病院の売店でコーヒーを買った直後、スマホが鳴った。母からだった。「大きい子が生まれたのね。おめでとう」——その声は嬉しそうだったのに、私はこの電話がすべてを壊すことになるなんて、その時はまだ知らなかった。翌日、病室で妻がベッドの上から私を見上げた。目が笑っていなかった。「お義母さん、孫に会いに来ないでください。金が映ったら困るんで」。え、金? 何の話だ?…

病院の売店でコーヒーを買った直後、スマホが鳴った。母からだった。「大きい子が生まれたのね。おめでとう」——その声は嬉しそうだったのに、私はこの電話がすべてを壊すことになるなんて、その時はまだ知らなかった。翌日、病室で妻がベッドの上から私を見上げた。目が笑っていなかった。「お義母さん、孫に会いに来ないでください。金が映ったら困るんで」。え、金? 何の話だ?...

電話が鳴ったのは、ちょうど俺が病院の売店でコーヒーを買ったあとのことだった。相手の顔は見なくても分かる。母からだった。

「大きい子が生まれたのね。おめでとう。みさんにもお疲れ様って伝えてくれない? 」

「ありがとう。顔は見たいんだけど、出産直後で大変だろうから、日程を調整したいの。私が直接話すと断りづらいでしょう。話しておいてくれない? 」

「ちょっと待って。みに先に相談するから」

「そうね。ちゃんとお嫁さんへの気遣いができてて安心したわ」

「俺だってちゃんとしてるよ。もう父親なんだし。また連絡するから」

そう言って電話を切った。病室へ向かう足が重かった。次の日、病室のみはベッドの上でスマホを見ていたが、俺が入っていくと画面から顔を上げた。目が笑っていない。

「お母さん、話は聞きました。直接言ってくれたらいいのに。出産で疲れてるのに義母の相手なんて嫌でしょ。でも連絡してくれて嬉しいわ」

「いや、ちゃんと言っとかないとなって」

「はっきり言いますけど、あの孫に会いに来たって言われてもいい迷惑。金が映ったら困るし。赤ん坊に絶対近寄らないでください」

「え? 金?

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金ってどういうこと? 」

「お母さんって大機の子育て失敗したじゃないですか。聞きましたよ。家庭で結構苦労したって」

母が押し黙る気配がした。受話器越しでも声の色が変わったのが分かった。

「それは確かに、たくさん苦労をかけたわ。でも大機はちゃんと育ったでしょ。立派に働いて家庭も持って」

「でも育った過去は変えられないし、大機言ってましたよ。幼少期は不幸だったって」

「あの子がそんなことを……そういう風に考えてる時点で、幸せじゃないですし。子育て失敗の金が映ったら困るんですよ。ダメ親の育児なんて参考にならないし、赤ちゃんには空教でしょ」

「失敗って……私なりに一生懸命育てたのよ」

「一生懸命。それで大機が寂しい子供時代を送ったって散々愚痴化されましたけど。仕事ばっかりで放置されてたって。かわいそうですね」

「それは生活のために仕方なく……」

「言い訳。やっぱりお母さんの育児方針って、完全に時代遅れじゃないですか? 」

「時代遅れ? 」

「今は科学的な育児が主流なんですよ。お母さんみたいな感覚だけの育児は、むしろ害悪です」

「確かに私は胸を張って立派な子育てをしたとは言えないわ。でもあなたはまだ母親になったばかりでしょ。そんな風に言われたくないのだけど」

「私は私なりに勉強してます。育児書二十冊読んで、専門家のアドバイスも受けてますから。お母さんに教わることなんて何一つありません」

「本と実際の育児は違うのよ。それに私には経験があるわ」

「経験?

失敗した経験ですよね。むしろお母さんの常識って、昭和で止まってると思うんですよ。今は令和ですよ」

「時代は変わっても、子供を愛する親の気持ちは変わらないわ」

「愛する気持ち? それで放置してたんですか? 矛盾してますよね。家庭ってやっぱり、どこか歪んでるじゃないですか」

そこで母の声が途切れた。その後、低く静かな声で母が言った。

「ちょっと待って。それは言いすぎじゃない? 」

「とにかく私は、お母さんみたいな失敗を繰り返したくないんで。私の母は完璧な育児をしてくれました。だから私も完璧な母親になれるんです」

「完璧な親なんていないのよ。みんな手探りで育てるの」

「お母さんみたいな中途半端な親とはレベルが違うんですよ。分かりますか?

