お母さん、引っ越したんだって?なんで?ちょっと所用で近くまで来たから、久しぶりに家に伺ったのよ。そうしたら、顔のパーツが全部中央に寄った知らない女の人が出てきたの。え、なんで来たの?だから所用だって言ってるでしょ。ここよ、名古屋。ええ、名古屋駅で降りたから分かってるわ。連絡もせずに訪ねてくるなんて非常識でしょ。嫁の訪問とラブストーリーは突然なのよ。意味の分からないこと言ってないで、はっきりしてよ。引っ越ししたなら教えてほしかったわ。インターホンを押したら、顔のパーツが中央に寄った女性と、同じく顔のパーツが中央に寄った男の子が出てきて、本当にびっくりしたんだから。何か話したの?いえ、一目見て「家を間違えました」って言って、すぐにドアを閉めたわ。そうなのね。それならいいけど。で、今はどこに住んでるの?引っ越しなんてしてないわよ。じゃあ、あの顔のパーツが中央に寄った女性は、一体誰なの?あれは親戚の子に決まってるでしょ。それに、その「顔のパーツが」って言い方、やめなさいよ。失礼しました。親戚の方だったんですね。知らない顔だったから驚いてしまって、挨拶もできずに大変失礼しました。構わないわ。気にしないで。じゃあ、お引っ越しはされてないんですね。そうよ。では、また伺います。できれば、もうあまり来ないでほしいの。なぜですか?まあ、いろいろあるのよ。そうですか。悲しいですけど、分かりました。じゃあね。
数分後、義母は電話をかけていた。「まずいことになったわ。大変よ。どうしましょう?」「母さん、どうしたんだ?」「あんたの嫁が、いきなりうちに来たのよ。」「え?真央が?なんで新幹線で一時間半もかかるのに…」「ちょっと所用だって言ってたわ。名古屋に行くなんて聞いてないけどね。」「もしかして、バレたんじゃないか?」「そんなわけないだろう。」「でも、美咲さんが玄関先まで出ちゃったらしいの。」「え?」「大した会話はしてないみたいだし、親戚だってごまかしておいたけど。」「なら大丈夫だろ。あいつは単純だから、信じるよ。今、離婚できるように準備してる最中なんだ。あと少しの辛抱だ。」「早くしてほしいわ。心臓がいくつあっても足りないんだから。」「分かってるって。堂々としてればいいんだよ。」「うん。分かった。もう来ないように言っといてよ。あんたは真央さんの父親の会社で働いてるんだから、バレたらすぐに首よ。」「あの人にバレたりしないよ。」「真央さんはどうして自分の父親の会社で働かないの?」「仕事とプライベートは分けたいとか言って、どっかの女社長の会社で働いてるんだよ。」「変な親子ね。」「だろう?でも、そのうち俺が社長になるから、それまでの辛抱だよ。」「楽しみにしてるわ。」
その頃、真央は夫に問い詰められていた。「なんで実家まで行ったんだよ?」「ちょっと仕事の用事があったのよ。」「それが何なのか聞いてるんだ。」「仕事だって言ってるでしょ。」「お前の仕事に出張なんてないだろう。」「社長にちょっとしたお使いを頼まれたのよ。」「さすが女社長だな。人使いが荒すぎるだろう。」「別にいいでしょ。なんでそんなに気にするの?私が実家に行くのがそんなに悪いこと?」「いや、いきなり行ったら母さんが驚くだろう。」「事前に連絡しなかったのは悪かったと思ってるわ。でも、お母さんだって突然東京の家に来るじゃない?そういうの、大丈夫な人だと思ったのよ。」「もう二度とするな。母さんの心臓が止まったら、お前に責任が取れるのか?」「嫁が訪ねてきたくらいで、何をそんなに驚くことがあるの?心臓が弱いんだよ。」「分かったわ。いきなり訪ねるのはやめる。」「頼んだぞ。」
