「お姉ちゃん、久しぶり。元気してた?」
電話の向こうから、懐かしい声が聞こえてきた。だけど、その声音にうれしさはなかった。むしろ、どこか軽くて、図々しい感じがした。
「誰かしら。うわ、ひどいな。妹の美由だよ。知ってて聞いてるでしょ」
「今さら何の用?」
「ようやく謝罪する気になったわけ?」
「え?謝罪?何のこと?」
「とぼけないでよ。3年前、お姉ちゃんの旦那を奪ったのは私でしょ。でもさ、親戚から聞いたんだけど、実家を立て直したんだって?すごいね。やっぱりお姉ちゃんは成功してるんだね」
「で、だから何が言いたいの?」
「あのさ、私たちも一緒に実家に住むから、よろしく」
「住む?誰が許可したの?」
「え、許可とか必要ないでしょ?だって元々は私たちの家じゃん。お姉ちゃんだけのものじゃないし」
「でも親の許可はいるわよね。実家なんだから」
「お母さんたちは優しいから、きっと許してくれるよ」
「何そのめちゃくちゃな理由。まあ、いいわ。来れるなら来てみたら?住所を送るから」
「行くわよ。行けないと困るし」
「何が何でも行くって感じね。何があったの?」
「夫の会社が倒産して、本当に困ってるのよ」
「ああ、武志の会社が潰れたのね。それは大変そう」
「大変なんてもんじゃないわ。アパートの家賃も払えなくて、追い出されそうなの」
「だからうちに逃げてくるわけね」
「うん、まあそういうこと」
「あなた、恥ずかしいとかないわけ?」
「仕方ないじゃん。生活に困ってるんだし。お姉ちゃんは弁護士事務所まで持ってるんでしょ?依頼者もたくさんいて、稼ぎもすごいって親戚から聞いたわよ。実家まで立て直せるくらいお金があるんだから、私たちくらい助けられるでしょ」
「へえ、よく調べたのね」
「だって余裕のない人に助けてって言っても無駄じゃん」
「そういうところだけしっかり常識があるのね。で、武志の会社は何が原因だったの?助けてほしいなら、事情くらい話せるでしょ」
「経理担当の人がミスしちゃったみたいでさ。帳簿の数字が合わなくなって、それが結構何回もあったらしいの。そのせいで取引先との契約も切れたみたいなのよね」
「“みたい”って、あなた働いてなかったの?」
「私、全然わかんないわよ、そういうの。経理なんて専門家の仕事だし。社長夫人なんだから、家で待ってるのが仕事でしょ」
「あ、そういう考えなの。じゃああなたは武志の会社には関係なかったわけね」
「武志は本当に真面目に経営してたのよ。社員の給料も遅らせずに払ってたし、取引先にも誠実だったし。でも、自分のせいで会社が潰れたって思い悩んでるのよ。その経理担当の人、今どうしてるの?」
「その人も仕事を探してるみたい。気の毒よね」
「社員みんな気の毒じゃない。働き口がなくなったんだし。あなたも今、生活に困ってるんでしょ?」
「でも私は武志を責めるつもりはないよ」
「え?あなたが真っ先に責めそうなのに」
「私を何だと思ってるの?姉の夫を奪った最低の性格ブス女?きっとこれでしょ」
「妹にそんなこと言う?大体、誰だってミスはするし、ミスしたらミスしたで仕方ないじゃん」
「そう。随分優しくなったじゃない」
「当たり前でしょ。お姉ちゃんと違って、私は思いやりがあるのよ」
「思いやりがある人は略奪なんてしないし、平気で実家に住ませろとか言わないわよ」
「実家なら家賃かからないもん。それにお姉ちゃんは実家を立て直せるほどお金あるんでしょ?別の家を借りればいいじゃない」
「はい、なんでそうなるのよ」
「私たちが実家に住むんだから。お姉ちゃんは気まずくて出ていくでしょ。元夫婦が同じ屋根の下なんてありえないし」
「ああ、やっぱり性格はそのままね。なんかちょっと安心したわ」
「え?何の話?」
「こっちの話よ。住所は送るから、どうするかはそっちで決めてね」