」

「……分からないわ。だって、失敗した人には成功が分からないんですもんね」

「分かったわ。もう何も言わない。三日後すぐで気が立ってるのに。こちらも配慮が足りなかったわ」

「とにかく、お母さんの古臭い価値観を押し付けられるのは迷惑なんで。来ないでくださいね。赤ちゃんのためですから」

通話が一方的に切られた。母はしばらく受話器を握ったまま動けなかった。

その夜、母は俺に電話をかけてきた。声が震えていた。

「大機、今日、みさんに言われたのだけど。私、気に触ることを言ってしまったかしら」

「母さんは、無意識に人を傷つけるから。何か言ったんだろ」

「え? えって何? 俺が味方すると思ったのか? 」

「違う、そうじゃなくて……」

「俺が寂しがってても、母さんは仕事ばっかりだったじゃん。そうやって人との関わり合いから逃げてたツけだろ」

「なら、どうしたらいいの?

」

「だから今は金を出すくらいしか、母さんの役割はないんだよ」

「なんですって」

「だって俺からも信頼度ゼロなんだぜ。そんな状態で子供に合わせられるはずないじゃん」

「でも、私、あなたのために必死で働いて……」

「必死で働いた。その結果が、俺の寂しい子供時代ですけど。母さんが仕事優先したせいで、俺がどれだけ我慢したと思ってるの」

「大機……」

「そんな風に思ってたのね」

「今更気づいたのかよ。俺、結構伝えてたはずだけど。ああ、母さん忙しくて俺の話なんて覚えてないか」

「そんなことないわ」

「でも結果的にそうなってるじゃん。本当鈍いよな、そういうとこ。昔のことを反省しても、過去の出来事がなくなることなんてないんだよ」

そのとき、受話器からもう一つ声が聞こえた。みの声だ。

「お母さん、ちょっと大機に泣きつかないでくださいよ。いい大人が恥ずかしくないんですか? 」

「どうしてやり取りよ。今、大機が病院にいるんで、全部見てますよ」

「それじゃあ、あの子が私をATM扱いしているのも見たわよね」

「ATM? 違いますよ。え、だから、お母さんは私たちにとって投資家なんです」

「投資家? 」

「うん、まあ、正確にはATMで間違いはないですけど。だって人として尊敬できないので。投資家ATM」

「そんな風に私を見てたの?

」

「そうですよ。お母さんの存在価値って、お金を出すことだけじゃないですか? 他に何ができるんですか? 育児は失敗してるし、人間関係も下手だし」

「ああ、今隣で大機が『母さん、俺たちに金出すのが親としての責任でしょ。昔できなかったことを今取り戻してるだけじゃん』って言ってます。打つのめんどくさいみたいで」

「それが、あなたたちの意見なのね」

「今まで大機に寂しい思いをさせた分、お金で償うべきですよね。それが親の義務ってもんでしょ。お母さん自身がそういう立場に自分を追い込んだんですから。地合自得です」

「ああ、そろそろ赤ちゃんのお世話があるので失礼します。お金の準備はしててくださいね」

一週間後。母のスマホに着信があった。今度は俺からだった。母は震える指で応答ボタンを押した。

「お母さん、この前は言いすぎちゃってごめんなさい。やっぱりお母さんも孫には会いたいですよね」

「会えるならね。あんなことを言われたのだもの。どうしても会いたいとは思えないわ」

「そんなこと言わずに。孫に会いたいなら、もっと投資してくださいよ」

「投資? 」

「はい。子供はお金かかるって知ってますよね。孫にも同じ苦労をかけるつもりですか?

お母さんがケチったせいで孫が不幸になったらどうするんですか? 」

「つまり、お金を渡せということ。昨日と言ってることが変わってないわ」

「それに、投資するにしても、投資先を一度も確認しないまま、お金を振り込むなんてできないもの」

「退院したのよね。家には入らないから、玄関先で顔だけでも見せてもらえる? 」

「はあ。玄関先も無理ですけど。家に近づかないでください。家の頭金を出してくれたことは感謝しますけど、もうこの家は私たちのなんで。お母さんが入る権利はありません」

「なら、せめて写真だけでも」

「写真いいですけど、仕送りを増やしてくださいよ。今、十五万でしょ。二十万にしてくれたら考えます」

「二十万? 」

「私の母は毎日手伝いに来てくれて、ベビー用品も三十万分も買ってくれたんですよ。お母さんは何もしてくれないくせに、会いたいとか図々しいじゃないですか」

「お手伝いは、あなたが拒否してるんじゃない。私には気を使うから嫌だと思うし。その辺りは仕方ないのだけど」

「お母さんこそ、私のこと前から嫌ってましたよね。私、知ってるんですから」

「嫌なんてないわ」

「だってお祝い金も少なかったじゃないですか。普通、初孫なら百万くらい包むもんじゃないですか?

