「裕子、今すぐ診察室に戻ってきなさい」——病院の廊下に妻の声が響いた瞬間、ベンチに座ったままの私の体は金縛りにあったように動かなかった。数十分前、主治医から告げられたのは「膵臓がん、末期、余命3ヶ月」という言葉だった。なのに夫の工事は診察室で静かに笑ってさえいた。「覚悟はしていたよ」と。私は混乱したまま、その夜、彼から信じられない告白を聞くことになる。「実は……私には、ずっと愛人がいたんだ」…

「裕子、今すぐ診察室に戻ってきなさい」——病院の廊下に妻の声が響いた瞬間、ベンチに座ったままの私の体は金縛りにあったように動かなかった。数十分前、主治医から告げられたのは「膵臓がん、末期、余命3ヶ月」という言葉だった。なのに夫の工事は診察室で静かに笑ってさえいた。「覚悟はしていたよ」と。私は混乱したまま、その夜、彼から信じられない告白を聞くことになる。「実は……私には、ずっと愛人がいたんだ」...

「裕子、今すぐ診察室に戻ってきなさい。これからのことを話し合わないといけないだろう」

病院の廊下で、妻の名字は声を荒らげた。私はしばらくその言葉に応えられず、冷たいベンチに腰かけたまま動けなかった。

「ごめんなさい……でも、そこまで取り乱すとは思わなかった」

診察室に戻ると、夫の工事は静かに言った。主治医から「膵臓がん、末期」と告げられたのは、ほんの数十分前のことだ。

「あなたはどうしてそんなに落ち着いていられるの? 余命3ヶ月って言われたのよ」

「どこか覚悟していたところはあるんだよ。ずっと命を削って会社を大きくしてきた。おかげで、たくさんの社員を抱える大きな会社になった。でも、こんな生き方をしていたら長くはないだろうなと思っていた。長年、体のけだるさが取れなかった時、いよいよお迎えが来たかと思ったんだ」

「でも、私も安明も、あなたともっと一緒にいたかったわ」

「そう思ってくれるのは嬉しいよ。俺は素敵な家族に恵まれたと思っている」

「やめてよ。まだ諦めちゃだめよ」

「悪あがきはしたくない。医者からは延命治療か緩和ケアか、どちらかを選べと言われている。俺は緩和ケアを選ぶつもりだ。数ヶ月、寿命が伸びても意味はない。残された時間をゆったりと、大切な人と過ごしたい」

「どうしてそんなに達観してるのよ」

「お前の気持ちは分かるよ。立場が逆だったら、俺も同じ気持ちになっただろう。でも、自分のことだから、自分でけじめをつけるつもりだ。これからは、残された人たちのために時間を使いたい」

「そんなこと言わないでよ。私はずっとあなたの妻なんだから。苦労なんてあるはずがないわ」

「ありがとう。それじゃあ、会社のことやこれからのことを話し合う必要があるな」

「今から安明を病院に呼ぶわね」

「いや、あいつは仕事が忙しいだろう。わざわざ呼ぶ必要はないよ。LINEで伝える。できれば、俺もあいつの辛そうな顔を見たくないからな」

「いいの?」

「安心しろ。男同士でゆっくり話をするさ」

その日から、工事は少しずつ、自分の人生の整理を始めた。

帰宅した安明は、リビングで名字に言った。

「父さんは?」

「用があるって言って出かけたわよ。心配だから一緒に行くって言ったけど、まだまだ元気だから心配するなって」

「母さん、俺、辛いよ。どうして父さんがこんなことになるんだ?」

「安明……それは私も同じ気持ちよ。神様って、本当に残酷なことをするわね」

「俺は父さんに親孝行を一つもしてあげられなかった。孫の顔も見せられなくて」

「あなたはお父さんの後継ぎになれるように仕事を頑張ってきたんだから。結婚どころじゃなかったのは、お父さんだって分かってる。自分を責めるような人じゃないって分かってるでしょ」

