたいのでは?」

「あの2人は馬が合わないのよ」

「そんな話、聞いたことないんですが」

「平日の16時だし、どうせ仕事でしょ」

「確かにそうですが」

「あなた1人でいらっしゃい」

当日、私は一人で義実家を訪れた。玄関をくぐると、すでに宴は始まっていた。親戚が数人、庭で飲み食いしている。私はお腹をさすりながら、義父を探した。が、姿が見えない。具合が悪いのか、もう部屋で休んでいるのか。

「来たわね、おめでたいお腹を見せてちょうだい」

義母が私の前に立ちはだかった。顔は笑っているが、目が笑っていない。それにもうビールの匂いがプンプンする。酔ってるな、多分。

「お父様はどちらですか?」

「ああ、急に具合が悪くなったって、さっき病院に行ったわよ。あれ? 報告来てなかった?」

「いえ、聞いてませんが」

「あら、そう。まあ、せっかく来たんだから、お腹を見せてちょうだい」

言われるまま、私は少しだけ上着を開けた。大きくなったお腹が露わになる。義母はしげしげと見つめると、突然、冷たい感触が頭に広がった。ビールだ。グラスの中身を、頭からかけられた。

「ちょっと、何するんですか!」

「おめでとう! これで日本シリーズ優勝した気分でしょ!」

義母はゲラゲラと笑っている。わざとだ。明らかにわざと。私はしばらく呆気に取られて、濡れた髪から滴り落ちるビールの匂いを嗅いでいた。

「自分で妊娠を理由にサボってたんだから、お仕置きよ」

「サボってなんか…」

「ソファーで寝てたじゃない。休んでたって言ってたけど、何もしないなんて言った覚えないわよ。嫁がきたら働くのが当然よ」

「私、臨月の妊婦ですよ。お腹が張ってきたから、少し休ませてもらってただけです。それに、何もしなくていいって、あなたが言ったんじゃないですか」

「何もしないなんて、本当に何もしないなんて思わないでしょ。あなた、あんまりよ。私、妊娠中ずっと禁酒してるのに、ビールなんてかけられてたまるかって思ったわよ」

「一緒濡れ妊婦なんて、滅多に見れないものね。親戚もみんな笑ってくれてるわ」

義母が周囲を見渡す。が、そこに笑っている人はいなかった。親戚はみんな気まずそうに目をそらし、中には小さくため息をつく者もいた。むしろ、代わりにタオルを持ってきてくれたり、家まで送りますよと声をかけてくれた人もいた。うちの身内が愚かな嫁でごめんと、義理の姉が謝ってくれた。

「おかしいわね。私はつまづいてかけちゃっただけって説明したんだけど、みんな分かってないのね」

「それ、言ったら嘘でしょ? あなた、さっき「お仕置き」って言ったじゃないですか」

「当たり前でしょ。わざとビールをかけたなんて知られたら、私が悪者になるじゃない。それに、あんたが肉の一枚も焼かないからでしょ。私が二人分も動いてたのに」

「見てなかったから知りませんよ。あれだけ動いてたら、お腹が張って当たり前なんです。ちょっとソファーに座っただけで、こんな目に合うなんて」

「あんた、嫁が率先して働くべきでしょ」

「私、臨月なんですよ」

「だから何よ。昔の人は生む間際まで働いてたんだからね」

「そういう昔話は結構です」

「来月もやるから来なさいよ、あんた」

「あの、想像つきますよね。お母さんに限って言えば、来月のバーベキューは、きっとまた私が何か言われるんでしょ?」

「そりゃあ、お祝い事なんだから、孫の顔を見たいに決まってるじゃない」

「孫でしたら、生まれてからゆっくり見せます。それに、そもそも今日来たのは、おじい様に会うためです。おじい様は、いらっしゃらないんでしょう?」

「昨日、緊急入院になったのよ」

「だったら、昨日教えてくださいよ。私が来る理由がなかったでしょ。親戚もみんな会いたがってるから仕方なく来たのに」

「来てるのは、私以外に2名だけですけどね。昔はもっと集まったんだけどなあ。おじいちゃんもいないっていうし、本当に意味のない集まりになっちゃったわね。お父さんもいないみたいだし」