一週間後、真央は義母にLINEを送った。「お母さん、今日はご自宅にいらっしゃいますか?」「いるけど。何?」「事前に連絡しろと言われたのでしています。今から伺いますね。」「え、今インターホン鳴らしたの、あなた?」「はい。」「なんでLINEしてから三秒で来るのよ。」「三秒の女と呼んでいただいても構いませんよ。」「あのね、あまり来ないでほしいと伝えたわよね。」「人によって『あまり』の感覚は違いますからね。私にとっては、今回は『あまり』ではありません。」「いいから、帰りなさい。」「なぜですか?せっかく所用のついでに寄ったのに。しかも、東京で二時間待ちの行列ができるスイーツを買ってきたのに。」「玄関先に置いといて。」「顔も見せずにお土産だけ受け取ろうなんて、どちらが非常識か分かりませんね。それに、あなた、名古屋で何の用事があるの?」「所用です。今は帰宅中です。今日は帰ります。」
外に小さな補助輪付き自転車を見つけて、真央は言った。「また顔パ中親子が来てるんですか?」「は?何それ?」「毎回言うのが面倒だから、『顔のパーツが中央に寄った』を略してみました。『顔パ中』とお読みください。」「あんたは人の顔を略せるほどの人間なの?」「確かに、私だって顔のパーツが神様の気まぐれで無造作に配置されたお母さんと夫に言えるほど整った顔をしてるわけじゃないですけどね。でも、ここまで馬鹿にされたなら、多少の権利はあるかと。」「は?誰が神様のいたずらよ。というか、いつ誰があんたを馬鹿にしたって?」「だって、愛人と隠し子を囲ってるでしょ?」「は?」「普通なら『たまには実家に帰ってきなさいね』と言うところですが、お母さんがしょっちゅう東京に来てたのは、これを隠すためだったんですね。」「ちょっと、何を言ってるのか分からないわね。」「もしかして、私の勘違いでした?」「当然よ。隠し子なんているわけないでしょ。」「ですよね。ありえないし、最低ですよね。」「そりゃそうよ。息子はそんな人じゃないわ。」「だったら安心しました。いつ来ても顔パ中親子がいるから、もしかしてって疑っちゃいましたよ。」「ところで、うちを訪ねたのは何回目?」「五回くらいでしょうか?」「そんなに来てたの?どうしてわざわざ名古屋まで?」「所用です。」「その中身を言いなさいって言ってるのよ。」「とにかく安心しました。隠し子疑惑が晴れてすっきりです。味噌カツを食べて帰ります。」
数分後、また義母は夫に電話をしていた。「また来たわ。あんたの嫁よ。」「また?なんで所用としか言わないんだ。」「あの女、『隠し子』って言ったわ。気づいてるのよ。」「あいつに分かるわけない。」「でも、もう五回もうちに来てるのよ。」「嘘だろう。」「あれは確実に私たちを疑ってるわ。」「困ったな。」「もう潮時なのかもしれないね。」「まだ目的は達成してないけどな。」「仕方ないわ。諦めましょう。次のターゲットが見つかれば、そっちに乗り換えればいいし。」「そんなに簡単に見つかるか?」「俺は、こう見えて意外とモテるんだぜ。」「そういえば、あの女、私たちの顔を『神様のいたずら』とか言って馬鹿にしたのよ。」「冗談だろ。」「あれ、本気なのよ。」「そうとしか思えないだろう?じゃなきゃ、あんなに整ってるはずがないし。」「そうね。これで納得したわ。」「また突撃されてごまかすのも疲れただろう。」「そうなのよ。毎度ドキマギしちゃって。」「もういいよ。多分あいつも気づいてるから、こんなことしてるんだろうし。俺が認めるよ。」「でも、そんなことしたら慰謝料をどうのって言われない?」「言わせないよ。」「そんなことが可能なの?」「俺に任せておけ。」
