「ヤッホー。お姉ちゃん、久しぶり。15年前にお姉ちゃんから奪った彼と、実家に帰るよ。だから、出て行く準備しておいてね」
突然の電話だった。姉は受話器を握る手に力が入るのを感じた。懐かしい声、いや、忘れたい声だった。
「はあ?何を馬鹿なこと言ってるの。今更何なのよ。15年も連絡もしてこなかったくせに、いきなり意味不明なことを言わないで」
「えー、私なりの気遣いだよ。だってさ、お姉ちゃん、私と会うの気まずいでしょ?だから、一応連絡してあげたんだよ」
「気遣い?あんたよく言うわね。15年も前に私の夫を奪って逃げたくせに、よく平気な顔して私の住む実家に帰ってこれるわね。何様のつもり?」
「でも、私の実家でもあるんだから、帰る権利あるよね。それに、どうせお姉ちゃんまだ独身でしょ?だったら、出て行った方が結婚できるんじゃないの?」
「独身だろうが一人暮らしだろうが、あんたに関係ないでしょ」
「うわ、そうやって言い訳ばっかりで、本当に惨めだよね。でもさ、出て行った方がお姉ちゃんのためだよ。さすがに元夫がいたら住みにくいでしょ?だから、出て行って欲しいの」
姉は頭が真っ白になった。元夫、その言葉に、15年前の記憶が鮮明に蘇る。妹は何も分かっていない。いや、分かっていて言っているのだ。
「元夫って…あんた何言ってるの?さっきから自分の主張ばかり。私がいたくないなら、来なければいいでしょ」
「ちょっと節約したいんだもん。実家なら家賃かからないじゃん。私の家でもあるんだし。お姉ちゃんが追い返すとか意味わかんない。勝手に決めないでよ。大体、私はお姉ちゃんと会いたくもないんだから」
「私の夫を略奪しておいて、どの面下げて帰ってきたのよ。ふざけんな」
「心は変わるんだよ。それに、お姉ちゃんが出て行くのは決定事項だから。私が帰るんだもん。当然でしょ?」
「当然?あんた、正気?」
「お姉ちゃんに拒否権なんてないから。実家の鍵、まだ同じでしょ?勝手に入るから大丈夫」
「何を勝手に…」
「お姉ちゃんの荷物も、適当に処分しておくね。部屋はそのまま使うから。ねえ、42歳で実家暮らしって、恥ずかしいよね。ちゃんと自立した方がいいよ。正直、キモいから」
「何が『実家だから帰る権利』よ。大体あんたこそ、15年も音信不通だったじゃない。それで『家は私の帰るところ』?思い上がるのもいい加減にしなさいよ」
「そんなの知らないし。家は家だもん。てか、お姉ちゃんこそ、なんで結婚しないの?」
「結婚より、仕事してる方が好きだからよ。もう結婚はごめんだわ」
「見栄っ張りは相変わらずだね。は?結婚できないのは、要するに、男に振り向いてもらえないからでしょ?お姉ちゃんって昔からどん臭かったもんね。だから浮気されるのよ。魅力がないから」
「それは、違うわ」
「何が違うの?確かに浮気した彼が悪いのかもね。でも、わざわざ私の夫を狙ったのは、お姉ちゃんじゃないでしょ?結果的に彼は私を選んだんだよ。分かる?仕事ばっかりで、彼の気持ちが離れたことにも気づかないで、奥さん面してたんだから」
「私は、仕事も家事も、全部やってきたのよ。それなのに、浮気されて…」
「それって、お姉ちゃんが悪いってことでしょ。私はちゃんと彼を満足させられたもん。お姉ちゃんができなかっただけ。お姉ちゃんに女としての魅力がなかったってことじゃん」
「違う…」
「仕事ができても、女としてダメなら意味ないんだよ。私はどれだけ頑張ってきたか。ねえ、でも結局浮気されたんでしょ?ってことは、頑張り方が間違ってたってことじゃん。お姉ちゃんって本当、頭悪いよね」
「…っ」
「だから、実家も当然私がもらうから」
「もらう?何言ってるの?」
「え?意味分かんない?でも安心してよ。家族の面倒は、適当に私が見てあげるから。お姉ちゃんは、養ってもらえる相手もいないし。施設とかどう?施設って、そんな年でもないけど。今から探しておいた方がいいんじゃない?よかったら、施設の写真とか送ってあげよっか?」
