「年末年始は覚悟しなさい。」
義母が突然、何の前置きもなく放った一言に、私は目を丸くした。
「え、お母さん、いきなり何の話ですか?」
「結婚して三年経ったんだし、少しは嫁らしくなったでしょ」
「毎年言われてますけど、今年は何か特別に覚悟が必要なんですか?」
「当然でしょ。今年からは容赦しないわよ」
まさか、そういうことか。察しが良くて何よりだ、と義母は笑う。
「私、宴会芸なんて持ってませんけど」
「は? 何言ってるの?」
「年末年始は親戚の皆さんが集まるじゃないですか。そこで一発、盛り上げる芸を披露しろって言われてるのかと」
「誰も芸をしろだなんて言ってないわよ」
「え、違うんですか?」
「おせち作りに始まって、年始にいらっしゃるお客様のおもてなしを、全部あなたにさせるってことよ」
そんなの無理だ。私は三年前に初めてフライパンを持った、自称・料理初心者主婦だ。夫婦の食事を作るだけでもやっとなのに。
「情けないわね。まあ、恥をかくのはあなただからいいけど」
「ちょっとは手伝ってくれますよね?」
「何を甘いこと言ってるの」
「じゃあ外注していいですか?」
「絶対に許さない。うちは手作り以外認めないわ」
「お店の方も手作りだと思いますけど」
「うるさいことを言うんじゃない」
「わかりました。やります」
「やる気だけは認めてあげるけど、つまらないものを作ったら、うちの嫁としては認めないから」
「と言いますと?」
「失敗したら離婚届を書いて出ていきなさい」
「え?」
「これはうちの嫁にふさわしいかの最終試験よ。三年目にしてテストがあるなんて聞いてません」
「八割以上取れなければ嫁失格だからね」
「何という難関試験ですか」
「じゃあ頑張って」
そして数分後、私は夫の順一に打ち明けた。
「大変なことになった」
「どうした?」
「年末年始に試験がある」
「何? 宅建でも取るの?」
「おせちとかおもてなし料理とか、全部作れってお母さんに言われたの」
「ああ、なるほどね。順一の実家って本家だから、毎年すごい数の親戚が集まってるよね」
「そうなんだ。子供の頃からひっきりなしに人がやってきてたな。まあ、そのおかげでお年玉は豪勢だったけど」
「その人たちの食べるものを全部、私に用意しろって」
「そっか。頑張れ」
「私が料理できないの知ってるでしょ。たまに得体の知れない黒い物体が出来上がるから」
「無理なの分かるよね。でも、今は十月だよ。今から練習すれば間に合うでしょう」
「あ、そう。じゃあ数十万のお金を練習に突っ込んでいいのね?」
「それは困る」
「じゃあ、明日から練習して半年後に一軒屋を立てろって言われたらできる? 無理に決まってるじゃん。それと同じことだって言ってるの。人には得意不得意があるのよ」
「でも、これは母さんの優しさだと思うけどな」
「どこが」
「女たるもの、そのくらいの料理はできないとつまらないぞってことじゃないかな」
「あなた、私のことつまらない女だと思ってたのね」
「そこまでは思ってないけど、そろそろ修行した方がいいかなとは思ってた」
「もしかして、私のことを馬鹿にしてる?」
「そんなわけないじゃん。父さんが亡くなってからは、みんなが集まる正月だけが母さんの楽しみなんだ。分かってやってくれよ」
「それとこれとは話が別でしょ」
「レシピなんてネットにいくらでも転がってるだろう」
「もういい。あなたには頼らない」
「無理ならやればできるよ。頑張れ」
翌日、私は兄の家を訪ねた。
「お兄ちゃん、料理ってどうすればできるの?」
「いきなりなんだよ。お前、脱サラして居酒屋やるくらいには得意でしょ」
「俺は料理が好きなだけだ。それを食べて美味しいって言ってくれる人の顔を見るのが幸せなの」
「私なんか作り終えたら疲れ果てちゃって、幸せどころか疲労マックスなんだけど」
「お前は昔っから要領が悪いもんな。料理なんて、食材を切って焼くか煮るか揚げるかだろう」
