「お母さん、暇でしょ?」
「いきなり何なの?」
「お父さんが亡くなって生きがいがなくなったんでしょ?ボケる前に、私たち夫婦が同居してあげましょうか?」
美和の言葉に、私は思わず眉をひそめた。亡くなった夫の話を持ち出されて、同居を申し出られる。正直、面食らった。
「美和さん、お気遣いありがとう。でも大丈夫よ。確かに寂しいけど、お仏壇に向かって話してると、意外と気が紛れるの」
「嫁として、お母さんのことが心配なんです」
「お気持ちだけ受け取っておくわね」
「遠慮しないでください」
「いや、本当に大丈夫なの。一人の生活にも随分慣れてきたから」
「そんなのいつまでも続きません。寂しさで押し潰されちゃいますよ」
「友達とお茶したり、旅行したりで気を紛らわすわ」
「頑固ですね。人の親切くらい素直に受け取れないんですか?」
「私の都合も考えて欲しいだけ。今は一人がいいの」
すると美和は態度を変えた。
「じゃあ、言い方を変えます。お願いですから、同居させてください」
「え、どうして?」
「借金返済のために、お金を浮かせたいんです」
「借金?いくら?」
「五百万ほど」
「どうしてそんな大金が必要になったのよ」
「それは…リクトの名誉に関わることなので、今はまだ言えないんです」
なんだか変な話だ。気になる。
「あなたたち、生活は大変なの?」
「はい。賃貸マンションに十二万も払うのもやっとなんです。助けて欲しいんです」
「そんな状況なら、一緒に住むのは構わないけど…本当にいいのね?」
「もちろんです」
「ただ、私は私の生活を優先するわよ。お互い線引きは必要だと思ってる。しっかりルールを作って守ると約束するなら、いいわ」
「もちろんです。お互いの家事は自分たちでやる。それでいいですね?」
「そうよ。約束よ」
「ありがとうございます。リクトもおばあちゃんが好きなので、喜びます」
一ヶ月後、私は後悔していた。
「話が違うわね」
「何がですか?」
「家事も育児も、全部私に丸投げじゃないの?」
「仕方ないじゃないですか。私も仕事を始めましたし。お互い協力し合わないと」
「あなた、せめてリクトのお弁当やご飯くらい作ったらどうなの?」
「夜遅くまで働いてるせいで、朝起きられなくて」
美和は毎晩お酒の匂いをさせて帰ってくる。一体どんな仕事をしてるのか。
「あなたが頼み込んできたから同居したのに。これじゃ当初の話と全く違うわ」
「何でしたっけ?もう忘れちゃいました」
「自分の家族の家事は自分たちでするってルールでしょ?」
「え?お母さんは、夫も孫も家族だと思ってないんですか?」
「そういう意味じゃないでしょ。リクトの部活の洗い物がたくさんあって、洗濯物も多い。四人分の食事を作るのも大変なの。その上お弁当まで作ってたら、倒れちゃうわ。少しくらい手伝ってくれないかしら?」
「ええ、無理です。大体、無職で一日中家にいるんですから。そのくらいのことはやってもらわないと」
「友達とお茶する時間もないわよ」
「する必要あります?明日生きてるかも分からないような人と会っても、仕方ないでしょ」
「なんてことを言うの?」
「じゃあ、そういうことなんで、引き続きよろしくです」
その後、私は息子の雅に相談した。
「まさ、もう限界よ」
「母さん、いきなりどうしたんだよ」
「同居してから家事が増えて、疲れてるの」
「仕方ないだろう。協力し合わないといけないんだから。美和さんも、最初に言ってたことと随分違うことばかり言うし」
「年寄りのくせに、わがまま言うなよ」
「なんなの、その言い方は」
「残りの人生を孫と暮らせることを喜べよ。会いたくても孫に会えない年寄りが多いって聞くぞ」
「誰もが孫命だと思ったら大間違いよ」
「こうするしかなかったんだから、我慢してくれよ」
「大体、五百万なんて大金、どうして借りたの?」
雅は重い口を開いた。
「それが…リクトが自転車で人を跳ねてしまったんだ」
「え?」