「大きなお世話よ。大体、なんでそんなこと言い出すのよ」
「しばらく、親と関わらないといけないんだもん」
「なんで今更、関わろうとするのよ」
「だって、その方がお金の管理もできるでしょ?最後にもらえるものも多くなるじゃん」
「…お金?」
「そう。遺産の話。最後には、私がもらうから。ねえ、お母さんたちの貯金とか、どうなってるの?ちゃんと貯めてるのかな?」
「ちょっと待って。お母さんたちの財産の話?まだ生きてるのに、そんな不謹慎なこと、よく言えるわね」
「まあ、どうせお姉ちゃん、一人じゃ何もできないでしょ。私が帰ったら、全部管理してあげるから。そうなれば、遺産は自然と私のものになるってわけ」
「遺産目当て…。ちょっと待って。あなた、本気でそんなこと考えてるの?」
「当たり前じゃん。お父さんとかお母さんの貯金とか、不動産とかあるでしょ?ゆくゆくは相続することになるんだから、その時は全部私がもらうから。お姉ちゃんには、無理でしょ」
「あんた、15年も連絡してこなかったくせに、いきなり遺産の話?正気?」
「お姉ちゃんこそ、ずっと実家にいたのに何してたの?お金、貯めてないの?あー、まあ、お姉ちゃんの稼ぎじゃ、無理か。私はちゃんと働いて、ちゃんと貯金もしてるけどね」
「へえ…。でも、どうせ大した額はないんでしょ?…あのさ、お父さんとお母さんの介護とか、どうするつもりなの?あんたが面倒見るって言ってたけど」
「介護?そんなの、施設に入れればいいじゃん」
「…!」
「お金あるんでしょ?お姉ちゃんが何とかすればいいじゃん。簡単に言うわね」
「だって、めんどくさいし。お姉ちゃんがやればいいじゃん。ずっと実家にいたんだから。あ、そうだ。お姉ちゃん、私が帰るまでに、部屋の掃除しといてね。あと、私の布団も、新しいの買っといて。お金はお姉ちゃんが出してよ」
「なんで、私が…」
「家族でしょ?当然じゃん。あとね、冷蔵庫も新しいのが欲しいから、買っといて。エアコンのクリーニングも、よろしくね」
「は?あんた、何言って…。家族?あんた、私のことは、もう妹ですらと思ってないのよ」
「血の繋がりもあるし、戸籍もあるんだから、家族でしょ。お姉ちゃんの主張とか、どうでもいいから。ぐちぐち言い訳しないでよ。みっともない」
「…」
「かわいそうに。ねえ、お姉ちゃんって、人生失敗したよね?私を見習えばいいのに」
「あんたみたいな、人の旦那を略奪するような奴から、見習うことなんて、1ミリもないわ」
「相変わらず、根に持ってるんだ。15年も前のこと、まだ言ってるの?さすがにどうかと思うよ。もう、過去のことなんだから、いい加減許したら?違うの?」
「過去のこと?あんた、謝罪の一言もなかったわよね?少しも」
「謝罪?なんで?」
「なんでって…本気で言ってるの?」
「だって、私、悪くないもん。お姺ちゃんに魅力がなかったから、彼が私を選んだんだよ。お姉ちゃんには、価値がなかったんだから。実家も、私がもらうから。両親だって、可愛い私の方が必要に決まってるし」
「…なんで、そう思えるのよ」
「だって、15年前もそうだったでしょ?お姉ちゃんの夫を奪ったけど、怒ってたのは、お姉ちゃんだけでしょ?あの時、お母さんも結局私の味方したじゃん。お姉ちゃんが一人で騒いでただけだし。だから、今回も私の味方してくれるに決まってるじゃん」
「それは…!」
「お母さんは、私のことを可愛がってくれてたもん。お姺ちゃんは、嫉妬してるだけなんだよ。お母さんは、あんたの行動に、いつも心を痛めてたのよ!」
「…そんなわけない。お母さんは、私のこと褒めてくれてたもん。『お姉ちゃんより、あんたの方が可愛い』って、言ってくれてたんだから」
「そっか。…分かった。もう、あんたに何を言っても無駄みたいね」