「会社としては、次の社長を決めることになるよな」

「そうね。お父さんはあなたを後継にすると思うわ。昔から、息子に継がせたいって話してたから」

「俺なんかに、父さんの後釜が務まると思う?」

「あなたなら大丈夫よ。だって、そのために勉強も仕事も頑張ってきたんだから。絶対になれるって、私は確信してる」

安明は少しだけうなずき、名字に促されて夕食の席についた。

その日の夜、名名字のスマホに工事から電話がかかってきた。

「あなた、気分が悪いとかない?」

「いや、大丈夫だよ。何かあったのか?」

「もう晩ご飯の時間だから、早く帰ってきてよ。今日はあなたの好きなビーフシチューにしたから」

「悪いが、今日はちょっと帰らないでおくよ」

「え? 何かあったの?」

「本当は大事なことを伝えて帰るはずだったんだけど、俺が余命3ヶ月だって伝えたら泣かれちゃってな」

「もしかして、お友達か何か?」

「実は……俺には、ずっと愛人がいたんだよ」

電話の向こうで、名名字は息を飲んだ。工事は静かに続けた。

「ずっと隠し通すつもりだったが、そういうわけにもいかなくなった。だから正直に話す。落ち着いて聞いてほしい」

「どういうことなのよ」

「ナツキという人と、ずっと愛人関係だったんだ。ナツキは俺が既婚者だと知った上で関係を迫ってきた。それで俺は受け入れて、ここまで続いた」

「ちょっと待って。混乱してて分からないわ」

「頼むから、今は話を聞いてくれ。実は俺とナツキの間には子供がいる。直と言って、今年で26歳になる」

「26歳の子供なの?」

「そうなんだ。大切な俺の息子だ。直には、うちの子会社に入社させて実務経験を積ませてある。その直を、社長に据えることにするよ」

「何を言ってるの?」

「本当はもっと長い時間をかけて実績を積ませて、誰にも文句を言わせない状態で引き継ぎたかったんだが、こうなっては仕方ない。多少は強引な方法を使わないとな」

「信じられない……そんなに長い間、私たちのことを裏切ってたの?」

「怒る気持ちは当然だと思う。どう考えても悪いのは俺だからな。それで、余命を愛人に伝えに行ったら、泣きつかれて帰れなくなった」

「ふざけないでよ。どうしてそんなことを今更言うの? そんなに長い間裏切られ続けてたなんて、知りたくなかったわ」

「悪い。でも、いつかは話さないといけないと思っていた」

「会社のこれからのことを話すって言ったんじゃなかったの?」

「ええ、俺はもう長くない。だから会社の後継は直に任せることにした」

「何を言ってるの? なんでそっちなのよ。普通は安明でしょ。なんで愛人の子供になるのよ」

「俺は愛人とか、そういうのは気にしてない。出会ったタイミングがお前より後だったというだけだ。どちらかを贔屓なんてしたくないんだよ」

「じゃあ、なんで愛人の子供なのよ」

「お前たちは、俺の家族としてどれだけ甘い汁を吸ってきた。ナツキたちはずっと日陰にいて、苦しい生活をしてきたんだぞ。せめて俺の死後は、いい暮らしをさせてあげたい」

「それでバランスを取るって言ってるの?」

「そうじゃないと、ナツキたちがかわいそうだろうが」

「私たちのことは、何も考えてくれてないってわけ?」

「十分、お前たちの世話はしてきた。お前にはいい生活を与えたし、安明にはいい教育と仕事も与えてきた。あいつがうちに入れたのだってコネだ。そうやって世話をしてきたことを忘れるな」

