朝五時、いつものように清掃のために銀行のロビーへ向かった。今日も一日、誰も気づかない場所を綺麗にするだけの仕事だと。だがその日、支店長が私の足元に水をかけてこう言った。「どうせ清掃員の分際で、何ができるというんだ。お前の息子も底辺だろう。」自分の胸が凍りつく音が聞こえた。私は静かに内線電話を一本かけた。誰に、なんて言わずに。そして数分後、本店営業統括部の部長が現れて、こう言ったんです。「その…

朝五時、いつものように清掃のために銀行のロビーへ向かった。今日も一日、誰も気づかない場所を綺麗にするだけの仕事だと。だがその日、支店長が私の足元に水をかけてこう言った。「どうせ清掃員の分際で、何ができるというんだ。お前の息子も底辺だろう。」自分の胸が凍りつく音が聞こえた。私は静かに内線電話を一本かけた。誰に、なんて言わずに。そして数分後、本店営業統括部の部長が現れて、こう言ったんです。「その...

朝五時、光一はいつもの時間に目を覚ました。七十八歳の独居老人である彼の毎日は、決まったリズムで流れている。布団を押入れに片付け、台所に向かい、味噌汁と漬物と炊きたてのご飯を用意する。同じ献立の朝食。妻が生きていた頃は、もう少し品数が多かった。味噌汁の味だって、妻のものには到底及ばない。それでも光一は、その一日一日を丁寧に生きていた。

私がいなくても、あなたは大丈夫ですよね。亡くなる前に、妻は何度もそう心配そうに聞いてきた。その問いに答えるように、光一は毎朝を大切に過ごしている。食器を片付け、身支度を整え、妻の写真に手を合わせて、行ってきますと声をかける。そうして玄関を出るのが、彼の日課だった。

光一には一人息子がいる。もう独立して家庭を持ち、孫も三人いる。だが息子は仕事が忙しく、最近では訪ねてくることも少なくなっていた。それは光一にとって、静かな寂しさでもあった。長年連れ添った妻は若い頃から病気がちで、数年前に亡くなった。光一は仕事を辞めて妻の介護に専念し、妻が亡くなった今は、清掃員として働いている。妻の世話をするうちに、掃除という仕事が自分に合っていると気づいたのだ。

だが清掃員として働き始めてから、光一はこれまで見えなかった世界を目の当たりにした。制服や肩書きを失った瞬間、人はここまで露骨に態度を変えるものなのか。声をかけられる時は、大抵が命令か苦情か、あるいは無視だった。使う側と使われる側。その境界線の冷たさを、光一は身に染みて知った。それでも惨めだと思ったことは一度もない。光一には、長い人生で積み重ねてきた確かな誇りがあった。自分は逃げてここに立っているのではない。選んでここにいるのだ。妻が倒れたのは五年前の冬だった。長期の介護が必要になるという現実を告げられた時、光一は一切迷わなかった。すぐに退職を申し出た。周囲は最後は他人に任せればいいと言ったが、光一は首を振った。仕事には代わりがいる。だが妻の夫は自分しかいない。そう言って、彼は妻のためだけの時間を生きた。慣れない家事と介護を必死にこなし、この年でこんなこともできないのかと情けなく思うこともあった。だが後悔はなかった。そして介護の経験は、清掃の仕事と通じるものがあった。ただ汚れを落とすだけではない。建物を使う人間の流れを読み、邪魔にならないように動く。誰かが転ばぬよう、事故が起きぬよう先を考える。それは妻を気遣った介護と一緒だった。目立たぬところで全体を支える役割。誰かがやらなければいけない仕事だ。その思いは日に日に強くなっていった。

掃除なんて誰でもできる汚い仕事。それが世の中の評価だ。だが光一はそうは思わない。誰かが綺麗にしなければ、どんな立派な建物もすぐにひどい有様になる。この世の中では、誰もが役割を持って動いているのだ。清掃員になってから、光一は特にそう思うようになった。

第一銀行への出勤は九時。光一が清掃を担当するその銀行に着き、作業着に着替えて廊下へ出た時、ある男と出くわした。

ちっ、朝から暗い顔を見せるなよ。

彼の名前は木原。この銀行の支店長だ。五十代半ばで、ぎょろりとした目が冷たい印象を与える細身の男だった。支店長というからには、普通は他者の尊敬を集める優れた人物のはずだが、木原は違った。この銀行の清掃担当になって三ヶ月、同じく支店長として配属されてきた木原は、とにかく下の者を見下し馬鹿にする、そんな最低な人間だった。