「そんな簡単に言わないでよ。私に課せられてるのはお正月料理なのよ」
「義実家か」
「うん。今年から全部私にやれって」
「それはなかなかきついな」
「どうしたらいい?」
「無理ですって言えよ」
「言ったけど、できないなら離婚しなさいって」
「じゃあ離婚しろよ」
「は? お前、気づいてるか? それ、嫁いびりだぞ」
「嘘だろ。今気づいたのかよ」
「でも、私がやり遂げれば、お母さんだってちゃんと認めてくれるでしょ?」
「やり遂げられるのか? 無理だろ。相手はそれを分かって仕掛けてきてるんだよ」
「なるほど」
「揉め事はごめんだから、俺は口も手も出さない。どうやって切り抜けるか、自分で考えろ」
「妹のピンチなのに見捨てるの?」
「妹の成長を願ってるから見捨てるんだ。頑張れよ」
「何よ、どいつもこいつも」
それから三ヶ月後。私は再度、義実家へ乗り込んだ。
「今日から一週間、コテで地獄を見せてやるわ」
「この三ヶ月、ジムに通って体力つけてきました」
「気合いだけは認めてあげるけど、筋肉で家事は乗り切れないわよ」
「確かにそうですね。さあ、台所は働け。休んだら家から叩き出すわよ」
「こんな田舎で追い出されたら、電車もバスもないのに帰れません」
「あなた、今、何気なく毒を吐いたわね」
「気のせいです」
「まあいいわ。今日は三十日よ。今から仕込んで、おせちは間に合うんでしょうね」
「お任せください。脳内シミュレーションはばっちりです」
「あ?」
「YouTubeを見て、手術前の医者のように手を動かす練習を三ヶ月してきました」
「それだけ?」
「はい。むしろそれしかやってません」
「そんなんでできるの?」
「はい。脳内では完璧な三段重が完成してます」
「無理よね」
「それはやってみないと分かりません。ぶっつけ本番ではありますが、私は昔から本番に強いタイプではありましたので」
「嘘でしょ?」
「本気です」
「本当にできるの? 三十人はいらっしゃるのよ」
「はい。脳内では三十人が喜んでいます」
「何なのよ、その一番不安になる言葉は」
「お任せください。この脳内を必ず具現化して見せます」
「あっそ。ちなみに、お母さんは今どちらに? 私が来てから一切姿を見てないんですけど」
「ちょっと所要用で出かけてるわ。私のことはいいから、さっさと準備しなさい」
翌日、私は限界だった。
「もう限界です」
「はあ?」
「何をやってもうまくいきません。脳内ではできていた動きが、全くできないんです」
「分かりきってたことなんだけどね。栗きんとんはこの世のものとは思えない苦さだし、黒豆もしわしわでお母さんみたいです」
「一言余計なのよ」
「助けてください。私には無理です」
「泣き言を言うな。正月は明日よ。まだ時間はあるでしょ」
「でも食材が底を尽きてしまいました。何一つ成功しなかったってことです」
「はい。ただ、隣のおじさんが家畜の餌や畑の肥料にすると言ってもらってくれました」
「何てこと?」
「どうすればいいでしょう?」
「料理はもういいわ。あんたは今から家中の掃除をしなさい」
「それくらいならできますが。お母さんは今どちらにいらっしゃるんですか?」
「え? うん。私はちょっと所要用で出かけてるわ」
「二日連続で所要用ですか?」
「あんたに関係ないでしょ」
「まあ、そうですね。じゃあ帰ります」
「あ? 掃除は?」
「ルンバを走らせておきました。窓や畳を拭いたり、いろいろあるでしょう? あとはお願いします」
「あんたね」
「じゃあ、素敵な年末年始をお過ごしください」
「待ちなさい。バスも走ってないわよ」
「タクシーを呼んだので大丈夫です。では、さようなら」
数時間後、私は自宅で夫と向き合っていた。
「なんで帰ったんだよ」
「誰も味方がいないから」
「はあ。嫁としての義務を放棄するのか」
「あのね、これは嫁いびりだよ」