「でしょ?分かってくれて嬉しいよ。じゃあ、ちゃんと話そうか。私の帰る準備、進めてくれてる?」
その日から、姉は毎晩のように電話の前で震えた。妹の声は、15年前と変わらない。いや、あの時よりもずっと傲慢に、そして悪意を隠さなくなっていた。妹は、昔から自分が一番可愛がられるべきだと思っていた。何でも姉のものを欲しがり、奪ってきた。結婚相手である夫でさえも。
思い出すのは、15年前のあの日。妹と夫が一緒にいるのを見た瞬間。ショックでその場に立ちすくんだ。何が起こったのか、理解できなかった。家に帰って、夫を問い詰めると、夫はあっさりと認めた。悪びれる様子もなく、むしろ「君にはずっと不満があったんだ」と、最初から姉に非があったかのような言い草だった。
そこに、妹が現れて、笑った。
「ごめんね、お姉ちゃん。でも、彼はずっと私のことを見てくれてたんだよ。お互い、愛し合ったんだ」
姉は、その言葉に全身の血の気が引いた。妹はまるで、昔から彼と付き合っているかのように、自然と姉の家に上がり込んでいた。そして、二人の母は、涙を拭いながら、こう言ったのだ。
「お姉ちゃん、あなたが悪いんだよ。もっと、夫を大事にしないから…」
その言葉が、何よりも辛かった。父は何も言わなかった。ただ、深いため息をついて、部屋にこもった。そうして、彼女は家を追い出されるようにして、一人で生きてきた。あの日から、姉は恋愛も、結婚も、心の中でしまい込んだ。もう二度と、あんな思いをしたくなかったから。
それなのに、妹は今度は、お金を目当てに、実家に戻ってこようとしている。しかも、元夫を伴って。
「絶対に…絶対に許せない」
その夜、姉は両親に電話をした。母が出た。
「もしもし…お母さん。ちょっと、話があるんだけど…」
「あら、どうしたの?そんなに暗い声で。何かあったの?もしかして、あの子から連絡があったの?」
母は、なぜか自分が期待するかのような声を出した。その口調に、姉は不快感を覚える。
「…うん。なんか、あっちから実家に帰りたいって連絡があった」
「あら、そうなの?それは良かったわ。あの子も、ようやく落ち着いたのね。また、みんなで会えるわね」
「待ってよ、お母さん。帰りたいって言ってるのは、あいつと、あの夫の二人でよ?あいつに、家を追い出せって言われてるんだ。しかも、私の部屋の掃除やら、家具を買い替えろだの、遺産の話までしてきてるんだよ」
「まあ、しっかりしてるわね。あの子が、そんなことを?…でも、あの子も、あなたと仲良くしたいのよ。お姉ちゃん、嫌な顔しないで、迎えてあげなさいよ」
「は?嘘でしょ、お母さん…」
「あなたは、もともと不器用だから。あの子が言うことを、ちゃんと聞いてあげなさい。あの子も、あなたも家族でしょう?いつまでも、昔のことを引きずってないで、仲良くしなさい。それが、私の願いよ」
そう言って、母は一方的に電話を切った。姉は、あまりの理不尽さに、目の前が真っ暗になった。母は、昔から、妹の言いなりだった。妹がずる賢く立ち回れば、母はいつも妹の味方をした。父もまた、母には逆らえなかった。
結局、自分はあの家の中で、ただの誰かが困らないための調整役でしかなかったのだ。だとしたら、もう、迷うことはない。力づくで追い出すしかない。
数日後、家のチャイムが鳴った。姉は、深呼吸をして、ドアを開けた。そこには、15年ぶりに見る妹が立っていた。後ろには、かつての夫もいた。二人は、にこやかに笑っている。
「やっほー、姉ちゃん。久しぶり。ちゃんと掃除してくれた?」
「…ああ。じゃあ、上がれば。荷物は、玄関に置いといて」
姉は、珍しくにこやかだった。妹は、気分を良くして、上がり込んだ。新しい冷蔵庫とエアコンも、もう設置されている。姉は、前もって、不動産屋に連絡し、近くの賃貸マンションを手配してあった。もちろん、妹たちの名義で。
「わあ、冷蔵庫、新しくなってる!エアコンも!やるじゃん、姉ちゃん。手際がいいね」
