出張中の深夜、スマホが光った。妻からのLINEだった。「しばらく家を開けることになるわ。もし出張が終わっても帰れない可能性があるから、その時はよろしくね」——その一文を読んだ瞬間、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。俺は今、人生を賭けた勝負の真っ最中だ。なのに、なぜ妻は平気で俺の集中を乱すような連絡をしてくるのか。すぐに「どういうつもりだ。俺は今仕事中だぞ」と返した。返信はすぐに来た。「…

出張中の深夜、スマホが光った。妻からのLINEだった。「しばらく家を開けることになるわ。もし出張が終わっても帰れない可能性があるから、その時はよろしくね」——その一文を読んだ瞬間、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。俺は今、人生を賭けた勝負の真っ最中だ。なのに、なぜ妻は平気で俺の集中を乱すような連絡をしてくるのか。すぐに「どういうつもりだ。俺は今仕事中だぞ」と返した。返信はすぐに来た。「...

健二はスマホの画面を見つめたまま、ため息をついた。妻の薫子から送られてきたLINEの文面には、こうあった。「しばらく家を開けることになるわ。もし出張が終わっても帰れない可能性があるから、その時はよろしくね」

健二は眉をひそめ、すぐに返信を打ち始めた。

「どういうつもりだよ。俺は今仕事中だぞ。出張で家を離れて頑張ってるって分かってるよな」

返信はすぐに来た。

「うん。もちろんよ。だからこそ連絡が必要だと思ってね。実はお父さんが倒れたみたいなのよ。命に別状はないって母さんは言ってたけど、やっぱり心配だから一度実家に帰るわ。それであなたが帰ってきても家にいない可能性があったからね。驚かないように事前に連絡をしたのよ」

健二は頭の中でその言葉を反芻した。確かに義父のことが心配なのは分かる。だが、今は違う。俺は大事な仕事の真っ最中なんだ。

「そんなのは勝手にしてくれよ。俺がたまたま携帯を触れたから良かったものの。だったら問題ないだろ。それに別にLINEに残しておくくらい問題ないはずだ。仕事中でも後から見ればいいんだから」

「違うんだよ。そういうのが良くないんだよ。染みったれた話のせいで運が逃げる可能性があるからさ」

「何それ? 」

「仕事で成功するためには運も大事だろう。変なことしてないよね」

「してるか。俺は仕事に集中してるんだ。そうして成功を収めることで出世の道が切り開かれるんだ。お前はそんな俺をサポートしてくれないと」

薫子からの返信は、少し間が空いた。

「もちろん必要なことは何でもやるつもりよ。けど、じゃあ何? 私は連絡をしなかったらいいわけ? 」

「出張っていうのは勝負の仕事なんだよ。だからこそ集中させてほしい。プライベートを仕事に持ち込みたくないんだよ」

「意味は分からないけど、それだけ仕事にかけてるっていうことよね」

「もちろん。俺たち2人の将来のために成功することが何よりも大事なんだ」

「そこまで言うのなら仕方ないわね。でも後から文句を言うのはなしよ。私はしばらく帰れないかもしれないから気にするな」

「好きにやってくれていい。俺は組のことを信用してるからさ」

「まあ、それなら今後はそうさせてもらうわ」

健二はスマホを置き、深く息を吸った。胸の中に、ちりちりとした苛立ちが残っている。何が「お父さんが倒れた」だ。義父が心配なのは分かるが、今は俺の仕事が最優先だ。それなのに、どうして妻が簡単に連絡をしてくるのか。俺がどれだけ厳しく言ってきたか、分かっていないのだろうか。

その頃、薫子は会社の後輩である達也に連絡を入れていた。

「達也君、ちょっとお願いがあるんだけど」

「はい。どうかしましたか?