「ふざけるな。母さんがそんな卑劣なことをするわけがないだろう」
「私に総勢三十名ものおもてなしができるって、本当に思ってるの?」
「やればできるだろう」
「じゃあ、あなたがやりなさいよ」
「俺は男だぞ」
「男も女もない。無理なもんは無理」
「じゃあ、何のために結婚したんだよ」
「は? 逆に聞くけど、なんで私と結婚したの?」
「こういう時のためだろう」
「はあ、そうだったんだ」
「こういうことも含めて、嫁の仕事だって言ってるんだよ」
「できる範囲のことはやるわよ。でもね、異常な嫌がらせには屈しないから」
「母さんを怒らせたな。どうなっても知らないぞ」
「できなきゃ離婚って言われてるの。それでいいのか?」
「仕方ないじゃない」
「分かった。そこまで言うなら、離婚に応じよう」
「だから、そこまで言ってないんだけど」
「後のことはまた話し合おう。じゃあな」
翌日。大晦日の夜、義母から電話がかかってきた。
「せっかくの年末なのに、あんたのせいで食卓が寂しいわ」
「あけましておめでとうございます」
「何もめでたくないわ。お飾りのおかげで、親戚の方もがっかりしてるのよ」
「そうですか」
「私が大晦日に街中を駆け回って、かまぼこや黒豆をかき集めたけど、全く足りなかったわよ」
「それで?」
「これが息子がもらった嫁の実力ですって言ったら、皆さん口を揃えて、そんな嫁は捨てろっておっしゃったのよ」
「はあ」
「おまけに、三年経っても孫も授からないなんて、単なるガラクタだって言った人もいたわ」
「ひどいですね」
「これは親戚の総意として伝えるわ。息子と離婚してちょうだい」
「いいですよ。そこまで言うなら、仕方ありませんね」
「え? まだそこまでは言ってないんだけど」
「まあ、あなたは試験に落ちたんだから、しょうがないわね」
「あの、この試験って、順一さんが結婚するためにお嫁さんに課すんですか?」
「当然じゃない」
「だったら、一生順一さんは独身だと思いますよ」
「なんでよ。素晴らしい嫁がいつか来るかもしれないでしょ」
「素晴らしい女性であればあるほど、お宅の異常さを察知して、すぐに逃げられますよ。私のようなポンコツ三流主婦ですら逃げるんですから。一流ハイスペック主婦はもっと嫌がると思います」
「逃げる? あんたは捨てられたのよ。何の使い道もないボロ雑巾と同じなの」
「ああ、言い忘れてましたけど、裏口の玄関先に荷物を置いてますので」
「何それ? まさか爆発物?」
「そんなことするわけないじゃないですか。早めに開けてくださいね」
数分後、義母が呆然とした声を上げた。
「何よ、この豪華なおせちは」
「私が作りました」
「嘘をつきなさい」
「何もできない嫁イコール離婚であるなら、そのレベルの料理ができる嫁は、どうなりますか?」
「え? できるなんて思ってもなかったから、答えを用意してないのよ」
「最初から私たちを離婚させるために、無理題を押し付けたってことでしょ」
「まあ、料理の腕は認めてあげてもいいけど、掃除ができてなかったじゃない」
「トイレ、風呂、窓、床、全て終わってます。お母さんがパチンコに行ってる間に、全て完了しております」
「だって、あんた…」
「あれは最後の仕上げですね」
「あれ? ちょっと待って。パチンコって言った?」
「はい」
「なんで知ってるの?」
「心配だったので、ついてきました」
「私を尾行して、料理と掃除をしたってこと?」
「まあ、そうなりますね」
「嘘よ。ありえない。私でも無理」
「でも、やってのけました。これでも不合格でしょうか?」
「姑を尾行するなんて、非常識にも程があるわ。息子のことも疑って尾行するに決まってる。そんなことになれば、あの子はストレスで倒れるわね」
「結局、ポンコツでも完璧でも、何かしら文句をつけて反対する気だったってことでしょ?」
「違う…」