「世話って……なんでそんな上から目線なのよ。私たちは家族なのよ。支え合うのは当然じゃない。子供のために親が尽くすのなんて、当然でしょ」

「だったら直だって、同じようにいい思いをしてもいいはずだ。あの子は俺の後を継ぎたいと思って、仕事を頑張っていたんだ」

「そんなのは関係ない。俺の会社なんだから、俺の好きなようにしていいはずだ」

「それが、本気なのね」

「別にお前たちを蔑ろにしているわけじゃない。俺はただ、どちらも大切にしたいと思ってる」

「それが、大切にしてるって本気で思ってるの? それと、相続も私たちには一銭もやらないってこと?」

「分かってくれ」

「私たちがずっとお金をもらってたからってことね」

「そういうことだ」

「そう、分かった。素直でありがたいわ」

電話は、そこで切れた。工事は「今日は帰らない」と言って、そのまま愛人のもとへ向かった。

一時間後、名名字の家の訪問者があった。

「あんたのせいだからね」

「……え? どちら様ですか?」

「あんたのせいで、私の大好きな工事があの世に行っちゃうじゃない。どうしてくれるのよ」

「もしかして、ナツキさんですか?」

「そうよ。あんたがしっかりと工事を見てあげてれば、癌にも気づけたはずよ。それなのに、バカみたいに暮らしてるから」

「後悔もせずに、勝手なことを言わないでください。私だって、気づけるものなら気づきたかったですよ」

「工事の金でぬくぬくと暮らしてたはずなのに、こんな大事なことにも気づけないなんてね」

「あなたは愛人として苦しい生活をされていたんですってね」

「何をバカにしてるの?」

「そうじゃないです。ただ、既婚者の夫に近づいた時点で、そうなることは想像できなかったんですか?」

「うるさいわね。でも、これからは立場が逆転よ。直が会社の社長になるんだから」

「それを受け入れてるんですね」

「当たり前でしょ。うちの子は優秀なんだから。会社でも、みんなから頼られてるのよ」

「それは素晴らしいことだと思いますが」

「うちの息子が社長になったら、真っ先にあんたの息子を首にしてやるからね。親子揃って路頭に迷いなさい」

「随分な逆恨みをしているようですね」

「私はあんたのことがずっと大嫌いだったんだから、当然でしょ。地獄を見せてあげるからね」

一週間後、名字は工事に電話をかけた。

「ねえ、あなたの家の住所を教えてよ」

「裕子、おかしなことは考えないでくれよ。殴り込みなんかしても、何も変わらない。できれば俺は穏やかに最後を迎えたいんだ」

「勝手に波風を立てておいて、よくそんなことが言えるわね。でも安心して。そんな乱暴なことはしないわ」

「じゃあ、何をするつもりだ?」

「そっちの家に離婚届を送らせてもらいたいのよ。私はもうサインしてるから、早めに出しておいてね」

「裕子、離婚なんて俺は考えていないよ」

「バカ言わないで。あんたの妻なんて、今すぐやめたいの。あんたがあの世に行く前に離婚したいから、早くして」

「ちょっと待ってくれ。俺のやったことが悪いのは分かってる。だけど離婚なんて、そんなことをしなくていい。俺があの世に行ったら、別れたということになるんだから」

「あんたの最期の妻が私ってのは嫌なのよ。ナツキって人にしてよ。だから別れてちょうだい」

「離婚なんかで、俺の貴重な時間を奪うなよ」

「弁護士にお願いすれば、あんたは何もしなくても勝手に離婚することができるわよ。それに、あんたはどうせ遺言書で、私たちには一銭も遺産を渡さないとか書くつもりでしょ。もらえる額が少なくなるくらいなら、財産分与と慰謝料をもらった方がマシだと思って」

「結局は金か」

「裏切られた分の罪滅ぼしをしてもらいたいだけよ。それがお金しかないから、仕方なくこの方法を取ってるっていうだけ。私たちを裏切り続けたことを、後悔してほしいからね」