1時間後、美由は夫の武志に報告した。
「武志、やったよ!お姉ちゃんが住所を送ってくれた。来週引っ越せるわ。ホームレスにならずに済むよ」
「本当か。これで住む家に困らないな。いや、助かったけど。でも顔を合わせるのは気まずいな」
「え?何気にしてるの?堂々としてればいいじゃん。それに、きっとお姉ちゃんも気まずくて、すぐ家を出ていくわよ」
「あ、そうなのか」
「普通に考えて、お姉ちゃんのほうが出ていくでしょ。つまり実家は私たちが使えるってこと。お姉ちゃんは弁護士で稼いでるんだし、もっといいマンションでも借りればいいのよ」
「そうだな。それならありがたい」
翌日、武志は美由の姉・沙耶香のもとを訪れた。
「あら、久しぶり。美由から話は聞いてるわ。実家に住ませてくれるそうだな。感謝するよ」
「随分と図々しいのね。3年前のこと、反省してないの?」
「反省?何のことだよ」
「呆れた。あなたも美由も、私に悪いって一切思ってないわけね。あなたは私を裏切って捨てたのよ。忘れたわけ?」
「俺は正しい選択をしただけだ。女は男を立てるものだろ。お前はそれができてなかった。だからこうなったんだよ」
「女は男を立てる?そういう古臭い考え方、まだ治ってなかったのね」
「古臭い?普通の考えだろ。女は家を守るものだし。まあ、事務所を持ってるお前は、世間一般的な女性からは離れてるよな。そんなだから、今も再婚できないんだぞ。もう少し大人しくなれないと」
「バカにしに来たわけ?あなたに裏切られて、こっちはもう結婚はこりごりだって思っただけよ」
「人のアドバイスは素直に聞いておくもんだぜ」
「随分な言われようね。そんなだから会社も潰れるんじゃない?」
「会社が潰れたのは、ミスが続いたからだ」
「聞いたわよ。でも、本当に経理担当者のミスだったの?」
「まあ、あの人も真面目だったんだが、帳簿のミスが積み重なって、俺の監督不足だ。社員を守れなかった。美由は会社に関わってなかったの?あいつのことだから、会社で“社長夫人です”とか言ってふんぞり返ってそうだし」
「美由は家にいただけだよ。会社のことなんて何もわかってないし、口出しもしてこなかった」
「そう。じゃあ、やっぱり経理の人だけの問題だったのね」
「会社が潰れて、美由にも迷惑をかけてるからな。むしろあいつは被害者なんだよ」
「私もあなたの被害者なんだけどね」
1週間後。
「お姉ちゃん、明日引っ越すから。武志と2人で行くわね。お姉ちゃん、家にいる?」
「いないわ」
「じゃあ鍵ちょうだいよ」
「鍵はポストに入れてあるわ。勝手に入るならどうぞ」
「やっぱりお姉ちゃんは優しいわ。血は水より濃いってね」
数時間後。
「お姉ちゃん、今着いたわ。荷物も運び入れたから」
「あら、勝手に荷物を入れたの?」
「え、そりゃ引っ越しだし。あ、もしかして触っちゃダメなところがあったなら、先に言ってよ」
「いや、そうじゃないわよ。私は“来て”とは言ったけど、“住んでいい”とは言ってないわよ。入るのは許可したけどね」
「へ?どういうこと?」
「LINEの履歴を見てみる?私はあなたの“住ませて”っていう言葉に対して、“来れるなら来て”としか書いてないわ。だから、今すぐ出ていってね。明日以降、私の家にいることは不法侵入になるから」
「え、え、何それ?そんなの屁理屈じゃない?お姉ちゃん、ひどい」
「だから“今”って言ってるでしょ。今日は鍵を貸してあげたから家にいるのはいいけど、住むってなったら話は別よ」
「いや、今日からここに住むの。お母さんたちだって、きっと許可してくれるわ」
「2人はもういないわよ。父さんが出世して海外転勤になったの。だから母さんはそれについて行って、2人は日本にいないの。だからこの家は実質、私の家よ」
「家主がダメと言えばダメなの。そんなのずるいわ。これはずるい」