おい、ぼうっとしてないで早くどけ。邪魔だろうが。

光一は無言で頭を下げ、道を開けた。木原は当然だとでも言うように鼻を鳴らすと、肩をぶつけるようにして通り過ぎていく。裏方は裏方らしくしろ。客の目に入るな。吐き捨てるような声が廊下に残った。どうしてこの男は私をここまで嫌うのだろう。初対面から見下すような目をされたことを思い出し、光一の胸はむかむかとした。他の銀行員たちによれば、木原は以前の所属先でも横暴な態度で嫌われていたという。だが上司に取り入るのが上手く、そのおかげで支店長の座を獲得したらしい。あんまりあの人に近寄らない方がいいですよ。特に高齢者が嫌いらしくて。親切な銀行員がそう教えてくれた。どうして高齢者が嫌いなのか。木原本人曰く、何もできない弱者のくせに偉そうだから、だそうだ。確かにひどい客はいる。でもそれは人による。心を込めて対応していれば、どんな客でもきっと分かってくれる。光一はそう思っていた。いつか痛い目に会わなければいいがな。光一はぽつりと呟くと、気を取り直して清掃用のカートを押し始めた。

最初の作業は一階ロビーの床掃除だ。回転すれば多数の客でごった返すロビーも、今は営業前の静けさに包まれている。だがその静けさを破るのは、いつも木原だった。

おい。

背後から声がかかる。振り向くと、木原が腕を組んで立っていた。これ、捨てておけ。そう言って投げられたのは、水割りの入った金属の灰皿だった。光一は受け止めることもできず、灰皿がガラガラと嫌な音を立てて、磨いたばかりの床に転がる。黒いタバコの灰と水割りが散らばっていく。あんまりな態度に、光一は抗議の意味を込めて木原を見つめた。

なんだその顔は。何か不満でもあるのか? 嫌なニヤニヤ笑いだ。いえ、ただ。

掃除はお前の仕事だろ? ちゃんと片付けておけよ。

投げなくても良かったのではないですか。思わず不満が出た。すると木原は眉間にしわを寄せ、口元を歪めた。俺のせいだと言うのか。清掃員が余計な口を出すな。言わなければよかったと思った。上昇した木原は、光一を激しく攻め立て始めた。本来ならここはお前が意見する立場じゃない。口答えするなら、人を変えてもらうこともできるんだぞ。木原は見下すように言い放った。これは日常茶飯事で、毎日の高齢行事のようなものだった。だが人格を否定され続けて平気な人間なんていない。この因縁質な攻撃で、過去に辞めた銀行員もいるらしいと噂で聞いた。とにかくこの場を納めるために、光一は深々と頭を下げた。申し訳ございません。すぐに片付けます。そう言って、もう一度丁寧にモップをかける。途中ちらりと横目で窓口を見ると、多くの行員が木原が同席する様子を見守っていた。また始まったよと呆れ顔の人間はいるが、誰も止めには来ない。それでもここで働く人間の多くが木原の言動に心を痛めていることを、光一は感じ取っていた。だが誰も何もできない。木原に逆らえば自分の立場が危うくなることを知っているからだ。だからこそ光一も、自分一人が我慢して平和が保てるならばと、我慢を重ねていた。しかしそんな雰囲気のせいで、木原の態度がエスカレートしていくのも事実だった。

本当に手がかかるな。木原はそう言い残し、ロビーを後にした。通り際に、また嫌がらせのために灰皿を蹴飛ばしていく。またタバコの灰が汚く床に散らばった。光一はその背中を見つめながら深く息を吐き、モップを動かし続けた。

銀行が回転する時間が近づき、行員の足音が増えていく。その中で光一は一つ一つの汚れに目をこらし、丁寧に取り除いていった。それが今の自分の役割なのだと、静かに受け止めながら。

午前十一時を回った頃、ロビーは一気に慌ただしくなった。年金の受け取りや各種手続きのため、年配の客が多く訪れる時間帯だ。

ちっ、また年配の客が増えてきたな。手間ばかりかかる。

窓口に並ぶ高齢者を見て、木原は下打ちをした。誰しもいずれは年を取るのに。木原の愚痴を遠くで聞きながら、光一はそう思った。どうやら木原は大口の顧客以外、全て見下しているらしい。自分の評価につながらないものは、ことごとく彼にとって邪魔な存在だった。本来なら銀行としてあってはならない態度だが、ここにそれを止める者はいない。だからこそ木原のワンマンぶりが横行するのだ。

一方で光一は入口付近の床を磨きながら、来客の動線を邪魔しないよう最新の注意を払っていた。清掃の仕事で最も気を使うのは、人の流れだ。床だけを見ていては勤まらない。時には窓口が分からない客を案内することもあった。誰しも、いれば勝手が分からなくなることがある。それを馬鹿にしようとは思わない。自分もいずれは誰かの世話になって生きることが分かっているからだ。

