「初めまして。古川涼と申します」——そう頭を下げた瞬間、リビングの空気が刃物のように冷たくなった。恵の父親は僕を一瞥し、「で、君のご職業は何だね」とだけ言った。「ホテルでアルバイトをしております」と答えると、彼は鼻で笑い、封筒をテーブルに投げつけた。「君の身辺調査の結果だ。勤め先の支配人にも会ってきた」。僕は背筋が凍った。その支配人は、僕を何年も正社員にしようとしなかった男だ。「恵を不幸にす…

「初めまして。古川涼と申します」——そう頭を下げた瞬間、リビングの空気が刃物のように冷たくなった。恵の父親は僕を一瞥し、「で、君のご職業は何だね」とだけ言った。「ホテルでアルバイトをしております」と答えると、彼は鼻で笑い、封筒をテーブルに投げつけた。「君の身辺調査の結果だ。勤め先の支配人にも会ってきた」。僕は背筋が凍った。その支配人は、僕を何年も正社員にしようとしなかった男だ。「恵を不幸にす...

部屋に通された瞬間、重い空気が肌に張り付いた。ソファに座る恵の父親は、こちらを一瞥しただけで目を細めた。隣の母親は、口元に笑みのようなものを浮かべている。俺はスーツの襟を直し、精一杯の笑顔を作って頭を下げた。

「初めまして。古川涼と申します。お忙しいところ、お時間をいただきありがとうございます」

声が少し震えていた。手のひらは汗で濡れている。恵が隣で、そっと俺の腕に触れた。その温もりだけで、少しだけ肩の力が抜けた気がした。

「まあ、かけなさい」

父親が無表情のまま言った。俺はおずおずとソファに腰を下ろした。恵もその隣に座る。テーブルを挟んで、向かいに二人の両親がいる。一瞬の沈黙が流れた。

「で、君のご職業は何だね」

最初の一言がそれだった。俺は唾を飲み込んだ。

「あの、いくつか…ホテルでアルバイトをしております」

その言葉を聞いた瞬間、父親の眉がぴくりと動いた。隣の母親は、わざとらしく手に持った紅茶のカップを置いた。カチリと小気味のいい音が響く。

「アルバイト。つまり、フリーターというのかね」

「はい…まあ、そうなります」

「ふん」

父親は鼻で笑った。その笑い方には明らかな侮蔑の色が混じっていた。

「結婚の挨拶に来るような立場の人間が、まさかそんな身分とはな。恵を不幸にするつもりか」

「お父さん!」

恵が立ち上がりかけた。しかし、父親はそれを手で制した。

「いいか、恵。お前のような社長令嬢が、アルバイトの男と結婚するなど、世間の笑い者だぞ」

「そんなの関係ない!」

「関係あるんだよ」

父親はそう言うと、内ポケットから封筒を取り出した。それをテーブルの上に、投げるように置いた。

「これはな、君の身辺調査の結果だ」

一瞬、何を言われたのか分からなかった。しかし、次の瞬間には背中に冷や汗が流れているのが分かった。

「…身辺調査?」

「自分の娘の結婚相手だ。調べるのは当然だろう。君が働いているホテルの支配人にも会ってきた」

その言葉を聞いて、俺は全てを悟った。支配人。あの支配人だ。俺は何年も前からホテルでバイトをしているが、あの支配人とは一度もまともに話したことがない。それどころか、何かと目をつけられていた。新人の頃に些細なミスをした時、やたらと長く説教された記憶がある。俺のことを快く思っていないのは、誰の目にも明らかだった。

「その支配人という人物に、君のことを聞いたんだ」

父親はゆっくりと封筒を開けた。中からは、何枚もの紙が出てくる。

「フリーターで、いくつものバイトをかけ持ちしている。ホテルでは長年働いているが、一度も正社員にしようと思ったことはない、とな。つまり、お前はどこからどう見ても、ただの貧乏人だ」

