ある日、夫の両太に何度電話をかけても繋がらない。たまらず私は緊急だと夫の会社に連絡を入れた。電話口に出た夫に私は焦って伝えた。
「お父さんが事故で、渋滞なの」
ところが、私の慌てた声に対し、両太の対応は驚くほど冷たいものだった。
「葬儀以外で連絡すんな」
そう一言だけ告げると、私の話を最後まで聞くこともなく、一方的に電話を切ってしまったのだ。あまりの対応に一瞬何が起きたのか分からなかったが、諦めて私は一人で病院へ向かった。そして、病院で事情を聞いた義母は激怒した。
そう、実は事故に遭ったのは私の父ではなく、義父だったのだ。義母は震える声で夫にこう告げた。
「許さん」
私は中川まみ、三十歳。美容師としてパート勤務をしながら主婦をしている。夫の両太とは友人を通じて知り合い、私より二つ年上の会社員だ。結婚するまで私は美容師として正社員で働いていた。仕事が好きだったので、結婚後も仕事をやめるつもりはなかった。結婚して数年が経ち、二人の子供を授かった。二年連続で育児休業を取得し、その後は正社員として職場に復帰しようと考えていた。保育園も見つかり、復帰を本格的に目指し始めた頃、両太が突然の提案をしてきた。
内容は、私が正社員ではなくパートとして働くこと。育児との兼ね合いを考え、正社員には戻らないで欲しいというものだった。実際、年の近い二人の育児は大変だったし、経済的に問題を感じていなかった私は、多少の迷いはあったものの、正社員という働き方は手放すことにした。何かあった時に少しでも融通が利くようにと今の働き方を選んだため、急な休みなどに対応するのは基本的に私だった。とはいえ、私たち夫婦は休日が違うこともあり、両太が一人で休みの日は子供の面倒を見てくれるなど、育児には比較的協力的だった。そうして私たち家族は仲良く平和な生活を送っていた。
私たちが結婚することになった時、条件があった。義実家での同居だ。義父は小さな会社を経営しており、将来的には一人息子である両太がその会社を継ぐことになる。そのため、将来的なことも考えての同居の話だったのだろう。結婚前に義両親に挨拶をした時には、すでに同居の話はされていた。義両親は二人とも人柄が良く、初対面の時から私を受け入れてくれていた。義母はとても温厚で優しく接してくれた。当時、仕事をやめるつもりはなかった私の気持ちも理解してくれていた。義両親は私の気持ちを尊重してくれる素敵な人たちで、私は心を開くことができた。同居の条件も問題なく受け入れた。両太は「無理する必要はない」と気遣ってくれていたが、私は同居に対してマイナスの感情を全く持っていなかったため、予定通り同居することになった。
結婚と同時に、私たちは義両親の実家での同居を開始した。姑の問題なども心配していたが、その心配は全く必要なかった。義両親は結婚前に感じた印象のまま、私に対しても非常に良くしてくれた。それからしばらくの間、私たちは義両親を含め、みんなで仲良く平和な生活を送っていた。
しかし、二人目の子供が生まれる少し前から、両太の様子が少しずつ変わっていった。今まで残業とはほとんど無縁だった両太だが、残業で帰りが遅くなる日が徐々に増えていったのだ。二人目の子供が生まれ、私が職場に復帰するまでは、義母の手を借りながらなんとかやっていた。義母は義父の仕事をたまに手伝っていたが、基本的には専業主婦のような形で家にいたため、育児にとても協力してくれていた。義母は「こんなに可愛い孫のためなら何でもできる」と嫌味の一つも言わず、積極的に育児を手伝ってくれていた。
しばらくして、私の職場復帰が本格的に近づいた頃、さすがにこのままではいけないと思い、私は両太に相談を持ちかけた。休日だけでもいいので、もう少し子育てに協力して欲しいという内容だ。とても頼りになる義両親ではあるが、私が働き出せば話は別だ。今以上に手がかかることは間違いないし、義両親も子供たちも心配で、仕事に身が入らない。だからこそ、両太の協力が得られれば、少しは義両親の負担を減らすことができる。そう思って、私は自分の気持ちを素直に両太に伝えた。
しかし、私の話を聞いた両太は納得しきっていない様子だったが、「休日だけだぞ」と渋々了承してくれた。そもそも自分の子供なのに、その態度は何なのかと思いはしたが、その時はこれからのことで頭がいっぱいで、それほど深く考えていなかった。両太の返事に私は満足していた。
私はパートとして職場に復帰し、仕事と家庭の両立が始まった。最初の二ヶ月ほどは約束通り、両太も少しは協力してくれていた。だが、それも初めだけだった。二ヶ月が過ぎた頃から、両太は休日になると子供たちを義母に預け、自分は一人でどこかへ出かけるようになった。そんな日々が繰り返されるようになり、私は不審感と怒りの感情を募らせていった。
そんなある日、義母から一通のメッセージが届いた。
「お願い。今すぐ帰ってきて」