「部活帰りの夜道だったから、見えなかったらしくて。相手の方は八十過ぎの高齢者で、骨折したみたいでね。保険に入ってなかったんだよ。自転車保険、今は義務化されてるだろ?家の前に買った自転車だったから、無保険のまま乗り続けてたんだよ。まさか子供が事故を起こすなんて思いもしなくて」
「それで五百万を請求されたってこと?」
「そう。貯金もないから借金したんだけど、金利ばっかり払って金は減らないし」
事情は分かった。同居が助けになるなら、構わない。ただ、最低限のルールは守ってほしい。
「分かった。俺からも美和に言っておくよ。ただ、俺らも年寄りと暮らすのはストレスがかかるし、年金はできれば全部よこせ」
「は?何言ってるの?」
「母親なら、そのくらいしたらどうだ?」
「どういう理屈よ?」
「頑固だなあ。母さんも年取ったね」
「そういう問題じゃない。ちゃんと美和さんと話して」
「分かったよ」
それからまた一ヶ月。
「いつになったら心を入れ替えてくれるのかしら」
「はあ?」
「ルールを守ると約束したわよね。まさからも話があったはずよ」
「あー、なんか言ってたね。あなたがうちに来てから、洗濯機を回したのは一度だけよね」
「だから何?」
「洗い物も掃除も、一度もやってない」
「うん。あんたんちだからね。あんたがやればいいじゃん」
「ちょっと、何その言い方?」
「もう一緒に住んでるんだし、家族でしょ。夫も孫も、あんたには敬語使わないのに、なんで私だけ気を使わなくちゃいけないわけ?」
「敬語を使えとは言わないけど、最低限の礼儀はあるでしょ」
「年上ってだけで、尊敬するところ一つもないし」
「はあ…」
「大体、文句ばっかり言ってくるけど、同居してやってんだし、家事育児は全部やるのが当然よね」
「何言ってるの?あなたが頼み込んできたから、こうなったんでしょ?」
「年寄りが一人で暮らしてたら危ないと思って、一緒に住んでやることにしたんじゃん」
なるほど。そういうことか。
「ご近所さんに言われたのよ。『優しいお嫁さんがいて安心ね』って。そうやって周りから固めてるってことね」
「同居したくてもできないジジババは山ほどいるのよ。あんたは幸せな方だと思うけど」
「私が望んでいたなら、そうかもしれないわね。でも違う。私は一人で暮らすことに、何の不自由もなかった。でもこの間、鍋を火にかけたまま忘れてたよね。あれ消したの、私だけど」
「それは何が『一人で大丈夫』だよ。笑わせんなよ。火も消せないほどボケてんのに、強がんなっつうの」
「あれは一度だけじゃない。それに自動で消えるコンロだから大丈夫なの」
「この話、お隣さんが知ったらどう思う?火の管理もできない年寄りが隣にいたら、怖くてたまんないよね。だって火事になったら、自分ちも被害に遭うかもしれないし」
「私に脅してるの?」
「そうやって近所に言いふらしてるの?」
「私たちみたいな若夫婦がいるってだけで、周りの人は安心するものなの。年寄りがいくら強がっても、信用されないってこと」
「あなたね…」
「というわけで、今後は私に逆らったり説教したりしないで。あと、年金も全額ちょうだいね」
「なんでよ」
「嫌なら出てって」
「分かったわ。もう出ていきますよ」
「はあ。出てったところで、どこに住むのよ。強がっちゃって。ろくに働いたこともないくせに」
その通りだ。不安しかない。でも、嫁にここまでコケにされて、家政婦のように扱われる人生なんて嫌だ。
「人生って、残りわずかのくせに」
「ひどい人」
「こんなのと結婚した息子が情けないわ」
「あんたの息子も、稼ぎの少ないポンコツだけどね。それを選んだのは、あなたでしょ?」
「すっごく後悔してる」
「じゃあ、さっさと出てってね」
数日後、リクトが私の家にやってきた。
「おばあちゃん、どこにいるの?大丈夫?」
「リクト、心配かけてごめんね」
「俺のせいでごめん」
「どうしてあなたのせいじゃないわよ」