「ちょっと待ってください!涼は真面目に働いています!」

恵がついに声を荒げた。しかし、父親は一切動じない。

「真面目に働いていたら、なぜ正社員にならないんだ。理由を聞いてもいいか」

その質問に、俺は言葉を詰まらせた。理由はある。確かに理由はある。だが、それを話していいものかどうか、迷っている自分がいた。

「…家庭の事情で、正社員という形で働けないんです」

「ふん。よくある言い訳だな」

父親はそう言って、また鼻で笑った。

「恵、お前もこんな男はやめなさい。どうせろくな人生を送れないよ」

「お父さん、ひどい!」

恵の目に涙が浮かんでいる。俺はその横顔を見て、心が締め付けられた。

「私は、どんなことがあっても涼と結婚するから!」

「許さん!」

父親が机を叩いた。その音で、部屋の空気が凍りつく。

「私の目が黒いうちは、そんな結婚は絶対にさせない。お前は分かっているのか、この家の人間だということを!」

「分かってるわよ!でも!」

「恵、もういい」

俺は静かに立ち上がった。震えている足を何とか叱咤して、一歩前に出る。

「…お父さん、いや、橋本さん」

俺はまっすぐに、恵の父親を見据えた。

「確かに、今の俺は正社員ではないです。でも、恵を不幸にするつもりはありません」

「今のままじゃ不幸にするだけだ」

「……そうかもしれません」

その言葉に、恵が驚いた顔で俺を見た。

「涼、何言ってるの…」

「でも、一つだけ言わせてください」

俺は父親の目をじっと見たまま続けた。

「恵は、俺にとってかけがえのない人です。会社の社長令嬢だとか、そういう肩書きじゃなくて、ただの橋本恵という人として、俺はずっと一緒にいたいと思っています」

その言葉に、恵の父親は一瞬だけ動きを止めた。しかし、すぐにフンと鼻を鳴らす。

「綺麗ごとを並べたところで、現実は変わらないぞ」

「変えるつもりです」

俺のその言葉に、今度は父親が目を丸くした。

「…何?」

「確かに、今の俺はフリーターです。ですが、それはいつまでも続くわけじゃない。ちゃんと、計画があります」

「計画?」

「はい。この度、バイト先のホテルで、正社員として採用していただけることになりました」

その言葉に、部屋の中が静まり返った。恵も、その両親も、全員が俺を見つめている。

「それは本当なのか?」

父親が疑わしそうに聞く。

「本当です。今はまだバイトですが、来月からは正式に正社員として働きます。恵との結婚を認めてもらえるよう、これから一生懸命働きます。ですから、どうか…!」

俺は深く頭を下げた。何分か、何十秒か分からない。ただ、静寂だけが続く。

「…涼」

恵が、そっと俺の腕を掴んだ。その手は震えていた。

「顔を上げなさい」

父親の声に、俺はゆっくりと顔を上げた。すると、そこには、さっきまでの威圧的な表情ではなく、少しだけ落ち着いた父親の顔があった。

「…恵が選んだ男だ。もう少しだけ、信じてみるか」

「お父さん…!」

「ただし、だ」

父親は人差し指を立てて、俺を射抜くように見た。

「もし娘に何かあったら、ただじゃおかないぞ。それと、正社員になったら、きちんとした家に住むこと。それができるなら、結婚を認めてやらないこともない」

「本当ですか!」

俺は思わず声を弾ませた。恵も涙を拭いながら、嬉しそうに笑っている。

「ありがとうございます。絶対、恵を幸せにします!」

「まだ分からんぞ」

そう言いながらも、父親の口元は少しだけ緩んでいた。母親も、「よかったわね」と言わんばかりの優しい笑顔を見せてくれている。その顔を見て、俺はようやく緊張の糸がほどけたのだった。

夕食をごちそうになった後、俺と恵は二人で家の外に出た。夜風が火照った頬に気持ちいい。

「本当に…良かった」

恵が隣で、はぁと息を吐いた。俺も同じ気持ちだった。

「あの時は、どうなることかと思ったよ。お前の父さん、机叩くからびっくりした」

「ごめんね。涼、あんなに頭下げてくれて」

「当たり前だろ。娘をもらうんだ。それくらいする」

俺がそう言うと、恵は嬉しそうに笑った。その顔を見たら、急に恥ずかしくなって、俺は目をそらす。

「…でも、なんで支配人のところにはあんなこと言ったんだろうな。俺、あの人に何かしたっけ」

「涼は何もしてないよ。あの人、昔から権力で人をコケにするのが好きな人なんだ。お父さんも、ああ言えば涼を試せると思ったのかもしれないね」

「試すって…まあ、結果的に正社員になれたからいいんだけどさ」

「あれ? そういえば、涼はいつ正社員になったの? 私、全然知らなかったんだけど」

恵が首をかしげる。俺はにやりと笑って、彼女の頭を撫でた。

「今日の昼に支配人に呼ばれてな。来月から正式採用だって言われたんだ。本当は、プロポーズする前に正社員になってから挨拶に行きたかったんだけど…まあ、順番は前後したけど、無事に終わったから結果オーライだろ」

「もう、ちゃんと言ってよ!」

「言ったらビックリするだろ。俺のことは心配すんな。ちゃんと、全て分かってる」

そう言うと、恵はじっと俺の顔を見つめた。月明かりに照らされたその瞳は、少し潤んでいるように見えた。

「…涼、私ね。本当に、あなたと一緒になれて幸せだと思ってる」

「俺もだよ」

俺はそう言って、彼女の手を握った。温かくて、柔らかい手。この手をずっと守っていくんだと思うと、胸の奥がじんわりと熱くなる。

数歩歩いたところで、俺は足を止めた。

「なあ、恵」

「何?」

「この後、どっか寄っていくか? まあ、夜も遅いし、コンビニの前のベンチで缶コーヒーでも飲みながら話すくらいしかできないけどな」

「うん。そうしよう」

俺たちは並んで歩き出した。恵はさっきよりも少しだけ、俺の腕に寄りかかっている。その重みが、何だか無性に愛おしかった。

あの日、恵にプロポーズした時、彼女は泣きながら頷いてくれた。それは本当に嬉しかったけど、それ以上に、今この瞬間の幸せの方が大きい。何しろ、これから先、ずっとこの人と一緒にいるんだから。

「ねえ、涼」

「何だよ」

「来月から、正社員なんだよね。だったら、結婚式は…」

「ああ、そうだな。もう少し落ち着いたら、ちゃんと恵の好きなように決めよう。俺は場所も何も、恵が決めてくれて構わないからさ」

「本当に?」

「当たり前だろ。俺の嫁なんだから」

その言葉に、恵は足を止めて、こっちを見上げた。月明かりの下でも分かるくらい、顔を真っ赤にしている。

「…あんまり、そういうこと言うと…こっちまで恥ずかしくなるよ」

「じゃあ、言わなきゃ良かった」

「言うくせに」

「悪い、悪い。ほら、行くぞ」

俺は彼女の手を引いて、再び歩き出した。後ろから、小さな笑い声が聞こえる。その声を聞いたら、俺も自然と顔が緩んでしまった。

本当に、この人で良かった。俺みたいな冴えない男を好きになってくれて。社長の娘だとか、フリーターだとか、そんなものは全く関係ない。ただ、橋本恵という人が好きだ。それだけで十分なんだ。

その夜、俺は初めて、自分の人生に確かな光が見えた気がした。

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