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」

「しばらく私、家庭の事情で家を開けることになったの」

「ああ、そうなんですね。先輩はそのことは一応報告はしたけど、出張中は連絡するなって怒られちゃってさ」

「なるほど。それは確かにそうかもしれませんね。先輩の仕事への入れ込み方はすごいですから。後輩としてかっこいいと思うくらいですよ」

「そうなんだ。まあでも、もし何かあったらあなたを頼るかもしれないわ。身近で一番仲がいいのは達也君だからね」

「そうだったらありがたいです。もしそれが迷惑だったら遠慮なく断っていいからね。その時は私から夫に連絡をするから」

「いえいえ、大丈夫です。一応ご飯とかは用意してるけど、健二は寂しがり屋で1人じゃ何もやりたくない人だからさ」

「それは確かにそうですね。でも俺としても先輩と一緒にいるのは楽しいですから。全然迷惑なんかじゃないですよ」

「ごめんね。迷惑をかけるかもしれないけど、お気になさらず」

「そんなことないですよ。仕事をとても頑張ってる先輩は俺の憧れですからね」

薫子は少しだけ安心したように微笑んだ。

翌日。薫子は出張先のホテルで、一人考え込んでいた。健二からはあれ以来、何の連絡もない。あれだけ「連絡するな」と言われてしまった以上、こちらから送るわけにもいかない。だが、彼のことが心配でたまらない。

そんな時、スマホが鳴った。同僚の女性からだった。

「薫子さん、さっきね、ご近所さんから新玉ねぎをお分けしてもらったのよ。ほら、去年も食べてあなたすごく感動してたでしょ? うちに食べに来ない? 天ぷらとかサラダとかたくさん作るからさ」

「本当ですか? 嬉しいですけど、ちょっと後になりそうですね」

「あら、お仕事が忙しいのかしら?

」

「そうじゃないんです。実は父が倒れまして」

「あ、そうなの? 」

「あ、全然。命に別状がある感じではないんです。ただ、倒れた時に足をひねったらしくって、ちょっと足が良くなるまで父のお世話をしないといけないんですよ。年齢的にも母1人に任せるのはちょっと不安なので」

「ああ、そうだったんだ。お父様にはお大事にとお伝えしておいて」

「分かりました。すみません。せっかく誘ってくれたのに」

「大丈夫よ。あなたたちの分の玉ねぎも残しておくから」

「ありがとうございます。そうしていただけると嬉しいです」

「なんなら健二君に取りに来てもらいましょうか? 調理はそっちでやればいいからね」

「ああ、ちょっと待ってください。今って健二は出張中なんです」

「そうだったら、薫子さんにでも」

「それが、そういうのもやめてくれって言ってて」

「なんで? 」

「なんか仕事に集中できないからって」

「何それ?

」

「私もよく分からないんですけど、仕事で成功するためにはそのくらいの集中力が必要だと言われまして、本人がそう言ってるのなら仕方ないかなって受け入れたんです」

「あの子がそんなに仕事を一生懸命頑張るようになってるの? 本当に頼もしい限りですよ。ちょっとやりすぎじゃないかなって心配になるくらいです」

「本当に健二君ってすごいのね」

「私ですか? いえいえ、すごいのは健二ですよ。だってあの子なんて本当にどうしようもない子で、あなたには迷惑をかけっぱなしだったのに」

「昔はそうだったかもしれないですけど、今は本当に人が変わったように頑張ってくれてます。私も負けないようにしないといけないくらいですから」

「全部あなたのおかげよ。私がどれだけ言い聞かせても治らなかったのに」

「私は何もしてないですから。あなたと結婚できて健二は本当に幸せ者ね」

「それは私も一緒ですよ」

「そう思ってくれるだけでとても嬉しいわ。できればうちの近所の人たちも納得してほしいんだけどね」

「何かあったんですか? 」

「最近ね、ゴミ出しのルールを守らない人が多いのよ。それでゴミ捨て場がかなり荒れちゃっててね」

「それは私にはどうにもできません。誰がやってるのかも分かりませんしね」

「それもそうね。看板とか立ててもらうしかないわね。ではまた、そちらの方にお邪魔しますね」

「できるだけ早くにお願いね」

電話を切った後、薫子は深くため息をついた。健二の仕事に対する姿勢は、もはや立派というより何かがおかしい。他の社員が気にするレベルを超えている。それなのに、当の本人はそれを誇りにさえ思っている。私の不安は、ただのわがままなのだろうか。