「俺の部活のことでばあちゃんに無理させたから、出てったんだよね」
「何を言ってるのよ。そんなんじゃないわ」
「でも母さんにはそう言われたよ」
「違う。リクトのせいじゃない」
「俺、部活やめようと思ってる」
「どうして?朝も毎日行って、頑張ってたじゃない」
「サッカーは、年とかもあって金がかかるからやめろって、前から言われてたんだ」
「お金がないのは聞いてるけど、家賃が浮いた分、生活は楽になったはずよ」
「え?どういうこと?」
「母さんはばあちゃんに家賃を入れてるって言ってたよ」
「はあ?一円ももらってないけど」
「嘘だろ?小遣いまでくれてやってるから、生活が全然楽にならないって言ってたのに」
「小遣い?あの人が私に?ありえないわ」
「賠償金の借金で首が回らないのに、そんな余裕はないでしょう」
「賠償金って何?」
「あなたの自転車事故のことよ。保険に入ってなかった親が悪いんだから、あなたが気にすることはないの」
「ちょっと待ってよ。事故って何?お年寄りを怪我させたんじゃないの?」
「してないよ。試合出場停止になるから、事故だけは気をつけてるんだ」
「じゃあ、嘘だったってこと?」
「そうみたいだね」
「ありえないわ。そのせいでお金がないから、同居させてくれって言われたのに」
「そうなの。俺には、ばあちゃんから家事も育児も全てやるから同居してと土下座されたって言ってたよ」
「何それ?」
「なるほど。そういうことか。母さんは俺にもばあちゃんにも、嘘ついてたんだな」
「そうみたいね。リクト、ご飯はちゃんと食べてる?」
「まあ、カップラーメンとかだけど」
「はあ?食事も作ってくれないの?お昼のお弁当は?」
「ないよ。お金もくれないから、友達に分けてもらったり」
「そんな…ごめんなさいね。ばあちゃんが出てったせいで、そんな思いをさせちゃって」
「いいんだよ。引っ越してくるまでは、ずっとそうだったから」
「そうなの?」
「俺が高校に入ったくらいだから、ここ二年ちょっとかな。母さんは家のことを何もやらなくなった。家の中はゴミだらけで、家賃も滞納してたから、大家に出ていけって言われてたみたい」
「それで、うちに住みたかったのね」
「父さんも家には帰らなくなったし。この家族はもう終わるんだろうなって思ってたよ。でも、ばあちゃんちでうまい飯食えて、幸せだったんだ。迷惑だっただろうけど」
「そんなことないわ。文句言わずにしてあげるんだった。本当にごめんなさい」
「謝らないでよ。ばあちゃんのところに来る?」
「あ、いいの?」
「その代わり、お母さんたちにはちゃんと言うのよ。心配して探すと困るから」
「うん。分かった。きっと俺がいない方が喜ぶよ」
「そんなことないわよ。じゃ、待ってるわね」
数日後、美和が電話をかけてきた。
「リクト、いるの?」
「もちろん。ちゃんと預かってるわ」
「まさか、河川敷のビニールハウスにいるんじゃないよね」
「さすがにそこまではひどくないけど…実は私、もう一つ家を持ってるのよ」
「は?聞いてないんだけど」
「言ってないから当然ね」
「夫は知ってるの?」
「言ってないわ」
「どうせ中古のボロ屋なんでしょ」
「まあ、人によってはそういう人もいるかも」
「お父さんの遺産を隠してたのね。卑怯なババーだわ」
「だから、そっちの家はあなたたちにあげるわ」
「へ?いいの?」
「もちろんよ。遠慮なく受け取って」
「え、めっちゃラッキーなんだけど。さっさと名義変更してよ」
「構わないわ。知り合いの司法書士の先生に頼んでおく」
「やった。ババーは消えたし、家も手に入っちゃった」
「あなた、リクトの心配をしてたんじゃないの?」
「そっちで世話してくれるなら、そのままよろしく」
「我が子が心配じゃないの?」
「そりゃ、年寄りとボロ屋暮らしなんてかわいそうだと思うけど、もう高校生だし。親にべったりって年でもないから、どっちでもいいわ」
「なんて親なのよ」