しばらくすると木原が数人の行員を引き連れてロビーにやってきた。どうやら新人の若手行員に支店内を案内しているらしい。

いいか。ここがこの支店の顔だ。木原はそう言いながら広々としたロビーを指し示した。余計なものは置かない。掃除が行き届いていない場所があったら、すぐ分かるようにな。

はい。若い行員たちははきはきと返事をする。

お前らも気を抜くといずれ裏方に回されるぞ。

若手行員たちは返事に困ったように視線を泳がせた。どれだけ横暴でも、誰も木原には意見できない。彼に睨まれればすなわち、銀行内で立場を失ってしまうからだ。従々な若者たちの態度に木原は満足げに頷いた。支店長という肩書きによる万能感が、木原の中に満ちていた。

掃除は掃除だ。考えるのは上の人間の仕事だろう。

光一は何も言わない。それに気をよくして、木原の馬鹿にするような言動は止まらない。

努力してきた人間が指示を出す側に立つ。それだけの話だ。

最低な励ましの文句を言って、木原は満足そうに笑った。光一は何も言わなかった。今の私は清掃員だ。それ以上でも以下でもない。散々光一を馬鹿にした後、ようやく満足したのか、木原はロビーから去っていった。光一はゆっくりと床を磨き直す。ほんのわずかな汚れも見逃さないように。誰に見せるためでもない。自分自身が納得するためだった。仕事に気晴らしはない。それが光一の信念だった。だがその信念を踏みにじる出来事が、この後さらに露骨な形で起こることを、この時の光一はまだ知らなかった。

それは午後三時前のことだった。昼の混雑が一段落し、ロビーにはまばらに客が残っているだけだった。光一は窓口前の床を拭き終え、出入り口付近へと移動していた。その時だった。

おい、ちょっと来い。

背後から聞き慣れた声がした。振り向かなくても分かる。木原だ。光一はカートを止め、静かに向き直った。

何でしょうか? 木原は応接スペースの方を顎で指した。テーブルの上には紙コップと書類が置かれている。

さっきから見てたがな。この辺り、まだ汚れてる。すぐに確認いたします。光一がそう言って近づいたその瞬間だった。

ああ、もういい。

木原は紙コップを手に取った。どうせお前が拭いても、また汚くなるだけだ。そしてためらいもなく、中身の水を光一に向かってかけた。バシャッという音がロビーに響く。冷たい水が光一の胸元から腹にかけて広がった。作業着の色が一気に濃くなる。一瞬、時間が止まったように感じられた。

何を……。

周囲にいた行員や客がはっとしてこちらを見る。誰もがその光景をすぐには理解できなかった。木原は平然としていた。

なんだその顔は。掃除はしたんだろうが、見た目まで気が回らないのか。むしろ不満げに前を潜めた。裏方は裏方らしくしていろ。客の目に触れる場所に立つな。

周囲の空気が一瞬張り詰めた。光一はゆっくりと視線を上げた。その目は怒りよりも、静かな質をたたえている。

お客様もいらっしゃいます。さすがにこれはやりすぎでは。

それは感情を殺した、静かな声だった。

ああ?

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木原は一瞬耳を疑ったような顔をした。清掃員が俺に意見するつもりか? 木原は鼻で笑った。ここでは俺の言うことが絶対だ。それが分からないなら、去ってもらっても構わない。木原は一歩光一に近づいた。どうせ他に行く場所もないんだろう。

私があなたに何か迷惑をかけましたか? その問いは静かだった。だがロビー全体にはっきりと響いた。木原は一瞬言葉に詰まったように見えた。だがすぐに不機嫌そうに顔を歪めた。

迷惑。ここにいるだけで周りが困るんだよ。

その言葉はまるで刃物のように鋭かった。孤独な清掃員が俺に減らそうな口を叩くな。まるで見かしたように言葉を並べる。

孤独ではないです。私には立派な息子もいます。

そこまで言うと、木原は大げさに笑い出した。

どうせ息子も底辺だろう。底辺。親がこの程度なら、息子も高が知れてる。勝手な決めつけだった。どうせ息子も底辺だろう。木原の見下した言動は止まらない。息子は派遣かアルバイトか。それともまともに働いてないのか。

その言葉に、光一の中で何かが音を立てて切れた。怒りがないわけじゃない。だが一番大きかったのは、もうこの男は戻れないという冷えた感覚だった。自分さえ我慢すればいいと思っていた。だが人として超えてはならない一線を、この男は平然と踏み越えたのだ。光一はゆっくりと息を吸い、吐き出した。そして初めて木原を真正面から見据える。

あなたに私の息子を底辺と言われる筋合いはない。

木原は光一の態度に少し面食らった様子だったが、やがて開き直ったように言った。

本当のことを言って何が悪いんだ? 驚く銀行員たちの視線を受けながら、光一は何も言わずに受話器へ手を伸ばした。では、ご確認を。その姿を見て木原は笑った。

なんだ?

