通帳を開いた瞬間、高一の声が電話越しに響いた。どういうことだ? この通帳、4000円しか入ってないじゃないか。
当然でしょう。私の退職金を浮気相手と持ち逃げしようとする人に渡すお金なんて、1円もないわ。
ふざけるな。金だろうが。
いいえ。昨日までは夫婦だったけれど、あなたが置いていった離婚届はもう提出しました。
電話の向こうで、夫が息を飲む音がした。
私の名前はさゆり。65歳。これは、私の退職金を奪って若い女性と再婚しようとした夫が、すべてを失うまでのお話です。
私は長年勤めた会社を、もうすぐ定年退職する。一人息子の健太は結婚して家を出て、今は夫の高一と二人暮らしだ。
とはいえ、夫婦仲が良いわけではない。高一は68歳で再雇用で働いているが、家事は一切しない。給料もほとんど家に入れず、家賃や光熱費、食費は私の収入と夫婦の共有口座から支払っていた。
それだけなら、まだ我慢できたかもしれない。高一には、もう何年も付き合っている女性がいた。しかも、隠す気すらなかった。今日も麻雀仲間と飲んでくる、そう言いながら髪を整え、香水までつけて出ていく。そして帰ってくるのは決まって翌日の昼だった。
ある日、高一の麻雀仲間が家を訪ねてきた。玄関先で高一を見つけると、笑いながら言った。
こうは言いよるな。若い彼女がいて。俺たちなんか、家と銭を往復するだけだよ。
私がすぐ後ろに立っていることに気づき、男は青ざめた。だが高一は平然としていた。
何を今更。さゆりだって知ってるよ。
その夜、私は高一に聞いた。
恥ずかしくないの? 仲間にまで浮気を自慢して。
すると高一は、悪びれもせず笑った。
お前、若い女と遊べる俺が羨ましいのか。だったらお前も若い男を作れよ。そうしたら俺の気持ちもわかるって。人生一度きりなんだから、好きに遊べばいいんだよ。
自分が裏切っているのに、まるで私の心が狭いかのような言い方だった。
私はそんなことをしたいと思わないわ。
だからつまらないんだよ、お前は。
そう言って高一は、夫婦の共有口座のキャッシュカードを財布に入れた。その口座は本来、家賃や光熱費、老後のために二人で使うはずのものだった。だが通帳を見るたびに、見覚えのない引き出しが増えていた。3万円、5万円。多い時には一度に8万円。
問い詰めると、高一は決まってこう言った。
俺だって家族なんだから、共有口座の金を使う権利があるだろう。
けれど高一は、その口座にほとんどお金を入れていない。入金しているのはほぼ私だった。テル台代も食事代も、若い彼女への贈り物も。高一は私が働いて貯めたお金で、浮気相手と遊んでいたのだ。
退職を一か月後に控えた頃、高一が急に私の前に座った。
ところで、お前の退職金はいくらになるんだ? まだはっきりとは分からないわ。
大きい会社なんだから、2000万や3000万くらい出るんだろう。
これまで私の仕事に興味など示したこともないのに、退職金という言葉を口にした瞬間、高一の目が輝いた。
それだけあれば、俺も来年まで働く必要はないな。
どうして私の退職金であなたが仕事をやめるの?

夫婦の金だろ? それにお前も退職したら暇になるんだから、家のことをやればいい。
私は言葉を失った。家にお金を入れず、共有口座から浮気の遊び代まで抜いている男が、今度は私の退職金まで自分のものにしようとしている。
退職金は私が働いてたお金よ。
そう言うと、高一は鼻で笑った。
細かいこと言うなよ。どうせ一人じゃ使いきれないだろ。彼女も旅行に行きたがってるし、みんなで楽しく使えばいいじゃないか。
みんな誰? 俺と彼女と、お前だよ。お前も若い男を連れてくれば、四人で行けるだろ。
冗談のつもりなのかもしれない。だが私は心の底から、この男を軽蔑した。その日のうちに私は共有口座から自分が入れた分を別の口座へ移した。さらに退職金が振り込まれる口座も、高一が知らない銀行へ変更した。高一が保管場所を知っている棚には、残高が数千円しかない古い通帳だけを残しておいた。
退職の日、会社の仲間に花束をもらい、私は30年以上務めた職場を後にした。家に帰ると、高一が落ち着かない様子で待っていた。
で、いくら入った? 3000万円くらい。
3000万円?
