ひろみ、もう終わりにしよう。
え、何よ? 急に。
俺たちはもう終わりだって言ってるんだよ。離婚だ。離婚届はリビングに置いてある。それにサインをして役所に出しといてくれ。
ちょっと待ってよ。何よ、いきなりどうして離婚なんて話になるのよ。
お前との生活は息が詰まるんだよ。いつも何かにお前を監視されてるような気持ちなんだ。
ふざけないでよ。あんたが何か後ろめたいことがあるからそう思うのよ。普通の人はそんなことは思わないから。
お前には何も分からないんだよ。
だったらどうして私なんかと結婚したのよ。というか、今さらそんな理由で離婚なんてありえないって。
もう我慢の限界だってことだよ。家族のこともお前は全然顧みてない。俺はそんなお前との結婚生活は無理なんだよ。
何よそれ。美香たちはお前が引き取って育てろよ。
家族のことを顧みてないとか言いながら、早速子供を放棄するのね。まあ、別にいいけど。私にとってはあの2人は宝物だから。あんたに言われなくても、離婚するのであれば親権は主張するつもりよ。
それだけ早く離婚の手続きを進めてもらえるか。
分かりやすいくらいに焦ってるわね。何? 愛人から結婚をせかされたりしてるの? 何のことだ?

とぼけても無駄だから。あんたの行動を見てれば離婚の理由なんてすぐ分かるわ。じゃないと、こんなタイミングでの離婚なんて不自然だから。バレることなんだから、今のうちに吐いた方がいいわ。言っておくけど、私に嘘なんて通用しないからね。
ああ、そうだよ。もう結婚を決めてる相手がいるんだ。
やっぱり不倫してたってこと? 俺はもっともっと仕事で成果を上げて金を稼げるようになりたいんだ。そのためにはかなりのストレス下で仕事をすることになるんだよ。そんな俺にはどうしても癒しが必要だったんだ。
嫌らしいの間違いよ。訂正しなさい。
とにかく、お前と一緒にいても何も楽しくなかった。この状況での成功はもう見込めなかった。だからお前とは離婚をすることにしたんだよ。
はあ。随分と自分勝手な話ね。でもまあ、あんたがそれでいいなら離婚でも何でもしてやるわ。ただし慰謝料はきっちりと払ってもらうから。あと子供たちの養育費もね。
お前らに金なんて使いたくなかったが、まあ仕方ないな。損して得を取ると思ってな。
私たちへの支払いを損なんて言わないでよね。とにかくさっさと離婚してくれ。お前たちの要求は何でも飲んでやるからよ。
そうさしてもらうわ。
5分後。
いいか? ちょっと大事な話があるんだけど、いい? どうかしたの?
ルナにも連絡したんだけど、返事がなくてね。先にあなたにだけ伝えておこうと思って。
ルナは多分、この時間はまだ部活かな。あなたは勉強中? うん。と言っても、いい動画を見てるだけだけど。
まあ、それも大事な勉強だもんね。
うん。お母さんは家にいるの? それならすぐにでも帰るけど。
うん。まだ仕事中だから。だからそのままで聞いて。
どうしたの? 私ね、お父さんと離婚をすることになったんだ。
へ?
なんで? ごめんなさい。こんなことになってしまって。お父さんから急に離婚したいって言われたのよ。
マジで? あなたももう高校生だから、ちゃんと話をするわね。お父さん、他に交際してる女の人がいたのよ。
は、不倫じゃん。
そうなるわね。それで、その人と結婚するんだって。だから私とは離婚するってなったのよ。
私たちはどうなるの? もちろんお母さんと一緒よ。あんな人のところに行く必要はないわ。
ああ、それは良かった。マジであんな人のところになんて行きたくなかったもん。ルナも一緒かな?
一緒だって。私たち双子だから気持ちは分かるよ。私たち2人ともあいつのこと全然好きじゃなかったし。いっつも不機嫌でさ、私たちのこととか全然気にかけてない感じで、頭の中は出世とか金のことしかないのが丸見えだったもん。
そういうのはやっぱり分かるのね。これからは私たち3人ってことになるわ。できるだけ2人に迷惑をかけないようにお母さん頑張るから、協力してくれる? 当たり前でしょ。私たちはいつだってお母さんの味方よ。あんな人のことなんて何ひとつ気にしなくていいからね。
ありがとうね。ルナにも私から話をしておくから。
1年後。
これはどういうつもり? あれ? もしかして結婚式の招待状届いた?
ええ、ばっちりと届いてるわよ。こんなふざけたものをよく送れるわね。
いや、これは俺なりの誠意のつもりなんだよ。
どういうこと? お前と娘たちを捨てて愛人と再婚して悪いなって思ってるのなら、こんなことしないで。私たちの視界に入らないところで仲良くしてなさいよ。あんたの存在を認識するだけでこっちは不快なんだから。
そんなこと言うなよ。招待状を送ったんだから来てくれよ。いい機会になるし。
そんなものに私たちが行くわけないでしょ。
正直、相手がいいところのお嬢さんでさ、式もめちゃくちゃ華やかな感じになりそうなんだよ。だからそこでうまい飯を食べさせてあげたいなって。
余計なお世話よ。こっちはそれなりにやってるから。
お前1人の稼ぎなんて大したことないだろう。言っても公務員なんだからさ。
それが何よ。
子供にひどい思いをさせるのはどうかと思うぞ。親としてそこら辺はちゃんとしろって。
どの口が言ってるのよ。あんたが家を出て行ったせいでそうなってるんでしょ。だから食材だって節約してるんだよ。
俺がお前たちにうまい飯を食わせてやるからさ。それで今回のことは水に流してくれよ。
ふざけないで。
前向きに考えてくれよ。待ってるからな。
3日後。
ひろみさん、久しぶりね。
お母さん、どうかされたんですか? あら、まだそんな呼び方をするの? 今すぐにでもやめて欲しいわ。
すみません。この呼び方に慣れてるもので。
まあいいわ。でも式場では呼ばないようにね。
お母さんは私たちが来ることは反対ですよね。
あの子がいいと言ってるのなら、いいんじゃないかしら。あなたも将来のために見ておいた方がいいと思うし。
将来のため?