まさか誰かに泣きつくつもりか? 清掃員のお前を、誰が助けてくれるって言うんだ? 光一は答えない。だがその瞳には静かな怒りが浮かんでいた。これ以上黙って見過ごすことはできない。それは復讐のためではない。怒りを晴らすためでもない。ただ人としての一線をはっきりと示すために。光一はある人物に電話をつないだ。内線番号を一つ押す。コール音が一度、二度なった。その様子を木原は腕を組んで眺めていた。

おい、誰に電話してるんだ? 派遣会社か?

同じ清掃員仲間か? 光一は答えない。だが静かに待った。数回目のコールの後、電話はつながった。数分ほど話すと、光一は受話器を戻し息を吐いた。その様子を見て木原は鼻で笑った。

何のはったりかは知らないが、気は済んだか? その声にはまだ余裕があった。清掃員が内線を使ったところで何ができる? そう高をくくっているのがありありと分かる。光一は何も答えなかった。その沈黙が木原を苛立たせた。

おい、聞いてるのか?

黙っていれば何とかなると思ってるのか? 一歩が近づく。支店長という肩書きを盾にした、威圧的な距離の詰め方だった。だが光一は引かない。視線をそらすこともない。その様子を見て、周囲の行員たちがざわめき始めた。あの清掃員さん、いつもならすぐ頭下げるのに。今日は違う。何かが変わるきっかけを予感させる、そんな雰囲気だった。

なんだその目は。まさか俺に歯向かう気じゃないだろうな。

高圧的なその言い方に、光一はゆっくりと首を振った。

歯向かうつもりはありません。ただ……一呼吸を置く。あなたのことを、人としてこれ以上見過ごせないと思ったんです。

その言い方が木原の神経に触った。

人として? お前、何様のつもりだ? 吐き捨てるように笑う。ただの清掃員の分際で、随分と立派な口を聞くじゃないか。自分の立場を分かってるのか?

光一は穏やかに答えた。ええ、よく分かっています。私はただの清掃員です。その言葉に木原は勝ち誇ったように頷く。

だったら……。

光一は言葉を重ねた。立場が低いからと言って、人として踏みにじられていい理由にはなりません。

ロビーの空気がピンと張り詰めた。木原の表情が一瞬だけ歪む。

説教か。お前には分からないだろうが、そんな綺麗事は社会では通用しないんだよ。

あなたには理想はないんですか? ノルマを達成して承認されればそれでいいんですか? 光一の声は驚くほど落ち着いていた。その落ち着きが、逆に異様だった。怒鳴り返すでも感情的になるでもない。まるではるか上から物事を見下しているかのような、そんな錯覚を木原は覚えた。

何が言いたい? ここは人生の節目に立つ人が多く訪れる場所です。あなたのような自分本位な人間では、人には寄り添えない。

随分知ったような口を聞くな。調子に乗るなよ。お前はただの清掃員だろう。

清掃員だって人間です。あなたに侮られるために生きてるわけじゃない。光一はきっぱりと言った。そんなことも分からないあなたに、支店長という肩書きが担えるとは到底思えません。

その言葉に、木原はなぜか背中が冷えるのを感じた。理由は分からない。光一の気迫に押されて、木原は思わず視線をそらした。

くだらん。そう言って、言い逃げれば俺がお前に謝罪するとでも思ってるのか?

光一はゆっくりと首を振った。もう下がれ。

光一は木原を見た。その目には怒りも憎しみも帯びていない。ただ静かな覚悟だけがあった。

失礼します。

光一は濡れた作業着のまま、事態を見守っていた客たちに頭を下げた。見苦しい姿をお見せしてしまい、大変申し訳ございません。幸いにもロビーには客は少なかった。だがまともな行員なら、客前であんな失態は決して犯さないだろう。権力を手にして木原は暴走している。そろそろ誰かが止めなければ。

その日、騒ぎが少し落ち着きかけた頃だった。ロビーの床清掃を終え、光一がモップを片付けていると、受付付近がわずかにざわつき始めた。普段とは違う張り詰めた空気。スーツ姿の男が二人入ってきたのだ。一人は見覚えのない若い行員。もう一人は落ち着いた雰囲気をまとった、四十代後半の男性だった。

本部の方だ。誰かがひそひそとそう言った。木原もすぐに気づき、慌てて奥から出てきた。

これはこれは。突然のお越しとは驚きました。

深く頭を下げる木原に、四十代の男性が軽く会釈を返す。いえ、確認したいことがあって急遽立ち寄りました。淡々とした口調だった。木原さんとは初めてでしたね。私は本店営業統括部の部長の佐野上と申します。

その肩書きを聞いた瞬間、木原の表情が強張った。本店部長、しかも営業統括。自分の評価や人事に直結しかねない立場の人物だ。

支店長の木原です。お忙しいところ恐れます。それで本日はどのようなご要件で? 少し気になることがありまして。映像の確認も含めて、状況を整理したい。

佐野上の視線がロビーを走るように巡る。そして清掃道具を持った光一の姿で止まった。光一の作業着はまだ濡れたままだ。佐野上は目を細め、光一の姿を何秒か見つめた後、木原に視線を戻した。

こちらの支店では、清掃業務はどのような体制で? 清掃ですか? 清掃会社に委託してますが、それが何か?