「いえ、今のでよく分かりました。ただ、なぜそこまでして離婚させたいのかまでは分かりませんけどね」
「もういいじゃない。さっき離婚に同意したでしょ」
「はい。そうですね。でも、そう簡単に引き下がるほど、私は単純でアホな女じゃないんです。納得するまで突き詰めるタイプなんで」
「はあ」
「では、良いお正月を。ああ、そのおせちは本当に美味しいので、食べてください」
数分後、私は兄の店にいた。
「お兄ちゃん、本当にありがとう。あのおせちのおかげで、義実家の闇を暴けそうだよ」
「お前のために徹夜したんだぞ。掃除は得意なんだが、料理だけはどうしても無理だから助かった」
「駆け引き上手の憎いやつね」
「実家に超高い日本酒を置いておいた。俺も明日帰るから、一緒に飲もう」
「仕方ないやつだな。ねえ、闇って何?」
「多分、義母と夫はグルだね」
「冷遇したのは義母だけだろ」
「私が料理できなくても離婚。立派なおせちを届けても離婚。おかしくない?」
「まあ、確かに」
「最終目的は離婚だったのよ。手段はきっと何でも良かったんだと思う」
「じゃあ、別れるしかないだろう」
「もちろんそのつもりよ。ただ、ここまで嵌められて大人しく引き下がれるわけないでしょ」
「お前は本当に昔から執念深い女だな」
「真実を確かめてから、こっちから別れてやるわ」
翌日、正月休みの帰省先で、私は夫に言った。
「お正月休み楽しんでる?」
「ああ、ずっと実家にいるんだ。お前のせいで母さんの機嫌が悪くて大変なんだぞ」
「どうしておせちも作ったし、掃除もしたのに?」
「それでも母さんが気に入らないなら、ダメなんだよ」
「そうみたいね。離婚しろって言われたし」
「仕方ないよ。母さんが認めないなら、無理だ」
「うん。でもさ、私、思うんだけど。年末に家事を嫁に丸投げしておいて、パチンコで十五万負ける姑のことは、制止されても嫌なのよね」
「は?」
「その上、新しい女ができたからって、ママに泣きついて別れさせようみたいなことをさせるのも、どうかと思うけどね」
「おい、何を言ってるんだ」
「他にも色々知ってるけど、これは本人にぶつけるとしよう」
「何のことだ?」
「とにかく、私を騙して裏切った報いは受けてもらう。楽しみに待ってなさい」
数分後、私は義母と向き合っていた。
「お母さん、私に嘘をついてましたね」
「何が?」
「三秒待ちます。全ての罪を告白してください」
「はあ。何を言ってるんだか」
「はい、時間切れです」
「な、何なのよ」
「年末に親戚が集まること自体、嘘ですよね」
「嘘なわけないでしょ。あんただって去年の正月見たじゃない」
「はい。でも今年は誰も来てないはずです」
「なんで? 私、先日そちらにお邪魔した時に、親戚の皆さんの家にお土産を持って挨拶に伺ったんです。その時にれ子さんとLINEを交換して、そこからよく話すようになったんですが、衝撃の事実を聞いてしまいました」
「何を言ってたの?」
「お母さんが原因で、親戚中から絶縁されてることです」
「れ子は嘘つきで有名よ。夫の兄の娘だけど、あいつは昔から悪質なの」
「れ子さんのお父さんとの間で交わした借用書も見せてもらったんですが。あの女、パチンコに注ぎ込みすぎて、親戚中にお金を借りて、返すためにまたパチンコに行ってます。クズの思考回路ですけど、大丈夫ですか?」
「うるさい。私は一度、十五万も勝ったことがあるんだから。そのうち大勝ちするの」
「そんな、たまたま起きたラッキーを夢見てるなんて。大体、お父さんが亡くなってから、皆さんよくしてくれてたそうじゃないですか? そんな行為を無にして裏切るなんて、ひどいです」
「黙りなさい。あんたには関係ない」
「確かにそちらの親戚のことは私には無関係です。ただ、一つだけ聞かせてください。私と夫を離婚させたいのはなぜですか?」
「あんたが嫁としてふさわしくないからよ」
「じゃあ、自分で調べます」
「え、待って。何をするの?」
