離婚を突きつけたあの日から、私はずっと心のどこかで悪い夢を見ているような気持ちだった。リュウタが幼い口調で「新しいママと暮らすからお前なんていらない」と言ったのも、健二が平然と浮気を認めたのも、何ひとつ現実だとは思えなかった。何しろ私がこれまで必死に支えてきた家族の当たり前が、たった一日で崩れ去ったのだ。それで全てを失ったわけじゃないと納得できるほど、私の心は強くなかった。
8年前、私は22歳。大学の先輩で2歳年上だった健二の優しさに惹かれ、周囲の反対を押し切って結婚した。まだ若すぎるという周りの心配をよそに、私は幸せの絶頂にいた。そしてリュウタが生まれ、小学校に入学したばかり。手狭な2Kのアパートだったけれど、家族3人で支え合って何とかやってきたつもりだった。本当はリュウタに自分の部屋を与えてやりたくて、健二にも何度も引っ越しを相談した。だが彼はそのたびに給料の少なさや家賃の高さを理由にして、話を先延ばしにするばかり。貯金をする気もないのか、趣味や飲み会に自分の分のお金を使うのを止めようとしなかった。
健二は今や32歳。若く見えて女性にモテるタイプで、自分の遊ぶお金を減らす気はまったくないようだった。そんな矢先、リュウタの話の中に「エリカお姉ちゃん」という名前が頻繁に出てくるようになった。私は最初、学童保育の先生のことかと思っていた。しかし、リュウタに先生と呼ぶように言うと、彼は口を尖らせて言った。
「違うよ。お姉ちゃんは先生じゃないよ。僕に『エリカお姉ちゃんって呼んでね』って言ったもん」
リュウタの話では、エリカお姉ちゃんはパパの友達だという。偶然の一致では済まないと感じたのは、私が実家の母の入院に付き添い、家を頻繁に空けるようになってからだった。健二にリュウタの世話を頼むと、彼は意外なほど気軽に映画や水族館へ連れて行ってくれた。てっきり渋ると思っていたのに、という違和感の正体はすぐに分かった。彼はリュウタを言い訳にして、堂々と女とのデートを楽しんでいたのだ。
ある夜、酔って帰ってきた健二に、私は勇気を振り絞って詰め寄った。しかし彼は悪びれる様子もなく、開き直ってこう言い放った。
「確かにエリカは俺の彼女だよ。でも妻のお前には女としての魅力がないんだから、浮気されるのは仕方ないだろ」
その言葉には激しい怒りを覚え、そして同時に悲しみで胸が張り裂けそうだった。そうして言い争ううちに、物音を聞きつけたリュウタがリビングに入ってきた。健二は声のトーンを変え、猫なで声で話しかけた。
「なあ、リュウタ。パパとママは離婚しようと思うんだ。リュウタは当然、パパと暮らすよな?」
私がリビングに現れた子に急にそんな話をするのか。カッとしたのも束の間、リュウタは満面の笑みを浮かべて聞いた。
「本当? それでパパはエリカお姉ちゃんと暮らすの? だったら僕もパパと暮らす!」
信じられなかった。リュウタはちらりと私を見て、下を向きながら話を続けた。
「だって、ママは僕を叱ってばっかりでさ。欲しいものもクリスマスや誕生日まで我慢しろって言うばっかりで、僕、ママのこと嫌い」
リュウタは立ち上がると健二の隣に立ち、さらに言った。
「エリカお姉ちゃんは綺麗で優しいし、欲しいものは何でも買ってくれるもん。だから僕はママがいらない」
何も言い返せなかった。その場に立ち尽くす私に、健二が畳みかけるように言い放つ。
「リュウタもこう言ってることだし、この家に不要なのはお前なんだよ」
その翌日、私はわずかな荷物だけを持って家を追い出された。アパートの鍵を取り上げられ、行く場所もなく、新幹線で1時間ほどの実家に身を寄せた。すると私がいない隙を見計らったかのように、実家にはダンボールに詰められた私物と離婚届が送られてきた。もう争う気力もなく、私は黙って離婚届に判を押し、役所に提出した。
両親は初め、傷ついた私に腫れ物に触るように接していたが、健二やリュウタの言葉を聞くと、「そんな人のためにあなたが塞ぎ込むことはない」と励ましてくれた。2ヶ月も実家で甘えているわけにはいかないと、私は実家の近くでパートを始めることにした。両親からは「まだ若いのだから、いい人がいれば再婚したっていい」と言われたが、そんな気には到底なれなかった。
