「ご飯できたわよ」—その一言が、すべての始まりだった。階段の下から聞こえた妻の声に、俺はパソコン画面から目を離さず、冷たく返した。「俺は忙しいんだよ」と。あの時、俺は何もかもを失うなんて想像もしていなかった。家族との時間を捨て、若い女にプロポーズし、「ばばあのお前とは離婚だ。今すぐ家を出ていけ」と言い放った。妻は静かに、でも強く言い返した。「この家の所有者は私よ。出るか出ないかは私が決める」…

「ご飯できたわよ」—その一言が、すべての始まりだった。階段の下から聞こえた妻の声に、俺はパソコン画面から目を離さず、冷たく返した。「俺は忙しいんだよ」と。あの時、俺は何もかもを失うなんて想像もしていなかった。家族との時間を捨て、若い女にプロポーズし、「ばばあのお前とは離婚だ。今すぐ家を出ていけ」と言い放った。妻は静かに、でも強く言い返した。「この家の所有者は私よ。出るか出ないかは私が決める」...

「ご飯できたわよ」

妻の声が階段の下から聞こえてきたが、俺はパソコンの画面から目を離さなかった。

「また今日も部屋で食べるの?」

「悪いか。俺は忙しいんだよ」

「部屋にこもって何してるのよ。たまには食卓で食べたら?」

「なんだよ、寂しいのか? 今さら夫婦の会話なんていらないだろ」

「家族としての会話は必要でしょ。私のことより、まゆとみゆとだって全然話してないじゃない」

「今プロジェクトを任されてるんだよ。連日出張したり、会社に泊まり込むくらい忙しいんだ。お前らのために働いてやってるんだから、ぐだぐだ文句言うな」

「……わかったわ。じゃあ、今日も部屋の前に置いておくわね」

「ああ」

しばらくして、俺は皿を部屋の前まで取りに行ったが、すぐに箸を置いた。

「やっぱりいらねえわ」

「はぁ? なんで今言うのよ。せっかく作ったのに、もったいないじゃない」

「捨てればいいだろう」

「食費だってただじゃないのよ」

「飯うるせえな。頭の中、それしかないのか。お前みたいな古臭い女はうんざりだ」

「主婦なんだから、食事のことを考えるのは当然でしょ」

「もう限界だ。しばらく出ていく」

「どこに行く気?」

「俺だってな、こういう時に止めてくれる女の一人や二人、いるんだよ」

「何それ? 浮気してるってこと?」

「浮気とか、そんな軽々しい関係じゃねえ。タイミングが悪かっただけで、これは真実の愛なんだ」

「それを世間では浮気って言うのよ」

「とにかく、今から家を出るから」

三十分後。

「エミ、大事な話があるんだ」

「家族との時間を捨ててまで家を出た人が、なんの用よ」

「ついさっき、俺は彼女にプロポーズした。だから浮気じゃない」

「結婚なんかできるわけないでしょ」

「若い女と再婚するから、ばばあのお前とは離婚だ。今すぐ家を出ていけ」

「まゆとみゆも連れていけよ」

「私一人で高校生の双子の面倒を見ろってこと? 無茶言わないでよ」

「どうしても出ていかないっていうなら、ガキどもだけでも先に出ていってもらう」

「あの子たちはまだ高校生よ。未成年を追い出せば、あなたは犯罪者になるわよ」

「だからお前も一緒に出ていけって言ってんだろうが。とにかく、先にまゆに連絡するわ」

五分後。

「まゆ、話がある」

「何? 直接会って話せないこと?」

「お父さんは今外にいるから無理だ。だからここで単刀直入に言う。お父さんとお母さんは離婚することにした」

「ああ、そうなんだ」

「驚かないのか。無理しなくていいぞ」

「別に無理してないよ。むしろやっとかって思った。いつ離婚するのかなって思ってたもん」

「はぁ? なんだと?」

「顔を見れば小言か嫌味しか言わないし、遊びに連れて行ってもらった記憶もないから。親の離婚を願うなんて、不孝なクソガキめ」