高一は勢いよく立ち上がり、子供のように笑った。
すごいじゃないか。どの口座に入ってる? 通帳はいつもの場所か? ええ、通帳と印鑑は別にしまってあるから安心よ。
そう答えると、高一は何度も頷いた。
最近は物騒だからな。俺が管理してやってもいいぞ。
結構よ。
遠慮するなって。大金の管理は男に任せた方が安心だ。
家の生活費すらまともに払わない人が、3000万円を管理するという。私は笑いそうになるのを必死で堪えた。
翌朝、目を覚ますと高一の姿がなかった。棚を確認すると、古い通帳と引き換えにキャッシュカードが消えていた。リビングのテーブルには、記入済みの離婚届と、高一の字で書かれたメモが置いてあった。
お前の退職金は、俺が長年我慢してきた慰謝料としてもらう。彼女と再婚するから、離婚届を出しておけ。お前も若い男を見つけて好きに生きろ。
私は怒りを通り越して笑ってしまった。自分が浮気をし、家にお金も入れず、私のお金で遊び続けた男が、何の慰謝料を受け取るというのだろう。しかも持っていった通帳には、4000円ほどしか入っていない。
私はすぐに息子の健太へ連絡した。事情を話すと、健太は深いため息をついた。
母さん、もう終わりにしよう。父さんは昔から母さんに甘えすぎてた。でも今回は完全に一線を超えてるよ。
一緒に来た嫁の美咲は、私の手を握った。
お母さん、うちに来てください。家を買う時に助けてもらったのも、子供が生まれてから支えてくれたのもお母さんです。今度は私たちが支えます。
私はその場で弁護士に連絡した。高一が残したメモは、浮気と通帳の持ち出しを自分から認めた証拠になった。
その日の夕方、高一から電話がかかってきた。
さゆり、どういうことだ? 何のこと?
通帳に3000万円どころか、4000円しか入ってないじゃないか。
それは私が普段使っていない古い口座よ。
退職金はどこだ? 私名義の別口座。あなたに教える必要はないわ。
電話の向こうで、高一が息を荒くした。
ふざけるな。俺を騙したのか? 騙したのはどちら? はあ?
何言ってんだ、お前。
あなた、私に内緒で若い女性と付き合ってたでしょ。しかも私が働いて貯めたお金で、彼女にプレゼントまで贈って。
それは……お前が俺を疑うからだろ。
疑う? あなたが言ったのよ。俺には若い女がいるって。私に若い男を作れって。忘れたの? 高一が何か言いかけたが、私は続けた。
離婚届は出した。あなたが置いていったやつよ。受理されてるわ。
まさか……本気か? 本気も本気よ。あなたは私と彼女と、どっちを取るの?