「ええ。あなたが言った通りに、ちゃんとやったわよ。ただ、一つ言い忘れてたんだけど」
「何?」
「実家は、あんたが出て行くところだから」
姉は、書類をテーブルの上に置いた。妹と元夫は、顔を見合わせて、書類を手に取った。それは、賃貸契約書と、新しい鍵だった。
「ちょ、ちょっと待ってよ、これって…」
「そこには、あなたたちが今必要とする『家』と『アレ』を用意してあるわ。あの家は、もうじき売り払うから。手続きは全部、こっちで終わらせてある」
「はあ?何言ってるの?」
「あなたたち、実家に帰りたいんでしょ?だったら、家を用意してあげたのは、母と、この姉の役目よ。そうでしょ?ここには、もう鍵は渡したわ。どうぞ、出て行って。家には、もう帰らなくていいから」
「ふざけんな!お姉ちゃん、私たち、夫婦で帰るって言ったでしょ!」
「違うわ。実家に帰りたいって言ったのは、あなたよ。私は、『あなた』には、会いたくない。だから、こうして、あなたたちの新しい住まいを探してあげたの。感謝してよね。だって、あなたが言ったんでしょ?『お姺ちゃんが家族の面倒をちゃんとみるから、他人のためにここで必死に働くのは馬鹿馬鹿しいって』。だから、私は身を引くわ」
「…違う!そういう意味じゃ…!」
「家の鍵は、もう貴方たちのです。元気で。次の生活、頑張ってね」
姉は、そう言うと、ポカンと口を開けて立っている妹と元夫を引き離すように、ドアの外へ出した。そして、音を立てて、ドアを閉めた。
「…さようなら、私の一番嫌いな人たち」
ドアの向こうで、妹の怒鳴り声が聞こえた。ドアを叩く音が響く。
「おい!お姉ちゃん!ふざけんな!これじゃあ、何にもならないじゃん!出て来い!話し合おう!お姉ちゃん!」
姉は、背中を扉に預けて、ゆっくりと目を開けた。やがて、二人の怒声は、階段を下りていく音と共に、聞こえなくなった。
数分後、部屋に見に来た母から、電話がかかってきた。
「…お姉ちゃん、何てことしてくれたの?あの子たち、泣いて帰ってきたよ。あんな遠い場所に、二人きりで置いてきぼりにして」
「二人きりが、ちょうど良いんでしょ。子どもができたって、連絡が来たって、私は知らないわよ。あの家は、もう私の家じゃないもの。お母さんにも、姉としての役目は果たしたわ」
「何言ってるの…」
「お母さん、今度からは、あの二人の面倒、ちゃんと見てあげてね。それが、私の願いでもあるし、それがあの二人のためよ。お父さんにも、よろしく言っといて」
姉は、静かに電話を切った。
通話終了の画面をじっと見つめて、姉は何度も確認した。契約書には、新しい鍵が引っ付いたままだった。これで、物件がもう一件、増えた。
そう、自分の人生が失敗だというなら、もうこれ以上、愛想笑いをする必要はない。母からの愛情を一度ももらえなかったのは、自分だけじゃなかった。でも、この妹の言い分を聞く限り、きっと妹も同じだったんだろう。あの家は、最初から、私の居場所じゃなかったんだ。
姉は、カバンから、賃貸契約書の控えを広げた。新しい部屋の明細には、たった今、妹たちに貸したマンションの書類が紛れ込んでいたせいで、少しだけ家賃が安くなる。いや、何の関係もない話だけど。
姉は、一人で静かに笑った。新しい生活を始めるための、初めての笑顔だった。
それから、家の中を片付けた。自分の荷物は、もうほとんどダンボールに詰めてある。最後の段ボール箱に本を詰め込みながら、ふと窓の外を見ると、さっきまで妹たちがいたはずの道を、一台の車が走り去っていくのが見えた。
「…ちゃんと、別れを言わなかったね」
どこにでもいる、ただの家族の話。でも、自分には、これでいいのだと思えた。15年という長い間、背負ってきた鎖が、今、ようやく肩から外れたのだ。
部屋の中は、もう生活の匂いがしない。姉は、最後にもう一度、家の中を見渡した。もう、この家に未練はない。ドアを閉める。