てっきり支店内部の抜き打ち監査かと身構えていた木原は、意外な問いかけに戸惑いながら答えた。

あの方の作業着が濡れているのは、なぜですか? あ、ああ。彼はそそっかしい人間で、さっきバケツをひっくり返して自分で水をかぶってしまったんですよ。どうかお気になさらず。木原はそう言うと、何も知らないふりをして笑った。仕事ぶりも梃子摺って持て余しましてね。そろそろ他の人間に変えてもらうつもりです。うちの銀行の雰囲気に合いませんからね、彼は。

あなたは人を見た目や年齢で判断しているんですか? え? さっきから随分人を見下すような発言をされてるじゃないですか。支店長ともあろう人が。

それは……いや、私はそんなつもりは……。

木原は口ごもる。まさかそんなことを指摘されるとは思っていなかったのだろう。

実は以前から、知人からこの支店の雰囲気について話を聞いていました。かなりワンマンな行動をされているそうですね、木原さん。

誰がそんなことを。木原は大げさに声を上げた。そして窓口にいる銀行員たちを次々と睨みつける。本店の部長に余計なことを言ったのは誰か。犯人を探すような目つきだった。

心当たりは全くありません。濡れ衣です。私は誠心誠意を持って職務に当たっていますから。

恥ずかしげもなく木原は言った。一方、銀行員たちは顔を見合わせている。清掃員の光一だけではない。彼らも木原の行き過ぎた指導に毎日怯えていたからである。

あの……その……。

一人の女性が口を開いた。佐野上が聞くと、女性は意を決したような表情で言った。そこにいらっしゃる清掃員の方が濡れているのは、支店長が水をわざと被せたからです。

お、お前、何を言ってるんだ?

私も日頃から店長に高圧的な態度を取られてますが、清掃員の方への扱いが一番ひどいです。もう見ているのが辛いくらいで。

う、嘘です。この女は嘘を言っている。

少し黙ってください。あなたの言い分は後で聞きます。それで他に何か言いたい人はいますか? すると次々に声が上がった。

店長はここに来てからやりたい放題なんです。振り絞るような声。

私は支店長のミスを押し付けられました。恨みのこもった視線。

私も成績が悪いからと、何時間も説教されました。涙声の訴え。

みんなが勇気を持って立ち上がり、必死に声を上げた。もういい加減、銀行員たちは木原の暴挙に耐えかねていた。それが佐野上の来訪で爆発したのだ。

いい加減にしろ! 事実無根の話で私を貶めるつもりか。

木原は取り乱した様子で怒鳴り散らした。だが銀行員たちは黙らない。

清掃員さんへの嫌がらせも、ここにいる全員が知っています。毎日難癖をつけて、さっきも清掃員さんの息子さんのことを底辺だって笑いながら馬鹿にしていました。

本当ですか? 佐野上は光一の方を向いて静かに聞いた。光一は一つ頷く。

ああ、全部本当のことだ。私一人我慢すればいいと思っていたが、あまりにもエスカレートしすぎですね。

嘘です。そ、それに清掃員風情が部長に何て口の聞き方だ。

突然敬語を止めた光一を、木原は叱りつけた。だが佐野上は気を悪くした様子もない。

いいんですよ。だってその人は、私の父ですから。

え?

木原は状況を理解できずに目をまたたかせる。

父……? 私が、あなたが馬鹿にする清掃員の息子です。

そ、そんな嘘でしょ。嘘を言って私に何の得が……。

それに、事前に銀行内のことを私に教えてくれていたのは、父ですよ。

木原の頭の中は完全に混乱していた。目の前の光景が現実だと理解しようとすればするほど、思考が拒絶する。複数の老人。顔を合わせるたびに邪魔者のように扱ってきた老人。その男と、本店から視察に来たはずの部長二人が、まさか親子だったなんて。木原は無意識に一歩後ずさった。自分の足が震えていることに、遅れて気づく。支店長という肩書きが急速に色褪せていく感覚。今まで自分を守ってきたはずの立場が、音を立てて崩れていくような気がした。