「じゃあ、リクトは引き続きこのままうちで面倒見るわ。なんなら、そのままもらっちゃってよ」
「はあ?」
「用事でも何でも入れてくれて構わないから」
「本気で言ってるの?」
「だって、ババーに無理させてまで大学に行きたいなんて言わなくなるでしょう」
「あなた、進学させるつもりなかったの?」
「だって、下手なサッカーを続けるより、働いて家にお金入れてもらった方がマシだもん」
「子供の夢も応援できないのね。いいわ、私が面倒を見る」
「子育て終わった。家ももらったし、超超ラッキー」
「良かったわね」
「マジ最高」
翌月。
「家の名義変更、終わったから」
「そう、こちらも養子縁組が終わったわ」
「へえ。リクトがうちの子じゃなくなったんだ」
「大事に預からせてもらいます」
「そんなもん、どうでもいいわ。これでこの家は、私のものよ」
「え、雅の名義じゃなくて、あなたなの?」
「そりゃそうでしょ。夫はあんたが死んだら、他の資産を相続できるんだから。家は私がもらうことにした」
「いいの?そんな家で十分でしょ。多少古いけど、広いし。リフォームすれば全然住めるわ」
「中途半端なリフォームじゃ、どうにもならないと思うけど」
「あ、どういう意味?」
「シロアリに相当やられてるのよね」
「は?」
「だから、家を解体して土地をお返しする予定だったのに、あなたたちが押しかけてきたから、計画が延期になったの」
「お返しって何?」
「その土地は借地よ」
「どういうこと?」
「夫が知り合いに土地を借りて、家を建てたのよ」
「何それ?そんなことできるの?」
「珍しい話じゃないわ。ただ、借地契約が切れたら、更地にして、お返ししないといけないけどね」
「でも私に名義変更したわ」
「建物の名義は確かにあなたよ。でも土地は、更地でお返ししないといけない約束なの」
「何なのよそれ。最初からそんな説明、受けてないんだけど」
「特に説明する義務はないそうよ。建物の名義変更を頼んだから、仕事はちゃんとしたでしょ」
「確かにそうだけど…絶対にわざと隠してたよね」
「土地のことを聞いてくれてたら、教えてたわよ」
「普通はセットだと思うでしょうが」
「そういえば、借地は年末が更新時期じゃなかったかしら」
「はあ?あと三ヶ月しかないじゃん」
「延長すればいいのよね。それは地主さん次第だわ。夫の親友で、私にもよくしてくれた方だから、私が住んでいない以上、更新はしてくれないかもね」
「ちょっと、冗談きついんだけど」
「更地にする意味、分かるわよね。建物は全て解体するのよ。数百万かかるらしいけど、頑張って」
「無理に決まってんでしょ。夫はこのこと知ってたの?」
「知るわけないでしょ。私が住んでる限り、ずっと使っていい契約だったし、言う必要もなかったもの」
「あんたから、その地主に頼んでよ」
「いやよ。あなたのために頭を下げるなんて、ごめんだわ」
「じゃあ、こっちに戻ってきていいから、名義も戻す」
「どんなボロ屋か知らないけど、そこよりこっちの方がマシでしょ」
「私は今の家を気に入ってるし、リクトもトレーニングジムがあるって喜んでる。タワマン最高ってね。結構よ」
「は?タワマン?なんで貧乏老人がそんなとこ住んでんの?」
「十年前だったかしら。父が亡くなってから、不動産デベロッパーが実家の土地にタワマンを建築したいから売って欲しいと言ってきたの。惜しかったけど、家が二つあっても管理しきれないし、最上階の部屋をもらう条件で売ったのよ」
「リクトが今住んでるのはタワマンなの?」
「そうよ」
「ずるい。私はそっちの家が良かったわ。夫の思い出も詰まってるし、地域の皆さんともずっと仲良くやってきたからね。そんなタワマンは賃貸に出して、家賃収入を得てたけど、たまたま空が出たタイミングと、あなたに追い出されたタイミングが同じだったのよ」
「家賃収入って、タワマンの最上階なら、相当高いわよね」
「二百万くらいよ。それが毎月、十年近く」
「ありえない。騙したわね」
「何がよ」