「そりゃ願うでしょ。この家にいる意味ないもん。みゆもそう思ってるよ」

「やっぱりあの女の娘たちだな。性格悪いところがそっくりだ」

「パパに言われたくないんだけど」

「俺だってお前らみたいな娘なんて願い下げだよ。双子で俺の血が繋がってるはずなのに、懐かないなんて」

「そういうことだから、お前が先に出ていってよ。そうすりゃママも出ていくでしょう。みゆにもそう伝えといて」

「出ていくのはパパだよ。何勘違いしてるの?」

「は? なんでそうなるんだよ」

「理由を知りたければ、ママに聞きなよ」

「めんどくせえな」

さらに五分後。

「おい、みゆに出ていくのはパパだって言われたぞ。俺が世帯主なのに。どういう教育してんだよ」

「どういうって、人に迷惑をかけない常識は教えたつもりよ」

「なってねえんだよ。お前らを養ってやってるのに、この報いは何だ」

「私だって働いてるのよ。養ってるのはあなただけじゃないわ」

「在宅のくせに偉そうに。お前はいいよな、自由で」

「頼まれた仕事はちゃんと完遂しないといけないから、まあまあ多忙よ」

「大して忙しくもないくせに、忙しいアピールすんな」

「それはあなたも同じでしょ?」

「いいか、俺は世帯主なんだぞ」

「だから何よ」

「分からないのか。これだから世間知らずは。この家にいる権利があるのは俺の方なんだよ」

「世間知らずはどっちなのかしら。世帯主ってね、生計を共にする家族の代表者という意味であって、家の名義とはまた別なのよ」

「あ、そうなのか……いや、でも俺が代表者なんだろ。だったら俺が偉いんだから、俺の言うことを聞け」

「『世帯』って漢字が入ってるから勘違いしちゃうのかしら。この家の所有者は私よ。出るか出ないかは私が決めることだわ」

「所有者ってだけで偉そうにされちゃたまんねえよ。名前がお前ってだけだろ」

「全然違うわよ。何より、浮気するような人と一緒に暮らしたくはないわね。まゆとみゆにとっても悪影響でしかないわ」

「もう高校二年生だろうが。大人の事情が分からん年でもないだろう」

「成人すらしてないのよ。大人が守らないでどうするの?」

「色々言い訳して、出ていかないつもりか?」

「まだ分からないの? あなたに私を追い出す権利はないのよ。本当に出ていって欲しいなら、いろいろと手続きを踏まないといけないわ」

「ああ、もう分かった。分かったよ。俺が出ていけばいいんだろう。今から戻って荷物を詰めるから、ちょっと家に入れろ」

「それはつまり、もう戻らないつもり?」

「そうだよ。離婚届も今持ってくるからな。実は前から用意してたんだよ」

「本気?」

「なんだよ、今さら別れたくないってか? 言っておくが、俺の決意は固いぞ」

「結構よ。むしろ大歓迎だわ」

「今までありがとう、お前」

「強がらなくていいぞ。まあ、泣かれても戻るつもりはないが。じゃあな」

一ヶ月後。

「ママ、まだお仕事終わってないの?」

「今スーパーよ。まゆは学校終わった?」

「うん。今家に着いたところなんだけど、大変なの」

「どうしたの?」

「あの人が玄関の前にいる」

「あの人って……パパ?」

「そう。もうパパじゃないけど。なんで家の前にいるの?」

「私、どうしたらいい? あいつに会いたくないんだけど」

「まゆは今どこにいるの?」

「外の物陰に隠れてるよ」

「みゆは?」

「多分まだ部活」

「まあまあ、どうしよう。あの人が何をするか分からないし……とりあえず、一旦学校に戻ってみゆと合流してくれる? その後は学校か、近くのカフェなりで待機してて。大丈夫そうなら後で私が迎えに行くわ」

