「月祝いのバーベキューをやるから、週末はうちに来なさい」
電話の向こうで、義母が命令するように言った。私はスマホを耳に当てたまま、ため息を飲み込んだ。
「お祝いなら、やめておきます」
「何言ってるの。元気な子が生まれるように、気を遣ってやってるんでしょ」
「できることなら、家でじっとしておきたいです」
「本当に常識がないんだから。妊婦は動かないといけないのよ」
「はい、知ってます。自宅の周りを毎日散歩してますから」
「だったら問題ないでしょ」
私は目を閉じた。この会話、何度も繰り返してきた。義母が主催するバーベキューには、嫌な思い出しかない。
「3年前、結婚して初めてのバーベキューのとき、私はお肉を一切れも食べられませんでした」
「そうだったかしら」
「その次は、買い出しに行かされている間に終わってしまって、誰もいませんでした」
「そんなことあった?」
「その次は、私の服に火がついて、軽い火傷をしました」
「あれは火の粉が飛んだだけでしょう?」
「いいえ、お母さんがチャッカマンで私の服と間違えたあと、笑ってらっしゃいました。覚えてます」
「そんな昔のことをいつまでも」
「1年前のことです。警察に行かなかったのは、夫の仕事が大事な時期で、影響が出ないように配慮しただけです」
「昔話はいいから、来なさいよ。親戚もあなたに会いたがってるわ」
「遠慮します」
「妊婦のあなたに、危険なことをするわけがないでしょう」
「そこを信用できないから、参加したくないんです」
「あんたはうちの嫁でしょ。我が家にとってバーベキューは一大イベントなの」
「私、あれはやめたほうがいいと思います」
「はあ?」
「前回、ご近所さんが怒鳴り込んできたじゃないですか。『うるせえ!』って」
「あんな変人の言うことなんて、聞くことないのよ」
「住宅街のど真ん中でバーベキューをして大騒ぎするのは、どうかと思うんですが」
「あんたはうちの伝統を知らないから、そんなこと言うのよ」
「そうですか。では、伝統を守るべく頑張ってください」
「人ごとじゃないのよ。あんたも来なさい」
「何度お断りしたら分かっていただけるんですか?」
「どうしても来てほしい理由があるの」
「なんですか?」
「夫の父、つまり義父が末期がんなのよ」
私は一瞬、言葉を失った。
「おじい様が…」
「もしかしたら、あんたの出産に間に合わないかもしれないの」
「それは…知りませんでした」
「大きなお腹だけでも見せてあげてほしいの。お願い」
「おじい様には、よくしていただきましたし…そういうことでしたら、伺います」
「本当?」
「長時間は無理かもしれませんが」
「それでいいわ。あんたは何もしなくていいから」
「最初からそう言ってくださればよかったのに」
「義父は自分の病気のことを伏せたいらしいのよ」
「そうなんですか」
「だから、あってもそういう話はしないであげて」
「分かりました。夫のスケジュールも確認します」
「息子は連れてこないで」
「なぜですか? おじい様も、私よりは孫に会いたいのでは?」
「あの2人は馬が合わないのよ」
「そんな話、聞いたことないんですが」
「平日の16時だし、どうせ仕事でしょ」
「確かに、そうですが」
「あなた1人でいらっしゃい」
バーベキュー当日。
義母は私の姿を見るなり、缶ビールを手に近づいてきた。そして、笑顔のまま、いきなり頭からビールをかけた。
「あっ…」
「どう? 日本シリーズ優勝した気分は?」
周りの親戚が、一瞬で静かになる。私はずぶ濡れだった。お腹の大きい身体に、冷たいビールが張り付く。
「…なんで、こんなことするんですか?」
「妊婦を言い訳にしてサボる嫁に、お仕置きしただけよ」
「何もしなくていいって言ったじゃないですか」
「本当に何もしないなんて、思わないでしょ」
「ひどすぎます。私、お酒は一滴も飲めないのに」
「妊婦がずぶ濡れになる姿なんて、滅多に見れないわね。ほら、おじさんたちも笑ってるわよ」
私は周りを見渡した。だが、親戚たちは笑っていなかった。むしろ、義母を冷たい目で見ている。
「…笑ってないですよ。タオルを貸してくれたり、家まで送ってあげるって言ってくれたり。『うちの身内がごめんなさい』って、謝ってくれました」
「おかしいわね。私は『つまづいてビールをかけてしまった』って説明したんだけど」
「それ、嘘じゃないですか?」
「当たり前でしょ。わざとビールをかけたなんて知られたら、私が責められるじゃない」
「ですよね。それだけのことしたんですから」
「あんたがお肉を一切れも焼かなかったからでしょ」
「私は下準備もしましたし、食器も出しました。動いてましたよ」
「私は見てないから知らないわ。休んでただけじゃない」
「お腹が張ってきたから、ソファで5分だけ休んだんです。それであんなことをされるんですか?」
「嫁が率先して働くべきでしょ」
「私は妊娠9ヶ月の妊婦ですよ?」
「だから何? 昔の人は、産む直前まで働いてたわよ」
「そういう昔話は結構です。…来月もやるから、来なさいよ」
