嫁の美奈子が突然、義母から電話に出た。直入に言うわよ。離婚の慰謝料、息子だけじゃなくて私にも払いなさい。お母さん。あ、違ったわね。元お母さんでした。
美奈子は電話越しに冷たい声で返した。一体どういう理屈でしょうか。
あんたの浮気が原因で離婚したんでしょ?
はい。私は浮気なんてしてませんけど。
嘘をつくな。息子を傷つけられて、私も深く傷ついたのよ。その賠償金を払うのは当然でしょ。
ずっと何をおっしゃっているのか分かりませんが。
とぼけないで。私、全部聞いてるのよ。はるかが裏切られたって泣いてたわ。
嘘泣きです。騙されないでください。
ティッシュを1箱も無駄にしたのよ。濡れてないはずです。もったいない。
ばっくれる気なら、ちゃんと証拠だってあるって言ってるのよ。慰謝料300万は取れるって。
だからといって、お母さんが請求するんですか?
当たり前でしょ。嫁を失って、私の精神は崩壊しそうなのよ。私が何をするにも、あの子は文句ばかり言ってたけど、あれは愛情の裏返しだったのよ。
そんな大金をもらってどうするんですか?
世界一周クルーズに行ってくるのよ。あ、もう予約したから。3ヶ月後に出発なの。急がないと席がなくなるのよ。ペアチケットで330万。心を許した人と2人で行ってくるわ。
呆れました。虎の威を借る狐もいいところですね。悪いですが、1銭も払いませんよ。
なんですって?予約金で30万はもう払ったのよ。でも残りの300万を早く払わないと、キャンセル料とか取られちゃうの。90日前ならキャンセル料はかからないけど、予約金は没収されるってわけ。
そうですか。それなら、どうぞ。裁判でも何でもしてください。ただし、恥をかくのはお母さんの方ですけどね。
はあ、負け惜しみを言わないで。浮気した嫁の分際で、偉そうに。
端的に事実をお伝えしますね。慰謝料を払うべきなのは、息子さんの方です。浮気をしたのは、はるかさんなんですよ。
はあ?何言ってるの?はるかが浮気するわけないでしょ。あの子は潔白よ。私に嘘をつくはずがないもの。
信じるのは自由ですが、こちらにも証拠がありますよ。
捏造したのね。なんて汚い女なの。だったら、そちらの証拠も捏造の可能性がありますね。
そんなわけないでしょ。あんたが私を落とし入れようとしてるだけよ。
そこまでおっしゃるなら、はるかさんに直接確認してみたらどうですか?
そんな必要はないわ。どうせ鼻で笑い飛ばされて終わりよ。
では、私の方も笑い飛ばしておきますね。これ以上、無駄な要求をしてこないでください。
逃げるんじゃないわよ。絶対に払わせてやるんだから。
電話が切れた。美奈子は深く息を吐いた。5分後、スマホが震えた。はるかからだ。
さあ、マジで離婚したんだから、もう迷惑かけないでよ。
はあ?何の話だよ。
あなたのお母さんのことよ。悪いけど、今、美奈と旅行中なんだよね。
美奈って誰?
ああ、言ってなかったっけ?新しい彼女。
美奈子は眉をひそめた。ああ、家庭崩壊の原因になったゴミのことね。焼いてるの?まさか。
焼くわけないだろ。それより、母さんが何か言ってきたのか?
言ってきたわよ。私に慰謝料300万払えって。あなたが私に浮気されたって設定になってるんだけど、どういうことか説明して。
いや、だってさ。正直に俺が浮気したなんて言えないじゃん。母さん、俺の事、出来合いだと思ってるからさ。ショックで倒れたら可哀想だし。親を思っての優しい嘘ってやつよ。
自分の保身のための最低な嘘でしょ。そのせいで私が攻撃されてるんだけど。
平気だって。ある程度騒いだら落ち着くから。美奈子はメンタル強いし、大丈夫っしょ。俺の浮気にも耐えたくらいだし。
耐えられないから、離婚したんだけど。
まあ、細かいことはいいじゃん。しかも、母さん、クルーズ予約してたわよ。マジで行動力すげえな。
しかも、あなたも一緒に行くことになってるけど。
はあ?俺が?冗談だろ。
ええ、お母さんがすごく楽しみにしてるって言ってたわよ。ペアチケットで330万払ったって。
マジかよ。母さんと2人で海の上なんて、地獄すぎるだろ。なんとか言ってくれよ。
私は払わないわよ。あなたがやったことでしょう。自分で何とかしなさいよ。
頼むよ。話すと長いから面倒なんだよ。どうすんの?