翌日、真央の父が妻に言った。「お前、最近よく名古屋に行ってるらしいな。社長さんもお使いさせないか?」「あんた、所用が多くて参っちゃうよ。」「見たんだろ。」「何を?」「女と子供。」「ああ、顔面にパーツが寄った親子のこと?」「何とでも言え。そうやって何かをディスってないと、平常心を保てないんだろう。」「名前を知らないから特徴を言ってるだけよ。実家に元カノと隠し子がいたの。ショックだった?」「あれ、元カノだったんだね。でも、こっちが本当の家族だから。両親も公認済みだし。」「もちろん、全部知ってたよ。」「は?」「明らかに名古屋出張が多いし、最初から変だとは思ってたけど、確信したのは二年前くらいかな。」「バレるはずないと思ってたのに、なんで分かったんだ?」「あなたの出張の中におしゃぶりが入ってたのよ。若い女と浮気してるのかなって思ったけど、そういう品だったら悪いから、しばらくは放置してたの。」「そんなの知らないよ。あれは海人のだ。」「あの子、海人君って言うんだ。母親そっくりね。見た感じ三歳くらいだったけど。あの女の人は、いつから実家に住んでるの?」「確か五年前くらいだったかな。俺たちが結婚した年だよ。俺が結婚するって知った元カノが、復縁を迫ってきたんだ。俺が他の人のものになると思ったら、いても立ってもいられなくなったんだってさ。可愛いやつだろ。」「うん。可愛いね。地獄の三沢みたいで可愛い。」「東京で社長秘書をやってたんだけど、社長と揉めて退職したらしくて。住むところもなかったから、名古屋の家に住ませてたら、子供ができたってわけ。」「ご両親は何も言わなかったの?」「父さんは入院してて、そのまま亡くなったし。母さんは美咲のことを気に入ってたから、むしろ喜んでたな。」「どうして私との結婚を取りやめなかったのよ?」「まあ、それはいろいろって感じ。」「もしかして、父のことと関係がある?」「さすが、よく分かったな。このまま一緒にいれば、いずれ社長の椅子に座れるかと思ってたけど。でも、お父さんはピンピンしてるし、無駄に長生きしそうだから、諦めることにするわ。」「うちの父は健康診断オールAだからね。それに、社長の娘と結婚したからって、いずれ社長になれる保証なんてないのに。」「そうなんだよ。それに気づくのがちょっと遅かった。お父さんも俺のことをあまり可愛がってくれないし。」「あなたが食事の誘いを全部断るからでしょ。」「年寄りとの飯ほどだるいものはないからな。」「まあ、そういうわけなんで、離婚の方向でよろしく。」「そんな風に簡単に逃げられるほど、大人の世界は甘くないの、知ってるでしょう?」「慰謝料とか言い出すんだろ?」「そりゃ、これだけ長い時間騙されてたわけだし、それなりの誠意は見せていただかないと。」「お前にそんなことを言う権利も資格もないと思うけどな。」「どういう意味?」「俺はお父さんの会社に入ってから、ある秘密を握ってしまったんだよ。」「は?業務上横領?」「お前は別の会社だから知らないだろうけど、あの狸親父はとんでもないぞ。」「父はそんなことする人じゃない。」「いくら社長だからって、会社の金を自由にしていいわけじゃないんだよ。俺はその証拠を握ってるんだ。お前が慰謝料請求してきたら、同時に警察に行くからな。」「脅してるの?」「交渉だ。俺には確かに隠し子がいるが、犯罪ではない。でも、お前の親父は捕まる。どっちが悪人か、分かるだろう?」「その証拠を見せなさい。」「やだね。でも、本物だぞ。」「もういい。慰謝料は請求しないから、余計なことをしないで。」「最初からそう言えばいいんだよ。じゃあな。」
