「もしもし、ひろし?どこにいるの?今日は定休日でしょ。お店の掃除をやる約束だったじゃない」。その電話から、私の15年が音を立てて崩れ始めた。私は15年間、ほぼ無休で店に立ち続けてきた。父が倒れてから、潰れかけた寿司店を立て直したのは、決して彼一人じゃない。なのに彼は「お前の仕事は楽だろ。接客と裏方だけだろ、簡単なもんだ」と平然と言った。やがて彼は、私を女将から外し、元彼女のエリカを店の顔にす…

「もしもし、ひろし?どこにいるの?今日は定休日でしょ。お店の掃除をやる約束だったじゃない」。その電話から、私の15年が音を立てて崩れ始めた。私は15年間、ほぼ無休で店に立ち続けてきた。父が倒れてから、潰れかけた寿司店を立て直したのは、決して彼一人じゃない。なのに彼は「お前の仕事は楽だろ。接客と裏方だけだろ、簡単なもんだ」と平然と言った。やがて彼は、私を女将から外し、元彼女のエリカを店の顔にす...

「もしもし、ひろし?どこにいるの?今日は定休日でしょ。お店の掃除をやる約束だったじゃない。まさかもう店に行ってるの?」

「悪いな、今日は給料が入ったからパスで。」

「え、ちょっと待ってよ。私一人でやれって言うの?」

「うちの若い職人たちが何人もいるだろ。あいつらに連絡して、やらせておけばいいんだよ。」

「そんな急に呼べるわけないでしょ。一応、今日は休みってことになってるんだから。」

「休日出勤なんて、この業界じゃ常識だろ。」

「それなら、あなたこそ仕事をしないといけないんじゃないの?」

「俺は毎日握ってるんだぞ。おかげで店も大人気だ。そんな俺が、休みの日まで働かないといけないのか?」

「私は15年くらい、もう無休で働き続けてるのよ。」

「それはお前の仕事が楽だからだろ。接客と裏方だけだろ、簡単なもんだ。」

「そんなわけないでしょ。あなた、私の仕事をちっとも理解してくれてないのね。」

「それはこっちのセリフだ。親父の潰れかけた店を立て直したのは俺だ。そのことは分かってるのか?」

「あなたもその一員だってことは分かってるわよ。でも、一員でしかないって自覚してよ。店はあなただけじゃないんだから。私も含めて、みんなで立て直せたんでしょ。」

「そんなわけねえだろうが。俺以外が何をしたって、結果は変わらなかったさ。俺の味を求めて、たくさんの常連客が来てるんだ。」

「自信を持つのはいいけど、過剰になりすぎよ。特に最近のあなたは。」

「ようやく周りが俺を認めてくれたんだよ。」

「あんまり調子に乗らない方がいいわよ。いつか足元をすくわれるから。」

「俺がそんなことになるわけがないだろ。なめるなよ。」

「お願いだから。お父さんが作ったお店の看板に、泥を塗るようなことはしないでよ。」

「あんなやつは、もうとっくに超えてるよ。」

「それは大きな勘違いよ。」

「何だって?」

「もう来ないのなら、別にいいわ。私一人で掃除はやっておくから。」

「それは別にいいけど、店の味を落とすようなことだけはしないでよ。」

「そんなことするわけがないだろう。」

「じゃあ、好きにしたらいいわ。」

一時間後。

「とみさん、ちょっと予約を取りたいんだけど、いいかしら?」

「エリカさん、予約は公式ホームページから取れますので、そちらでお願いします、と以前もお伝えしたはずですが。」

「だって、それだと取れないんだもん。あなたたちの店って、本当にいつも予約がいっぱいじゃない。」

「ありがたいことに、そうなってます。ですけど、直接私に連絡をされても困りますよ。」

「だって、ひろしがこのLINEで連絡してくれれば、いつでも予約を入れてやるって言ってくれたんだもん。」

「ひろしからそう言われてます。ですから、これまでに二度ほど予約はお受けしましたが、さすがにもう無理です。あなたをお入れするということは、他のお客様たちに迷惑がかかることになりますから。」