妻とはどういう存在かを見て学ぶべきよ。相手の女性はいいところのお嬢さんでね。趣味は料理で、家事手伝いをやってるんだって。
それってつまり無職ってことですか? 親が金持ちだから働く必要はないのよ。そして雪夫と結婚したら専業主婦になるみたいだわ。
これが本来女のあるべき姿よ。家庭に入って男を支えるというのが女の仕事。それなのにあなたはいつまでも三文な仕事を続けて。
三文なんてありません。私は今の仕事に誇りを持ってます。そしてこの仕事があったから子供たちを養うことができているんですよ。
仕事をしてなかったら離婚されることもなかったわ。あの子が仕事を頑張って稼いでるのに、無駄なことをずっとやって。あなたのせいで私がどれだけ親戚の笑いものになってたか分かる? 嫁を働かせないといけないほど息子は稼いでないのかって。
そうですね。少し考えましょうか? 10分後。
ねえ、お父さんから式の招待状が来てるって言ったでしょ?
うん。それがどうかしたの? そのことなんだけど、やっぱり私たちは行かないことにしようと思うの。
え? どうして? お母さん、よく考えたのよ。あの人が私たちを呼ぶのは、きっと何か企みがあるからよ。それを素直に受けて立つ必要はないわ。
でも、行かないと決めたらお父さん、また何か言ってくるんじゃない?
それは向こうの問題よ。私たちは私たちの生活を守っていくの。あなたたち2人と一緒にいられるなら、それで十分だから。
お母さん。
ルナも同じ気持ちだって。さっき連絡したら、行きたくないって言ってたわ。
そっか。それなら私たち、家族でいようね。
うん。これからは私たち3人でやっていくのよ。大丈夫、きっと上手くいくわ。
ねえ、お母さん。ひとつ聞いてもいい? 何? お母さん、お父さんのこと、まだ好きだったの? ひろみは一瞬、目を見開いたが、すぐに優しく微笑んだ。
さあね。もう分からないわ。ただ、あの人が私たち家族を捨てて選んだ道があるなら、私は私で、この子たちと一緒に選んだ道を行くだけよ。そして、この選択が間違ってなかったって、いつか証明してみせるわ。
私たちも一緒に頑張るよ。
ありがとう。2人がいてくれて、本当に良かった。
ひろみは娘たちをぎゅっと抱きしめた。窓の外では、春の柔らかな風が木々の葉を揺らしていた。離婚から1年。彼女の心にも、やっと少しずつ新しい季節が訪れようとしていた。
あの日の衝撃と悲しみを乗り越え、ひろみは公務員として働きながら、双子の娘たちを育てていた。給料は決して高いとは言えないけれど、自分の力で家族を支えているという誇りがあった。娘たちもそれぞれに学校生活を楽しみ、家庭に笑い声が戻ってきていた。
雪夫からの連絡は、誕生日や行事のたびに送られてくる素っ気ないメッセージだけになった。それすらも、ひろみはもう気にしなかった。彼が新しい妻とどんな暮らしをしているのか、想像することもなかった。
ある日、スーパーで買い物をしていると、見覚えのある男性の姿が目に入った。雪夫だった。隣には、きらびやかな服装の若い女性がいた。彼の新しい妻だろう。2人は楽しそうに笑い合い、買い物カゴには高級そうな食材が並んでいた。
ひろみは思わず足を止めたが、すぐに背を向けた。もう彼の人生に、自分が入り込む隙間はない。今の自分には、帰るべき家と、待っていてくれる娘たちがいる。
その夜、夕食の席でルナが言った。
ねえ、お母さん。今日、学校でね、お母さんがすごく自慢だって話になったんだ。
何それ。
だって、うちの学校の先生たち、みんなお母さんの仕事ぶりを認めてるんだって。ルナが担任の先生に聞いたんだ。
あら、そうなの?
うん。それでね、先生が言ってたの。『あなたたちは立派なお母さんを持ったわね』って。
ひろみは目を潤ませながら、娘たちを見つめた。
ありがとう。お母さん、頑張れるよ。だって、こんなに素敵な娘たちがいるんだもの。
家族の絆は、形が変わっても消えることはなかった。むしろ、あの離婚があったからこそ、互いを思いやる心が育まれたのかもしれない。
ひろみはテーブルの上に置かれた家族写真を見つめた。そこには、まだ小さかった娘たちを抱く自分と、今はもういない夫の姿があった。あの時の自分に教えてやりたい。大丈夫、あなたはちゃんとやっていけるって。
そして、ひろみはそっと写真をしまうと、娘たちの方を向いた。
さあ、お風呂に入ってらっしゃい。明日は仕事でしょ。
ルナが立ち上がりながら言った。
お母さん、ありがとね。
何が? 私たちを選んでくれて。お母さんでいてくれて。
ひろみは優しく微笑んだ。
こちらこそ、ありがとう。あなたたちがいたから、私はここにいられるのよ。
窓の外では、星が静かに輝いていた。ひろみの心にも、確かな安らぎがあった。彼女はゆっくりと立ち上がると、食器を片付け始めた。残り香のする食卓に、新しい家族の形があった。