「かおり、またその話か。何回目だよ」
翔平はスマートフォン越しに、面倒くさそうなため息をついた。かおりはリビングのソファに座ったまま、何度も同じ台詞を繰り返す夫の顔を思い浮かべた。いや、正確には、もうすぐ元夫になる男の。
「いや、でも、もう私だけでの介護はきつくって。せめて週に何度かだけでも、ヘルパーを雇えない?」
「ヘルパーなんて雇っても、コスパ悪いだけだ」
翔平の口癖だった。彼は一流の経営コンサルタントで、あらゆる物事を費用対効果で測る男だった。かおりは彼のそういう在り方を、長い間、理解しようとしてきた。しかし、それは日常生活にまで及ぶべきではなかった。
「いつもそれね。費用対効果ばかり。経営コンサルだからって、日常生活にまで持ち込まないでよ」
「それに、離婚後も介護はお前に任せるんだ。今からそんな調子じゃ困るんだが」
かおりは一瞬、言葉を失った。離婚。いま、確かに彼は「離婚」と言った。二人の間にはまだ、そんな話は一度も出ていなかったはずだ。
「ちょっと待って。離婚? まだ言ってなかったっけ?」
「言ってないってか、聞いてないのか? ああ、そういうことか。俺の愛人が妊娠してな。だから離婚する。ただし、介護は引き続きお前に任せるから」
「ふざけないで!」
かおりはソファから立ち上がり、声を荒げた。
「さっきから何言ってるの? 感情的になるなよ。これで冷静でいられるなら、そいつはロボットでしょ」
「お前が騒いでも結果は変わらないんだ。なのに感情的になっても、コスパ悪いだけだろう」
「そういう問題じゃないでしょ!」
「だろうけど、ヘルパーを雇ったって、すぐには無理だろう。手続きとか契約とか、色々あるからな。その間、母さんの介護を俺がやるのはコスパが悪い。その点、お前はタイムラグなしで毎日介護できる」
「だからって、普通の状況で私に介護させるの?」
「まあ安心しろ。できないことはない。とはいえ、だ。俺と離婚したら、お前は生活にも困るだろう」
かおりは唇を噛んだ。確かに、彼の言う通りだった。彼女はここ数年、専業主婦として夫の母親である翔平の母、澄江の介護に専念してきた。仕事をしていたのは結婚前で、それもネットニュースのライターとしてだった。今さら職に戻れるようなスキルはない。
「確かに、私は専業主婦だし。今さら仕事に戻れるとは思わない。でも」
「だからだ。母さんの介護をしてくれるなら、金は払ってやる。条件だけ見れば、世話ができるだけで感謝して欲しいくらいだ」
「信じられない。あなた、バカなんじゃないの?」
「収入もないお前が断る方が、どうかしてるんだよ。冷静になれって言ったろ。離婚後の自分の生活を、しっかり考えろ」
「調子に乗るな。クズ男」
「ああ、とは言ったけど、お前の言ってることも一理あるんだよ」
「何が?」
「まあ、いい。このままLINEで詳細を説明するのも、さすがに非効率的だしな。書面でまとめるから、後で渡す」
「そんな事務的な……」
「帰ったら、契約条件と詳細を伝える。金なしで離婚するか、仕事だけはもらって離婚するか。どっちがマシか、バカでも分かるだろう」
通話が一方的に切れた。かおりはスマートフォンを握りしめたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。胸の奥で何かが冷たく固まっていく感覚があった。感情が昂ると、彼女は逆に冷静になっていくところがあった。
翌朝、かおりは覚悟を決めて、澄江の部屋のドアを叩いた。澄江は車椅子に乗って、テレビを見ていた。かおりが入っていくと、澄江は鋭い目つきで彼女を睨んだ。
「おい、あんた。昨夜はどういうことだ」
「お母さん、昨夜って、連絡を入れましたよね? 翔平が電話をしてきたって」
「ああ、そういえば夜中に電話が来たな。なんで出なかったんだ?」
「いえ、寝てましたので」
「はあ? 寝てた? 私の介護を差し置いて、よく寝られたものだな」
澄江は鼻で笑った。彼女はいつもそうだった。息子の翔平と同じで、人の気持ちを考えず、自分の都合だけを押し付ける。
「あんたは自覚が足りないんだよ」
「自覚? 何の自覚ですか?」
「嫁としての自覚だよ」
「あの、翔平から聞かされてないんですか? 私、翔平とは離婚することになりましたので」
「そんなの関係ないだろ。あんたは私の介護要員だ。離婚しようが、嫁は嫁だ」