「大学時代からのお友達だったんですよね?」

「そうそう。とっても仲良しだったのよ。だから、そんな私の予約を断ったりしたら、ひろしに怒られちゃうわよ。それでもいいの?」

「分かりました。予約は入れておきます。ですが、これが最後だと思ってくださいね。」

「ええ、もちろんよ。これがきっと最後になると思うから。」

「そうなんですか。」

「うん。あなたにお願いするのは、これが最後よ。」

一週間後。

「前田さん、お世話になっております。明日なんですけど、ご予約のお客様の中に白身魚をお好きな方がいらっしゃるので、いつもより多めに仕入れさせてもらいたいんですが、大丈夫ですか?」

「そうだなあ。明日なら、ひらめやかんぱち、あたりは多めに入れることができるよ。特に、かんぱちは旬だから身が締まってていいと思う。」

「ありがとうございます。では、その辺りを明日、買い付けさせてもらいます。」

「分かった。すぐに出せるように準備しておくよ。」

「いつもありがとうございます。前田さんのところの魚は、とにかく新鮮でお客様たちからも評判ですよ。」

「そこは自信を持ってやらせてもらってるよ。何せ、うちは歴史があるからね。漁師との繋がりもあるしさ。」

「本当にありがとうございます。」

「でも、とみさんの店も繁盛してるって、俺のところまで噂が回ってくるよ。」

「本当ですか?正直、やっと黒字になったくらいですけど。」

「おお、そうか。ずっとあんたのところは大変だったからな。仙代の旦那は腕は一級品だったが、商売の才能はからきしだったからな。」

「そのせいで、店が潰れかけてたくらいですからね。」

「でも、本当に腕も人柄も素晴らしい人だったんですよ。私は今も、お父さんの握ったお寿司が忘れられませんからね。」

「それは俺も一緒だよ。あの人と一緒に仕事ができることが誇りでもあった。でも、仙代の旦那が病気で倒れてから、ここまで立て直すとは思ってもなかったよ。本当にあんたは腕のある女将さんだよ。」