「タワマンの存在を黙ってたことよ」
「自分が住むつもりはなかったし、あなたが欲しがったのはそっちの家でしょ。願いが叶ったっていうのに、これ以上何の文句があるの?」
「文句しかないわよ。ふざけんな。金持ちばあさんだと知ってたら、もっと優しくしてたわ」
「お金のあるなしで態度を変えてくれるの、当たり前でしょ。だったら、いらないと思われてよかったわ。おかげであなたの本性が知れたから」
「別にいいわよ。あんたが死ねば、夫が相続する。そうすれば、そのタワマンも私のものよ」
「婚姻関係が続いていれば、でしょ」
「続くに決まってんじゃない」
「浮気がバレても、息子はあなたと一緒にいるかしら?」
「え?」
「リクトに話を聞いて、おかしいと思ったのよ。自転車事故の件も嘘だったし。生活が苦しくなったのも、ここ一年ちょっとの話でしょ。何か変化があったんじゃないかと思ってたの」
「何もないわよ」
「そうなの。でも探偵の調査結果では、あなたも息子も、外で浮気してたってことになってるけど」
「え、まさ…」
「二人とも外の愛人のことで忙しくて、我が子には見向きもしなかった理由が、やっと分かったわ。子供は敏感よ。親がこっちを向いてないかくらい、ちゃんと感じ取ることができる」
「私は雅の浮気を許す。じゃないと生活できない」
「あなたはそうでも、あの子はどうかしら?男っていう生き物は、自分はいいけど女はダメだなんて、都合のいいことを平気で言う生き物だから」
「離婚は嫌よ。だって解体費用も、全て私一人にのしかかってきちゃうじゃない。せめて息子の名義にしておけば、全部押し付けて逃げられたのにね。よく選んだ結果がこれよ。笑いが止まらないわね」
「息子を返して」
「あら、今度はリクトが惜しくなったの?返してもいいけど、これから進学費用で数百万がかかるわよ」
「大学なんて行かせないわ。今すぐに学校をやめさせて、働かせるに決まってんでしょ」
「だったら、リクトの意思に任せるしかないけど、労働力にされると分かって戻るほど、私の孫は愚かじゃないわよ」
「親の権限で取り戻してやる」
「ご存知ないようだけど、十五歳以上は自分の判断で養子縁組の意思決定ができるのよ。リクトが嫌だと言えば、強制はできないわ」
「だめよ。私の愛しいリクトを返して」
「何の冗談?誰があなたの言葉を信じるのよ。兵器で我が子を見捨てた人が、愛なんて言葉を使わないで」
「やだ。一人になりたくない」
「彼氏がいるじゃない」
「お金も出せない私と、付き合ってくれるわけないじゃない」
「そんなに貢いでたの?」
「家賃とか食費とか携帯とか、生活費丸ごとじゃない?」
「彼も旦那も息子も失って、どうやって生きていけば…」
「知ったこっちゃないわよ。覚えてる?あなたが自分で全て選んだのよ」
「こうなるとは思わなかったもん。ただせめて、リクトとの親子関係だけでも取り戻したい。あの子と会えずにこのまま生きていくのは嫌なの」
「それは本人と話しなさい」
「分かった。実の親子なんだから、必ず許してくれるはずよ」
数分後。リクトの部屋に、美和の声が響く。
「リクト、ママよ。色々とごめんね。許してほしいの」
「許すかよ。はあ?」
「え、タワマン暮らしが最高だとか、ばあちゃんの飯の方がうまいとか、洗濯も自分でしなくて済むとか、そういうことじゃなくて…単純に、俺のことを心から思ってくれるのが誰か、気づいた」
「私よ」
「違う。俺を産んだあんたらじゃない。本当に大事に思ってるの」
「パパも一緒よ」
「何がママだ?何がパパだよ。ふざけんな。俺がどんな思いでカップラーメンにお湯を入れてたか、お前らに分かるのかよ」
「今度から、心を込めて料理を作るわ」
「そんな汚い手で作った飯、食いたくもない。今後LINEもブロックする。いつか和解できるとか、考えるなよ」
「そんなこと言わないで。リクト…」
二十分後、今度は雅が私に電話をかけてきた。