「分かった。ママ、気をつけてね」

「ありがとう。まゆたちもね」

十分後。

「あなたが家の前にいるのは分かってるわ。この家はね、もうあなたが居ていい場所じゃないの。帰ってくれる?」

「なんだよ、夫が帰ってきちゃいけないのかよ」

「あなたと私はとっくに他人になったわよ」

「戸籍上、俺とお前は法的に繋がった夫婦だろう」

「だから離婚したって言ってるでしょ。あなたが家を出た翌日、すぐに役所に提出したわよ」

「は? 俺は悩んだ上で、あの離婚届を出したってのに。お前はあっさり出したってのか。信じられねえ。なんて薄情な女なんだ」

「黙って離婚届を用意していたあなたに言われたくないわ。離婚したかったんでしょ? 良かったわね。これで晴れて私たちは赤の他人よ」

「そんなこと言って、本当は寂しいんだろ」

「いいえ、ちっとも。むしろ快適だわ」

「そうは言うが、やっぱり女だけの暮らしは不安だろう。やっぱり男の俺がいないと」

「ご心配なく。ご近所さんとの繋がりもあるし、この周辺は警察のパトロール区域だから」

「本当、エミは強がりが得意だよな。そうやってへらへら笑って、後で困るのはお前なんだぞ」

「私が困ろうが、あなたには関係ないでしょ。大体、どうして戻ってきたのよ。彼女と再婚するんじゃなかったの?」

「あの女の目的は家だったんだ。庭付きの一軒家が欲しかったんだとよ」

「なるほど。あなたが家を出たから、話が違うってこと?」

「それだけじゃねえ。あのクソ女、若い男と浮気してやがった。因果応報だな。俺は何も悪くねえだろうが」

「あなたの倫理感、どうなってるの?」

「とにかく、こうして帰ってきてやったんだ。浮気してたことは謝るからさ、全部水に流して家に入れてくれよ」

「どの口が言うの? 水に流すどころか大詰まりよ」

「いいから鍵を開けてくれ。玄関のドアが開かない」

「それはそうでしょうね。だって鍵を変えたもの」

「なんでそんなことすんだよ」

「防犯のためよ。当たり前でしょ」

「俺が不審者だって言いたいのかよ」

「今となってはそうね」

「冗談じゃねえよ。俺たち家族だろう。まゆとみゆだって、俺がいなくて寂しいんじゃないか」

「おかげさまで、あの子たちはあなたがいない方がいいみたいよ」

「なんでそんなことが分かるんだよ」

「かわいそうだと思わないのか?」

「思わないわね。あなたがいた時は耐えない肌荒れに悩んでたけど、今はすっかり良くなって、肌トラブル知らずよ。だからあなたが家に戻る必要性なんて、どこにもないの」

「お前の思い込みで勝手に決めつけんなよ」

「客観的な視点で見た結果を述べてるだけよ」

「もういい。独裁主義のお前に話を聞いた俺が馬鹿だった。とりあえず今日のところはビジネスホテルに泊まる」

「どうぞ好きにすれば。ただ、あの子たちに危害を加えたら、その時は絶対に許さないから。そのつもりでいて」

翌日。

「ママ、やばい。助けて」

「どうしたの? 何があったの?」

「校門の前であの人が私とみゆを待ち伏せしてる」

「何ですって? 家がダメだから学校に来たのね。あなたたち、今どこにいるの?」

「教室だよ。みゆと帰ろうとしたら、窓から校門にいるのが見えたの」

「そこで気づいてよかったわ。何も知らずに鉢合わせしたかと思うと……私が気づいたから、あいつには会ってないよ」

「よかった。じゃあ、すぐに迎えに行くから、そこにいて」

「分かった」

十分後。

「お疲れ。そろそろ学校終わりだよな。お父さんが迎えに来たぞ」

「ママのことをバカにして、私たちを追い出そうとしてあれだけのことしておいて、よく父親なんてできるね」

「それは謝るよ。すまなかった。これからはちゃんとするから」

「いやいや、どうせ口だけなのは分かりきってるから」

「そんなことはないぞ。父さんは約束を守る。もう一度家族に戻ってやり直そう。……みゆ」

「あのさ、私、まゆなんだけど」

「あれ? いや、違うんだ。打ち間違えたんだよ。ちゃんとまゆだって分かってたさ」

「実の親が間違えちゃダメでしょ。友達だって間違えないよ」

「だからごめんって」

「とにかく、もう家族じゃないから、連絡してこないで。みゆにも連絡しないでよ」

三十分後。