違う。俺は悪くない。

そう言い聞かせようとしても、言葉が続かない。自分が何をしてきたのかを、周囲の視線が有無を言わさず物語っていた。水をかけたこと、客の前で侮辱したこと、年齢と職業で人を見下してきたこと。それらが一気に思い返され、目の奥がきりきりと痛む。自分が積み上げてきたと思っていたものが、実は何ひとつ根を張っていなかった事実に、木原は初めて直面していた。

部長のお父上なら、なんで清掃員の仕事なんか……。

おどおどと木原が聞いた。それに佐野上はきっぱりと答える。

清掃員の仕事なんか、という言い方はやめてください。息子から見ても、父は誇りを持って業務に当たっています。誰にも馬鹿にされる謂れなんてないはずです。

その言葉に、光一の胸が熱くなった。息子が木原と違い、こうやって公平な人間になってくれたことを、父親として嬉しく思ったからだ。

それに父は今は清掃員ですが、昔はあなたや私と同じように銀行員でしたよ。しかも歴代トップの営業成績のね。

にわかに周囲がざわついた。営業成績がトップの銀行員なんて、よほど仕事のできる人間しかいない。

ま、まさか。しかし、どうしてそんな方が清掃員なんて……。

信じられないとでも言うように、木原がわなわなと震えながら佐野上に聞いた。

それは私の母の介護があったからです。母は昔から病気がちで、最後にはとうとう寝たきりになりました。佐野上の視線が遠くを見つめる。亡き母親のことを思い出すように。父は自分の磨き上げた華々しいキャリアを捨て、母の介護を選びました。施設に預けるという選択肢もあったのにです。

私にとって仕事よりも大事なのは妻だったからね。そこに後悔はないよ。光一は静かに呟いた。

おかげで母は安らかに満足しながら、最後まで穏やかに過ごせました。全て父の献身のおかげです。

し、失礼しました。私は何も知らず……。

木原が光一に向かって頭を深々と下げた。だが光一はそれを見ても、何も思わなかった。

あなたが今私に頭を下げているのは、私が上司の父と判明したからでしょう。

そ、そんなことは……。

これまであなたのことをずっと見てきました。支店長として配属されたばかりで勝手が分からないのかと耐えてきましたが、もう終わりです。そうでしょう、皆さん。

光一が銀行員たちに向かって問いかけるように言った。するとみんな頷く。銀行員の誰もが木原の更迭を望んでいるのが明らかだった。

私はただの老人です。ですが誇りを持ってこの仕事をしています。視線が木原へ戻る。あなたはその誇りを踏みにじった。

その瞬間、木原の膝が床に落ちた。そこで佐野上が冷たく告げた。

この場の状況は本店へ即時報告します。木原さんは一旦職務から外れてください。

木原は顔を上げた。そんな……。お願いします。これからは態度を改めますから。何卒。

木原は膝をつき、声にならない懇願を繰り返した。だが誰もそこに救いの言葉を差し出さなかった。その場所は皮肉にも、光一が彼に水をかけられた場所だった。

私に未熟な部分があったと認めます。ですからどうか広角だけは……。

すがるように懇願する木原に、佐野上は静かに言った。銀行は人の信用で成り立つ場所です。あなたは銀行内だけでなく、お客様の前でも自分の横暴さを晒した。それを許すことはできません。

どうして俺が……。今まで順風満帆に出世してきたのに……。

その場に漂う沈黙は冷たい。だれる木原に同調する者など、一人としていなかった。行員たちは皆無言でその姿を見下ろしていた。高圧的な態度で命令を下し、逆らうものを睨みつけていた店長。その男が今は床に額を擦り付け、言葉にならない嗚咽を漏らしている。光一は静かに背筋を伸ばした。清掃用の制服のまま。しかしその佇まいには、長年組織の中で戦ってきた者だけが持つ重みがある。

光一は呟いた。人は肩書きで偉くなるんじゃない。どう振る舞ったかで、その価値が決まるんです。清掃の仕事を始めてから、誰よりも早く出社し、誰よりも遅く帰った。仕事柄、見下され、無視されることも多々ある。だが光一はくじけなかった。見下すならば、それはその人間の方に問題がある。それを分かっているからだった。

顔をあげてください、木原さん。

床に座ったままうずくまる木原の肩を、佐野上が叩く。顔を上げた木原の顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。

正式な処分は映像と証言を確認した上で、本店が決定します。またこれまで支店内で行われていた不適切な指導についても、調査対処になります。

その言葉に行員たちの表情がわずかに変わる。恐怖ではない。安堵だった。長く長く続いていた理不尽が、ようやく終わる。誰もがそれを直感していた。

佐野上は穏やかに続ける。職場は立場の強い人間が弱い人間を踏みつける場所ではない。互いの仕事を尊重し合う場所であるべきです。

木原は震える手で床を叩いた。支店長という地位も、約束された盤石な未来も、全てなくなってしまう。そう思うと背筋がぞわぞわと冷え、嫌な汗が頬を伝った。やがて木原は立ち上がると、ふらふらとした足取りでロビーから去っていった。