沈黙があった。長い沈黙だった。
それは……彼女にも考えがあるし、な。
あなた、まさかとは思うけど、私と彼女の両方を持とうとしてるんじゃないでしょうね? そ、そんなわけないだろ。
じゃあ、彼女を捨てるの? それは……お前の前でそう言うのは、なあ。
私、あなたの本心が知りたいだけよ。私と彼女、どっちが大事なの? 高一は答えなかった。いや、答えられなかった。私はその答えを聞いて、静かに言った。
分かったわ。あなたの答えは聞かないことにする。もう十分よ。
ちょっと待て、さゆり。
これからは、あなたの好きにしなさい。私はもう、あなたの世話はしないから。
電話を切ると、高一は何度もかけ直してきた。だが私は出なかった。翌日も、その翌日も、着信履歴が残るだけだった。
一週間後、高一の荷物が実家から送られてきた。彼女のところへ行ったのかと思ったが、どうやら違うらしい。弁護士を通じて、彼女にも捨てられたことを知った。彼女は次の男を探すと言って、音信不通になったそうだ。
高一は仕事も失った。私が退職金を自分の口座に移したのと同時に、高一の給料の振込先も変更されていたのだ。再雇用の職場には、私から連絡を入れておいた。高一が家にお金を入れず、浮気に使っていたこと。共有口座から勝手に金を引き出していたこと。すべて話した。職場は驚いていたが、よくここまで我慢したと言ってくれた。
高一は家を追い出された。ローンが残っている家に一人で住む余裕はなく、結局、家を売却することになった。私は息子の健太と美咲の家に身を寄せ、孫の世話をしながら穏やかな日々を送っている。
退職金は3000万円。すべて私の名義の口座に移してあった。高一が持ち出した古い通帳には、わざと残した4000円だけ。高一はその4000円すら、引き出すことができなかった。キャッシュカードはあったが、その通帳は私が管理している口座に紐づいていない。高一は何も知らずに、カードを手にATMへ行ったが、エラー表示が出るだけだったそうだ。
私はそれを聞いて、静かに笑った。
高一は今、どこでどうしているか。時々、駅前で見かけることがある。使い慣れないスーツを着て、しょんぼりと歩いている。どうやら、再就職先を探しているらしい。しかし、68歳で、これまで何のスキルも身につけず、家事もせず、自分の給料も家に入れず、趣味と浮気にしか使ってこなかった男を、まともな会社が雇うはずもない。
私は何も感じなかった。むしろ、よくぞここまで自分で転がり落ちたものだと思った。
健太が言っていた。
母さん、やっと自由になれたね。
そうね。やっと、ね。
私は今、自分のお金で自分の好きなことをして暮らしている。旅行にも行く。友人とランチもする。孫の面倒も見る。誰かのために我慢することも、誰かの金を盗られないように警戒することもない。
退職金を奪って若い女と再婚しようとした夫。その夫は今、すべてを失い、私は自由を手に入れた。
あの日、通帳を開けて4000円しか入っていないと高一が叫んだ時、私は確かに言ったのだ。
あなたが私から奪えるものなんて、最初から何もなかったのよ、と。
高一はあれから一度だけ、私の前に現れたことがある。ずいぶん痩せて、目が落ちくぼんでいた。
さゆり、頼む。金を貸してくれないか。俺、本当に困ってるんだ。
私は首を振った。
あなたは言ったわよね。俺は長年我慢してきた慰謝料だって。だったら、その慰謝料で好きに生きればいいでしょ。
あれは……あれは間違いだったんだ。俺が悪かった。もう一度やり直してくれないか。
やり直す?
あなた、私に若い男を作れって言ったわよね。私は若い男を作る気はないけれど、せっかくだから好きに生きるわ。
さゆり、そんな。
あなたはあなたで、好きに生きたらいいのよ。私はもう、あなたの人生には一切関わらないから。
そう言って私は、高一の前から去った。後ろで何か叫んでいたが、私は振り返らなかった。
あれから数か月が経った。私は今日も、穏やかな時間を過ごしている。健太たち家族と食卓を囲み、孫の笑い声を聞く。それが私の幸せだ。
高一の消息は、時折、噂に聞くくらいだ。再就職も叶わず、彼女にも捨てられ、今は小さなアパートで孤独に暮らしているらしい。
それを聞いても、私は何も感じない。あれだけのことをしておいて、同情する方がおかしい。
私はただ、あの男と結婚しなければよかったと思うだけだ。しかし、そのおかげで健太という息子が生まれた。そして、美咲という素晴らしい娘もできた。
人生とは、何が起こるか分からない。あの日、高一が浮気のメモを残していなければ、私は今も我慢の生活を続けていたかもしれない。だが、あのメモがあったから、私は自由になれた。
私は今日も、私の人生を、私の好きなように生きている。
それが、あの男に対する最大の復讐なのかもしれない。