「これが法律よ。3年前、あなたは面で済ませたわね。今度は私の番よ。法律で返させてもらうわ」
「待って。出ていけって言われても、行く場所がないの?」
「それは私の知ったことじゃないわ。あなたも3年前、私の気持ちなんて考えなかったでしょ。だから私もあなたの気持ちなんて考えないわ」
「お願いよ、お姉ちゃん。このまま済ませて。もう前のアパートも解約しちゃって、本当に住むところがないの」
「住みたいの?本当に?」
「だから来たんじゃない?このまま住めないとか無理だよ」
「なら、正式に賃貸契約を結びましょう」
「賃貸?え?何それ?」
「うちに住みたいなら、住むための契約を結ばないと」
「それってもしかして、お姉ちゃんと私で?」
「家に住むんだから当然でしょ。ここは確かに実家だけど、さっき言ったように実質私の家なの。というか、私の家。立て直した時に名義も変更してるのよ」
「そうだったの」
「お母さんたちは海外で暮らしが決まったみたいだしね。誰も住まない家はすぐに廃れてしまうから、それなら私にくれたのよ。だから税金だって私が払ってるわ。というわけで、家主として賃貸契約を結べるのよ」
「さ、それって結んだらどうなるの?」
「家賃を払ってもらうわ。けど、妹だし特別に少し安くしてあげる」
「本当?」
「ちなみに家賃は月30万円。敷金で最初に90万円。水道・光熱費は別途実費ね」
「30万?そんな金額払えるわけないでしょ。それのどこが安いの?」
「あら、リフォームしてすぐの家よ。ネット環境だって揃ってるし、ターミナル駅からも徒歩数分。こんなに好条件なんだから、普通ならもっと高いわ。感謝してね」
「無理だよ、そんな金額。会社が倒産して大変なのよ。見捨てるつもり?」
「最初に私を見捨てたのはそっちじゃない。あなたたち、まだ慰謝料を払ってないわよね。つまり、何も償ってないのよ。その状態でよく“助けて”なんて言えるわね」
「それは、請求されてなかったから」
「請求されなくても、せめて謝罪は普通あるでしょ。でもそれすらなかった。こんなクズのLINEをどうして今までブロックしてなかったか、あなた考えたことはなかったでしょ。あなたとやり取りできなくなると困るからよ」
「え?」
「3年前の不貞行為による慰謝料。あなたと夫で合わせて400万円。住む住まないに関係なく、これは払うものだから、きちんと請求させてもらうわね」
「400万?そんなの無理よ。会社が倒産して本当にお金がないの。住む家すら困ってるのに。払えないよ」
「じゃあ差し押さえるわ。私、働いてないわよ。それに夫にも払えるわけないでしょ」
「なら働けば?2人とも。どうせ仕事がないとこの先困るんだし、働くことに変わりはないわ。分割払いでもいいわよ。弁護士は優しいから」
「そんな……あなたね、3年前、面で済ませて私の人生を壊したのよ。都合のいい時だけ家族を持ち出して助けてもらおうなんて、虫が良すぎるわ。縁?家族?そんなもの、あなたが夫を奪った時に捨てたでしょ」
「だって私だって困ってるのよ」
「困ってる?自業自得よ。3年間、あなたたちが幸せに暮らしてる間、私がどれだけ準備してきたと思ってるの?まさか、何も言われてないから許されたとでも思った?それは違うわ。いろいろ調べて、こっちはあなたのことを一日も忘れたことなかったのにね」
「お姉ちゃん、お願い。慰謝料だけは勘弁して」
「嫌よ。あなたたちがやったことの代償は、払ってもらうわ」
「じゃあ、せめて家賃を安くして。10万くらいに」
「この立地で一件、新築で10万?相場を知らないのね。それに払えないなら住む資格がないわ。今すぐ出ていって」
「待って。武志に相談するから」
「相談したところで、結果は変わらないけどね」
数時間後、武志が沙耶香のもとを訪れた。