ちょうど休憩の時間だったので携帯を確認すると、義母から連絡が入っていた。内容が記載されないほど緊急で連絡が来たことは今まで一度もなかったため、私は慌てて義母に電話で事情を聞き、急いで家に帰った。家に着いて状況を把握し、少し落ち着いた頃、私は両太に電話をした。しかし電話は繋がらず、何度かけても一向に繋がらない。緊急事態なので、やむを得ず私は両太の会社に連絡をした。両太は外出中とのことで、会社から緊急だと連絡を入れてもらうことにした。数分後、両太から直接私に折り返しの電話がかかってきた。
電話に出るなり、私は慌てて伝えた。
「お父さんが事故で、渋滞なの」
焦って連絡をした私に対し、両太の対応は驚くほど冷たいものだった。
「葬儀以外で連絡すんな」
そう一言だけ告げ、私の話をそれ以上聞くこともなく、一方的に電話を切ってしまった。まさかの対応に呆気に取られたが、私は諦めて自分一人で病院へ向かった。病院に向かう途中、事故の状態なども詳しく分からないので、心配でたまらなかった。
病院に到着すると、手術室の前に義母が座っていた。詳しく話を聞くと、車との接触事故で緊急手術をしているとのことだった。義母と二人で待つこと数時間。手術は無事終了し、医者から「命に別状はない。麻酔が切れれば意識もすぐに回復するだろう」と説明があった。
緊急事態にも関わらず、両太が全く頼りにならない状況だったため、子供たちは車で一時間ほどの距離に住む私の両親に任せていた。それからさらに数時間が経過し、義父が目を覚ました。診察などが行われ、経過は良好で、義父は一週間ほどで退院できると言われた。
意識を取り戻した義父は、私の顔を見ると安心したように微笑んだ。義母は涙を拭いながら「心配かけてごめんね」と私に言った。私は「無事でよかったです」とだけ返した。その瞬間、夫の両太の顔が全く思い浮かばなかった。あれだけ緊急だと伝えたのに、葬儀以外で連絡するなと言った夫。私はその言葉を決して忘れないだろう。
義父が退院した後も、両太の態度は変わらなかった。休日になると相変わらず一人で出かける。義母は何も言わないが、肩身の狭い思いをしているのが分かった。ある日、私はとうとう両太に言った。
「ねえ、あなたは自分の父親が事故に遭って、何も感じなかったの? あの日、私がどれだけ心細かったか分かってる?」
両太は面倒くさそうにテレビを消した。
「うるさいな。父さんは無事だったんだろ。それで十分だろう」
「十分なわけないでしょ! 私はあなたに頼りたかったの! あの時、あなたは私の話も聞かずに電話を切った。それで、あなたは父親をどう思ってるの?」
「母さんがいるからいいんだよ。俺が行かなくても問題ないだろ」
その言葉を聞いた瞬間、私は確信した。この人は、自分の家族を大切に思っていないのだと。いや、大切に思う力が最初からないのだ。
それから数ヶ月が経ち、私はある決意を固めた。両太との生活を続けることは、自分にとっても子供たちにとっても良くない。私は離婚を決意し、財産分与と子供たちの養育権についての話し合いを始めた。両太は最初、驚いた顔をしていたが、私の決意が固いことを悟ると、あっさりと離婚に応じた。
「お前がそうしたいなら、いいよ。ただし、子供たちは置いていけよ」
「子供たちは私が育てる。あなたに育てられるとは思えない」
「ふん。好きにしろ」
それだけ言うと、両太は何の未練もなくサインをした。五年前までは、まさかこうなるとは思ってもみなかった。あの時、私が正社員に復帰していたら、もしかしたら違ったのかもしれない。だが、あの日の電話の対応を見て、私ははっきりと理解した。この人は根本的に他人の痛みを感じることができない人なのだと。
離婚後、私は子供たちを連れて、私の両親の家に身を寄せた。美容師としての技術は失っていなかった。パートからだが、少しずつ仕事の時間を増やし、やがて週の大半を働けるようになった。子供たちも新しい環境に少しずつ慣れていき、私の両親も孫たちの面倒を快く見てくれた。
あれからさらに時が流れ、私は再び穏やかな日常を取り戻すことができた。子供たちはすくすくと育ち、私は美容師として働くことにやりがいを感じていた。そんなある日、とあるきっかけで一人の男性と出会った。彼は私と同じように、かつて家庭の問題で苦労した経験を持つ人だった。彼にも子供がいたが、お互いの家族同士が交流を深めながら、少しずつ関係を育んでいった。
再婚も視野に入れながら、私たちはお互いの家族を大切にし、穏やかな毎日を送っている。あの日、私が両太と結婚した時には想像もできなかったような、温かくて平穏な日常が、そこにはある。
時々、あの日のことを思い出す。病院の手術室の前で、義母と二人でただ待っていたあの時間。携帯の向こうで「葬儀以外で連絡すんな」と言った両太の声。あの言葉がなければ、私はもしかしたら、ずっと両太との生活にしがみついていたかもしれない。だが、あの時、義父の命が助かったから良かったものの、もし事故がもっと深刻だったら、あの言葉は一生私の心を刺し続けていただろう。
今、私はこの生活を選んで良かったと思っている。子供たちも、新しい夫との関係も、何よりも私自身が幸せでいられること。それは、誰に何と言われようと、私自身が決めた道だ。
私はもう、誰かのために自分の人生を犠牲にしたりしない。自分の幸せを、自分で作っていく。それこそが、あの経験から私が学んだことでもある。