「俺はどちらも愛していたんだよ」

「そんな理屈が通じると思わないで。いいから離婚をしなさい。揉めたら揉めただけ長くなるのは分かってるんでしょ?」

「本気なのか?」

「そうだって言ってるでしょ。それに、息子を後継にするのなら、正式な妻との間の息子っていう方が良くないかしら?」

「それは確かにそうかもしれないな」

「だったら、直君のためにも離婚した方がいいわよ」

「お前が直のことを考えてくれるなんて……。子供には罪がないからな。分かった。離婚に応じるよ。でも、俺はお前たちのことを大切に思ってるからな」

「そう。私たちはすでもうあなたのことなんて何とも思ってないから、そっちの家族と仲良くやったらいいわ。二度と私たちに関わらないようにしてね」

一週間後、会社の役員室で安明は父と向き合っていた。工事は、後継者として直を指名したことを伝えた。だが、安明は先に口を開いた。

「今までお疲れ様でした。これからは会社のことは俺たちに任せて、家族との時間を大切にしてね」

「これはお前の仕業か?」

「何が?」

「俺は直を社長に据える予定だったんだぞ」

「お父さん、残念だけどそれは無理な話だよ。この会社は大きい。普通に考えて、本社の社員でもない人間に経営なんてできるわけない」

「それは周りの人間が支えればいいだけのことだろう」

「でも、取り締まり役の人たちが許すわけがない。彼らも生活がかかってるんだから、そんな無謀なことはするわけがないよ。あいつら、俺の意見を無視して勝手に別の人間を社長にしやがった」

「そうなるのは当然だよ。俺は直を社長にするために、母さんと離婚して高い慰謝料を払うことに同意したんだぞ」

「そうだね。でも母さんも、そのことは分かってたよな。……父さん、聞いてくれ。俺も父さんと同じで、社長が取り締まり役に決められるというのは知らなかったんだ。俺が次期社長になるのかなって本気で思ってた。それを先輩に相談したら、ありえないって言われてね。そこで俺もそのルールを教えてもらったんだ」

「お前、そこまで知っていたのか?」

「だから俺は、専務や常務に事情を伝えて、すぐに緊急の取り締まり役を開いてもらった。どうせあんたのことだから、金でも使って取り締まり役たちを買収しようとしていたはずだしね」

「お前……そこまで察していたのか?」

「普通に考えて、取り締まり役たちが納得すると思えないからね。何か作戦があるんだろうとは思ってたよ。『強引な方法を使う』とか、母さんに言ってたみたいだからな」

「お前がそんな風に動いてると分かっていたら、離婚なんてしなかったぞ」

「でも、そんなのこっちには関係ないよ。不倫したんだから、離婚したいと言われるのは当然だし、慰謝料を払うのだって普通だ」

「直のために社長のポストを用意しようと思ったのに」

「俺は心から父さんのことを尊敬していたよ。だから、父さんが長くないと知って、本当に辛かった。でも、そんな気持ちはもうなくなってしまった。あんたのここ最近の立ち振る舞いは、愚かだし惨めだよ」

「お前、誰に口を聞いてるか分かってるのか?」

「分かってるよ。家族を長い間裏切ってた不貞野郎に言ってるんだ。お前、これ以上ぽっと出のことをしない方がいい。できるだけ多くの人に尊敬されて、あの世に行きたいだろう。だったら、この先は何もせずに家でおとなしくしてくれ」

「俺の力を使ってこの会社に入った人間が、偉そうに……」

「一応俺は、頑張って勉強もしたし、努力もしたつもりだったよ。でも、父さんのおかげで入れたのも事実かもしれない。それでも俺は、父さんの後を継ぐように会社で成果を挙げようと頑張った。周りからは『親の七光り』だと馬鹿にされることもあった。でもそういう人たちも黙らせるくらい、俺は結果を残してきたつもりだ。父さんは知ってるだろうけど、来月から俺は課長に昇進することが決まっている」

「ふっ……それがなんだ? 大したことないぞ」

「かもしれないね。でも俺は着実に目標に向かって前進している。あんたのような経営者になることが、前までは目標だったけど、今は違うよ。あんたを超える経営者になるのが、俺の目標だ。まあ、家族を裏切るような奴を超えるなんて、簡単すぎる目標かもしれないけどね」