「謎理論やめてください。離婚したら、私はただの他人です」
「そもそも、あんたは翔平に雇われたんだろ? なら、私の介護はあんたの仕事だ」
「翔平から提示された雇用内容、見ましたよ。何ですか、これ? 給料は日当払いで、1日3000円。勤務時間は、緊急対応も含めて24時間。しかも、この家に住み込み。何が問題なの?」
「あのね、問題しかないでしょう。24時間拘束されて1日3000円って、時給換算で125円ですよ。最低賃金を下回るなんてもんじゃない。ブラックを通り越して、もはや国の機関ですよ」
「今まで、ただでやってたんだから、贅沢を言わないでくださいね」
「30日24時間働いて9万円。それで生活できるとでも? 社会生活すら送れませんよ」
「捨てられた嫁の財布を考えると、そんなに出すなんて、うちの翔平も太っ腹だね」
「利用する気満々ですね。確かに、コスパ重視の翔平の考えそうなことです」
「でしょ? まあ、あれだ。経営コンサルとは思えない、詰めの甘さだけどな」
「何がです?」
「いや、こっちの話です。翔平の行動の意味が分かったというか」
「何を訳の分からないことを。まあいいわ。そういうわけで、今後もあんたには働いてもらうから、よろしく頼むよ」
「はい、分かりました。早速、明日からそちらで住み込みで働きます。しっかり、再利用させていただきますね」
「再利用されるのは、あんたの方でしょう。私の介護は任せたわよ」
一週間後、澄江の家に住み込みで働き始めた初日、翔平が不機嫌そうな顔でやって来た。
「いや、助かったよ。まさか、あの条件で働くなんてな」
「自分で出した条件なのに、ひどい言い草ね。一般的な感覚で言ったら、断るわよ、そんなの」
「そうだろうな。いくら住み込みとはいえ、労働条件は最悪だしな」
「でしょ? でも、あなたは断れない。私、両親はもういないし、親戚付き合いもない。長年の専業主婦生活で、頼れる友達もいない。その上、今回の財産分与や慰謝料の支払いは、どれだけ頑張っても、即座には終わらないでしょうね」
「ああ、俺の弁護士の見立てじゃ、あと数ヶ月は猶予を取れるそうだ」
「行く当てもない私は、その間を食いつなぐため、この最悪な労働条件で働くしかないってわけね」
「そういうことだ」
「全部、計算だったの?」
「これでも、経営コンサルとして、経営戦略を考えてるんだよ。この程度のことは朝飯前だ」
「そういえば、本を出すんだって? おめでとう」
「ああ、母さんから聞いたのか。『経営コンサルが教えるコストカットの極意』ってやつだ」
「これでも有名な経営コンサルだからな。この間も、テレビでコメンテーターをやってたし」
「タレントの真似もしてるのね」
「コンサルってのは、知名度が命なんだよ。ああ、やって名前を売るのも仕事のうちだ」
「それは、ご苦労様ってところね」
その時、翔平のスマートフォンが鳴った。画面には「母」の表示。
「ああ、何だ? 母さんから連絡か。ちょっと待ってろ」
翔平が通話に出て、数秒話した後、眉をひそめた。
「あー、分かった。あとでかけ直すから」
通話を切った翔平は、かおりに向き直って言った。
「車椅子の調子が悪いらしい」
「あら、そうなの? それで、あなたが直しに行かないの?」
「はあ? そんなことで、いちいち俺に連絡を入れるなよ」
「でも、お母さんはあなたを頼りにされてるんでしょ? 息子なんだから、喜べばいいのに」
「親がもういないお前には、分からないだろうな」
かおりは一瞬、目を見開いた。確かに彼女の両親は、もうとっくにこの世にいない。それは、彼が踏んでいい一線を、確実に越えていた。
「ああ、分かったよ。こういう感情的なところが、コスパが悪いんだ。介護する側が、こんなにめんどくさいとか、ありえないだろ」
「やっぱり、あなたのそういうところよ。感情的な親が、効率重視のあなたと合わないのも、当然ね」
「そういうことだ」
澄江は、車椅子を回して、二人の間に割って入るように現れた。
「何騒いでるんだ、あんたら。まあいいわ。かおり、私、お腹すいたの。朝ご飯、まだなのよ」
「はいはい、すぐ用意しますね」
かおりは台所に向かおうとした。しかし、澄江は続けた。
「それから、その辺の掃除もしておきなさいよ。ほこりが溜まってるんだから」
「分かりました。言われた通りにしますよ。何せ、私は雇われてる身ですからね。今はの話ですけど」