翌日、真央は父に離婚を告げた。「お父さん、私、離婚することになったから。」「そうだろうと思ったよ。」「なんで?」「薫君から退職届が届いたんだ。」「もう、まるで準備してたみたいね。」「おそらくそうだろうな。」「お父さんの会社に入れてもらったのに。ごめん。最後の挨拶なしに退職届を送るなんて、恥ずかしいにも程があるわ。」「魔王の旦那だからって特別扱いはしてないぞ。入社も試験は全部パスしてたわけだし、決して無能というほどでもなかった。まあ、人間性に問題はあったらしいがな。」「え、何があったの?」「『黙っておけ』と言ったのに、『社長の息子だ』とか『自分がいずれ社長だ』とか言って回ってたらしい。」「あ、アホすぎる。」「社員も、俺の身内だからってなかなか言い出せず、困ってたらしいんだ。」「迷惑かけたね。」「俺は構わないが、社員には申し訳なく思ってるよ。」「本当にごめん。」「ところで、何があったんだ?浮気でもされたか?」「実は、あの人、愛人と隠し子がいたみたいなの。」「はあ。なんてけしからん奴だ。」「しかも、実家でお母さんが面倒を見てたみたい。」「親までグルなのか。とんでもない家族だな。」「実家まで行って本人たちの顔も見たし、証拠も掴んだんだけど、全然悪びれる様子がなくて。」「なぜだ?」「さっさと慰謝料をもらって別れればいいだろう。」「それが、お父さんの横領の証拠を握ってるから、慰謝料請求なんかしたら告発するって言ってるのよ。」「おいおい、何の冗談だ?」「分からない。確実な証拠を持ってるって言ってた。」「魔王は、父さんがそんなことをするように見えるか?」「見えないよ。おそらくデマか創作だろうとは思ってる。でも、この世の中、全て真実が勝つとは限らないじゃない?」「そうだな。それでも、自分が正しいと胸を張って言えるぞ。父さんは何も悪いことはしてない。曲がったことは大嫌いな体質だもんな。」「おう。二十年社長をやってるんだぞ。なめるなよ。」「お父さんのことを信じるよ。生々堂々と慰謝料請求して、権利を主張してやる。」「このことは母さんにはまだ言うな。」「なんで?」「名古屋まで飛んで行って暴れるに違いないから。」「あり得るわね。」
数日後、薫は真央を脅した。「俺の言ったことが理解できなかったのか?慰謝料請求なんかして、無事で済むと思ってるのか?」「うん。だって父は潔白だから。」「ふざけんな。役員報酬とは別に、三千万が振り込まれた形があるんだよ。」「それは役員貸付金ね。」「あ?」「返済契約書もあるし、利息も払ってる。取締役会も承認済みらしいわよ。」「なんだそれ?三千万だぞ。大金だぞ。」「祖父が亡くなって、多額の相続税がかかったのよ。銀行に借りるより手続きが早いから、貸付を利用したの。」「そんな素敵なことに使っていいわけないだろ。」「問題ないからやってるし、返済計画書もあるから、税務的にも何の問題もないのよ。」「マジかよ。」「それだけで父を刑務所にぶち込もうと思ってたの?」「他にもある。会社名義の別荘を自分の別荘として使ってた。」「それは会社の福利厚生として、他の社員も利用できるわ。当然、社長である父にだって使う権利はある。」「そうなのか。」「他にもある?」「今は証拠がない。後で出す。」「何を掘り下げても無駄よ。父はクリーンだから。」「うるさい。人間は叩けば埃が出るんだよ。」「あなたみたいに?」「俺の家族は埃じゃない。」「埃の方がまだマシかもね。」「なんだよ。どういう意味だ?」「そのうち、全て分かると思うよ。じゃあ、離婚の手続きを進めるわ。慰謝料、よろしく。」「ふざけんな。俺は絶対に金なんか払わないぞ。」