1ヶ月後。

健二はホテルの部屋で、荷物をまとめていた。出張が長引いて、既にどれだけの日数が経ったのかも分からない。仕事には集中していた。結果も出している。これでいい。俺は正しい道を進んでいるんだ。

そんな時、スマホが鳴った。ディスプレイには「薫子」の文字。健二は舌打ちをし、通話を無視して着信を切った。まただ。何度言ったら分かるんだ。連絡するなと言ってるだろうが。

だが、スマホはすぐにまた鳴った。今度はメッセージだった。

「健二、なんで電話に出てくれないの?

うちが大変なの。とにかく電話に出て」

5分後。健二は仕方なく、電話をかけ直した。

「あなた、おい、マジかよ。ちょっと落ち着いて聞いてね」

「落ち着いてられるか。こっちはぶち切れてんだよ。どうしたの? 」

「出張は連絡するなって5万回は言ったよな」

「大げさよ。1度注意をされただけって。あなたの中で勝手に回数を増やさないでよ」

「それくらい俺はきつく言ったってことだよ」

「まあ、約束を破ったのは悪かったわ。でもね、これには深い事情があってね」

「そんなのは関係ねえんだよ。どんなことがあったとしても連絡なんてするな。こっちは生きるか死ぬかの戦いをやってるんだ。それなのにお前は俺の気を揉むようなことを」

「たかが仕事なのにオーバーなのよ」

「お前はそれくらいの気持ちでやってないのか。俺はやってるんだぞ」

「あなたが仕事を頑張ってるのは分かってる。でも、どうしてこんなに出張中だけ人が変わるのよ。さすがにやりすぎだって分からない? 」

「俺はお前の未来も守る必要があるんだ。そのためにはこれくらいの覚悟で臨まないとダメなんだよ」

「なんか暑すぎて仕事に悪影響が出てる気がするけど。他の人たちからは何も言われてないの? 」

「当たり前だ。みんなこれくらいでやってるんだ」

「そうなんだ。とにかく、今後どんなことがあろうと連絡するな。次したら離婚だぞ」

「離婚?

ちょっと待ってよ。私との未来を守るために働いてるんじゃないの? 」

「そうだよ。でも、お前が俺の邪魔をするのなら離婚だ」

「軽々しくその言葉を使ってほしくないわね」

「軽々しくじゃないからな。俺は本気でそういう気持ちで仕事をしてるんだ。俺の嫁なら同じ姿勢じゃないと困る。どんなことがあっても仕事の邪魔なんて許さねえよ。どれだけ大事な用事だとしても」

「ああ、分かった。お前もこのことを知ってただろう」

「今気づいたの? 」

健二は通話を切った。手が震えている。自分でもなぜここまで感情的に怒ってしまうのか、分からなかった。だが、仕事への集中を乱されることだけは、絶対に許せなかった。妻であろうと、いや、妻だからこそ、その姿勢を邪魔するなら、あってはならない。

薫子は、スマホを机の上に置き、両手で顔を覆った。涙は出なかった。ただ、胸の奥に冷たい石のようなものが沈んでいくのを感じた。夫の言葉は、もはや単なる苛立ちではなかった。そこには、自分への興味や配慮が一切欠けていた。ただ「自分の未来」のために働き、「自分の成功」のために生きている。自分はその隣にいるだけで、一緒に人生を歩んでいる実感が、少しずつ失われていくようだった。

それから数日後、健二は出張先の取引先との会食を終え、ホテルに戻った。部屋のドアを開けると、見覚えのある小さな荷物が置いてあった。母から送られたものだろうか。いや、宛名には「健二様」とあり、差出人は実家の母ではなく、自宅の住所だった。