」

「さすがに百万は……」

「やっぱりケチなんですね。自分の孫に使う金すら惜しいんだ。もういいです。どうせお母さんには何を言っても無駄そうですから」

「ちゃんと聞きなさいよ。お母さんは何も分かってないんだから。自分の息子がどれだけ辛い思いをしたか、考えたことある? 」

みの声はどんどん鋭さを増していった。母は受話器を握る手を震わせながら、何も言い返せずにいた。

「もう二度と連絡してこないでください。あ、それと、今月から仕送りもいらないんで。その代わり、孫の顔は一生見せませんから」

通話が切れた。母はしばらく、無機質な電子音を聞きながら動けなかった。

母はソファにゆっくりと座り込んだ。窓の外では、夕日がオレンジ色に街を染めていた。リビングに飾ってある写真立ての中の小さな男の子が、今にも泣き出しそうな母を見つめていた。

その写真は、母がまだ仕事を辞められずにいた頃のものだった。運動会の写真を撮りに来た母に、息子は一度も笑わなかった。その代わりに、一人で砂場で遊ぶ息子の背中を、母は遠くから見ていただけだった。

母は写真立てに手を伸ばしかけたが、途中で引っ込めた。そして、テーブルの上に置いてあった封筒を手に取った。中には、今回の出産祝いとして用意していた現金が入っていた。百万円。母は、初孫のためにと、こっそりと準備をしていたのだった。

しかし、その封筒は結局、渡されることがなかった。母は封筒を元に戻すと、ため息をついて、静かにリビングをあとにした。

それから数週間後、母の下に一通の手紙が届いた。差出人は、みの実家の住所だった。封筒を開けると、中には写真が一枚入っていた。生まれたばかりの赤ちゃんの写真。しかし、そこに写っているのは、生後三週間の赤ちゃんと、みの母とが写ったものだった。写真の隅には、昨年の年賀状で母が送ったものと同じ柄のラッピングが見えた。

手紙にはみの母からの短いメッセージが書かれていた。

「ごめんね。あの子たち、私が何も言わなければ、きっとずっとあなたに会いに来なかったでしょう。でも、あなたの息子さんも、お嫁さんも、私に言われた以上に傷ついていると思う。少しでいいから、時間をおいてみたら? 」

母は手紙を読み終えると、折りたたんで封筒に戻した。そして、もう一度写真を見て、初めて笑った。赤ちゃんの、柔らかそうな頬だった。

その日の夜、母はスマホを手に取ると、俺の番号を押そうとして、急に止めた。そして、電源を落として、机の上に置いた。

それから母は、押し入れの奥から古いアルバムを取り出した。表紙には「大機」と書かれた、泣きぼくろのある少年の写真がいっぱいのアルバムだった。母は、その中の一枚一枚をゆっくりと指でなぞりながら、全部のページをめくるのに、一時間近くかけた。

そして、最後のページをめくったとき、一枚のメモが落ちた。それには、母の妊娠が分かった日に母が書いた、小さな日記の切れ端があった。

「あなたに会える日を、心から楽しみにしています。お母さんは、あなたにだけは、絶対に寂しい思いをさせないからね」

母は日記を握りしめると、声を殺して泣いた。止まらない涙は、何年も我慢してきた分、止められなかった。

そして母は、アルバムを抱えたまま、リビングのソファでそのまま眠ってしまった。翌朝、母は目を覚ますと、まず台所に行って、二人分の朝ごはんの準備を始めた。誰かが来るわけでもないのに、母はその日、ずっと優しい顔をしていた。

それ以来、母から俺に電話がかかってくることはなかった。みも、母の話を出すことはなかった。家には、孫の写真が一枚も飾られることはなかった。しかし、母のスマホの待ち受け画面には、あの写真が設定されていた。誰にも言わずに。

三ヶ月後の日曜日。母の家のポストに、小さな封筒が入っていた。中には、現金ではなく、一枚の写真が入っていた。生まれたばかりの頃より、ずいぶんと大きくなった赤ちゃんの姿だった。そして、母の手紙には、一言だけ添えられていた。

「すくすく育っています」

母は何度も何度もその一言を読み返した。そして、写真の赤ちゃんの頬を人差し指でそっとなぞると、久しぶりに、心からの笑顔になった。

母は写真を冷蔵庫に貼った。買い物に出かけるとき、料理をするとき、洗濯物を干すとき、母はそのたびに写真を見て、いつの間にか話しかけていた。

「早く大きくなってね」

そんなある日、母はダイニングのテーブルの上に一通の封筒を見つけた。自分が出したわけでもないのに。開けてみると、中には現金が入っていた。札束に添えられたメモには、みの字でこう書かれていた。

