母さん、ちょっと話があるんだけど。
匠、どうしたの、急に。
親父も亡くなったしさ、母さんにはこの家を出て行ってもらうから。
はあ? 何言ってるの、急に。出て行けって? だから、出て行ってほしいんだよ。俺はこの家の息子だからな。
息子だから何なの? 親父が死んだんだから、この家は俺のものになるだろ。
あんた、自分が何言ってるか分かってるの?

分かってるよ。それより、28年間誰が誰を養ってきたと思ってるんだ? それは母さんだけど。
だけどじゃないでしょ。あんた、結婚して3年でしょ。
そうだけど、その3年間ずっと誰が面倒見てたの? 母さんだよ。家賃も払ってない。光熱費も払ってない。食費だって。全部私が出してきたでしょ。
それは世話になってたけどさ。
世話になってた? ただで養ってもらってただけでしょ。
養ってもらってたって言い方やめろよ。
じゃあ何て言えばいいの?
28歳の既婚者が親のすねをかじってたって。すねをかじるって事実でしょ。
とにかく、俺たち夫婦の家にするから、母さんは出て行ってくれ。
俺たち夫婦の家? はあ、意味が分かんないんだけど。
だから、親父が死んだら俺が相続するんだよ。
相続? あんた本気でそれを言ってるの? 当たり前だろ。
面白いわね。
何が面白いんだよ。
あんたの頭の中よ。この家、誰が買ったか知ってる?
親父だろ? 違うわよ。私よ。30年前、私の給料とボーナスを全部はたいて買ったの。
嘘だろ? 嘘じゃないわよ。私は不動産会社の営業部長だったんだから。
営業部長? …ああ、そういえば。
あんたの就職先だって、私がコネを使ったのを忘れたの?
それは…忘れてた。
都合の悪いことは全部忘れるんだから。本当に呆れるわ。
でも母さん、今は働いてないだろ。
お父さんの介護のために仕事を辞めたんだよ。それは知ってる。
知ってるけどさ。
知ってるけど、じゃないでしょ。退職金2,500万円、全部お父さんの医療費に使ったのよ。
2,500万? そうよ。あんたが相続するものなんて、何一つないの。
でも、この家は大事なんだよ。それに、義理の両親がこっちに来ることになってるんだ。
はあ? 何それ。勝手に決めたの? 向こうの両親はな、色々と援助してくれるんだよ。
援助?
そうだよ。母さんよりよっぽど頼りになるんだ。
あんた、今何て言った? だから、援助してくれるって言ってるんだ。
その前よ。母さんより頼りになるって言ったわね。
ああ、言ったよ。
28年も養ってきた母親より、嫁の両親の方が頼りになるんだ。よく分かったわ。
母さん、なあ。
何? 正直に言うわよ。
何をだよ? あんたが鬱になった時、誰が支えたと思ってるの?
仕事が辛いって言って、治った後も家にいさせてあげたわよね。
それは…まあ。
でも、治った後、あんたは何してた? ゲームして課金して、私のお金を好き放題使ってたわよね。やっと出て行くかと思ったら、今度は私を追い出すの? だって、親父の遺産が何もないって言っただろ。全部、私の家なんだよ。
じゃあ、どうすればいいんだよ。
知らないわよ。自分で考えなさいよ。
母さん、ちゃんと聞けよ。
匠、覚えておきなさい。
何をだよ。
自分で言った言葉には責任を持ちなさいってことよ。
うるさいな。もういいから、出て行けよ。
そのうち痛い目を見るわよ。
一時間後。
そうだ。言い忘れてたけど、仏壇も持って行ってくれよ。
仏壇? 親父の仏壇だよ。俺たち若い世代はそういうの信じないし、邪魔なんだよ。
邪魔?
お父さんの仏壇が邪魔だって言うの? だって、置く場所がないんだもん。それに、両親の家具は高級品ばかりだからさ。母さんの古い家具とかも全部処分していいから。
処分? うん。どうせ古いし。
30年かけて揃えたものなんだけどね。
その言い方、何? 30年前の家具とか、逆にすごいよな。
すごいって、褒めてるつもり?
いや、そういう意味じゃなくて。
じゃあ、どういう意味よ。
とにかく、新しい生活には新しいものが必要なんだよ。
新しい生活? いいわね。キラキラしてて。
母さん、皮肉かよ。
皮肉じゃないわよ。素敵だなって思っただけ。
なんか怖いんだけど。
怖い? 何が? 母さんの態度が。
別に普通だけど。
ああ、そうだ。三日以内に出て行ってくれ。
三日?
いくらなんでも急すぎるでしょ。
義理の両親が来週には引っ越してくるから。
来週? 勝手にそこまで話を進めてたの? 向こうはもう準備してるし。
私に相談もなく? だって、母さんは反対しそうだし。
反対するに決まってるでしょ。
だから言わなかったんだよ。
あんた、本当に変わったわね。
変わってないし。
変わったわよ。昔はもっと優しかったのに。
優しい?