三日後、義母から薫に電話があった。「大変よ。美咲さんが捕まったわ。」「は?突然警察が来て連れて行かれたの。」「何の容疑で?」「窃盗だって。」「万引きか?」「違う。前職の時に、社長の貴金属やバッグを二億円分くらい盗んで逃げたらしいのよ。」「前職?東京の会社で秘書してたみたいなんだ。」「だからって、人のものを盗むなんて。秘書なら社長に一番近いのにね。」「海人は大丈夫?」「ママがお出かけしたのって、よく分かってないみたい。」「俺も真央の離婚で少し揉めてて、弁護士とやり取りしたりで今週は帰れない。海人のこと、よろしく頼む。」「それは構わないけど、不安だわ。逃げてた期間も長いし、罪が重くならないかしら。」「その時は母さんに育児を頼むしかない。」「は?あんた、帰ってこれないの?真央さんのお父さんの会社は辞めたんでしょ?」「そうだけど、俺は名古屋より東京の水が合ってるし。」「何言ってんの?子供がいるのよ。そもそも、俺の子かどうかも怪しいよな。あまりにも俺に似てないし。」「今まで可愛がってたじゃない。」「それはたまに会うから可愛いんであって、毎日ってなるとちょっときついよ。」「なんて親なのよ。私だってリスクを犯してこの子を守ってきたのよ。あんたがいつまでも『もう少し待って』って言うから待ってたのに、最後は押し付ける気?」「うるさいな。孫なんだから、面倒を見れるのは嬉しいだろう。」「元気に走り回る三歳児を追いかける体力なんてないわ。」「じゃあ、ジムでも行けばいいだろ。金なら出すよ。」「ふざけてないで、一度帰ってきなさい。」「いいや。」
数日後、薫は真央に言った。「お前、子供欲しがってたよな。」「数日後に離婚が成立する夫婦の会話じゃないわね。」「俺の息子の世話をしてみないか?」「ちょっと飲みに行かないか、みたいな感覚で言わないで。」「そんなくらい軽く考えてくれたらいいんだよ。」「母親が逮捕されたからって、私に押し付けるのは筋違いなんじゃないの?」「なんでお前がそのことを知ってるんだよ。」「通報したの、私だから。」「は?」「言ったでしょ。所用で名古屋に出かけてたって。」「どういうことだ?」「社長のお使いだって言ったわよね。」「は?まさか、美咲が秘書をしてた会社の社長が、今の会社の社長ってこと?」「そうよ。そんな偶然ある?私も驚いたわ。社長は警察に被害届も出してたけど、全然見つからなかったみたいなの。それで痺れを切らして探偵を頼ったら、見つかったのよ。」「マジかよ。」「それで現地確認をしてきてほしいって頼まれて、その住所に行ってみたら、まさかの実家だったんだもん。」「そういうことだったのか。お前がいきなり実家に行くなんて変だと思ったんだ。」「一度目はたまたまかと思ったけど、数回訪ねてるうちに、この親子は一緒に住んでるんだって確信したわ。」「それで社長と警察に報告して、任務完了ってわけ。」「なんで会ったこともないお前が、元秘書だって分かるんだよ。」「社長曰く、『顔のパーツが中心に寄ってるから、一目見れば分かる』って言われたの。」「お前のせいで、息子は母親と引き離された。母さんは今さら一人で育児をしなきゃならないんだぞ。」「何言ってんの?あんたの子でしょうが。」「お前こそ何言ってんだ?俺は男だぞ。」「だから何?」「子供の世話なんてしたことない。たまに遊ぶ程度のことしかしたことないんだよ。」「何を堂々と恥ずかしいことを言ってんのよ。あんたが作った子なんだから、あんたが育てるの。」「母さんは了承してくれた。」「今、海人君を連れて東京に来たわよ。」「は?」「さっき新幹線に乗って帰ってったわ。」「海人も一緒だよな?」「いいえ、置いてったわ。」「なんでだよ。」