出産したら用はないのよ。その声を聞いた瞬間、夏の暑さの中で凍りつくような感覚がした。玄関先に立つ見知らぬ若い女性が差し出したスマホから、間違いようのない義母の声が流れていたのだ。
私は山本みな子。四十二歳。夫と結婚して十二年、不妊治療の末にようやく授かった初めての子を身ごもっている。今は妊娠八ヶ月で、お腹もだいぶ大きくなっていた。つわりがひどくて座り込んでいたこの家に、まさか自分を訪ねてくる者がいるとは思ってもみなかった。
女性は泣きはらした目で私のお腹を見つめていた。彼女は言った。
「この声、あなたのお母さんですよね」
間違えるはずがなかった。私が座り込んで寝込んでいた時に、夫の母が放ったあの言葉。聞き間違えるわけがない。
「赤ちゃんが無事ならそれでいいのよ」
そう言い放ったあの声だった。
女性は二十一歳だった。夫と同じ会社で働いていて、夫からはずっと独身だと聞かされていたのだという。二人は結婚の約束をしていた。一緒に住む家も探していた。女性は泣きじゃくりながら、義母と初めて会った日のことを話し始めた。
夫の母と初めて会った時、女性は名前を聞かれるより先に年齢を聞かれたらしい。
「あなた、いくつ?」
「二十一です」
そう答えた瞬間、義母の目が輝いた。
「二十一。まあ、若いのね。それならまだ何人でも望めるわね」
女性は少し古い考えの人なのだろうと思っただけだった。でも義母はその後も子供の話ばかりした。子供は好きか。何人くらい欲しいか。結婚したら仕事は続けるのか。それでも女性は、義母が古い考えなのだと思って流していた。
でも、おかしいと思ったことが一つだけあった。夫は最初こそ結婚の話をしていたのに、女性が子どもを欲しいと言うようになると、必ずこう言ってはぐらかしたのだ。
「もう少し落ち着いてからにしよう。まずは一緒に住んでから考えよう」
「子供が欲しい」
「まだ早い。もう少し後にしてくれ」
でも、義母はあんなに子供を望んでいる様子なのに。夫の態度は義母の様子と矛盾していた。女性は違和感を覚えた。
その違和感がなければ、彼女は録音することもなかっただろう。女性は夫と義母を自分の部屋へ招いた日、「買い物に行ってくる」と嘘をつき、二人をリビングに残した。そして棚の上にスマホを置いて、録音を始めた。
帰宅して録音を聞いた時、女性はしばらく動けなかったという。そこには、夫に妻がいること。その妻が妊娠中であること。そして、私が出産した後に二人が何をするつもりなのかが、はっきりと残っていた。
それでも女性はすぐには信じられなかった。夫と一緒に申し込んだ賃貸の書面を見返した。同居人の欄には夫の名前。現住所の欄にはこの家の住所が書いてあった。まさかとは思ったが、確かめるためにここへ来た。そして玄関を開けた私のお腹を見て、録音が現実だったと知った。
女性は小さな声で言った。
「私の両親と、あなたの夫とお母さんを呼び出して、正式な顔合わせの食事の席を作ります」
私は黙って女性を見た。
「日時と場所はお伝えしますので、来てください」
たとえ夫に騙されていたとしても、彼女が私を傷つけた事実が消えるわけではない。私は言った。
「私はあなたを許しません」
女性はうつむいた。
「分かっています。本当にごめんなさい」
女性は深く頭を下げた。
「私も両親の前で聞きたいんです。あの人たちが何を言うのか」
二週間後、個室のある料理店に女性の両親と夫が揃っていた。夫と義母には、女性の両親が正式な顔合わせの食事をしたいとだけ伝えてあったらしい。
義母は上機嫌だった。
「若い二人ならすぐに賑やかな家庭になるわね。可愛い孫もたくさん見られそうね」
女性の両親も義母の言葉に引きつった笑顔を見せていた。
女性が立ち上がった。
「お父さん、お母さん、今日もう一人だけ会って欲しい人がいます」
私が個室のふすまを開けて入った瞬間、夫の顔が固まった。
「は、みな子?」
夫は腰を浮かせるようにして立ち上がった。
「なんでお前がここにいるんだよ」
義母も顔色を変えた。
「みな子さん、何しに来たの? こんな場でどういうつもり?」
夫はすぐに女性へ向き直った。
「お前、なんでみな子と一緒にいるんだ。何を吹き込まれた? ドッキリか、これ?」
女性は夫をまっすぐ見た。
「あなたの現住所を見て確かめに行きました。同姓の申し込み書に書いてあった住所です」
夫の表情が変わった。
「俺の家に行ったのか?」
「行きました。そしたら、妊娠八ヶ月の奥さんが出てきました」
女性の父親が娘を見た。
「どういうことだ?」
女性の母親も夫を見た。
「あなたは独身だと聞いていました」
夫は慌てて笑おうとした。
「いや、これはな、勘違いっていうか」
義母がすかさず口を挟んだ。
「夫婦関係はもう終わってるのよ。三年後には実家へ戻るって話になっていて」
義母は続けた。
「そうなんです。この子ももう了承済みの話で、離婚の話も進んでいるところなんです」
私は夫を見た。
「はあ。何の話ですか? 私は離婚に同意していると初耳なんですが」
夫はまだドッキリだよな、と言わんばかりの表情で、目線を室内のあちこちに泳がせていた。
女性の父親が夫を睨んだ。
「奥様は何も知らされていないのですか?」
夫は視線を泳がせた。
「いや、少し誤解があるってだけで」
女性が夫へ聞いた。
「私には独身だって言ったよね。結婚するって言ったよね」
夫は顔を引きつらせながら言った。