「あ、美由から聞いたぞ。慰謝料400万だと?会社が倒産して困ってるのに、そんな金額払えるわけないだろ」
「あら、夫婦揃って同じことを言うのね。類は友を呼ぶっていうけど、ここまでそっくりなのも面白いわね」
「なんだと?」
「あのね、あなたが何を言おうと関係ないわ。慰謝料は法的に正当な請求よ。不貞行為の相場は一人200万円。払えないなら分割でもいいわ。月々5万円ずつとかね」
「ふざけるな。俺たちを追い詰めて、何がしたいんだ?」
「何がしたいかって?あなたたちが3年前にやったことを、法律で制裁してるだけよ」
「なぜ今なんだ?3年も経ってから慰謝料請求だなんて、そんなの時効だろ」
「あら、素人がプロに法律を語るの?笑わせないでもらえる?夫、でも浮気の慰謝料は時効が3年って」
「そうね。でも正式に言えば、損害事実や加害者などを知った時点から数えて3年っていう時効なのよ。離婚した日じゃないの」
「う、それじゃ……」
「確かあなたから突然離婚を言い渡されたのは3年前。そして私があなたと美由の浮気に気づいたのは、離婚して数ヶ月後だから、まだ時効じゃないわ。あ、ちなみに証拠は探偵に依頼して入手したわよ。離婚する前からあなたたちが関係を持っていた。その証拠さえあれば、慰謝料の請求ができるもの」
「でも、なんで今なんだよ」
「あら、不思議?私に浮気がバレてもダメージが少ないように、あらかじめお金を用意していたでしょ。すぐ請求してたら、あなたたちはその場でお金を払って終わりにしてた。違う?」
「それは……」
「でも今は会社が倒産して貯金もない。本当はもう請求されないと思わせて、貯金を使い果たさせてから請求したほうが効果的だと思ったの。だから待ってたのよ」
「そんな、嵌めやがったのか」
「相手が最も苦しむタイミングで最適の制裁をする。弁護士として当然でしょ。舐めないでくれる?私もね、いろんな被害者を見てきたの。今なら被害者の気持ちもよくわかるわ。お金を払ってさようならなんて、許せない。その思いがね。だからこそ、あなたにも一つ教えてあげる」
「は?なんだよ」
「あなたも本当は知りたかったんじゃない?大事な会社が倒産した理由を。あなただって思ってたはずでしょ。真面目な会計の人のミスで、会社が倒産するなんて」
「何が言いたい?」
「実はね、最近、とある倒産した会社について元社員の方々から相談を受けたの。会社名を見てすぐにわかったわ。あなたの会社だったもの」
「元社員が、お前に相談?」
「正確には弁護士に相談、だけどね。みんな今でも、“自分たちのせいで会社が倒産した”って自分を責めてるそうよ」
「そうか。申し訳ないことをした」
「でも違うのよ。会社を潰したのは、あなたの社員たちじゃない」
「どういう意味だ?」
「依頼は受けなかったけど、相談の中で“元会社に訴えられたらどうしよう”って怯えていたわ。会社からの損害賠償なんて、洒落にならないからね」
「俺はそんなことはしないぞ」
「そう思われていなかったのよ。それでね、気になって調べさせてもらったわ。本当に会社の倒産が社員のミスなのかって。その結果、帳簿の改ざん、取引先への支払いミス、税務処理のミス、全部記録が残ってたわ」
「それは俺の監督不足だ。きっとミスを隠そうとして」
「監督不足?違うわ。これを見て」
沙耶香はスマホの画面を武志に向けた。
「これはSNSの投稿。これがどうしたんだよ」
「これ、美由のアカウントなんだけど」
「な、何て書いてある?」
「“社長夫人の私が経理やってます。会社のお金は経理で落とせるから最高。やっぱり社長夫人はこうじゃないと”」
「なんだよ、これ」
「美由は会社に来ていなかったって言ってたけど、経理担当の人は言ってたわよ。会社に突然来て、偉そうに指示して、勝手に経理の仕事を始めたって。何度も指摘したそうよ、“専門家に任せて”って。でもあなたの妻は“私のほうが社長に近いのよ。黙ってなさい”って聞かなかったってさ」