「今は私が見てるけど、早く交代して。」「無理、無理。俺には絶対に無理。」「今ここで投げ出したら、あんたは保護責任者で捕まるわ。」「だって、美咲さんが逮捕された。今、この子が頼れるのはあなただけなのよ。」「母さんの方がよっぽどマシだろ。」「一緒になって私を騙してたお母さんを擁護するつもりはないけど。子育てを終えて、孫を可愛がっていればいいだけの老後だと思ってたのに、全責任がかかるとなれば、さすがに嫌になるんじゃないかな?」「俺が育てんの?マジで?」「うん。手伝ってくれる?」「無理。離婚するから。」「何をすればいいの?」「ネットにでも聞いたら、何でも教えてくれるよ。助けてくれよ。」「でも、この子は元気があり余ってるわね。リビングのソファーはもうクレヨンでぐちゃぐちゃよ。」「は?止めろよ。俺はまだそこに住むんだぞ。」「後始末をしてくれる?」「ダメが通じないんだから、仕方ないじゃない?」「躾がなってないんだ。誰が育てたんだか。」「あんた、いい加減にしなさいよ。」「あー、作る時だけ優しくしといて。」「産んだら産んだで、育児も手伝わず可愛がるだけかよ。しかも、その上で躾がどうとか言える立場じゃないでしょ。」「だったら、てめえが一から躾けてみろよ。子供なんて思ったように育たないもんだろうが。」「どうした?」「なんか無性にイライラしたわ。この世の育児をしない全男性に腹が立ったの。」「子供もいないくせに、よく怒れるな。」「そうね。こんなやんちゃな子でも、クレヨンで落書きされてもいいから欲しかったよ。でも、どうやってもできなかったから、諦めたの。」「だったら、海人はどうだ?」「まだそんなこと言ってんの?いい加減にしなさい。」「すみません。」
そう言って、真央は一冊のノートを差し出した。「お母さんから預かってるわ。この子の好きなメニューとか、遊びとか、寝る時間とか、やること全部書いてあるから。頑張って。」「どんだけやることがあるんだよ。」「一瞬たりとも目を離せないわよ。」「信じられない。」「でも、すごく可愛い。」「だから、頑張りなさい。」
数日後、薫は実家の母に何度も電話をかけていた。「母さん、助けてくれないかな?なんで子供ってこんなに元気なんだよ。なんで既読にもならないの?母さん、限界だよ。和室の畳もボロボロだ。保育園も見つからない。待機児童問題って、俺にも関係があったんだね。目をちょっと離したら、ガスコンロの火をつけて遊んでたんだ。本当に一瞬も目を離せないなんて思わなかった。地獄だ。どうしたらいいんだ?助けてくれよ。」
母親が窃盗で逮捕されたのは不幸なことだが、海人君はそんなことは知らず、やんちゃっぷりを発揮しては家の中をめちゃくちゃにしているらしい。薫は賃貸の退去時のことを心配しつつ、名古屋の義母は息子からのヘルプ要請を無視して老後の人生を謳歌しようと思っていたが、孫を見ているからともらえていた仕送りがストップしてしまい、結局は年金で細々と暮らす毎日なのだとか。息子が時期社長だと言いふらしていたせいで、外にも出づらくなったそうだ。
美咲さんは裁判の結果、懲役三年となった。秘書への信頼を裏切った罪は重いと判断されたようだが、宝石などは一部返却したため、この年数になったらしい。出てくる頃には海人君は小学生。そこまで薫がしっかり育てていればいいのだが。しかし、今のところは定時で帰れる仕事について、ボロボロになりながらも、美咲が三年後出所するまではと、どうにかギリギリのところで育児をしているそうだ。
子供は作ったら終わりじゃない。そんな当たり前のことが分からない人間が多すぎる。今頃薫は、それを突きつけられているのだろう。