「何言ってるの? あんたは、もうずっと雇われ続けるんだからね、覚悟しておきなさいよ」
「まあ、どうなるかは、分かりませんけどね」
かおりは、冷ややかな笑みを浮かべると、席を立った。澄江と翔平は、その背中を見送りながら、顔を見合わせた。
翔平が帰った後、澄江は突然、かおりに話しかけた。
「なあ、あんた。さっき、翔平と電話してただろ。俺はこう思ったって。あの電話、本当は何だったんだ?」
かおりは、手を止めて振り返った。
「何のことですか?」
「まあいいさ。どうせ、あんたはあの男と正式に離婚するんだろうし。それまで、精々、私の介護をしてくれればいいさ」
「ええ、そうさせてもらいますよ。ただ、ちょっと気になることがあるんで、言っておきますね」
「何だ? 改まって」
「この条件、よく考えたら、あの人、私を完全に舐めてますよね?」
「どういう意味だ?」
「だって、住み込みで1日3000円。24時間拘束で、休みも保証されてない。これって、完全に労働搾取ですよ」
「何を今さら。そんなことは、最初から分かってただろ?」
「ええ、分かってましたよ。分かった上で、私は引き受けたんです。ただし、これでずっと続けるつもりはありませんからね」
「はあ? あんた、何言ってるんだ?」
「翔平、じゃなかった。お義母さん。あなたの息子さんは、本当に自分が賢いと思ってるみたいですね。でもね、私は、あなたの遺産が欲しいわけでもないし、この家にずっといたいわけでもない。ただ、この生活を続ける間に、あいつへの復讐の機会をずっとうかがってるんですよ」
「か、かおり? 何を」
「安心してください。あなたには手を出しませんから。でも、あの男には、必ず代償を払わせます。私をゴミ同然に扱った代償を」
澄江は何も言えず、ただ口を開けていた。かおりは、澄江の車椅子を回して、リビングに戻ると、何食わぬ顔でテレビのリモコンを手に取った。
「さて、お母さん。何か食べたいものですけど、何を作りましょうか? 冷蔵庫の中にあるものだと、うどんとか、うどんとか、うどんくらいしかないんですけどね」
澄江は、かおりの背中を見ながら、何かを言おうとして、やめた。何だか、今の彼女には、逆らってはいけない何かを感じたからだ。
その夜、かおりは、自室でスマートフォンを開いた。画面には、とある弁護士事務所のホームページが映っていた。彼女は、その連絡先の文字を、じっと見つめていた。
「さあ、始めましょうか。コスパ重視の元夫に、思い知らせてやる日が、来るのは、もうすぐよ」
かおりは、電話をかける前に、一度だけ、深く息を吐いた。そして、コールボタンを押した。
「もしもし、こちら、かおりと申します。ですが、あなたの事務所に依頼する前に、まずは、私がどういう人間か、知っておいてもらった方がいいと思いますので。お時間、いただけますか?」
その日の、深夜のことだった。翔平の家に、一本の電話が入った。
「もしもし、私、翔平です。ああ、母さんから聞いたって? いや、まさか、俺もビックリしてるんだよ。かおりが急に、親戚の家に口をきいて貰えるように、手配してくれなんて言い出してな。いや、介護の押し付け合いをしてるわけじゃないんだが……いや、本当にどうしたもんかな」
その翌日、翔平の家に、見覚えのない封書が届いた。それは、かおりの着任を伝える手紙ではなく、一通の請求書だった。1日3000円×30日分。いや、それだけではない。請求書の明細には、法外な金額が並んでいた。
「何だ、これは?」
翔平は、封書を机の上に投げ捨てた。その下には、一通の付箋が添えられていた。
「慰謝料、お疲れ様でした。とりあえず、今までの分を、明細通りに支払ってください。詳細は、追って弁護士から通知します。ちなみに、その間の介護サービスは、正常なコストとして計上させてもらいました。コスパの良い選択を、お祈りしてます」
翔平は、その付箋を握りつぶし、歯を食いしばった。そして、しばらくの間、その場に立ち尽くすことしかできなかった。時間が、ゆっくりと過ぎていく。いや、過ぎていくだけの時間が、ただそこにあった。
>>かおりの復讐、ここに始まる。# ああ、何度も言うが、俺は知らないぜ。多分、これから、長い長い戦いが始まるんだろうな。期待してるよ、翔平。お前の負けっぷりを、楽しみにしてるぜ。