離婚から半年が過ぎたある冬の日。街はすっかりクリスマス色に包まれていた。どこからともなく流れてくるクリスマスソングを聞きながら、私は考える。リュウタはもう欲しいものを買ってもらえているのだろうか、と。手を伸ばせば目の前に浮かぶのは、リュウタが欲しがって欲しがって仕方なかった外国製のブロックセットのことを思い出した。私は何を血迷ったのか、そのブロックを買いに行き、そして3人で暮らしていたアパートの前に立っていた。きっとドアを開ければ、以前のようにリュウタが「お帰りなさい」と笑顔で言ってくれる。あの日々が悪い夢だったと思いたかったのだ。
しかし、いざ玄関の前に立つと、自分からドアを叩く勇気が出せずにいた。ためらいながら足を止めていると、部屋の中から話し声が聞こえ、やがて玄関のドアが開く。慌てて駐車場に身を隠すと、中から現れたのは健二と、若くて美しい女性だった。なるほど、彼女が“エリカお姉ちゃん”という人なのだろう。認めるのは悔しいが、見目麗しい美男美女の組み合わせだった。二人は指を絡めるようにして手を繋ぎ、何やら楽しげに会話しながら寄り添い合って歩いていく。
その幸せそうな後ろ姿を目の当たりにした私は、こみ上げる涙を必死にこらえながら、その場を静かに立ち去った。あの二人の姿を見てしまったら、リュウタの笑顔も、もう二度と私に向くことはないのだと思い知らされた。私は心の中で固く誓った。この想いを忘れよう。健二のことも、リュウタのことも、何もかも。
それから5年の時が流れた。あれから私は実家に身を寄せながら、心を落ち着ける日々を送っていた。自分から望んで捨てた家庭ではなかったけれど、だいぶ前向きに生活できるようになっていた。心の整理がついたかと言えばウソになるが、パート先の同僚にも恵まれ、穏やかな日々を取り戻し始めていた。そんなある日曜日の昼下がり、自宅のアパートで片付けをしていると、突然インターホンが鳴った。何の用事かと思ってドアを開けると、そこに1人の少年が立っていた。
まだ十歳になったばかりとはいえない少年。背丈は私が一番目の前で見上げるほどに伸びていた。その顔を見て息をのんだ。目を大きく見開き、私は驚きの声を上げる。
「…リュウタ?」
彼は、間違いなく、リュウタだった。私が最後に見た幼かった姿からはすっかり変わり、面影はあるけれど大きく成長していた。リュウタは気まずそうに、それでも真っ直ぐに私を見て言った。
「ママ…」
その声を聞いて、私は自分が抱いていた全ての感情が一気に込み上げてくるのを感じた。驚きと、怒り。どうして今頃になって突然、何を言いに来たのか。リュウタの方はというと、一目散に駆け寄ってくることはなく、立ったまま何か言いにくそうに口を開いた。
「…話、したいことがあって」
一瞬、何と答えればいいのか迷った。だが、何で今になって、と尋ねる代わりに、私はドアを開けてくつろがせた。ソファに座るリュウタの隣には、私。二人きりの時間が流れる。
私は何から話せばいいのか分からず、とにかく一番気になっていたことを聞いた。
「…どうして、ここが分かったの」
するとリュウタは一瞬戸惑ったような表情を浮かべ、うつむきながらぽつりと言った。
「…おばあちゃんに、聞いた」
実家の母が教えたのかと気づき、私はリュウタにバレないようにこっそりと母に確認のLINEを送った。すると母からは「リュウタにどうしても直接会って話がしたいと言われて、あまりに困っていたから教えたの……」という返事が返ってきた。無理もない。リュウタが直接私を訪ねたいと言ってきたのか。私はゆっくりと息を整え、彼の目を見た。
「…それで、何の用。 まさか、今さら。 私、あなたに言われたあの日のことを、今でもはっきりと覚えてるから。 その言葉をリュウタから聞いた時、正直、何を信じればいいのか分からなかった。 あなたのためを思ってしてきたことを、全て否定された気がした」
気がつくと私は感情を露わにして、リュウタに当たっていた。リュウタは肩を震わせながらも、必死に反論しようとしていた。
「それは…ちがうよ、ママ」
「違うの? じゃあ何? 私がいらないって言ったことは、やっぱり本当じゃなかったって言いたいの? 今さらそんな……」
「本当のことだよ! だけど、それはお前の勘違いなんだって… ママは、僕が言ったこと全部、ずっと根に持ってたの?」
リュウタはいても立ってもいられない、というように両手をぎゅっと握りしめ、声を震わせた。
「あの時…ごめん。 パパに言わされたんだ」
私は一瞬、時が止まった。聞き間違いかと思った。
「…え?」
リュウタはうつむいたまま、感極まったように話し始めた。