「知らなかった」
「美由を止めていれば、こんなことにはならなかった。社員の人たちはそのことを後悔してたし、美由が自分のミスを押し付けてくるんじゃないかとずっと怯えてたわ。そうよ。まさか、美由が自分のミスを隠すために帳簿を改ざんさせて、経理担当の社員を“ミスをした張本人”だと晒し上げたのよ」
「でも、なんでそんなことを?」
「自分の“社長夫人の私が経理やってる”っていうのをSNSで自慢したかったかららしいわよ。承認欲求を満たすために、あなたの会社を潰したの」
「そんな嘘だろ?」
「嘘じゃないわ。証拠は全部あるわ。弁護士として法廷で証明できるレベルよ」
「俺の会社が、あいつのせいで……」
「でもね、会社が潰れるほどの改ざんに気づかない人なんていないでしょ。あなた、社長だったんでしょ」
「それは確かに……」
「つまり、改ざんは要因の1つでしかなかったのよ」
「どういう意味だよ」
「改ざんだけで潰れたわけじゃないってことよ。取引先や下請けにも聞いてみたわ。そしたらびっくり。あなた、下請けを見下して、格安で仕事をさせてた。支払いも頻繁に遅れてたって」
「それはビジネスだし。下請けには金を払ってたから、問題ないだろ」
「確かに下請けに仕事を任せているのはあなた。でも仕事では信頼関係が大事よ。そしてあなたはその信頼関係をおろそかにした。その結果、取引先が次々と離れていったのよ。妻のミスはとどめになっただけ。あなたの傲慢さが倒産の本当の原因よ。まあ、他にもあるけどね」
「他にも?従業員でもなかったお前に、何がわかるっていうんだよ」
「そう、その従業員よ。あなたをこれから地獄に落とすのはね」
「どういうことだ?」
「なんで私があなたに倒産の真実を話したと思ってるの?私はね、あなたにも苦しんでほしいのよ。あなたは社員たちは家族だったって言ったわね」
「そうだよ。従業員は多くなかったけど、みんな大事な社員で、困らせたくなかった」
「その家族を、あなたの妻が壊したのよ。ああ、でも本当に社員を家族だと思ってた?」
「当然だ。社員がいないと会社は回らないだろう」
「じゃあ、パワハラ・セクハラは?」
「は?パワハラ?セクハラ?」
「やっぱり自覚がなかったよね。元社員から相談を受けたわ。証拠もあるのよ」
「証拠?ちょっと待てよ。全く身に覚えがない」
「あなたに自覚がないだけよ。気に入らない社員に対しては暴言を吐いたり、無茶な仕事を押し付けたりしてた。それが怖くて、みんなあなたの前ではニコニコした“いい社員”を演じてたの」
「そんなわけ……」
「会社が潰れてから、みんな堰を切ったように話し始めたわ。“社長が怖くて誰も逆らえなかった”ってね。中には病んでしまった人もいるみたいよ」
「それは指導の範囲で……」
「指導?法的にはアウトよ。真面目に働いていた人たちが、今でも苦しんでる。全部、あなたとあなたが選んだ女のせいで。あなたは自分が思っていたようないい社長じゃないのよ。まあ、浮気するような旦那だし、当然よね。それにしても笑えるわ。女は男を立てるべきだからって言って、私を捨てて美由を選んだ。でも、その女があなたの大切なものを全部壊したのよ。どんな気持ち?」
「許せない……」
「許せないわよね」
「ああ、絶対に許せない。社員とは誤解はあったかもしれないけど、美由がバカなことをしたから会社が潰れたんだろう。許せるわけない」
「見事な責任転嫁ね。あなたも要因だっていうのに」
「俺は社長なんだぞ。社員とは生き方が違っただけだ」
「あっそ、そう思っておけばいいわ。でもね、“許せない”って気持ちは、私も同じよ。あなたは私を裏切った。やってることは美由と一緒。自分だけ被害者ヅラするんじゃないわよ。その償いは、きちんとさせるから」