「あの、想像つきますよね」
「何よ」
「3回ですよ。これで3回目。昔の人は産んですぐ働いてたんですか? 私は現代に生きる妊婦です。昔の価値観を押し付けないでください」
「余裕がありすぎるのよ」
「そもそも、なんですが…おじい様は不在でしたよね。私に会いたいって話じゃなかったんですか?」
「昨日、緊急入院になったの」
「だったら、昨日教えてくださいよ。私が来る理由がなかったってことになるじゃないですか」
「他の親戚も会いたがってたし」
「お母さん以外に、2人しか来てませんでしたよ。昔は10人くらい集まってたんですよね」
「お父さんも、不在だったみたいですし」
「皆さんがお忙しい時に、わざわざやる必要もないと思うんですが」
「うるさい! バーベキューをやるから人が集まるのよ!」
「やらなければ、もっと集まるんですよ?」
「…そうですか。では、お好きなだけやってください。私は今日を最後にしますから」
「なん…でよ。孫が生まれたら、お披露目バーベキューをしないといけないでしょ」
「なぜそこまでして、外でお肉を焼くことに固執するんですか?」
「うちの伝統だって言ってるでしょ! 何度言ったら分かるのよ!」
「その伝統を継承するつもりはありませんので。あとはご自由にバーベキューを開催してください」
私は背を向けて、その場を離れようとした。ズボンが濡れて、身体が冷える。
「旦那さんはいいの!? あんたがこんなことして、あの人が何て言うか!」
振り返らずに、私は言った。
「夫には私から話します」
その夜、夫が帰ってきた。ソファに座る私の顔を見て、すぐに察したようだ。
「…行ってきたんだ」
「うん」
「行かなくていいって言ったのに」
「お母さんがあまりにもしつこかったから。…ごめん」
「母さんの連絡は無視していいって言っただろ」
「親戚付き合いも、妻の仕事かなと思ったの」
「大体、妊婦を誘うなんてどうかしてるよ」
「…おじい様が、末期だって聞いたの」
夫は腕を組んだまま、何も言わなかった。
「だから…仕方なく行ったの。おじい様に、大きなお腹だけでも見せたいって言われて」
「はあ? 何それ」
「あれ、言ってなかったっけ? おじい様が末期がんなのよ」
「…いや、ありえないよ」
「どういうこと?」
「じいちゃんは、沖縄に引っ越したから」
私は固まった。
「…聞いてないんだけど」
「先週、電話あっただろ。『落ち着いたら招待するから』って。忘れてたの?」「…つまり、おじい様は病気じゃないの?」
「末期がんなんて話、聞いたことないよ。何言ってんだよ」
「お母さんが、そう言ったのよ。『おじい様が末期で、出産に間に合わないかもしれない』って」
「ありえない。じいちゃんは元気すぎるくらい元気だよ。むしろ、お前と仲良くするの楽しみにしてたし」
「じゃあ、なんであんな…」
「母さんの嘘だよ。……それに、じいちゃんが沖縄に引っ越したのも、母さんのせいなんだ」
「そうなの?」
「あの2人は、昔から仲が悪かったんだ。母さんがじいちゃんのことを、陰で悪く言ってたから。まあ、俺はいつもじいちゃんの味方だったけど」
私は、信じられない気持ちだった。まさか、そこまでして呼び出そうとしたのか。
「なるほどね…そういうことか」
「ああ」
彼は黙って頷いた。
「…頭からビールをかけられて、黙ってられなかったの。お腹が張ってきたから、ソファで5分だけ休んでただけで、怒られたの」
「母さんが、ビールを?」
「『サボってたからお仕置き』だって。妊婦に、よくあんなことできたなって思った」
夫は、握りしめた拳を、膝の上で開いたり閉じたりしていた。
「…すまない」
「あなたのせいじゃない」
「母は、間違ってる」
彼がそう言ったとき、LINEの着信音が鳴った。私のスマホに、義母からだ。
見ると、既読がついた瞬間にメッセージが消されている。
「…送信取り消ししてる」
「何て送ってきたんだ?」
「分かんない。すぐ消したから」
「母さん、昔からそういうところあるんだよ。やっておいて、後から『そんなつもりじゃなかった』って」
「…今日も言ってた。『つまづいてビールをかけたって説明した』って。でも、周りの人が『ごめんなさい』って謝ってたから」
「本気でバレてないと思ってるんだな」
「みっともないよ。そんなの」
夫はため息をついた。
「…もう、母のことは無視していいよ。俺からも言っておく」
「そのつもりよ。もう、私からは何も連絡しないから」
「ああ」
沈黙が落ちた。外では、夜の虫の声が聞こえている。私のお腹を、赤ちゃんが軽く蹴った。
「…ねえ」
「うん?」
「お腹、蹴ってる」
「本当だ」
彼は慎重に手を伸ばして、お腹の上に置いた。しばらくすると、また軽く動いた。
「…楽しみだな」
「うん」
「おじいちゃんにも、会いに行こう。沖縄まで、行こうか」
「…うん。行きたい」
「今度は、俺も一緒に行くから」
彼の手が、そっと指を絡めてきた。私はその手を握り返した。
その夜、妊娠してから初めて、義母のことで眠れない夜はなかった。