数週間後、私は実家で兄と話していた。
「お前、実家にいるんだよ」
「いいじゃん。お母さんがいいって言ってるんだから」
「俺の冷やしたビールがすぐなくなるんだよ」
「いいじゃん。お母さんがいいって言ってるんだから」
「なんだよ。もう離婚したのか」
「今、探偵さんにお願いしてるところ。それが終わったら話し合いする」
「はあ。順一君、もしかして浮気してるの?」
「多分ね。それを確定させるための探偵」
「なるほど。そういうことか。気づいた。元から順一君は離婚したくて、母親に相談してたんだ」
「そういうこと。だったら、嫁いびりして追い出してあげましょうね、ってな感じで、正月の無理難題を私に押し付けたのか。私はそう思ってる」
「なんだよ。俺のおせち、無駄だったじゃないか」
「本当だよね。それも慰謝料と一緒に請求するわ」
「笑い事じゃないよ。妹のためと思って、寝ずに作って配達までしたんだぞ」
「お兄ちゃん、感謝してるよ。いつも私のくだらない愚痴を聞いてくれて、なんだかんだ文句を言いながら助けてくれる。感謝してもしきれない」
「嘘だな。お前は俺をいいように使ってるだけだ」
「バレたか」
「お前のことはムカつくが、お前を騙した奴はもっとムカつく。俺にできることがあれば、何でも言え」
「もう、結局頼りになる兄貴なんだから」
数日後、私は夫に離婚の話を切り出した。
「離婚するわ」
「そうか。そこまで言うなら、仕方ない」
「そこまで言ってないけど。俺ら、大して貯金もないし、財産分与とかはなしで、すっきりさっぱり終わりってことでいいよな」
「良くないね。口座には二万くらいしかないぞ。切り崩しても一万だ」
「じゃあ、慰謝料二百万円でいいよ」
「なんで二百万も増えてんだよ」
「浮気した場合の相場は、そのくらいらしいから」
「は? 何を言ってるんだ。誰が浮気したって? お前が?」
「いやいやいや、ありえない」
「こっちは探偵を使って調査まで雇ってんだよ。お母さんと彼女と三人並んでパチンコを打つほど仲良しなんだ」
「あ、そりゃ、姑と彼女の趣味が同じなら可愛がるよね。でも、この日、三人とも負けてるじゃん。しょんぼりした顔してる」
「そんなところまで取られてたのか。どこで出会ったの?」
「マッチングアプリ」
「私はあなたがパチンコをするなんて知らなかったんだけど」
「去年の正月以降、母さんの影響でハマった。適度に楽しむ分にはいいけど、親戚に借金するほど依存するのは病気よ」
「俺は借りてない」
「でも、貯金ができないほど使ってるじゃない。口座に二万って何? それぞれ毎月五万ずつ積み立ててたはずだよね。三年で三百六十万は貯まってないとおかしいんだけど」
「それは…」
「何とか言って。ちゃんと返してもらうから」
「無理に決まってんだろ」
「パチンコをやめなさい。金のかからない趣味を見つけなさい。あと、親戚から訴訟を起こされる前に、返済した方がいいよ」
「そんな物騒なことするかよ。身内だぞ」
「正月も顔を出さないってことは、ほぼ絶縁されてるのに。そんな情けが残ってると思う?」
「そんなにひどいのか。母さんは今年はみんな体調が悪くて来れないって言ってたんだけど」
「そんなわけないでしょ。お母さんにまでいいように使われて。あんたの名前で借金とかされてないといいけど」
「さすがにそこまでは…いや、ありえるかもしれない」
「疑心暗鬼な親子関係だね。私はやってらんないから、さっさと抜ける。離婚届を送るから、よろしく」
「離婚はいいけど、金は払わないぞ」
「黙れ、浮気者」
数時間後、義母が電話をかけてきた。
「あんた、息子に二百万も請求したって本当?」
「少なかったですか? では、もう少し足しておきますね」
「逆よ。高が浮気くらいで二百万? 冗談じゃないわ。何様のつもり?」
「奥様のつもりですが」
「調子に乗るな」