「なめたことを言うな」

「とにかく、これからは新しい人たちで会社を切り盛りしていくよ。だから父さんは、安心して不倫相手とその息子と穏やかな時間を過ごしてよ。そして俺たち家族のことは忘れてくれ。俺はもう、あんたのことを家族なんて思ってないからさ」

一ヶ月後、名字のスマホに、工事から電話がかかってきた。

「裕子、もうお迎えが近そうだ」

「何? 私に連絡なんてしてこないでよ。こっちはもう、あなたとは無関係なんだから」

「そんなこと言うなよ。昨日から入院することになったんだ。病院の名前を送るから、お見舞いに来てくれ。お前と安明の顔を見せてほしいんだ」

「嫌よ。私たちは家族でも何でもない。そんな私たちと会ってる時間なんて、無駄でしょ」

「そんなことない。お前たちも俺の家族だ」

「あなたがそう思うのはご自由にどうぞ。私たちはもう、あなたのことを家族だと思ってない。だからお見舞いになんて行かないから。それに、私たちが行ったらナツキさんが嫌がるでしょう。穏やかに最後を迎えたいのなら、変なことはしない方がいいわ」

「ナツキたちとは会ってないんだ」

「はあ? どういうこと? 結婚したんじゃないの?」

「結婚はしたよ。お前と離婚してすぐにな。でも、財産分与と慰謝料で金が半分以上なくなったこととか、社長にさせてあげられなかったことを説明すると、どんどん冷たくなっていってね。あいつらの住んでるマンションからも追い出されて、一人でずっと生活をしていたんだ」

「そうだったんだ」

「結局、あいつらも俺の金目当てで近づいていただけなんだ。それが今さら分かったよ」

「まあ、それはかわいそうだと思うけど、同情はしないわよ」

「俺には、もうお前たちしかいないんだよ」

「私たちも家族じゃないって言ってるでしょ」

「俺が間違っていたよ。許してくれ」

「なんですって? あんたが長年私たちを裏切ってたくせに、よく『許せ』なんて言えるわね。あんたは余命を突きつけられたから全部をぺらぺら話し出したけど、それがなかったらずっと黙ってるつもりだったんでしょ。最後まで私たちを騙し続けるつもりだったくせに、今さら謝っても許すわけがないでしょう」

「俺はもう長くないんだ。頼むから、きついことを言うなよ」

「こっちはあんたから裏切られたという傷を抱えながら、これからも生きていかないといけないのよ。辛いのはあんただけじゃない。自分だけを被害者みたいに言うな」

「それはそうかもしれないけど……」

「あんたはたった一人で最後を迎えることになるの。それがあんたが生きた証だと思しなさい。他人を裏切るような奴が、幸せな最後を迎えられるわけがないでしょう」

電話は、そこで一方的に切られた。

さらに一ヶ月後、直の元に安明からの連絡があった。名字から連絡先を聞いたという。

「ナツキさん、ちょっとお話があるのですが、よろしいですか?」

「誰? ……安明? 母から連絡先を聞いたの? どうかしたの? もうあの人もあの世に行ったし、私たちは本当に何の関係もないはずよ」

「そうですね。他人で間違いないです。ただ、どうしてもお話ししないといけないことがありまして」

「何よ」

「父は、あなたたちに苦労をかけたと話していました」

「そうよ。それが何?」

「てっきり俺は、恵まれた生活をしてないと思ってたんですが、どうやらかなりいい暮らしをしていたようですね。高級マンションで、あなたは仕事をせずに暮らしてたそうで」

「それが何よ? それくらい当然でしょ。私はずっと日陰者だったんだから。苦労っていうのは、正式な妻になれなかったというところよ」

「でも、正式な妻になった途端、お見舞いにも行かず別々に暮らしていたそうですね」

「それはあいつが不甲斐ないからよ。遺産だって本当にちょっとしかなかったし」

「一応は俺と直君で半分に分けるということになりましたからね。そのせいで、こっちの暮らしは大変なのねえ。ちょっとお金を恵んでよ」

「それはできません。そんなことよりも、本題に入らせてもらいます」

「本題って何?」

「父は、あなたたちの生活を面倒見るために、会社のお金を流用していたことが分かりました。社長交代の時に経理関連を見直すために、会計士に帳簿を見直してもらったんです。その時に不審な支出があったので、全てを洗い出したところ、あなたの生活費のために多額のお金が経費として使われていたことが分かりました。ですので、あなたにはそのお金を返還してもらいます」