同時刻、美由のもとに武志が怒鳴り込んでいた。
「会社を潰したのは、お前だったのか?」
「え?何のこと?」
「経理のミスだったとか、改ざんだとか、全部お前がやったって聞いたぞ。証拠も見せられた」
「ちょ、ちょっと何のことよ?」
「とぼけるなよ。全部お前が悪いんだ」
「あ、話を聞いてよ。私は悪気なんてなかったの」
「悪気がない?俺の会社を全部お前が壊したんだぞ。ふざけんなよ、この疫病神。お前とは離婚だ」
「離婚?なんで?」
「お前とはもう一緒にいられるわけないだろ。会社で好き勝手やりやがって。慰謝料は請求させてもらう。会社を潰した責任を取れ」
「そんな、私にお金なんてないわよ。それにお姉ちゃんへの慰謝料だってあるのに」
「知るか。俺はお前を絶対に許さないからな」
1時間後、美由は沙耶香に電話していた。
「お姉ちゃん、武志に何を言ったの?あいつ、すごい剣幕で怒ってるんだけど。会社のことで余計なこと言ったでしょ?」
「余計なこと?真実を教えただけよ」
「お姉ちゃんのせいで、夫婦仲がめちゃくちゃになったの」
「あら、それは良かったわ」
「あいつのことだから、自分にも責任があると感じると“自分は悪くない”って思い込んで、他人のせいにすると思ったの。離婚した時も自分の非は棚に上げて“お前が悪い”って言いまくってたからね」
「こんなことになるなんて、お姉ちゃんのせいよ。慰謝料とか、これ以上無理だって。お願い。慰謝料だけでも許して」
「許す?面白いことを言うわね。たとえ私が許して慰謝料を請求しなくても、あなたはもう終わってるじゃない」
「へ?」
「私は相談に乗っただけだけど、元社員の方々には賠償請求に強い弁護士を紹介してあったの。もうすぐ、あなたに損害賠償請求をするそうよ」
「賠償請求?なんで?」
「会社が倒産して、あなたのせいで失業した人たち。まだ再就職できずに苦しんでる人もいるわ。まあ、それは武志もだけどね。社員へのパワハラやセクハラ、本人に自覚がなくても、訴えられたらもう言い逃れできないわ。わかった?2人とももう詰んでるの。私が慰謝料を請求しようがしまいがね。どうぞ、借金地獄で苦しんで。家から出ていかないなら通報するから」
「待ってよ、お姉ちゃん。私たち、姉妹じゃない」
「絶縁でしょ。そんなひどいことしないでよ」
「今さら姉妹?3年前、夫を奪った時に、あなたの方から姉妹でなくなったのよ」
「でも私も困ってるの。助けてよ」
「助ける?あなた何を勘違いしてるの?私はあなたを助けるためにここにいるんじゃない。あなたを制裁するためにいるのよ」
「こんなの、ひどすぎる」
「ひどい?3年前のあなたのほうが、よっぽどひどかったわ。私はこれで前を向いていける。さようなら、美由」
沙耶香は電話を切り、LINEのブロックをした。もう、このやり取りを見なくて済む。
数週間後、正式に手続きが行われ、美由と武志は双方、慰謝料200万円の支払いを命じられ、分割払いを開始した。なぜ分割なのか。2人はすでに元社員から損害賠償請求をされている。これ以上追い込んで“払えません”となるよりは、分割でも支払いをさせるほうが現実的だからだ。
2人の関係は完全に崩壊した。武志は社員からの賠償金支払いで借金を背負い、美由は行き場を失い、友人もおらず完全に孤立した。彼女のSNSの投稿はデジタルタトゥーとなり、社会的信用も失われた。
沙耶香は思う。自分は弁護士という立場ではあるが、浮気をされて苦しむ経験をした。同じようにパートナーに裏切られ、悩んでいる人が多くいることも改めて知った。慰謝料請求は孤独で辛い戦いだ。だからこそ、同じように困っている人を全力で助けていける、そんな弁護士になろうと心に決めたのだった。
