「り太、ごめんなさい。ちょっと体調が悪くて、晩ご飯は自分で買ってきてもらってもいい?」
「ああ、最近ずっとこんな感じじゃないか。一体どうしたんだよ。ももこは専業主婦なんだから、家事をしっかりやってくれないと」
「ごめんなさい。元気になったらすぐにやるからね」
「ご飯だって買うのは金がかかるんだぞ。俺だけじゃなくて、母さんの分も買わないとダメなんだろ」
「お母さんが料理をしてくれたら問題ないんだけどね」
「母さんはもう70歳を超えてるんだぞ。そんなことをやらせるのかよ」
「だったら買ってもらうしかないわね」
「俺たち、生活費を切り詰めて貯金をしようって約束しただろう。今はこうして実家で生活してるけどさ、ここも古くてもう長くは住めないんだから、家を買うために頑張らないとダメだろ」
「もちろん、そういうのは全部理解してるわよ」
「お前がこの前教えてくれたあの家なんて良かったぞ。立地もいいし、家もめちゃくちゃ綺麗だったし」
「それってもしかして、お父さんが気になってたところ?」
「そう。あそこはかなりいいよ。お父さんってセンスいいんだな」
「でもあそこはお父さんが住めないでしょう。貧乏な生活をしてるんだから」
「そんな言い方しないでよ」
「とにかくあそこを買うために、すぐにでも金を貯めたいんだ。あそこは人気の物件だから、すぐに売れてしまいそうだし。なんなら今すぐにでも契約したいくらいなんだよ」
「それなのに、お前がこんな調子じゃ無理だって言うんだ」
「それは無理よ。私、体調が悪いんだから」
「俺には理由があって言い訳をするな。家事もしない人間は、我が家には置いておけないぞ」
「そんな言い方しなくてもいいじゃない」
「家族だからと言って甘えるのはなしにしようぜ。とにかく今日だけは俺がなんとかするよ。でもこれ以上はやれないからな」
「うん。分かったわ」
10分後、ももこは義母の部屋の前に立っていた。ノックをすると、冷たい声が返ってくる。
「お母さん、すみません。体調が悪いので、今日は部屋で休ませていただきます。風邪がうつると悪いので、部屋には近づかないようにお願いします」
「また風邪? そう言って家事をさぼってるんじゃないの?」
「そんなことはしませんよ。やりたくてもやれない状況なんですから」
「はあ、それは本当なのかしら」
「最近、お母さんって私に冷たいですよね。前はもっと仲良くできていたのに」
「そんなのはあんたの思い込みでしょ。別にこっちはそんなつもりは一切ないんだから。もしそうなってるのだとしたら、あんたが役割を全うしないからよ。家事をしないのもそうだけど、孫の顔も見せてくれなくてさ」
「子供は授かり物だからしょうがないじゃないですか。それにお母さんが孫にこだわってるなんて、今まで感じたことがなかったですよ」
「最初はそれも仕方ないかなって思ったのよ。でもやっり、お先が短いって思うとね、どうしても孫の顔が見たいと思うようになったの。でもあんたは、そんな私の願いを叶えてくれなかったわ」
「私だけを責めないでください。授かりではありますけど、夫婦の力が必要なものです」
「り太は何も悪くないわ。あんたが原因に決まってる」
「すみません。もうこれ以上話したくないです。ただでさえ辛いのに、お母さんから責められるのは耐えられません」
「被害者みたいなことを言ってんじゃないよ。それに、いつまでも寝てるくらいなら病院に行って薬でももらってきたらどう? 病気じゃないなら薬をもらえるはずだよ」
「分かりました。明日行ってきますよ」
その夜、寝室でり太が話しかけた。
「ももこ、今度はいつ帰ってこれる?」
「今すぐにでも帰りたいよ。でもちょっと体調を崩しちゃって」
「え? ちょっと待ってよ。あなたは大丈夫なの?」
「私は大丈夫だと思う。明日病院に行って色々と診察してもらうけど、多分私は何ともないと思うわ」
「そう」
「お母さんの方こそ大丈夫なの? 私なんかよりも、お母さんの方が心配よ」
「とりあえずなんとかやってるわ。お父さんのお世話もやらないといけないしね。私がくよくよしてるようじゃダメだから」
「強いんだね」
「そうじゃないとやってられないってのはあるわ。多分、元気が取り柄ってやつだと思う」
「自分が情けないわ。私、大丈夫なのに、こんな伏せっちゃって」
「しょうがないわよ。でもあなたは一人じゃないから、みんなに甘えなさい」
「そんなことをさせてもらえないんだよね」
「え?」
「夫から直接、甘えるなって言われちゃったわ」
「そうなの?」
「私に家事を完璧にやるマシーンになれってことじゃないかって。そんなのあんまりだわ」
「だってあなたが置かれてる状況を考えたら……」
「あのことはまだ誰にも言ってないの。今はまだその方がいいかなって思ってさ」