ふん、うるさいな。もう早く出て行けよ。施設でも何でも行けばいいだろ。
ああ、そう。あんた、言っちゃいけないことを言ったわね。
とにかく、三日以内に出て行ってくれ。
もういいわ。分かったわよ。
本当か? 本当よ。あんたの望み通りにしてあげる。
よっしゃ、助かるわ。
でもね。
何だよ? 前にもこういうこと、あったわよね。
こういうことって、何がだよ。
私を追い出すことよ。無理だって言ってるでしょ。
無理? 何が無理なんだよ。
結婚式の時もそうだったわね。結婚式に五百万出せって言ったでしょ。
それは、世話になってたからだろ。
世話になってた。お礼のつもりで親に金をせびるの?
せびるって言い方、やめてくれよ。
じゃあ、何て言えばいいの? もういいよ。
あんたさ、私のことを何だと思ってるの? 何って、母親だろ? ATMじゃないの?
はあ? いつもお金の話ばかりじゃないか。
それはね、結婚式に五百万、新婚旅行の費用に五十万、新居の家具に百万。全部出したのを覚えてる? 覚えてるけど。
で、お礼の一言も言われてないんだけど。
言ったはずだよ。覚えてないけど。
覚えてないんじゃなくて、言ってないんでしょ? 細かいなあ。
細かくて結構。私はあんたに言われた言葉を全部覚えてるから。
母さん、変だよ。
変なのはあんたでしょ。都合のいいことだけ言ってるんだから。
すごいな。
そうでしょう。私の家を勝手に自分のものだと思い込んで、私を追い出して、嫁の両親を住まわせるんだから。
だから、親父が死んだら関係ないだろ。
関係あるわよ。
ないよ。この家は最初から私の家なんだ。
でもでも、じゃないわよ。登記簿って見たことある?
登記簿? いや、見たことないけど。
じゃあ、確認してみなさいよ。何が書いてあるか。
自分で確認しろってことか? そうよ。自分でやりなさい。
母さん、あのな。
匠、何? 私、色々と準備してるから。
準備?
そうよ。楽しみにしててね。私も我慢の限界なんだから。
何の準備だよ。教えろよ。
秘密よ。三日後ね。
ああ、三日以内って言っただろ。約束は守るわ。
あんたも、約束を守りなさいよ。
約束? 何のだ? 自分で言った言葉の責任よ。覚えておきなさい。
三十分後。
お母さん、出て行く準備は進んでますか? 私の両親がすごく楽しみにしてるんですよ。
ああ、あんたもそっち側なのね。息子だけじゃ飽き足らず、嫁まで出てくるんだから。
何言ってるんですか?
お母さんこそ、早く出て行ったほうがいいですよ。古い人間の考え方は、もう時代遅れなんですから。
古い? あんた、30年も生きてきて、何も分かってないのね。
分かってないのはお母さんのほうです。新しい生活には、新しい考え方が必要なんです。
新しい生活? はあ、笑わせるわね。あんたたちに何ができるの? お母さんには関係ないことです。とにかく、三日以内に出て行ってくださいね。
出て行けって、この家は私の家よ。
違います。この家はもう、私たち夫婦のものです。お父さんが亡くなったんだから、当然でしょ。
夫の前で、よくそんなことが言えるわね。
何か文句があるんですか?
文句も何も、あんたたち、私に言う前に、やることがあるでしょ。
何のことですか? お父さんのお線香をあげるとか、仏壇に手を合わせるとか、そういうことが先でしょ。
そんなこと、若い世代には必要ないんです。古い習慣は、捨ててしまえばいいんです。
古い習慣? あんた、それは人として間違ってるわよ。
お母さんこそ、古い考え方に固執しすぎです。時代は変わるんですよ。
変わったのは、あんたの心よ。昔は、もっと素直な子だったのに。
昔のことはいいんです。今が大事なんです。とにかく、三日後までに、この家を出て行ってください。それで、古い家具とかも全部処分してください。
処分? あんた、何様のつもり?
何様って、この家の主ですから。この家の家具は、全部処分します。新しいものを入れるんで。
あんた、本当に私を怒らせるわね。
怒らせてるつもりはないですけど。ただ、事実を言ってるだけです。古いものは、処分する。それだけです。
ふん。分かったわよ。好きにしなさい。
お母さんも、分かってるじゃないですか。じゃあ、三日後を楽しみにしてますね。
三日後か。あっという間だな。
そうですね。では、私たちは買い物に行くので、それまでに準備を済ませておいてくださいね。
行こう、匠。
ああ、行こう。
二人が立ち去った後、静かになった部屋で、母は一人、古い仏壇に手を合わせた。
「お父さん、聞こえてる? 今の話、聞いてたでしょ。あの子たち、本気であたしを追い出そうとしてるのよ。」
仏壇の向こうから、返事はなかった。
「でもね、お父さん。あたしは、これで終わるつもりはないの。30年、あんたと二人三脚でやってきたんだもの。あの子たちに、あたしの人生を踏みにじる権利はないわ。」
母は、立ち上がった。
「腹はくっきれたわ。あんたに、目にものを見せてやるからね。」
三日後。匠と妻は、母が出て行ったことを確認すると、すぐに家具の処分を始めた。
「これも、これも、全部捨ててくれ。あと、仏壇もな。」
「やっぱり、あの仏壇も捨てるの? 」
「ああ、邪魔だからな。新しいのを買うんだ。」
その時、玄関のベルが鳴った。
「はい、どちら様ですか? 」
匠が玄関を開けると、そこには見知らぬスーツ姿の男が立っていた。
「こんにちは。こちら、匠さんのお宅で間違いないですか?