すまないな。急に呼び出したりして。突然どうしたのかと思ったよ。前々から聞いていたけど、あの男の態度はひどいものだったね。よく我慢したね、父さん。

あれくらいでいちいち屈してはいられないさ。だが、あのまま放っておけば取り返しのつかないことになると思ってね。それでお前を呼び出したんだ。

佐野上は肩を竦める。まあ助かったよ。確かに放っておけば、あの男はもっとエスカレートしただろう。ありがとう。

礼はいい。忙しいだろうが、たまには孫と一緒にうちに顔を見せてくれよ。

そう言って光一は笑う。分かったよ。と佐野上も頭を掻いた。ようやく銀行内に笑いが起こった。あれほどの緊張感が嘘みたいに、木原によって淀んでいた空気がさわやかに晴れたようだった。

それから数日後、第一銀行本店の会議室には重苦しい空気が漂っていた。長机の中央に置かれたモニターには、支店ロビーの防犯カメラ映像が静止画で映し出されている。清掃員に水をかける支店長。誰が見ても言い逃れできない映像だった。

以上が支店での一連の事象です。佐野上が淡々と報告を終える。会議室に集まった役員たちは、誰一人として口を開かなかった。沈黙が気を締め上げる。

弁明はありますか? コンプライアンス担当役員が、感情を排した声で尋ねた。木原の喉がひくりと動く。

あの……私は……。声が震えた。現場の規律を守るつもりで、多少厳しく接していただけで……。

多少ですか? 別の役員が遮った。あなたの発言は人格否定、職業を理由にした不適切な発言に該当します。十分コンプライアンス違反だ。

木原は視線を落とした。そんなつもりは……。絞り出すような声だった。その瞬間、会議室の空気がさらに冷えた。

あなたに支店長の器はなかったようですね。佐野上が静かに言った。役員の一人が資料をめくった。

木原さん。淡々とした声。あなたには過去の所属部署でも、部下への高圧的言動があったと告発がありました。つまり、あなたには人格的に問題があるということです。

役員たちがざわめく。

では……。佐野上が静かに結論を告げる。木原支店長は支店長の任を解き、今後は地方管理部への異動を命じます。

異動。その言葉がはっきりと使われた。地方管理部。それは実質的な左遷先だった。

そんな……。

木原の膝から力が抜ける。せっかく支店長まで登り詰めたのに。誰も木原を慰めない。肩を落とし会議室を出ていく木原を、佐野上は見送った。支店長を任されるまでの人物だ。きっと頭の切れる優秀な人間だったはずだ。だが彼には、銀行員として致命的な欠点があった。銀行は金のやり取りの場所ではない。信頼を持って人と接する場所だ。たとえ相手が誰であろうと、誠心誠意を持って対応するのが一流の銀行員の仕事だった。相手が清掃員だと他人を見下していた木原は、遅かれ早かれ破滅の道を辿っていただろう。

誰であろうと馬鹿にしていい人間なんていないんですよ。

その佐野上の呟きが木原に聞こえたかどうかは定かでない。ただ木原が全てを失ったのは、誰の目にも明らかだった。

数週間後、木原に正式な処分が通達された。役職剥奪、支店からの永久除外。人事の紙は驚くほど薄かった。だがその一枚で、木原の銀行員としての人生は事実上終わった。異動した地方管理部のオフィスは、静かすぎるほど静かだった。窓の外に見えるのは隣のビルの無機質な壁だけ。かつて支店長室から見下ろしていた町の景色は、もうない。木原は古びたデスクに座り、淡々と書類を整理していた。仕事の内容は単純だった。過去の帳簿の確認、数字の突合。判断も裁量も必要ない、誰でもできる仕事。これは自分がかつて、誰でもできると見下していた仕事だ。周囲の社員は木原を避けるように黙々と作業を続けていた。声をかける者はいない。視線すらほとんど向けられない。それが何より辛かった。人員も少ないため、オフィス内の掃除は当番制だ。もちろん木原も例外ではない。木原は屈辱を感じながら、かつて馬鹿にしていた掃除をする。トイレのなかなか取れない汚れを擦りながら、彼は自分の身の哀れを嘆いた。あの爺さんが部長の父親だって知っていれば、こんなことにはならなかったのに。誰にでもできる仕事に追われ、かつては支店長だった自分がトイレ掃除だなんて。木原は悔しさに唇を噛んだ。それから数日後、結局木原は自主退職を選んだ。プライドの高さがあだとなり、左遷に追いやられた事実に、とうとう耐えられなくなったから。ふと思い出す。あの清掃員。汚れた作業着を着て、静かに床を磨いていた老人。あの男は肩書きを失っても、誇りを失ってはいなかった。だが自分には何も残っていない。これから再起して何かを頑張ろうなんて、到底思えなかった。