「そうだったのね。あなたが一人で抱えて、それが一番いいかなって思ってる」
「うん。話さないといけないとは思ってるんだけど」
「それはそうね。でも、あなたが体調悪いって言ってるのに、甘えるなって……」
「お母さんからも同じようなことを言われたわ」
「そんな状況で生活をしてたの?」
「うん。そんなことないよ。お母さんとは仲がいいって感じじゃなかったけど、それなりにはうまくやってた気がする。り太とは仲良くやれてた気がしたんだけどね。なのに最近急に冷たくなってきてさ」
「そうなんだ。何かあったの?」
「分からない。私に何かあったとかではないと思う」
「とにかく無理はしないでね。何かあったらすぐに実家に帰ってきなさい。私たちはいつでもあなたのことを歓迎するわよ」
「ありがとう。とりあえず体調直すよ。治り次第、すぐにそっちに帰るようにするから」
「そうね。お願いね」
翌日、病院からももこがり太に電話をかけた。
「もしもし、り太? ごめんなさい。しばらく入院することになったの」
「入院? なんでだよ。病院に行こうと思ったら、その途中で倒れちゃって、それで搬送されたのよ」
「お前さ、こっちはただでさえ忙しいんだぞ。それなのにどうして入院なんてことになるんだよ。俺たちはこれからどうすりゃいいんだよ。誰が飯を作るんだ」
「こんな時も、私の心配をしてくれないんだね」
「どうせ大したことないんだろ。お前はいつも大げさなんだよ」
「私がどれだけ苦しんでるか、考えもしないで」
「俺は毎日仕事をして頑張ってるんだぞ。専業主婦のお前の苦しみなんて大したことない」
「どうして自分を悲劇のヒロインみたいに言うんだ」
「そんな言い方はしてない。あなたには黙ってたことがあるのよ」
「黙ってたこと? なんだよ、それ」
「予命宣告をされちゃってさ」
「はあ? 予命宣告? お前、そんなに悪い病気だったのか?」
「いや、そうじゃなくて……あのなあ、急にそんなことを言われても迷惑だろう。だから予命宣告されたとか、俺も母さんも超迷惑だって言ってんだよ」
「どういう意味?」
「お前が予命宣告されたってことは、これから治療費とか入院費とかかかるってことだろ?」
「そういうことになるわね」
「そんな金がどこにあるんだよ。言ったよな。俺たちは金が必要で節約をしてるって。もうこの前言ってた物件の内見をしようとしてたんだよ。こっちは本気で買う準備に入ってんだよ。母さんにも写真を見せてさ。そしたら大喜びで、そのために金が必要だって言うのに」
「もういいです。これ以上、あなたたちと話したくありません」
「あら、そう。それじゃこれが最後のやり取りかしらね」
「そうなればいいですね」
「では、お願いするわよ。金だけはちゃんとよしなさいよ」
一週間後、ももこは退院し、実家に帰ってきていた。リビングで母親と向き合っている。
「それで、あれから何か連絡はあったの?」
「何もないわ。電話しても出ないし、メッセージも既読無視されたまま」
「ひどいわね。あんたが入院してたのに、その間一度も見舞いに来なかったんでしょ?」
「うん。来る気配すらなかった」
「それで、この後どうするつもりなの?」
「分からない。でも、もうあの家には戻れない気がする」
「それはそうでしょうね。あんた、ちゃんと自分のこと大事にしなさいよ。あの家にいたら、またあの人の言いなりになってたわよ」
「母さん、私、間違ってたのかな」
「何が間違ってたの?」
「私、ずっと自分の気持ちを押し殺してた。体調が悪くても、辛くても、それを言えなくて。だって、言ったらまた責められると思ったから」
「それはね、あんたが弱いからじゃないのよ。それだけ追い詰められてたってこと。あんたは悪くないの」
「でも、母さんは初め、私が仕事を辞めて専業主婦になるって言ったとき、反対してたよね」
「そうね。あのとき反対したのは、あんたが幸せになるって言うから、それを信じたかったからよ。でも、あんたは幸せそうには見えなかった」
「うん……私、バカだったのかも」
「バカだったのは、自分を大切にしなかったことよ。あんたは十分頑張ってきた。もう誰かに合わせて無理する必要はないの」
「ありがとう、母さん」
「いいのよ。さあ、ご飯にしましょう。あんた、入院してたんだから、ちゃんと食べなきゃダメよ」
「うん。そうする」
そして、ももこは静かに、母の料理を一口食べて、目を細めた。実家の味だ。温かい。自分はここに帰ってきてよかったんだと思った。り太との生活は、もう終わった。悲しい気持ちはあるけれど、それ以上に、ようやく解放されたという安堵が大きかった。
母は黙って、ももこのお茶を注ぎ直してくれた。その手は優しかった。ももこは、自分が決して一人ではないことを、その瞬間、心の底から感じていた。