」
「はい、そうですけど。どちら様ですか? 」
「ああ、私は不動産会社の者です。ご連絡いただいた件で、確認に伺いました。」
「不動産会社? 何のことですか? 」
「え?
ご存じないのですか? こちら、20年前に、お母様が購入された物件ですよね? 」
匠は凍りついた。
「は? 母が?
この家を? 」
「ええ、そうです。所有権は、お母様のままですよ。ご自身で登記簿を確認されたほうがいいでしょう。」
「登記簿…」
匠は、すぐにパソコンを取り出して、登記情報を確認した。すると、そこには確かに、母の名前が所有権者として記載されていた。
「信じられない…」
「どうやら、お母様はご存じのないまま、ここに住んでいたご様子ですね。では、私はこれで。」
男が帰っていった後、匠はその場に座り込んだ。
「匠、どうしたの? まさか、本当にあの人がこの家を? 」
「……ああ。俺は、母が嘘をついてると思ってた。でも、本当だったんだ。この家は、最初から母のものだったんだよ。」
「じゃあ、私の両親は……?
」
「来る場所がなくなるよ…」
匠は、急に恐怖に襲われた。母は言っていた。「自分で言った言葉には責任を持て」と。そして、決して忘れられないあの言葉を。
「そうだ。母さんは、何か知ってたんだ。『私も我慢の限界だ』って言ってた。あれは、この家を売る準備をしてたってことなのか? 」
匠は、すぐに母に電話をかけた。しかし、何度呼び出し音を鳴らしても、繋がらない。
「ダメだ。母さん、出ない。」
「まさか、本当に出て行っちゃったの? 」
「いや、待てよ。母さんは、この家を手放すつもりはなかったはずだ。でも、もし売ってしまったら…」
その時、匠の携帯にメッセージが届いた。母からだった。
「匠、今まで育ててくれてありがとう。そして、さようなら。あなたは、あなたの選んだ道を進みなさい。私は、私はこれから自由になるわ。」
匠は、震える手で返信した。
「母さん、家はどうなるんだ? 」
それから何分経っても、返信はなかった。匠は、もう一度電話をかけたが、今度は電源が切れていた。
「母さん…。」
妻が、不安そうな顔で匠を見つめた。
「匠、どうするの?
」
「……分からない。」
その夜、匠は眠れなかった。翌朝、一階から物音がして、匠は飛び起きた。急いで階段を降りると、リビングに見覚えのある背中があった。
「母さん…? 」
母は、ゆっくりと振り返った。
「おはよう、匠。」
「どうして…家にいるんだ? 」
「だって、ここは私の家だからよ。」
母は、冷ややかな笑みを浮かべた。
「聞いたわよ。私たちの不動産屋さんから、あなたが登記簿を確認したって。そうでしょ? 」
「……そうだよ。」
「なら、分かるわね。私は、失うものは何もないの。むしろ、すべてを手に入れたわ。あなたたちを追い出して、この家に住み続ける権利をね。」
「母さん、俺は…」
「言い訳はいいわ。出て行くのは、あんたたちよ。三日以内に出て行きなさい。」
匠は、反論できなかった。母の目は、完全に、覚悟を決めた人の目をしていたからだ。
「分かったよ。……出て行く。」
妻が、匠の袖を引っ張った。
「匠!?
」
「いいんだ。俺たちが悪かったんだ。」
匠は、妻の手を握り、そのまま部屋に戻っていった。一時間後、二人は大きなスーツケースを抱えて、家を出た。母は、玄関まで見送りにも来なかった。
妻は、家を振り返って、ぽつりと呟いた。
「匠、私たち、これからどうするの? 」
匠は、空を見上げた。
「……親父の墓参りに行くよ。」
「え? 」
「みんな、俺のせいだ。親父が死んで、家がどうなるかも分からないうちに、母さんを追い出そうとした。あんなことをしなければ、こんなことにはならなかったんだ。」
「匠…」
「まずは、謝りに行くんだ。母さんに、できることは全部やる。」
二人は、ゆっくりと歩き出した。日光が、新緑の並木道に降り注いでいた。