「こないだはごめんなさい。今日、家のローンを払いに行ったら、お義母さんが保証人になってたって聞きました。それに、出産のとき、病院にいたことも。私、お義母さんが何もしてくれないと思い込んでました。あの日、お母さんが病院で手続きしてくれてなかったら、私、もっと大変な思いしてました。見てました。ちゃんと見てました。だから」

その手紙の続きは、文字が乱れて読めなかった。実は母は、みが入院していた病院で、こっそりと面会に来ることはなかったが、入院費を全額、先に支払っていた。当時、母子ともに危険な状態で出産費用が用意できていなかったみは、知らないうちに支払いが済んでいるのを見て、誰が払ったのかずっと不思議に思っていた。病院の事務員に聞いても、守秘義務で教えられないとだけ言われていた。

母にとって、それは誰にも言わずにやった、初めての我慢強い行動だった。しかし、息子の妻は、それを知ったとき、初めて母が自分たちのために何をしていたのかを理解した。

母は手紙を読んで、声を出して泣いた。息子からは何も返事が来なくても、その手紙だけで、母は十分すぎるほどの幸せを感じていた。

後日、母は静かな時間に、机の引き出しから一冊の通帳を取り出した。これまで渡せなかったお祝い金を、毎月コツコツと貯金していた通帳だった。母は通帳を手に取ると、次回、孫に会えるかどうかを考えた。会えないとしても、この通帳はいつか必ず、役に立つはずだ。

母は通帳を封筒に入れると、表に誰の名前も書かず、そっと机の隅に置いた。

その夜、家族はそれぞれ違う夜を過ごした。みは授乳しながら、母乳が終わった夫の横顔をじっと見ていた。夫は久しぶりに、何か安心したような顔をしていた。

「ねえ、大機。お母さん、来週、こっちに来るんだって」

「え? 母さんが?

」

「うん。寿司を食べたいって言ってた。私の実家のそばの」

「……母さん、寿司食べるの、あんまり好きじゃなかった気がするけど」

「好きだったみたいよ。私が母から聞いた話だと、前はよく行ってたんだって。私たちと仲良くなるための口実がないから、寿司屋で待ち合わせようって言われたの。変な話でしょ? 」

ふたりはしばらく黙って、生まれたばかりの赤ちゃんの寝顔を見つめていた。

「ねえ、ほんとに来るのかな。お母さん生きてるのかな」

「大丈夫よ。ちゃんと今度こそ、お父さんにも連絡したから」

何年も音沙汰のなかった、母の離婚した夫。しかし母はそのとき、初めて夫に宛てて、一枚の葉書を出していた。

「あなたのお孫さんが生まれました」

届くかどうかも分からない住所へ、母は宛名を書かずに、ただ「元気です」とだけ書いた。その葉書は、結局、宛て先不明で戻ってきた。母はそれを見て、ふっと笑った。そして、戻ってきた葉書をアルバムの最後のページに挟んだ。

その夜、母はパジャマのまま、ブリキの缶の中に溜めていた小銭を全部、数えてみた。額は、思っていたよりずっと少なかった。でも、母の目には、それが確かな宝もののように思えた。次の日の朝、母は決心して、実家に電話をかけた。

「私ね、仕事を辞めることにしたの。しばらく家のことだけ考えたくて」

その選択が母にとって正しかったかどうかは、ずっと後にならないと誰にも分からない。しかし、少なくともその日から母は、スマホの着信音に祈るような気持ちで待つのをやめた。自分から、何かを始めようと思ったのだ。

そして数日後、母の家に、一通の封筒が届いた。差出人は、忘れられないあの名前だった。中を見て、母は息を飲んだ。現金の束と、一枚の葉書が入っていた。

「ちゃんと貯金してたから。ありがとう。会ってくれるなら、寿司屋に来て。おばあちゃんの顔、一回くらい見せてよ」

葉書の裏には、近所の寿司屋の地図が書かれていた。店の名前には、○が付けてあった。母はその葉書を胸に抱きしめて、しばらくその場で立ちすくんだ。

その寿司屋は、母が独身の頃、よく通った店だった。左官職人をしていた夫と初めて行った店でもある。そして母は、自分がその店の前で待っている姿を想像してみた。そこにはもう、昔のように若くも、純粋でもない自分がいたが、それでも母は、未来の自分に会える気がした。

初めて会う孫のために、母は長袖のシャツに腕を通した。大げさに泣くつもりはなかった。ただ、人を許すためにではなく、自分自身が許されるために、母は一歩ずつ、その店へと向かっていった。