電話の向こうで、若い女の声がやけに落ち着いていた。「お母さん、離婚の慰謝料は息子だけじゃなくて、私にも払ってください。ああ、違ったわね。元お母さん、でしたか」。その一言で、義母の琴線がブチッと切れた。三日前、いつも通りの平日の夜、私はソファでコーヒーを飲みながら、離婚してからも続く義母からの電話に辟易していた。まさか、慰謝料を私に請求してくるなんて。「うちの息子が全部話してくれたわよ。はるか…

電話の向こうで、若い女の声がやけに落ち着いていた。「お母さん、離婚の慰謝料は息子だけじゃなくて、私にも払ってください。ああ、違ったわね。元お母さん、でしたか」。その一言で、義母の琴線がブチッと切れた。三日前、いつも通りの平日の夜、私はソファでコーヒーを飲みながら、離婚してからも続く義母からの電話に辟易していた。まさか、慰謝料を私に請求してくるなんて。「うちの息子が全部話してくれたわよ。はるか...

「お母さん、離婚の慰謝料は息子だけじゃなくて、私にも払ってください。ああ、違ったわね。元お母さん、でしたか」

電話の向こうで、若い女の声がやけに落ち着いていた。その一言で、義母の琴線がブチッと切れた。

「はあ? どういう理屈よ、それ」

「だって、離婚したのはあんたの浮気が原因でしょ?」

「私は浮気なんてしてませんけど」

「嘘おっしゃい! 息子を傷つけられて、この私も傷ついたのよ。その賠償金を払うのは当然でしょ!」

義母の怒声が受話器越しに響く。しかし、声の主――はるかは、まったく動じた様子がない。

「ずっと何をおっしゃってるのか分かりませんね」

「とぼけないで! うちの息子が全部話してくれたわよ。『はるかに裏切られた』って泣いてたわ。あの子が可哀想で、私、涙が止まらなかったんだから」

「それは嘘泣きですよ。騙されないでください。というか、その話、どこから聞いたんですか?」

「息子から決まってるでしょ! ティッシュの箱、1個空にしたんだからね!」

「……濡れてませんよ、それ。もったいない」

「な、なんてことを言うのよ! いい? うちの子が『証拠もある』って言ってたわよ。慰謝料300万は取れるってね」

「だからって、お母さんが請求するんですか? おかしいでしょ」

「当たり前でしょ! 嫁を失って、私の精神は崩壊寸前なのよ。あの子が私のやることなすことに文句ばかり言ってたのは、愛情の裏返しだったんだから!」

はるかは深く息を吐いた。ここまで来ると、もはや呆れるというより、笑いすら込み上げてくる。

「そんな大金をもらって、どうするおつもりなんです?」

「世界一周クルーズに行ってくるのよ。もう3ヶ月後に出航なんだから。急がないとペアチケットで330万。心の友と2人で行ってくるわ」

「……はあ」

「呆れてるんじゃないわよ。畜生、狐に摘まれた気分だわ。悪いけど、1円たりとも払いませんからね」

「なんですって? 予約金で30万はもう払ったのよ。残りの300万を早く払わないと、クルーズ会社に迷惑がかかるでしょ!」

「90日前ならキャンセル料はかからないはずですよ。予約金は取られるでしょうけど」

「そうなのよ! だから早く払いなさいって言ってるの!」

「どうぞ、そのままキャンセルしてください。裁判でも何でもしてください。ただし、恥をかくのはお母さんの方ですよ」

「はあ? 負け惜しみ言わないでよ! 浮気女の分際で、ずいぶん偉そうに!」

「端的に事実をお伝えしますね。慰謝料を払うべきなのは、息子さんの方です。浮気をしたのは、息子さんの方なんですよ」

電話の向こうが、一瞬シンと静まり返った。

「……はあ? 何言ってるの? うちの子が浮気だなんて、ありえないわ。あの子は潔癖で、真面目で、私に嘘をつくような子じゃないんだから!」

「信じるのはお母さんの自由ですが、こちらにも証拠があります。探偵に撮らせた写真も、ラインの履歴も、全部そろってますよ」

「捏造したんでしょ! なんて汚い女なの! あんた、私を嵌めようとしてるんでしょ!」

「だったら、そちらの言い分も『捏造』の可能性がありますね。お母さんがおっしゃったことだけが事実だとは限りませんから」

「そんなわけあるもんですか! あんたが私を落とし入れようとしてるだけだ!」

「そこまで言うなら、息子さんに直接確認してみたらどうですか? 今すぐ電話すればいいでしょう」

「する必要なんてないわ! 鼻で笑い飛ばれて終わりよ!」

「……そうですか。では、私の方も笑い飛ばしておきます。これ以上、無駄な要求をしてこないでくださいね」