「はあ? ちょっと待ってよ。私はそんなの知らないわよ」

「知らなかったのは、こちらも把握しています。ですので、損害賠償などは請求しません。その代わりに、今ある財産は不当に得たものなので、全て返還してもらいます。あなたが住んでるマンションにある家具、家電、ブランド品など、価値のあるものは全てうちの経費で買われたものなので。それと、家賃も住んでいた全額分を返還してもらいます。全額って、とんでもない額になると思いますが、それは我が社のお金ですので、返還をお願いしますね」

「ふざけるな。私は関係ないわよ。あいつが勝手にやったことでしょ。どうしてその責任を私が取らないといけないのよ。こっちだって被害者なんだから」

「被害者は我々ですよ。あなたは会社の金で甘い汁を吸っていただけです。知らなかったと言っても、それは関係ありません」

「あんた、それで私に復讐をするつもりでしょ? こんなことをしても、何の解決にもならないのが分からないの? 子供みたいなことはやめなさいよ」

「何にもならないことくらい分かってますよ。もし復讐をしていいのなら、金を取り返すくらいのことで済ませますか。こっちがどれだけ、あんたらのせいで傷つけられたと思ってる。俺はまだいいよ。母さんはずっと父さんのことを支えてきたんだぞ。父さんは仕事のためなら家庭を顧みないところもあった。それでも母さんは、父さんのためにサポートをし続けた。父さんに相手にされない俺が寂しくならないように、いつも笑顔で接してくれた。俺が父さんを嫌わないように、父さんがいかに素晴らしいかを話してくれた。だから俺は『父さんみたいになりたい』と尊敬できたんだ。それもこれも全て、家族のためだったんだ。それなのに、あんたたちのせいでこんな悲しい最後を迎えることになったんだ」

「でも、金をたくさんもらっていい思いができたんでしょ」

「金なんて、母さんが望んだことは一度もない。あの人が欲しかったのは、幸せな家族の日常だよ。そのために毎日頑張ってくれていたんだ。でもあんたたちは、そんな日常を奪い去った。それは絶対に許されることじゃない。でもだからと言って、復讐なんて時間の無駄だし、俺はやるつもりはないよ。不当利得返還請求は、あくまで会社の人間としてやるだけだ。だからあんたも、素直に返還に応じてくれ」

「そんなお金があるわけないじゃない」

「だったら、働いて返すしかないだろう。じゃないと、そっちが親子揃って路頭に迷うことになるぜ」

その後、ナツキはマンションや家具などを全て取り上げられ、さらに多額の返還を請求されることになった。工事から相続したお金も返済に当てたが、それでも足りなかった。焦ったナツキは、普通に働いても無理だと言って会社を起こし、そこの社長に直を就任させた。しかし、その内容は単なる情報商材を高く売り付けるだけの詐欺会社で、利用者から訴えられてしまい、二人揃って逮捕されてしまった。

楽をしていい暮らしをさせてもらっていたから、苦労ができなかったようだ。ある意味ではナツキも被害者かもしれない。まあ、同情は全くしないけど。

一方、名字は工事と住んでいたマンションを引き払い、別の場所で安明と二人で生活している。安明は会社でどんどん結果を残しているようで、社長という目標へ前進している。名字はそんな安明を頑張って支えている。ただ、いつかは安明にも結婚してほしいと思う。もちろん、誰かさんのように奥さんを裏切るようなことは、断じてしてはいけない。ただ、安明にそんな心配はないかもしれない。人を裏切った人間が最後にどうなるかを間近で見ていたからね。工事のことを反面教師にしつつ、できるだけ早くその存在を記憶から消せればいいなと思っている。

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