「金だけ出して消えろ」。ホテルの廊下で、息子は私の目を見ずにそう言った。今日は私の古希祝いだった。それなのに、私は病人にされ、自分が四十三万円を払った会場から追い返されようとしていた。親族には「母さんは体調を崩して来られない」と伝えてあるらしい。今更中に入られたら、全部おかしくなるから、と。私は真野ふさ子、今日で七十歳。昔の息子は、私が熱で寝込んだ時、焦がしたお粥を作ってくれた子だった。それ…

「金だけ出して消えろ」。ホテルの廊下で、息子は私の目を見ずにそう言った。今日は私の古希祝いだった。それなのに、私は病人にされ、自分が四十三万円を払った会場から追い返されようとしていた。親族には「母さんは体調を崩して来られない」と伝えてあるらしい。今更中に入られたら、全部おかしくなるから、と。私は真野ふさ子、今日で七十歳。昔の息子は、私が熱で寝込んだ時、焦がしたお粥を作ってくれた子だった。それ...

金だけ出して消えろ。ホテルの廊下で、息子は私の目を見ずにそう言った。親族には母さんは体調を崩して来られないって伝えてある。今更中に入られたら、全部おかしくなるから。今日は私の古希祝いだった。それなのに、私は病人ということにされ、自分が金を出した会場から追い返されようとしている。私は真野ふさ子。今日で七十歳になる。

昔の息子はこんな子ではなかった。中学生の頃、私が高い熱を出して寝込んだことがある。夫は夜勤でいなかった。息子は台所でお粥を焦がしながら作り、洗濯物を畳んでくれた。母さんは寝てて、俺がやるから。そう言って、額に濡れたタオルを乗せてくれた。息子が二十三歳で初任給をもらった年、私の五十歳の誕生日に、個人経営の小さな料亭を予約してくれた。安いコース料理だったけれど、息子は照れながら花を差し出した。もっと稼いで、次はもっと盛大に祝うから。私はその言葉を忘れていなかった。

けれど、息子は結婚して少しずつ変わった。正月は毎年、嫁の実家が優先になった。私が一人で年を越すことになっても、息子は母さんは気楽でいいだろうと言うだけだった。夫の命日に仏壇へ手を合わせに来る約束をした年もあったけれど、前の日になって、嫁の両親との食事を優先すると電話で言われた。後日でいいだろう。父さんも分かるよ。その言葉を聞いた時、息子が私を後回しにしていることに気づいた。それでも、私は寂しさを埋めるように、息子夫婦を支えた。

孫を私立に入れてから七年。学費の足として毎月十万円を渡した。入学金、制服、習い事、急な出費も引き受けた。七年間で渡した額は、考えたくもない金額だ。本当は、孫のためだけではなかった。頼られている間は、まだ息子と繋がっていられる気がした。お金で繋ぎ止めようとした私も悪かった。でも、当たり前が積み重なると、人は感謝を忘れて変わってしまうのだろう。生活費が足りない月には、息子の口座へ足りない額を振り込んだ。車検の月も、家電が壊れた月も、二人は当たり前のように相談してきた。息子夫婦はその援助を当てにして暮らしていた。家賃の高い部屋に住み、次は新築マンションを買うと言っていた。

ある日、ふすまの戸の向こうから嫁の声が聞こえた。お母さんの家と保険があれば、頭金はなんとかなるよね。息子は小さな声で答えた。母さんは一人だし、今更大きく使わないだろう。私は台所で湯呑みを握りしめた。今年の古希の会場も、息子が決めた。せっかくだからちゃんとやろうよ。父さんがいない最初の節目なんだから、一旦立て替えといてよ。そう言われて、私はホテルの会食費四十三万円を払った。父さんがいない最初の節目と言われると、私は弱い。今思えば、私が断れない言葉を、息子は選んでいたのだ。

けれど、古希祝いの日の数週間前に、ホテルから確認の電話が入った。ふさ子様は当日ご欠席と伺っております。お体の具合は大丈夫でしょうか。私は聞き返した。え、私が欠席?誰がそんなことを言ったのですか?担当者は予約変更の内容を読み上げた。主役のふさ子は体調不良で欠席。会食は息子夫婦から嫁の両親への感謝を伝える席として変更。電話を切った後、私は親族のグループラインを開いた。嫁は、私も入っているその画面に書いていた。ふさ子さんは体調不良で欠席です。心配をかけないよう、こちらで対応します。両親にも楽しんでもらえる会にします。親族からは、ふさ子さんお大事に、と返信が並んでいた。私の古希祝いを、嫁の両親への接待に変える。そのために、私は病気の年寄りとして消される。

その夜、嫁から連絡が来た。当日は家でゆっくりしていてください。お母さんが出てくると、みんなも気を使いますから。二日後、息子は振り込みの話だけをした。費用は早めに振り込んでおいてよ。私は何も言わなかった。ただ通帳を開いた。いつ、いくら振り込んだか。孫の学費とは別に、生活費として渡した金がどれほどあるか。一つずつ印をつけた。ホテルに頼んで、変更連絡の内容をメールでもらった。会費の費用を支払う私だけが欠席することにされた記録が残った。そして翌週、私は事務所へ相談に向かい、遺言を見直した。息子夫婦への援助は全て止める。生活費も、住宅資金も、孫の学費も。孫には申し訳ないと思った。でも、私の金で支えていた身の丈に合わない暮らしを続けることが、本当に孫のためとは思えなかった。家や預金についても、私が死んだ後に二人が好きに使えるものだと思わないよう、私の意思を残した。私の家を売って頭金にする計算も、夫の保険金を生活費に回す計算も、今日で終わらせる。毎月の十万円も、古希の祝いの翌月から止める手続きをした。

