私の息子に寄生する女に、あなたの席はありません。
夫の完暦と会社の創立三十周年を兼ねた食事会で、義母は私の名前を呼ばず、私が立つ場所すら指ささなかった。会場は、夫が日頃から世話になっている取引先まで招いた、少し大きめの料亭だった。壁には夫の笑顔の写真と、創立三十周年の文字が飾られていた。私がいつも座っていた席には、夫の取引先の奥様が案内された。夫の妹は、私の腕に空の皿を押し付けた。
「お姉さんは台所の人に、料理を出すタイミングを聞いてきて。兄のお客様を待たせるわけにはいかないでしょ」
私は思わず夫を見た。夫は困ったように眉をひそめただけで、何も言わなかった。
「母さんたちの前で揉めないでくれ。お前は料理でも見てきてくれ」
会場の中央では、夫が取引先の人たちに囲まれて、拍手を受けていた。義母が嬉しそうに言った。
「私の息子が一人でここまで会社を大きくしたんですもの」
私は壁際に立ちながら、何度もグラスを運んだ。料理を運び、空いた皿を下げ、注がれたお茶を配った。その間も、誰も私の名前を呼ばなかった。
夫の会社を支えてきた三十年が、その夜、私の中で初めて空っぽになった。
結婚した頃、夫の会社は社員が二人だけの小さな工場だった。夫は外回りと営業を担当し、私は自宅の一室で請求書を作り、入金を確認し、取引先からの電話を受けた。月末には伝票を広げて支払い予定を並べ、納期が危ない時は夫より先に担当者へ連絡を入れた。
夫が出張中に材料の手配が止まりそうになった時も、私は仕入れ先へ頭を下げて、なんとか間に合わせた。
「奥様に聞けば早い」
いつの間にか、取引先の人たちはそう言うようになっていた。
夫は帰宅すると、私がまとめた数字だけを見て、「助かった」と言った。
私はその一言で十分だと思っていた。お金をもらうわけでもなく、役職があるわけでもなかったが、それでも、夫の役に立てていることが、自分の居場所だと思っていた。
創業から数年が経った頃だっただろうか。夫は義母と夫の妹を役員にした。二人には毎月、役員報酬が振り込まれるようになった。
ただ役員報酬をもらうだけの義母は、年金に加えてそのお金で趣味の旅行へ出かけ、夫の妹も役員報酬を当てにして、ブランド品を身にまとうようになっていった。
取引先の担当者の名前も、会社に今月いくら入金される予定なのかも、二人は何一つ知らなかった。
私には、役職もなかった。給料の話をしたこともない。私はいつも「社長の奥さん」と呼ばれ、必要な時だけ事務所で働く人として扱われていた。
夫はいつも「家族の会社だろう」と言った。私もそれを信じて、不満を飲み込んできた。会社が安定すれば、家族みんなが安心して暮らせると思っていた。
食事会の夜、家に帰ってから、私は夫に尋ねた。
「私の席まで、なくす必要があったの?」
夫はネクタイを緩めながら、面倒そうに私を見た。
「大げさだな。取引先も来てたし、嫁は手伝いしてるくらいがいいだろう」
「私が会社でしてきたことを、何だと思っているの?」
夫は小さくため息をついた。
「帳簿を眺めて、電話を取ったりしてただけだろう。会社を背負ってきたのは俺だ」
私はしばらく何も言えなかった。
夫の中では、私は三十年間、夫の影で都合よく手を動かしていただけの人だった。
夫が眠った後、私は机の引き出しから、三十年分の業務日誌を取り出した。
そこには、取引先ごとの注意事項、支い日、急な注文への対応、夫が忘れていた約束、社員には言えない資金繰りの心配。
細かい文字で書き込まれた、私の時間そのものだった。
夫の成功を支えてきたのは、私のこの手だった。なのに、夫はそれに気づこうともしなかった。
翌朝、私は夫に言った。
「今月で、会社の仕事から手を引きます」
夫は新聞から目もあげなかった。
「勝手にしろ。代わりくらい、すぐ見つかる」
私はその言葉に、もう傷つかなかった。
三十年分の仕事を、誰か一人の代わりで済むものだと思っている。それが夫の答えだった。
私は何も言い返さなかった。言っても無駄だと分かっていたからだ。
私は二週間かけて、支払い予定と連絡先、毎月必ず確認することだけを、一冊のノートにまとめた。誰に何を聞けばいいのか、どの取引先にはどんな順番で話を通すのか。