「あの日、パパが僕に言ったんだ。 ママと離婚したいんだ。 そしたらパパはエリカお姉ちゃんと一緒に暮らすって。 だから、僕に『パパと新しいお母ちゃんと一緒に暮らすか?』って聞いたのは、あいつだよ。 ママのこと、嫌いになれってパパに言われたんだ。 僕は本当は言いたくなかったんだよ。 ママのこと嫌いになったことなんて一度もなかった。 なのに、パパに『ママのことを嫌いだって言わなきゃ、もう二度と会ってやらないぞ。エリカお姉ちゃんとも一緒に住めなくなる』って脅されて…それが嫌で、仕方なく言ったんだ。 ごめん…本当にごめん…」
リュウタは顔を上げ、今にもこぼれ落ちそうな涙を必死で堪えながら私の顔を見た。
「僕ね、ずっとママに会いたかった。会って謝りたかった。でも、どうしてもママの顔を見る事ができなくて。だって、あんなこと、今さら許してもらえるとは思えなかったから。でも…勇気を出して会いに来て、本当に良かった。ママに直接会って謝れて…うれしい」
それを聞いて、私の中で何かが堰を切ったように溢れ出した。私は何も言えず、ただリュウタを強く抱きしめた。リュウタも驚いて一瞬固まっていたが、すぐにしがみつくように抱き返してくる。リュウタの体は大人に近づきつつも、まだほっそりとしていて、あの日々を思い出させた。
「…ママこそ、ごめん。あんな言葉、永遠に忘れないと思ってた。でも、本気にしなかったらよかったのね」
ふと、リュウタがぽつりと言った。
「ママ、今、パパとは…」
「…離婚したよ。健二と、あなたが選んだ道だから」
パパとエリカお姉ちゃんと幸せに暮らしているのだろう。リュウタは、今更それを知ってどうしようというのか。正直、面白くない気持ちもある。しかし、それ以上に、5年という月日の中で、リュウタはリュウタで色々と思い悩んできたのだろう。それを聞かされると、私にも今さら怒る気持ちは起きなかった。
「…そっか。 パパ、ずっとボクに、ママのことは本当は悪い人じゃなかったんだって、言ってた。 でも、エリカお姉ちゃんと結婚するって言って家を出て行ったんだ。 今は、その人と新しい家で暮らしてる。 そして、この前、赤ちゃんが生まれたんだって。 パパは嬉しそうにしてた。 それを見て決めたんだ。 ボクは、ママのもとに帰りたいって」
リュウタは私から体を離すと、目をこすりながら続けた。
「ママ……パパのことは、もう要らないよ。 ボクは、本当にママと暮らしたいんだ。 ママも、もし、よかったら…幼い頃みたいに、一緒に暮らせないかな…?」
その言葉に私の心は揺れた。あの日、何の迷いもなく私を捨てたリュウタ。確かに許せない時もあった。けれど、目の前にいるリュウタは、私に捨てられたのではなく、むしろパパに都合よく使われて、ずっと傷ついていたのだ。私はリュウタの気持ちを思うと、胸が締め付けられた。
「……本当に、それでいいの?」
「うん。ママ、嫌じゃなかったら。 これからは、ちゃんとママの言うこと聞くし、言うこともちゃんと聞くから。 ママが昔みたいに、勉強を教えてくれるって言うなら、ボク、頑張るから」
私の手を握るリュウタの手は、ぎゅっと力がこもっていた。かつて叩かれたこともない、育ちの中で培われた強さのようなものを感じて、私は自然と涙が溢れてきた。
「……バカ。 本当に…ずるいんだから。 そんなこと言われたら、頷くしかないでしょ。 もう二度と、あんな思いはさせないから。 ママからも、お願い。 ずっと…ずっと一緒にいるよ」
その言葉に、リュウタの目から涙がぽろりとこぼれ落ちた。二人して、しばらく立ち尽くしながら、それぞれの時間を取り戻すかのように抱きしめ合った。家に帰ると、私はリュウタと互いの何気ない会話をしながら、今度はこの5年間の埋め合わせをしていかないとと思った。
月日がたち、リュウタはずいぶん大人っぽくなった。仕事から帰ると、玄関にスリッパが並んでいるのを見るだけで、私は昔話に花を咲かせる。
「ねえ、リュウタ。あの日、本当にごめんね。 昔みたいに、わがまま言ってもいいのよ」
するとリュウタは、私に笑いかけてこう言った。
「いいよ。今は、ママが笑ってくれればそれで。 それに、これからはママの作るご飯が一番だなって思ってるんだ」
屈託のないその笑顔を見るたびに、私はこの腕の中にある幸せを秀雪と一緒になって大切にしていこうと思う。あの日の悲しみを忘れることはない。でも、それと同じくらい、今、ここにある幸せを噛みしめながら、私はこの人とゆっくり生きていこうと思っている。