「母さん、美和に聞いたけど、家を解体するんだって?俺が何も知らない間に、勝手に話が進んでるじゃないか」
「建て替えでもするの?」
「さあ、私の名義じゃないから、知らないわ」
「は?どういうこと?」
「美和さんが家をよこせって言うから、あげたの」
「何考えてんだよ。俺ならともかく、嫁にあげるなんて。それを俺に何も報告せず決めるのも変だろ。しかもリクトを連れて、いつの間にか出てっちゃってるし」
「今更ごちゃごちゃ言われてもね」
「何も聞かされてなかったんだよ」
「それは夫婦の会話がないのが悪いんじゃない?お互い浮気してて忙しいから、仕方ないわね」
「は?あの女、浮気してんのか?」
「怒る立場にはないでしょ。お互い様なんだから」
「俺は男だからいいんだよ。でも女が浮気なんて、絶対にありえない。慰謝料取って、離婚してやる」
「取ったところで、相手にも取られてトントンよ」
「そんな…家まで奪われて、金ももらえないのかよ」
「その家も解体するはめになるんだから、いいじゃない」
「それ、どういうことなの?古いけど、まだ住めるよな」
「あの家は借地の上に立ってるの。借地を返す時は、上物は取り壊すことになってるのよ」
「知らなかった。でも、ちょっと悔しいな。手にした瞬間、壊さないといけないなんて。なんてアホなやつだ」
「喜んでるところ悪いけど、あなたも家を失うのよ」
「あ、そうだ。母さんの家に住ませてくれよ。タワマン持ってるって聞いたぞ。俺に黙ってたなんて、本当意地悪だな」
「ごめんなさいね。いくら息子とはいえ、可愛い孫が嫌ってる人間を家に入れるわけにはいかないの」
「リクトが俺を…?なんでだよ。美和と違って、怒鳴ったりしたこともないぞ」
「その無関心が問題だって、分からないの?同じ男として尊敬できない父親を、ずっと見てきたのよ」
「俺は家族のために働いてきただろう」
「そのお金の大半を、誰に使ってきたのか。もう一度振り返れば、答えにたどり着けるはずよ。大学進学を諦めかけたリクトの気持ちを考えなさい」
「だって、教育のことは美和に任せてたから」
「はいはい。言い訳はもう終わり。今更何を言ったって、家族の絆は取り戻せないの?」
「まあいい。そのタワマンだって、いずれは俺のものだ」
「残念だけど、私はまだまだ長生きするし、いずれリクトに生前贈与する予定だから、あなたには一銭たりとも残さないわ」
「嘘だろ?こんなのひどすぎる」
「私とリクトは幸せよ。今日はリクトのサッカー部の仲間が十人来るの」
「そんなに広いのかよ」
「準備で忙しいから、これでブロックさせてもらうわ」
「実の息子より孫を優先するのか。あんまりだろう」
「親だから何でも許すと思うな」
その後、美和は借地契約の延長を認められず、家の解体をするはめになった。その費用はなんと三百万。雅に泣きつくも、「自分が勝手にやったくせに、頼るな」と一蹴されてしまったとか。
せっかく手に入れたと思ったのに、数ヶ月で解体し、借金まで背負うなんて。欲張ると、本当にいいことはないようだ。
美和は当然、離婚することになった。お互い不倫していたので慰謝料はゼロのはずだが、自分の方が傷ついたという意味不明な根拠と、夫婦で作った五百万の借金の返済で揉めて、ついに泥沼裁判に突入したそうだ。
雅の不倫相手は会社の若い子で、その子がSNSに「謝罪」と称して二人のラブラブ写真を投稿し、上司にバレて地方へ移動になったらしい。
美和は彼氏に逃げられて、今は解体費用の返済のため、大人のデリバリーの仕事をしていると聞いた。一体何を配達するのか。最近の仕事は多種多様なようだ。
リクトは最近、自分で選択をし、お弁当も作っている。先日は私に煮物まで作ってくれた。今まで自分は甘えすぎていたから、やれることは時間を作ってでもやるんだと言っていた。
あの親の元で、こんなに素晴らしい子が育ったのは、単なる奇跡としか言いようがない。でも、リクトと過ごせる残りの時間を、私は大切にしたいと思う。