春の風が縁側を優しく撫でていく。庭の梅の木には、今年も小さな花が咲いていた。

今年は少し早いな。

光一は湯呑みを手にそう呟いた。小屋の縁側に腰を下ろし、庭を眺めるこの時間が、最近の彼のお気に入りだった。あの出来事から三ヶ月が経っていた。第一銀行での一件は、思った以上に大きな波紋を呼んだ。本店のコンプライアンス委員会は銀行全体の職場環境改善に乗り出し、各支店でハラスメント研修が実施されることになったという。そして光一自身にも変化があった。清掃会社から呼び出されたのは、事件の一週間後だった。何か問題でもあったのかと身構えていた光一に、担当者は深々と頭を下げた。

田上さん、本当に申し訳ありませんでした。

銀行側から正式な謝罪と共に、光一を名指しで継続派遣したいという要請が入ったのだ。清掃の質、勤務態度、細やかな気配り。それら全てが銀行側から高く評価されていた。もしご負担でなければ、引き続き同じ支店をお願いしたいのですが。光一は少しだけ考えた後、静かに答えた。はい。私でよければ。自分の仕事が正しく評価されたことが、素直に嬉しかった。再び第一銀行のロビーに立った日、行員たちは以前とは違う態度で光一を迎えた。

おはようございます。今日もよろしくお願いします。

それは決して腫れ物に触るようなものではない。一人の働く仲間としての、自然な挨拶だった。中には、あの日勇気を出して声を上げた女性行員もいた。

この前は本当にありがとうございました。

いえ、こちらこそ。

短いやり取りだったが、それで十分だった。支店長は新しくなった。温厚で、現場をよく見ている人物だった。

清掃の方々がいてこそ、銀行は成り立ちますから。

その言葉を聞いた時、光一の胸の奥がじわりと温かくなった。仕事終わり、光一は以前よりも少しだけ足取りが軽くなっていた。

帰宅すると、仏壇の前に座り、妻の写真に今日あった出来事を話すのが日課になっていた。今日はね、若い行員さんに、床が綺麗だと気持ちいいですねって言われたよ。写真の中の妻は、いつもの優しい笑顔を浮かべている。私一人でもちゃんとやってるよ。心配しないでくれ。ゆうやも元気だよ。立派な息子だ。

休日には、息子が孫を連れて訪ねることも増えた。

じいじ!

まだ幼稚園児の孫が駆け寄ってくる。その小さな体を抱き上げると、胸いっぱいに温かな重みが広がる。

父さん、無理してないか? してないよ。それにお前の方が大変だろう。最近昇進したんだろ。

息子は仕事ぶりを認められ、本部での評価がさらに上がり、役職を任される立場になっていた。かつて自分も銀行員だったからこそ、それは分かる。目指すは父さんのような銀行員だ。いや、父親を超えたいと思って、今まで頑張ってきたんだ。照れ臭そうに言う息子に、光一は少し驚いたように目をまたたかせた。そして次に、穏やかに語りかけるように言った。お前は、私と母さんの自慢の息子だよ。

春が過ぎ、夏が来た。会社からは新人教育の補助を頼まれるようになり、若い清掃員に床の磨き方だけでなく、周囲に気を配ることの大切さを教える立場になっていた。掃除はね、ただ汚れを取る仕事じゃない。人が気持ちよく過ごすための仕事なんだ。若者たちは真剣に頷く。かつて営業成績トップを維持した銀行員は、今、別の形で人を育てる仕事をしていた。ある日、支店のロビーに小さな掲示が貼られた。清掃スタッフの皆様へ。いつもありがとうございます。銀行員全員の名前が、そこに並んでいた。光一はその前で立ち止まり、深々と一礼した。自分の人生は派手ではない。だが決して間違ってはいなかった。誰かを見下すことなく、誰かの役に立ち、静かに誠実に生きる。それができていれば、人は幸せになれる。

朝五時。今日も光一は同じ時間に目を覚ます。布団を畳み、味噌汁を作り、妻の写真に手を合わせる。行ってきます。返事はなくとも、心の中で確かに聞こえる。妻の優しい声が、行ってらっしゃいと。今日も光一は床を磨き、ゴミを捨て、誇りを払う。大変だが、やりがいのある仕事だ。銀行員だった時とはまた別の達成感がある。木原が去った後も、光一の姿を誰かが馬鹿にすることが、残念ながらあるかもしれない。だが光一の誇りは、誰にも揺るがすことはできないだろう。彼は心から、清掃員という仕事を愛しているのだから。