箱を開けると、中には一枚の紙と、保存用のタッパーが入っていた。紙には、薫子の字でこう書かれていた。

「体調に気をつけて。あなたの大好きな煮物を作ったの。仕事に集中するためにも、しっかり食べて。何かあったら、いつでも連絡して。あなたを支えるのが、私の仕事だから」

健二はその紙をしばらく見つめた後、タッパーの蓋を開けた。煮物の温かい匂いが立ち込める。母の味ではない、自分が結婚してから食べ慣れた、薫子の味だ。

スマホを手に取り、通話履歴を開く。あの日、何度も着信を拒否した日の記録が並んでいた。何度も何度も、薫子は電話をかけていた。俺はそれを全部無視した。

ふと、胸が締め付けられる思いがした。あの時、彼女は何を伝えたかったのだろう。母が倒れた時も、誰かに相談したい時も、俺はいつも「連絡するな」と拒んでばかりいた。彼女は一人で抱え込んでいたんじゃないか。それなのに俺は、何も知ろうとせず、ただ「離婚だ」と脅すことしかできなかった。

煮物を一口食べて、健二は目を閉じた。味は、間違いなく薫子のものだった。仕事に忙しく、家に帰っても食事を取る時間さえ惜しんでいた日々。それでも、食卓に並んでいた料理。帰ってくることを信じて、作り続けてくれていたのか。

いつの間にか、自分は「成功」という名前の何かに取り憑かれ、大切なものを見失っていた。守りたかったのは、自分の出世や将来ではなく、この味を届けてくれる人。自分の帰る場所を作ってくれている人。それなのに、俺はその人に何て言葉を浴びせたのだろう。

スマホを手に取り、再び薫子の名前を見つめる。今度は、迷わず通話ボタンを押した。コール音が鳴り、そして、何度目かの呼び出し音の後、相手が出た。

「もしもし」

その声を聞いた瞬間、健二は何と言っていいのか分からなくなった。喉の奥が詰まり、言葉にならない。ただ、音のない空間に、互いの呼吸だけが流れた。

「薫子」

やっと言えた。それだけだった。それ以上、言葉は続かなかった。

電話の向こうで、薫子が何も言わずに待っている気配がした。文句を言うでもなく、怒るでもなく。ただ、静かに。

「……ごめん」

健二は、それだけ言った。それで、精一杯だった。これまで自分がしてきたことを考えれば、どれだけ謝っても足りない。だが、今の自分にできる精一杯の謝罪だった。

しばらくの沈黙の後、薫子がぽつりと言った。

「……仕事、うまくいってる? 」

「ああ、まあ。何とか」

「それならいいけど」

また沈黙が流れる。今度は健二から口を開いた。

「お前の料理、久しぶりに食った。うまかった」

「……ありがとう」

「なあ、薫子。もう一度言う。ごめん。俺はお前を怒らせることばかり言ってた。でもな、本当に、これからは」

「いいのよ、健二」

薫子の声は、どこか優しかった。怒っている気配はない。だが、完全に許したとも思えない。ただ、今はこれで十分なのだろう。

「私も、連絡するなって言われてるのに、何度も送ったりしてごめん。でも、どうしても心配で」

「分かってる。お前のことは分かってるつもりだ」

「本当に?

」

「ああ。だから、もう少しだけ、待っててくれないか。今度こそ、ちゃんと家族と向き合うから」

電話の向こうで、薫子がそっと息をのむ気配がした。そして、小さな声で言った。

「……うん。待ってる」

健二は通話を切り、深くため息をついた。窓の外では、夜の街の灯りが広がっている。これから、自分はどうすればいいのか。仕事も、家族も。すべてを取ることなんて、もしかしたらできないかもしれない。だが、今ははっきりと分かることがある。

自分は、この人を幸せにするために、人生をかけて仕事をしてきた。なのに、気がつけば、その仕事が彼女を傷つけるための道具になっていた。それでは、本末転倒もいいところだ。

健二は、タッパーに入った残りの煮物を、ゆっくりと味わいながら食べた。冷めても、心の奥まで染み渡るような味がした。

数週間後、健二の出張はようやく終わり、家に帰る日が来た。駅に降り立ち、自宅までの道を歩く。あの日、母が倒れたと聞いた薫子が、慌てて飛び出していった道。自分が何度も足を運んだスーパーの前を通り過ぎ、角を曲がると、見慣れた家が見えてきた。