「とりあえず落ち着けって」
義母も焦りを隠せない。
「そうよ。冷静に話し合いましょう」
女性は一度だけ息を吸った。そしてスマホを取り出した。
「じゃあ、これを聞いても冷静に話し合えますか?」
夫の顔が引きつった。
「おい、何する気だ?」
女性は答えた。
「あなたとお母さんが私の部屋で話してた時の録音です」
夫の顔から血の気が引いた。
「録音したのか?」
夫は声を荒げた。
「勝手に録音なんて、権利の侵害よ」
女性は静かに言った。
「あなたたちの言動がおかしいと思ったんです。買い物に出るふりをして、棚の上に置いていきました」
そしてスマホをテーブルへ置いた。
個室に義母の声が流れた。
「二十一で子供も二人くらい欲しいって言ってるのよ。みな子よりずっと都合がいいじゃない」
続いて夫の声。
「でも、みな子にはまだ何も話してない」
義母が笑った。
「話す必要ないわ。みな子は十二年間かかってやっと一人でしょ。あの子に次まで期待してたらいつ家族が増えるか分からないじゃない」
夫の声が低く響いた。
「お腹の子はどうするんだ?」
義母はためらいなく答えた。
「あんたが認知すればいいのよ。孫はこっちで育てればいいでしょ。あんたは親戚の前で父親の顔だけしていればいいの」
夫が言った。
「みなが騒いだら面倒だぞ」
義母は続けた。
「親族には『里帰りで実家で休みたい』って言えばいいのよ。今の嫁が一人産んだら、あの若い子と新居に引っ越せばいいの。生まれるまでは黙らせておけばいい。出産したら用はないのよ」
録音が止まった。個室の中は一瞬で凍りついた。
夫と義母の顔から完全に色が消えていた。女性の父親がゆっくりと立ち上がった。
「なんだこの会話は。狂ってる」
義母は震える声で言った。
「違うんです。少し話が大げさに」
「黙ってください」
女性の父親が遮った。
「娘はあなた方にとって何だったんですか? 次の子供を産ませるための女ですか?」
女性の母親が娘の手を握った。女性は静かに立ち上がった。
「帰りましょう。もう十分です」
女性の家族が店を出ようとした時、女性が振り返った。
「私は今日、あなたたちのおかげで、自分を大切にしてくれる人がどれほど大事かを教えてもらいました」
それだけ言って、女性は両親とともに店を出て行った。
私はその場に立ち尽くしていた。夫も義母も、何も言えずに固まっていた。
しばらくしてから、私はゆっくりと口を開いた。
「今の言葉、忘れないから」
夫が慌てた声を出した。
「待て、みな子。話を」
「話すことは何もありません」
私は言った。
「お母さんの言う通りでしょ。出産したら用はないんでしょ。じゃあ、この子が産まれたら、私はあなたたちの用がなくなるのね」
私は自分のお腹に手を当てた。
「よかった。これで決心がついたわ」
夫が何か言いかけた。義母も何か言おうとした。でも、私は二人の言葉を待たずに店を出た。
家に帰って、私は夫の荷物をまとめた。部屋を片付けて、夫の書類や洋服をダンボールに詰めていく。義母から何度も着信が入ったが、出なかった。
数日後、私は夫に離婚届を突きつけた。
「認印でいい。とりあえず、これを出して」
夫は顔を上げた。
「みな子、頼む。やり直せる」
「何をやり直すの? あなたは私がいないところで、私のいない人生の計画を立ててた。十一歳年下の若い子に、子供を産ませようとしてた。違う?」
夫は何も言えなかった。
「もう終わりにしましょう」
私は言った。
「私、生まれてくる子を守るわ。この子が大丈夫でいられるように。あなたたちが私の人生から消えてくれるなら、私は何も言わないから」
そこまで言った時、電話が鳴った。受話器を取ると、女性の声だった。
「山本さんの連絡先を、ご両親から聞きました」
「どうして?」
「あなたの夫じゃなくて、あなたのご両親に連絡したんです。あなたの身を案じて」
私は黙って聞いていた。
「あの時、言い過ぎました。私もあなたを許すことはできません。でも、あなたが悪い人に騙されていたのも事実だと思うんです。私のせいで、取り返しのつかないことが起きる前に知ってもらえて、本当によかった」
「何か用?」
私は冷たく言った。
「あなたには、幸せになってほしいです」
「私が?」
「はい。私を踏みにじった人たちに、自分は大丈夫だって見せたいんです。でも、あなたは私と同じ被害者です。あなたには、あんな人たちのものになる人生を送ってほしくない」
私は何も言えなかった。
「私、あなたに言っておくことがあります」
「何?」
「私は、あなたを許すつもりはありません。でも、あなたが幸せになれたら、あの時録音してくれたことを少しは感謝してもいいって思ってます」
向こうで、小さく笑った気配がした。
「私のおかげで、あなたは自由になったんですよ。あの家から」
電話を切った後、私は電話機の前でしばらく動けなかった。生まれてくる子供の将来を考えた。夫のいない人生を。義母のいない人生を。初めて、何のしがらみもなく、自分の意思で歩いていけると思った。
それは、私が十二年かけて手に入れたものだった。誰も奪うことはできない。義母も、夫も、彼女でさえも。
受話器を置いた時、窓の外で夏の夕立が降り始めていた。雨がしとどに降り注ぐ中、大きなお腹をさすりながら、私は静かに今日の日を噛みしめた。何かが終わって、何かが始まる匂いがした。それは、ようやく見つけた自由の匂いだった。