「皆さんがお忙しい時に、わざわざやる必要もないと思うんですが」

「うるさい。バーベキューをやるから人が集まるんでしょ。やらなければ、もっと集まらなくなるわよ」

「そうですか。では、お好きなだけやっててください。私は今日を最後にします」

「なんですって?」

「今までありがとうございました。二度と呼び出さないでください」

「おい、待ちなさいよ。おじいちゃんは、あんたが来るのを楽しみにしてたんだからね。孫に会えるかもしれないって」

「おじい様には、後日、連絡します」

私は濡れた服のまま、玄関へ向かおうとした。すると、義母が引き下がらない。

「孫が生まれたら、お披露目バーベキューをするのが、うちの家の伝統なんだからね。それに、おじいちゃんだって、死ぬ前にひ孫の顔が見たくて仕方ないんだからね」

「おじい様は、そんなこと一言も言ってなかったですよ」

私は振り返らず、玄関の下駄箱に手をかけた。もう、何を言っても無駄だ。これ以上、ここにいても、ただ嫌な思いをするだけだ。

家に帰ると、夫がソファでテレビを見ていた。私の姿を見て、驚いた顔をした。

「行ってきたよ、バーベキュー」

「行かなくていいって言ったのに」

「お母さんがあまりにもしつこかったからさ」

「母さんの連絡は無視していいって言っただろ」

「親戚付き合いも、妻の仕事かなと思ったのよ。大体、妊婦を呼びつけるなんて、どうかしてるよ。それで、何かあったの?」

「ビールをかけられた」

「は?」

「頭から。収蔵。わざと」

夫の顔が真っ青から、一気に赤くなった。私は、義母が言っていたことをそのまま伝えた。夫の祖父が末期だということ。出産に間に合わないかもしれないと言われて、その写真だけでも見せて欲しいと言われたから行ったんだ、と。

[音楽] 夫の顔を見て、私は違和感を覚えた。

「あれ、おじいちゃん、沖縄にいるんじゃないの?」

「え? そうなの? おじいちゃんに限って、そんなこと…」

「知らないの? 先週引っ越したんだよ。落ち着いたら招待するって、電話くれてただろ? あれ、流しちゃった?」

「え、そんな連絡、俺、聞いてないんだけど。それに、おじいちゃん、病気なの?」

「病気? 誰がそんなこと言ったの?」

「お母さんが。末期で、退院できないかもしれないって」

夫が、呆れたように天井を見上げ、長く息を吐いた。

「…嘘だよ、あれ。おじいちゃんは、昨日だってLINEで『大きなお腹の写真を見せて』って俺に送ってきてたもん。元気で、釣りにでも行ってるんだと思ってた」

「じゃあ、私、騙されたのね。そもそも、おじい様が沖縄に引っ越したって聞いてないよ。お母さんは、私を呼びつけてビールまではいいけど、何がしたかったんだろう」

「さあな。けど、あの人が沖縄に移住したのは、母さんのせいだってのは分かってるだろ。俺の育て方をあれこれ言って、おじいちゃんと喧嘩したんだよ。まあ、俺はずっとおじいちゃんの味方だったけど」

「なるほどね。そういうことか」

「何が?」

「お母さんは、おじいちゃんが私に会いたがってるって、仮病を使ったんじゃないの? そうでもしないと、私が来ないって分かってたから」

「ありえるな」

「それで、どうするんだ?」

「どうって… 俺からも、母さんに言っておくわ。妊婦にビールかけるとか、おかしいだろ」

「いいわよ、もう。あの人には、何を言っても無駄だって、身に染みて分かったから」

私はそう言って、ビールで濡れた服を着替えに、洗面所へと向かった。背中を向けたまま、夫に言った。

「もう、あの家の集まりには二度と行かないから。親戚付き合いたいなら、貴方が行けば? それか、もう、LINEも全部ブロックしておく」

「……わかった。俺も、母さんには、自分の方から連絡するのはやめるよ」

そして、静かな夜が始まった。妊娠というデリケートな時期に、実の夫の母親から酷い仕打ちを受けた私は、たった今、義理の家族と縁を切った。それは、悲しさよりも、むしろ清々しさに近いものだった。そして、来月のバーベキューがどれほど酷いものになるか、想像するまでもなかった。私は、自分のお腹の中の赤ちゃんを守ることを選んだのだ。義母の伝統とやらを知るために、命をかけるつもりはない。

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