玄関のドアを開けると、靴が揃えてあり、奥の方からは、何やら楽しげな声が聞こえてくる。薫子の声と、もう一つ、聞き覚えのある声。

「あ、帰ってきた」

リビングから顔を出したのは、薫子だった。そして、その後ろには、困惑したような顔をした達也の姿もあった。

「おかえりなさい、健二」

薫子が言った。それは、あの日、電話で別れた時の声とはまるで違う、本当に自然な笑顔だった。

「……ああ。ただいま」

健二は、それだけ言って、靴を脱いだ。その間も、胸の奥で何かが音を立てている。だが、もう迷うまい。

「達也君が、差し入れを持ってきてくれたのよ。せっかくだから、一緒に食べない? 」

「ああ、そうだな」

健二は、二人の間にあるソファに腰を下ろした。薫子が台所から茶碗と箸を運んでくる。達也が、おずおずと口を開いた。

「先輩、あの後、大丈夫だったんですか? 」

「ああ、何とかな」

「そうですか。良かったです。あんまり無理すると、奥さんも心配しますからね」

「達也君! 」

薫子が、慌てて止める。だが、健二は微笑みながら手を挙げた。

「いいんだ。達也の言う通りだ。俺も、これからはもう少し、皆のことを考えて行動するよ」

「本当ですか?

」

「ああ。今度こそ、約束する」

薫子が、少し驚いたような顔をして、それから優しく微笑んだ。達也も、どこかホッとしたような顔をしている。

夕食の時間、三人で食卓を囲みながら、健二は考えた。仕事も大事だ。だが、それを失っても、彼女がいなければ何にもならない。自分が本当に守らなければならなかったのは、こんな形のない何かではなく、日々の何気ない時間そのものだったのかもしれない。

夜、食器を片付けた後、薫子が茶を淹れてくれた。二人きりのリビングで、テレビの音だけが流れている。

「なあ、薫子」

「何? 」

「本当に、ごめんな」

「もう、しつこいわよ。それ、何度目よ」

「だって、言うたびにこっちも本気なんだから」

「はいはい。分かってますよ」

薫子は、茶碗を手に取って一口すする。そして、何かを思い出したように付け加えた。

「そういえば、母さんから連絡があったわよ。今度、実家に遊びに来ないかって」

「ああ、いいな。久しぶりに会いたいな」

「うん。本当に、何年ぶりかしら。健二が実家に帰るなんて、珍しいこともあるわね」

「そりゃあ、あれだよ。色々と、考えることもあってな」

「そう」

薫子は、それ以上何も言わなかった。だが、その口元は、しっかりとほころんでいた。

その日を境に、健二の生活は少しずつ変わっていった。仕事への取り組み方は相変わらず真剣だが、以前のようにすべてを遮断するのではなく、家族との時間を大切にするようになった。休みの日には、買い物に付き合い、たまには家で一緒に料理をすることも覚えた。

そして、それに気づいているのは何も自分たちだけではない。あれだけうるさく言っていた同僚たちも、最近の健二の様子を見て、安心したような顔をするようになった。

あの日、煮物とともに届いた一枚の紙。あれがなければ、俺は今も自分の殻に閉じこもったままだったかもしれない。自分を支えてくれる人がいることを、どうして忘れていたのだろう。いや、忘れていたのではなく、気づかないふりをしていたのだろう。

健二は、窓の外から差し込む朝の光を見つめながら、そっと呟いた。

「これからだな」

その横で、薫子が何やら楽しそうに台所で何かを作っている。朝食の匂いが漂ってくる。健二は、コーヒーの香りと、どこかで聞こえる家族の笑い声を感じながら、静かに目を閉じた。

これからも、この日常は続いていく。守っていくべきものは、結局、ここにあるのだと、健二は心の中で確かめずにはいられなかった。