「逃げるんじゃないわよ! 絶対に払わせてやるから!」

そう言い捨てて、はるかは電話を切った。そして、ため息をつきながら、同じアパートの自室ではなく、今は別の場所にいる「元夫」を呼び出すことにした。

5分後、スマホが震えた。画面には「しん君」の名前。

「もしもし。……どうやら、あなたのお母さん、本当に私を追い詰める気満々みたいだね」

「ああ、悪い。マジで離婚してからも迷惑かけてるな。で、何て言われた?」

「『浮気したのはそっちだ』って言ったら、逆ギレしてたわ。『捏造だ』って。探偵の写真も送ったのに、見もしないで」

「はあ、面倒だな。……で、しっかり断った?」

「断ったわよ。『裁判でも何でもどうぞ』って言ってやったわ」

「はは、やるじゃん。まあ、そのうち落ち着くよ。母さんだって、ある程度騒いだら大人しくなるから」

「……それは、あなたがいつも言ってることね。でも、今回は違うかもしれないよ。世界一周クルーズの予約金を払っちゃったんだってさ。300万、どこかから調達する気みたいよ」

「あ? マジで言ってるのか? あのバカ、ホントに行動力だけはあるんだから……」

「しかも、そのクルーズに、あなたも一緒に行くことになってるみたいだよ。ペアチケットで330万だってさ」

「はあ?! 俺も? 冗談だろ! 母さんと2人で海の上なんて、地獄すぎる!」

「じゃあ、直接本人に言ったら? 私からは言わないからね。もう家族じゃないんだし、私を巻き込まないでよ」

「いや、待ってくれよ。ここは頼むよ。俺から言いにくいんだって。母さん、俺のこと何でも信じてるからさ」

「それが、あなたの都合のいい考え方なのよ。自分の身を守るための嘘を、私は何も知らないわよ」

電話の向こうで、元夫――しんたろうが、何やら気まずそうに口ごもる。

「……わかったよ。とりあえず、今日はこれで切るわ。また後で連絡する」

「ええ、そうして。あと、これ以上、お母さんが私に請求するようなら、私からはっきり言うからね。その時は、あなたが不倫してた証拠も全部話すから」

「わかったわかった。お願いだから、それはやめてくれよ」

電話を切った後、はるかはソファに深く座り込んだ。心臓はまだバクバクしているけど、不思議と笑いが込み上げてくる。

「あいつ……私のこと、ATMって思ってない? 慰謝料も払わずに、新しい彼女と旅行か……。ほんと、都合がいいんだから」

その頃、しんたろうは新しい彼女と一緒に、高級ホテルのスイートルームにいた。彼は彼女に、得意げに話し始めた。

「みなちゃん、エステ、まだかかかる? 俺、もう風呂上がって、休憩所でビール飲んでるけど」

ラインの既読がすぐに付き、音声通話の着信音が鳴る。

「みなちゃん、悪いな。ちょっと今、母ちゃんと揉めててさ」

「は? 揉めてるの? 何言ってるの?」

「いや、元嫁がさ、母ちゃんに余計なこと言いやがって。『浮気したのはそっちだ』って、証拠写真もあるし、ラインの履歴も送ったとか言ってるんだよ。やばいだろ、これ」

「へえ、そうなんだ。……で、あなたが浮気してたって話は、本当なの?」

「は? 当たり前だろ。俺は母ちゃんに正直に話したんだから。『はるかが浮気した』ってな。母ちゃんは俺の味方だし、信じてくれてるよ」

「そう。……でも、それって、あなたが嘘をついてるってバレたら、まずくない? 向こうは証拠写真も持ってるって言ってるんでしょ?」

「大丈夫だって。確かに、写真は探偵に撮られてるかもしれないけど、向こうにその気があれば、とっくに裁判してるって。でも、ここは俺が『やっぱり嘘だった』って言えば、母ちゃんも信じてくれるから」

「それ、甘くない? 私はどうでもいいけど」

「そう言うなって。それより、みなちゃん、今どこにいるの? 早く部屋に来てくれよ、ビール飲みながら待ってるから」

「今エステの途中。あと30分はかかるから、ちょっと待ってて」

「了解。ゆっくりでいいよ。……あ、そうだ。なあ、元嫁から金、取れると思う?」

「は? 何で?」

「だって、あいつ、貯金300万くらいたまってるはずだぜ。手切れ金ってことで、ちょっと絞りたいんだよ。前からお前とよく行く店のバッグとか、買い替えたいだろ?」

「……まあ、もらえるなら、ありがたいけど。でも、向こうにだって事情があるんでしょ? 浮気したのは、あなたの方なのに」

「いいじゃん、細かいことは。母ちゃんが向こうを追い詰めてくれれば、そのうち折れて金出すって。300万、今日中に入るはずだから、それで合流しよ、帰りにブランドショップ寄って、好きなバッグ買ってやるよ」