「お母さんこそ、強気でいられるのも今だけですよ。近いうちに親戚の訴訟ラッシュが始まります。口で言っても返さないんだから、裁判所の命令をもらうしかないじゃないですか。私からは夫に浮気の慰謝料二百万と、貯金の使い込み百八十万を合わせて、三百八十万を請求します」
「ありえない」
「夫と共謀して嫌がらせして離婚に追い込むまでもなく、浮気とギャンブルのことさえ打ち明けてくれたら、さっさと判を押しましたのに」
「バレるなんて思わなかったの」
「どっちでもいいですけど、私は嬉しいです。パチンカスババアと不倫男と縁が切れるので」
「あんたこそ、料理もまともにできない脳なしのくせに、偉そうなことを言うんじゃないわよ」
「仕方ないじゃないですか。軽い麻痺があって、包丁が握れないんですから」
「え?」
「子供の頃に病気をしてから、後遺症が残ったんです。夫は親にもこのことは話したし、その上で結婚の許可をもらってるって言ってたから、てっきり知ってるものだと思ってました」
「知らないわよ」
「だから、すごく嫌がらせしてくるなと思って、ドン引きしてたんですよね。知ってたら、あんなことさせなかったわ」
「でも、あのおせちは?」
「ああ、あれは兄が作りました。脱サラして料理人をやってるんです。本人は絶対に言いませんけど、多分、私のためだと思います。頼んでもないのにタッパーにおかずを詰めて、余ったからって持ってきてくれるんです。料理ができない私が、旦那に捨てられないように、胃袋をつかむ役割を買って出てくれてるんですよ」
「お兄さんのお店って、繁盛してるの?」
「それなりに。メログは四点二で評判もいいですが、絶対にダメですよ」
「まだ何も言ってないわ」
「どうせお金を貸してとか、そういうことでしょ。到底、年金で返せる借金じゃないのよ」
「一発逆転を狙うんじゃなかったんですか?」
「息子の愛人が給料日前で、ろくに金がなかったわ。仲良く遊んでませんでした」
「パチンコのために、うちの家を売れと言い出したの」
「断ればいいじゃないですか」
「家は息子名義だから、勝手に抵当に入れてお金を借りちゃってるのよ」
「うわ、もう言葉もございません」
「何を笑ってるのよ」
「すみません。人が邪険に扱って、バカにして見下してた人が転落していく姿を見るのは、嬉しくなっちゃいますね。私って性格が悪いなあ」
「最低ね」
「お母さんに言われたくありませんよ。私の方は住む家もなくなるかもしれない。どうやって生きていったらいいの?」
「働くしかないんじゃないですかね。まともに仕事をしたこともないわ」
「兄の店がちょうど従業員を募集してますので、応募してみてはどうでしょうか?」
「え、雇っていただけるかしら?」
「聞いてみましょうか?」
「お願いできる?」
「ちょっと待ってくださいね」
「私、料理も洗い物も得意だし、きっとお役に立てると思うのよね。都会は最低賃金も高いし、結構もらえるんじゃないかしら」
「お待たせしました」
「どうだった?」
「いいそうですよ」
「本当? 良かったわ」
「コキ使ってやると、兄が申しております」
「え? 地獄のバイト生活スタートです」
その後、元々パチンコに興味のなかった順一は、金遣いの荒い彼女と別れようとしたが、家を抵当に借りた八百万円を回収するために、別れることもできずにいるらしい。会社も辞めさせられ、深夜のバイトに明け暮れながら、わずか千円を握りしめてパチンコ屋に通っているという話を、義母から聞いた。
義母は兄の店で本当に容赦なくコキ使われ、二週間後のある日、営業中に逃げ出したそうだ。兄はどれだけコキ使ってたんだろう。田舎の家には息子とパチンコ女が住みついて戻れず、今は兄の店よりも労働環境の悪い飲食店で住み込みをしながら、少しずつだが親戚への返済をしているらしい。
私は料理が得意な男性に出会えるよう婚活を頑張っているところだが、兄よりいい男がいるかなと、ちょっと心配している。