知らないわよ。美奈子は冷たく言い放った。
ちょっと待てよ。俺、そんなに貯金ないんだよ。美奈子だって、あの時、結構ため込んでただろ?300万くらいはあるだろ。手切れ金だと思って、払ってくれよ。
頭のネジが外れてるわね。私への慰謝料も払ってない人が言うセリフよ。あなたが払えばいいでしょ。
無理だよ。皆の誕生日旅行で散財したし、明日からブランド品店巡りするから、金がないんだ。
そんなお金があるなら、早く慰謝料を払いなさいよ。優先順位ってものがあるでしょ。
じゃあ、事実を全部、お母さんに話すわよ。あなたが今、誰と何をしてるかも含めてね。あと、不倫の証拠写真も送っておくわ。
やめろよ。その女のせいで俺たちの夫婦が終わったんだから、事実を知っておいてもらわないと。
俺が時期を見て説明するって言ってるだろ。なんで堂々と紹介できないんだよ。離婚して1ヶ月で新しい女がいるなんてバレたら、俺が疑われるだろ。
疑うも何も、その女が原因で別れたのは事実じゃない。お母さんにバレたら、俺の立場がなくなるんだよ。
知ったことじゃないわ。あなたが嘘をつき続けるなら、私は戦うだけよ。電話もLINEも無視するなら、証拠を送るから。
おい、待てよ。
美奈子は通話を切った。
30分後、スマホに通知が入った。美奈子からのLINEだ。
みなちゃん、エステ終わったよ。今、フットマッサージ中。あと30分はかかるから、待ってて。
はるかは、すぐに返信した。了解。ゆっくり綺麗になってね。
てかさ、元嫁から連絡きてうざいんだけど。
はるかの隣にいた美奈が、興味ありげに画面を覗き込む。うわ、別れたのに未練たらたら?重すぎるよ。
だよな。30代のおばさんって、必死で怖いよね。
あ、でもさ、その元嫁から金取れるんじゃないの?私、欲しい指輪とバッグがあるんだけど。
余裕余裕。母さんが今頃追い詰めてるはずだし。今日中には300万入るから、この旅行も実質タダだよ。帰りにシャネル寄って、バッグ買ってやるよ。
美奈がパッと顔を輝かせる。しん君、大好き。愛してる。
はるかは、もう一人の美奈子からのメッセージに目を通した。元嫁ってケチだから、結構ため込んでると思うんだよ。
でも、実際浮気したのはこっちなんだし。元嫁が払う必要ってないよね。
ないよ。だから、作戦なんだよ。弱みを握ってるんだ。300万くらいなら絶対出すよ。
美奈がクスクス笑う。すごいよ、しん君。私たちのATMでいてくれて、ありがとう。
本当それな。俺らの愛のためにも、もっと働いてもらおうぜ。
その頃、美奈子はスマホの地図アプリを見つめていた。次の日、旅先のホテルで、はるかの母親から電話がかかってきた。
もしもし。美奈子?あと1時間しかないわよ。
何かの締め切り時間でしたっけ?
クルーズ代金の支払い期限でしょ?毎日LINEしてあげてるじゃない。さっきも送ったわよ。
美奈子はため息をついた。その件なら、払わないと言ったはずです。先日、はるかさんにも確認しましたが、お母さんに嘘をついたことを認めてましたよ。
まだ息子のせいにする気?往生際が悪いわね。
探偵が撮った写真を送りましたけど、見ました?あれが何よりの証拠です。はるかさんが新しい女性と歩いている写真です。お母さんが見たがっていたので、送ってあげたんですよ。
はあ?何言ってるの?
あの写真、はるかさんの新しい彼女と一緒にいる写真ですよ。浮気の決定的な証拠です。もしや、お母さん、あれを見てなかったんですか?
電話の向こうが、しばらく沈黙した。
……何て?
だから、あの写真が証拠です。はるかさんが浮気をしていました。離婚の原因は、はるかさんの方にあるんですよ。ですから、慰謝料を払うべきなのは、むしろはるかさんの方です。うちの方は、もう請求しません。ただし、今後、私に連絡するのはやめてください。弁護士に相談しますから。
しばらく沈黙が続いた後、受話器の向こうから、かすれた声が聞こえた。
……まさか……あの子が……
美奈子は静かに電話を切った。そして、手に持っていたキャンセル料の説明書をゴミ箱に捨てた。窓の外には、青い海が広がっていた。彼女はもう、あの家族の争いに関わるつもりはなかった。ただ、自分の新しい一歩を踏み出すために、荷物をまとめ始めた。
数日後、美奈子のスマホに、見慣れない番号から着信があった。出ると、はるかの声だった。
……おい、母さんが急に連絡してこなくなったんだけど、何かしたのか?
知らないわよ。こっちこそ、もう連絡しないでって言ったからじゃない?
違うんだよ。なんか変なんだよ。急に何も言わなくなって。クルーズもキャンセルしたらしいし。
そう。美奈子は冷たく言った。あなたがついた嘘のせいでしょ。お母さんも真実を知ったんじゃない?
真実って……俺が浮気したことか?
写真、見せたから。美奈が新しい男と歩いてるところ。
はるかは絶句した。
お前……よくも……
悪くないでしょ。あなたが私のことをATM扱いしたから、その代金よ。もう連絡しないで。私たち、終わったんだから。
美奈子は一方的に電話を切った。そして、深呼吸をした。もう二度と、あの家族に関わることはない。心が軽くなるのを感じながら、新しく借りた部屋の鍵を握りしめた。窓の外では、夕日が静かに沈んでいこうとしていた。彼女はこれから、自分自身のために生きていくのだ。