「……ま、いいけど。でも、そんなに簡単にいく?」

「任せとけって。母ちゃんが元嫁のところに乗り込んで、『慰謝料払え』って言ってるんだ。もう向こうもビビってるよ」

しんたろうはそう言って、ビールを一口流し込んだ。彼の脳裏には、母がはるかを責め立て、300万をせしめる姿が想像されていた。

その頃、彼の母は自宅でスマホを睨みつけていた。さっきの言い分では完全に押し切られたとはいえ、まだ納得できない。

「ふん、あんな女のために、私の大切なクルーズ旅行を諦めるわけにはいかないわ。……そうだ、もう一度はるかに電話しよう」

彼女が受話器を手に取った、まさにその時、スマホに一通のラインが届いた。

「……なによ、この写真」

そこには、ホテルのロビーで、しんたろうと見知らぬ若い女が腕を組んで立っている写真が写っていた。日付と時刻のスタンプも入っている。

「こ、これは……どういうこと? しんちゃんが、女と? それも、こんなきれいな人と……」

彼女は動揺しながらも、写真をピンチで拡大した。確かに、写っているのは間違いなく、我が息子の顔だ。そして、その横に立っている女は、はるかではない。

「はあ?! 待ってよ、これじゃ……これじゃ、浮気してるのは確実じゃない!」

自分が息子を信じ、はるかを責めていたことが、ここに来て覆された。彼女は混乱しながら、すぐにしんたろうに電話を掛けた。

「もしもし、しんちゃん! お母さん!」

「あ、母さん、どうしたんだよ、急に」

「今、すぐ、その……あんたに聞きたいことがあるんだけど、今どこにいるの?」

「いや、それが……ちょっと旅行しててさ」

「旅行? 誰と?」

「……え、えっと。友達と、ちょっと」

「嘘を言いなさい! 今、ホテルのロビーに若い女と一緒にいるって写真が届いたわよ! しかも,腕を組んで!」

電話の向こうが、どっと静まり返った。

「……母さん、それ、誰に聞いたんだ?」

「向こうから送ってきたのよ! はるかさんから!」

「あ、あの、これ、偶然があってだな…」

「偶然? まだ嘘をつくつもり? はるかさんが言ってた通り、浮気をしたのは、あんたの方なの?」

しんたろうは、何も言えずに黙り込んだ。彼の脳裏には、先ほどはるかが言った言葉がぐるぐると渦巻いていた。

「……俺の負けでいいよ。悪かった。全部、俺が悪いんだ」

「あんた! そこまで言って、はるかさんを貶めてたの? 何でそんなことが分かるの? あんた、赤の他人を地獄に突き落とそうとしたのよ!」

「だって、母さんが! 俺が浮気したって言ったら、倒れるかと思ったんだよ! 怒られるのが怖かったんだ!」

「ふざけんな! 自分の保身のために、あの子に罪を着せる気? あんたは最低よ!」

「わかった、わかった! 俺が悪かった! もう謝るから! 母さん、どうか、頼む! はるかには言わないでくれ! あいつ、怒ると何するか分からないんだよ!」

「言われるまでもないわ! あんたには、私から、ちゃんと慰謝料を請求させてもらうから! あんたが払え! 300万! いや、私が受けた精神的苦痛を考えたら、もっとだ!」

「はあ?! 母さんにまで金を取られるのかよ! 勘弁してくれよ! 俺はこれから、みなちゃんとやり直すんだ!」

「知らない! お母さん、もう行く! クルーズの予約、まだいけるかもう一度調べてみるから!」

「ちょ、ちょっと、母さん! 待って! 母さん!」

通話は一方的に切れた。しんたろうは、力なくスマホをベッドに投げ捨てた。

「くそっ……! 結局、全部、あいつ(はるか)のせいだ……!」

しかし、その言葉を誰が聞いているはずもない。彼はしばらく項垂れていたが、やがて新しい彼女に電話をかけた。

「みなちゃん、悪い、店キャンセル。……あ、いや、ちょっと面倒なことになってさ。……うん、また明日、絶対に会おう。今、ホテルにいるから、来てくれたら……あ、そう……」

彼はがっくりと肩を落とし、ベッドにうつぶせになった。

はるかは、自分のリビングのソファで、コーヒーを飲みながら、スマホの画面を見つめていた。

「……どうやら、一筋縄ではいきそうね。でも、しっかり決着はつけるわ。あの日々の分は……」

そう言って、彼女はコーヒーを一口含んだ。

一方、義母は家に帰ると、早速旅行代理店に電話をしていた。

「もしもし、あの、さっきキャンセルしたクルーズの件なんですけど、やっぱり復活できません? もう一度予約を取り直したいんです」

「お客様、申し訳ございません。今回のキャンセルは、あいにく……」

「あ、お金はすぐ用意できますから! 少し待ってください。……そうだ、今、息子に慰謝料として請求したばかりなんだ。300万、すぐに振り込ませるから!」

こうして、形は違えど、しんたろうは母親からも見放され、新しい彼女にも当てを外されるという、まさに自業自得の結末を迎えつつあった。はるかは、そんな彼の姿を、ただただ冷めた目で見守っていた。

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