私は知っていることを、できる限り全部、文字にした。
そして、夫の机の上に置いた。
「これからは、自分で対応してください」
夫はノートをパラパラとめくり、
「もっと分かりやすくまとめられないもんかね」
と言った。
私は何も答えなかった。
その日の午後、私は会社の電話番号を自分の携帯から消した。夜に届く取引先からの連絡も、夫の事務所へ転送されるようにした。
持ち出したのは、自分の手帳の写しだけだった。
会社の金も、取引先も、夫から奪うつもりはなかった。復讐心もなかった。
私はただ、自分の時間をこれ以上、夫の会社のために差し出さないと決めただけだった。
それは逃げることではなく、自分を守るための決断だった。
数日後、夫から当たり前のように電話が来た。
「来週の支払い、どこに確認すればいいんだ?」
「あの取引先の納期、誰に聞けばいいんだ?」
「引き継ぎの一覧に、書いてあります」
「あんな簡潔なメモだけで分かるわけないだろう。今、どこまで話が進んでるとか、そういうのはお前しか知らないんだぞ」
私は少し黙ってから、言った。
「もう私は、あなたの会社から身を引きましたので、分かりません」
電話の向こうで、夫が黙った。
しばらくして、夫は何か言いかけたが、結局、何も言わずに電話を切った。
それから会社では、小さな混乱が続いた。
いつも私が先に確認していた支払い先から、入金予定の問い合わせが入った。
納期前に必ず連絡していた取引先からは、「奥様がいらっしゃらないなら、今回は予定を見直します」と言われたらしい。
社員に聞いても、誰も段取りまでは分からない。
夫はそこで初めて、自分が何も知らされていなかったことに気づいたのだと思う。
食事会で夫を褒めていた取引先からも、「奥様が窓口でなくなったなら、今後の対応を確認したい」という連絡が来たらしい。
夫は初めて、自分一人の成功が、私の仕事の上に乗っていたことを知った。
月末が近づく頃には、会社の口座にどの入金がいつ反映されるのか、夫自身が把握できなくなっていた。
義母と夫の妹への役員報酬を、予定通り振り込めるかどうかも分からない。
その日、夕方になって、義母と夫の妹が私の部屋を尋ねてきた。
二人とも、夫を心配する顔ではなかった。
「ちょっと、あんた。今までの役員報酬、少し待ってほしいって、どういうことよ」
夫の妹がそう言い、義母は私を睨んだ。
「私の息子を見下してるつもり? あんたは帳簿を眺めるだけだったんだから、さっさと戻りなさいよ。この裏切り者」
私は二人を見た。
かつてなら、申し訳なさで胸が苦しくなったと思う。夫の家族が困るなら、私がなんとかしなければと考えたかもしれない。
でも、その日は驚くほど、私の心は静かだった。
「お母さんは、私を『私の息子に寄生する女』と呼びましたよね」
義母の顔から、少しだけ色が消えた。
「会社の売上も支払い日も知らず、毎月役員報酬だけを受け取ってきたお二人こそ、まさに寄生ですよ」
夫の妹が口を開きかけた。私は続けた。
「夫の会社に寄りかかってきたのは、私ではありません。お母さんと、あなたの方でしょ」
二人は何も言えなかった。
「私は夫を見捨てたわけでも、裏切ったわけでもありません。ただ、退職しただけです」
そして、最後に言った。
「会社が困るから、私が残らないといけないのなら、それは私はもう十分やってきたと思います。私は、自分の席を選びました」
二人が何か言いかけたが、私はドアを開けて、外に出た。
振り返らなかった。
あの日、私はすべてを失ったのかもしれない。
でも、あの日から、私は自分を取り戻した。
会社のためでも、夫のためでもなく、自分の時間を、自分の人生を、自分で選ぶことを決めたのだ。
私は今、静かな温かい部屋で、自分のパソコンを開いている。
あの何十年もの間、私は誰かの夢を支えるために、自分を削ってきた。
でも、もう終わった。
私は自分の足で立っている。
それが、私の選んだ席だ。
誰に何を言われても、私はもう、あそこには戻らない。
私は、私の人生を生きる。
そう決めた。