「いえ、私なんて、本当に大したことでは。」

「で、旦那はどうしてるんだ?」

「一応、店には立ってくれてますけど、どんどん態度が大きくなっていってますね。周りからちやほやされて、調子に乗ってるようです。」

「まあ、そうなるだろうとは思ってたよ。あんたも大変だね。」

「最初は真面目に、お父さんの下で修行してたんですけどね。どんどんおかしくなってます。」

「問題が何か起こる前に対処した方がいいよ。じゃないと、今度こそ店が潰れてしまうから。」

「そうですよね。なんとかしたいと思います。」

「まあ、任せておけば大丈夫だろうけどさ。それじゃあ、明日よろしくな。」

「はい、よろしくお願いします。」

そして、一ヶ月後。

「とみ、ちょっと話があるんだけど、いいか?」

「話?何よ、急に。」

「店の将来について、話したいことがあるんだ。」

「それなら、お店に来てくれる?こっちはあなたの分まで、定休日に店の清掃とか、いろいろとやってるのよ。」

「いや、LINEで話をさせてほしい。」

「何よ。改まって。」

「これから、俺はこの店をもっと大きくしたいと思ってる。」

「大きく?そうね。今の状態じゃ、お客さんをたくさん待たせないといけないもんね。もう少し広くなって、数が増えるだけで、全然変わってくるはずよね。」

「だから、これからはもっと店の格を上げたいと思ってる。」

「か、どうやって上げるの?」

「女将をお前から、エリカに変えようと思ってる。」

「は?何それ?」

「そうしないと、上を目指すことはできないんだ。」

「意味が分からないわ。」

「潰れかけた店が、ここまで立て直せたのは良かった。だけど、ここから先は、もうお前と一緒じゃ無理なんだ。」

「じゃあ、そのエリカさんを女将にするって言うの?」

「そうだ。それが一番いいと思ってるからさ。」

「なんでよ。」

「エリカは、めちゃくちゃ美人なんだよ。大学の時はミスキャンパスに選ばれるくらいだったんだ。芸能事務所からも声がかかってたくらいだしな。」

「でも、それは昔の話でしょ。」

「いや、今でも十分に美貌を保ってる。女将ってのは、店の顔でもあるんだ。となると、美人の方がいいに決まってるだろ。」

「あなたは自分の妻に向かって、何を言ってるのか自覚してる?」

「もちろん、妻としてお前には感謝してるよ。でも、これはビジネスとしての話なんだ。」

「本気で言ってるみたいね。」

「ああ。女将は、元彼女のエリカに任せる。お前には無理だしな。」

「やっぱり、あなたたち、元々恋人同士だったのね。」

「あれ、気づいてたのか。」

「エリカさんが、分かりやすく匂わせてくれてたのよ。なんでそんなことをしてくるのか、意味は分からなかったけどね。」

「エリカが何かしたのか?」

「だから、あなたと私の関係を知ってる人たちに、あなたとの過去をほのめかすようなことを、ずっとしてきてたのよ。私にも、何度か。」

「そうだったのか……まあ、隠すようなことでもなかったからな。」

「そうじゃないでしょ。問題は、あなたがそれを止めなかったことよ。私たちは夫婦でしょ?それなのに、あなたの元彼女が、あなたの妻である私の前で、あなたとの思い出を語るのよ?あなたがそれを許してるってことが、どれだけ私を傷つけるか、分かってるの?」

「……悪かった。エリカに言っておくよ、そんなことはするなって。」

「もういいわ。それより、本題は何?女将をエリカさんに変えたいの?」

「ああ。お前には、今まで本当に感謝してる。でも、これからの店のことを考えたら、あのくらいの看板娘が必要なんだ。」

「私があなたの足を引っ張ってるって言いたいの?」

「そうは言ってない。ただ、店の格を上げるためには、俺の妻であることだけが取り柄みたいな女将より、見た目も中身も魅力的な人が必要なんだ。」

「……ひどい人ね。」

「ビジネスなんだ。割り切ってくれ。」

「もし、その提案を呑まなかったら?」

「そのときは、俺とエリカで新しい店を出すだけだよ。お前には悪いけどな。」

「……あなた、本気で言ってるの?」

「ああ。もう決めたことだ。」

「……分かった。好きにすればいいわ。私は、あなたがお父さんから継いだこの店を、必ず立て直して見せるって決めたんだもの。あなたがどんなに私を貶めようと、私はあの人が残してくれたこの看板を、絶対に守ってみせる。」

「……そこまで言うなら、好きにすればいい。ただし、俺の店に手を出すなよ。」

「この店は、あなただけのものじゃない。あの人のものでもない。私と、そしてみんなで作ってきた店よ。あなたがそれを忘れても、私は覚えてるから。」

「言いたいことはそれだけか?」

「ええ。もう、あなたに伝えることは何もないわ。」

「なら、これで失礼する。」

「……とみ。」

「何だ?」

「あなたに、この店を出て行かれたあとのことは、きっと後悔させてみせるから。私が、お父さんのように立派な店にしてみせるから。あなたが、何を言おうと、何をしてこようと、私は絶対にここを離れない。」

「……好きにしろ。」

ひろしは、そのまま通話を切った。とみは、しばらくの間、机に突っ伏して動けなかった。目の前には、お父さんが本当に大切にしていた、古い木の看板が飾ってある。それが、涙で歪んで見えた。

その夜、とみは一つの決意を固めた。もはや、ひろしとの夫婦関係を修復することはできない。でも、この店だけは、絶対に守る。そのためには、どんな仕事でもする。明日から、またあの店で笑うんだ。お客様の前で、絶対に弱い姿なんて見せない。

翌日、とみが店に着くと、若い職人たちがオープン前の準備をしていた。

「おはよう、女将さん。今日も一日、よろしくお願いします。」

「ええ、おはよう。今日も一日、よろしくね。」

とみは、いつも通りの笑顔で答えた。もう涙は出なかった。

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