私は当日まで、欠席の話に反論しなかった。一度も問い詰めなかった。そして古希祝いの日、私は夫が生前選んでくれた着物を着た。鏡の前で背筋を伸ばし、ホテルへ向かった。会場前で、息子は私を見つけるなり顔を歪めた。母さん、来ないでって言ったよな。嫁も私の前に立った。もう中では始まってるんです。今更来られても迷惑です。そこへ、嫁の父が出てきた。ふさ子さん、体調が優れないのでは?嫁の母が見下すように笑う。今日はもう、娘夫婦が私たちのために開いてくれた席なの。息子は私を睨んだ。金だけ出して帰ってくれ。私は息子の顔を見た。そう。それだけ言って、私は会場の扉を開けた。

親族たちは私を見るなり、ざわめいた。私は乾杯が始まる前に、全員へ聞こえる声で言った。皆さん、私は元気です。誰かが小さく息を飲んだ。体調不良で欠席すると聞いていたそうです。でも、私は一度も欠席すると言っていません。嫁が慌てて前へ出た。ちょっと、お母さん。私はスマートフォンを掲げた。親族ラインには、嫁が私を欠席にした文章が残っている。ホテルから届いたメールには、息子夫婦が会食の目的を変えた記録が残っている。これは私が払った古希祝いです。四十三万円です。それを、私の欠席を偽って、嫁のご両親への接待に変えた。会場の空気が止まった。私は嫁の父と母を見た。あなた方は、私が体調不良だと聞いても、一度も私に電話をしなかった。私の金で開かれる席で、私が来ないことを当然だと思った。嫁の父は視線をそらした。嫁の母の笑顔も消えた。

息子が声を荒らげた。母さん、大げさすぎるって。大げさ?私は鞄から振り込み記録の写しを出した。孫を私立に入れてから七年。学費、生活費、足りない時の穴埋め。七年間で一千万円以上。あなたたちは、その金があるから今の暮らしを続けられた。私はもう一つ、封筒を置いた。遺言を見直した証明の写しです。息子の顔色が変わった。今月であなたたちへの援助は全て終わり。生活費も住宅資金も、一円も出しません。私は息子夫婦をまっすぐ見た。あなたたちの見栄や生活費は、自分たちで何とかしなさい。私の家も預金も、あなたたちの住宅資金にする計算は、もう意味がないから。嫁が震える声で言った。そ、そんな。私たちの計画が。人の気持ちを踏みにじって守る計画なら、崩れて当然よ。私は親族に向き直った。今日、ここに残って欲しいのは、私の古希を祝ってくれる人だけです。私を病人にして追い出した人は、帰ってください。息子は青ざめた。母さん、もうやめてくれ。私は答えた。やめない。

息子夫婦と嫁の両親は、料理にも手をつけずに出ていった。誰も引き止めなかった。

それから半年で、息子夫婦の暮らしは変わった。毎月十万円がなくなり、家計の穴はすぐに大きくなった。予約していた新築マンションは白紙になった。今の家賃も重くなり、二人は小さめの賃貸へ移った。孫は私立をやめて公立へ移った。私の援助があったから通えた学校だった。寂しくないと言えば嘘になるけれど、公立の制服を着た孫は、前と変わらず笑っていた。身の丈に合わない暮らしを、私が金で支える必要はもうなかった。保育園の迎え、夕食、急な残業の日の世話も、私は引き受けなくなった。二人は自分たちの仕事を調整し、延長保育の費用も払うようになった。古希祝いの日、私を見下した嫁の親も変わった。娘夫婦が私の金に頼っていたことを親族の前で知られ、以前のように得意げに顔を出すことはなくなった。

さらに数ヶ月後、息子夫婦から連絡が入った。家の更新費用が足りません。以前のように、少しだけでも助けてもらえませんか?私はすぐに返した。あなたたち二人の生活を支えるお金は、もう出しません。私を踏みにじってまで守りたかった暮らしなら、自分たちで守りなさい。すぐ後に、息子からは、俺はもう限界だ、と届いた。その十分後には、嫁から、ここまでするなんてひどいです、と届いた。私はどちらにも返事をしなかった。

次はもっと盛大に祝うから。そう言っていた息子は、古希祝いの日、私に金だけ出して消えろと言った。同じ口で、今は助けて欲しいと言っている。私はスマホの画面を閉じた。

古希祝いの日から一年後、私は長く会っていなかった高校時代の友人たちと、小さな本格料理店へ行った。誰も私に費用を出せとは言わなかった。誰も私を欠席にしなかった。友人の一人が小さな箱を渡してくれた。中には、私の生まれ年に発行された切手が入っていた。ふさ子らしいお祝いよと思って。私は涙がこぼれ落ちるのを必死にこらえた。

その春から、私は市民歴史講座に通い始めた。夫が生きていた頃、いつか一緒に聞きに行こうと言っていた講座だった。毎週、知らない町の話をノートに書き留める。講座の帰りに友人とお茶を飲み、次に行く展示の話をする。私は手帳に次の講座の日を書き込み、帰り道に自分のためのパンを一つ買った。誰かの予定を埋めるためではなく、これからの自分の人生を自分の意思で決めるために。

もし今、誰かのために自分を後回しにしているあなたへ。誰かを優先しすぎることは、優しさではないのかもしれません。あなたの人生は、あなたのものなのだから。

Thumbnail