「…新居の冷蔵庫、買わなくちゃね」
ぽつりと呟いて、姉は、新しい部屋の鍵が入った封筒を、胸に抱きしめた。もう、振り返らない。
その足で、姉は不動産屋へ向かい、今度は自分が住むための部屋を借りた。駅からは少し歩く、静かな物件だ。家賃も、自分の稼ぎでなんとか払える額だ。
「これで、やっと再出発だわ」
姉が新しく手に入れたのは、家族の呪いから解放された自由時間だけではなかった。居場所のないまま生きる覚悟と、一人で生きていく安心感だった。誰の顔色も窺わなくていい。誰に気を使うこともなく、誰のことで頭を悩ませることもない。
新しいアパートに戻った姉は、段ボールを開けた。そしたら、一番上にメモが挟んであったのを思い出した。
「…お姉ちゃんへ。 あなたは悪くないよ」(昔、自分の夫に姉の悪口を吹き込んだのは、自分でしたくせに)
姉は、そのメモに書かれた文字を、二回も三回も読み直した。やはり、実の母の筆跡ではない。してやられた、と思った。…まあ、いいか、あの程度のことで、娘を売るような親だったのだ。
「あっちには、もう、家も金もない。だけど、こっちには、仕事もある。俺は、これから何ができるんだろう」
誰もいない部屋で、姉は、新しく買ったばかりのカレンダーを壁に貼った。15年ぶりに手に入れた、自由という名の呪い。でも、その呪いの方が、あの居場所のない家にいるより、ずっとマシだ。
「よし。夕飯は…スーパーで半額の寿司でも買って帰るか」
足を引きずるようにして、アパートの周りを歩いた。日は沈み、夜の帳が降りようとしている。自分の影が、少しだけ長く伸びている気がした。
「…あの二人、無事にやれてるかなんて、考えないようにしてるのに」
三か月後、姉の元に、一通の封書が届いた。差出人は、母だった。
封を開けると、中には、一通の書類と、新しい鍵が入っていた。
「あなたに、この家を継いでもらいます。あの二人には、何も残しません。あなたこそが、私たちの本当の娘ですから」
姉は、呆気に取られてしまった。すると、倒れたのは、姉の方ではなく、母の方だった。
「…一回も会いに来なかったのに、何を今更」
今度は、母からの電話がかかってきた。
「お姉ちゃん…あの日のことは、本当に悪かったと思ってる。お母さんが、ちゃんとお姉ちゃんの味方をしてあげられなかったから…。でも、あの二人には、財産を渡したくない。全部、お姺ちゃんにあげる。だから、お願い。こっちに帰ってきてほしいの」
姉は、黙って話を聞いていた。昔の自分なら、確かに嬉しかったかもしれない。でも、今の自分には、この新しい部屋で、自分の人生がある。
「…お母さん、私は、あの家に縁がない女なんだよ。気持ちだけで十分ありがたいよ。体には、気をつけてね」
「まあ、そんな冷たいことを言わないで。なんなら、あの二人に手を出さないって誓ってくれるなら、この家は全部あなたのものにしてあげてもいいのよ」
苦笑いしながらも、姉は言った。
「お母さん、私は、あの二人に恨みはないよ。ただ、もう一回会うようなことがあったら、自分の力で生きてって言うだけさ」
「…そう。あなたは、昔っから強くて賢い子だったからね。じゃあ、せめて、たまには顔を見せに来てくれないか?お父さんも、寂しがってるんだよ」
その言葉を聞いて、姉は、少し迷った。しかし、自分が彼らに会う義務はない。でも、この自由は、自分のためだけに使っていいものではないのかもしれない、と思い始めていた。姉は、初めて、心からの笑顔で言った。
「…うん、考えてみるよ。その時は、よろしくね」
これが正しい選択かは分からない。でも、少なくとも、今は、この距離感がちょうどいい。姉は、電話を切ると、古びたテーブルの上に置いてあった、実家の写真を、そっと引き出しの中にしまった。もう、この思い出が、これからの自分を苦しめることはないように。