「まゆ、仕事が終わってすぐに向かったけど、あの人はまだいるかしら?」

「いないみたい。一時間以上経ったし、さすがに帰ったでしょう」

「ああ、よかった。まゆとみゆに何かあったらと思うと……」

「心配してくれてありがとう、ママ。やっぱり私たちの親はママだけだよ」

「ありがとう。じゃあ帰ろっか。校門の前に横付けして待ってるわね」

「オーケー。みゆに向かうね」

「買い物してから帰りましょう」

「じゃあさ、怖い思いしたから高いアイス買っていい?」

「しょうがないわね。今日だけだからね」

「とか言いつつ、いつも買ってくれるじゃん」

「わがままな双子を持つと苦労するわ。……いつもありがとうね。さて、今から向かうわね」

一時間後。

「諦めたかと思ったら、なんで家の中にいるの?」

「バレたか。なんで分かった?」

「驚かそうと思ったのに。車の窓から明かりがついてるのが見えて」

「それか。やっちまったな。車で待つべきだった」

「ふざけないで。どうやって鍵を開けたのよ」

「ああ、それか。業者を呼んで鍵を壊してもらったんだ」

「この家の住人じゃないのに、どうやって資格確認を?」

「免許証の住所がまだ変更してなかったからな。それを見せたら、いけたぜ」

「信じられない。勝手なことして、家の中に入らないで」

「そうしなきゃ家に入れないだろう」

「なんで、よく考えたら俺は一家の大黒柱だ。お前らにかかる金は、俺が稼いだものだぞ」

「あのね、前も言ったけど、私も働いてるの。養ってるのはあなただけじゃないのよ」

「俺がいなくなったことで、収入は減っただろう。金がなくなって困ってるんじゃないか」

「あなたみたいに無駄遣いしないから、困ってないわよ」

「可愛げねえなあ。素直になれよ。お前らのために再婚しようと家に戻ってきたんだぞ。感謝こそすれ、文句を言われる覚えはない」

「感謝もしてないし、文句しかないんだけど。何回強がれば気が済むんだよ」

「何? 私が困ってたら嬉しいわけ?」

「俺を頼れって言ってんだよ。本当、可愛げのない女だな」

「可愛げがなくて結構。あなたがいなくても生きていけるもの」

「どうだか。ただの在宅に、そこまでの稼ぎと蓄えがあるのかな?」

「在宅は在宅でも、フリーランスよ」

「フリーランスって言えば格好つくと思ってんのか?」

「別に格好つけてるわけじゃないわ。あくまで自由な働き方を総称してるだけで、税務上の扱いとしては個人事業主っていう意味にもなるわ」

「あ、それってつまり、お前は社長ってこと?」

「個人で働いてるからそう呼ばれることはないけど、まあそういうことになるわね」

「なんだよそれ。聞いてねえんだけど」

「ちゃんと話したわよ。あなたがちゃんと聞いてなかっただけじゃない」

「結婚してからずっと専業主婦で世間知らずのお前が社長?」

「あなたが専業主婦になってってお願いしたからでしょ」

「悪い悪い。結婚した後、ちょっとパートもやってたな。大した稼ぎもないパートをさ」

「そうね。稼ぎのないあなたを支えるために、パートをやってたわ」

「喧嘩売ってんのか」

「先に売ったのはそっちでしょ。私はね、その傍らで資格の勉強をしてたの。一級建築士の勉強をね」

「無理やり頑固なお前が、資格に受かるわけないだろ」

「受かってなかったら、独立して在宅なんてやってないわよ」

「は? じゃあ、お前本当に一級建築士の資格を持ってるのか」

「そうよ。だから独立したの」

「独立したところで、どうせ大した稼ぎじゃないだろう。年収百万円とか、そんなところか」

「それよりも、もっと上よ」

「はあ。いくらだよ」

「今年は大きな案件を頂いたから、一千万円を超えたわ」

「嘘つくんじゃねえよ。見栄を張りたいのは分かるけどさ」

「嘘だと思うなら通帳でも見る? 証拠はいくらでもあるわよ」

「本当なのか……」

「だから、さっきからそう言ってるでしょ」

「そうか。頑張ったんだな」

「そうよ。だから、あなたの助けはいらないの。分かったら早く出ていってくれる?」

「分かった。そういうことなら、再婚は諦めてやる」

「よかった。やっと分かってくれたのね」

「その代わり、財産分与をよこせ。この家を売った金を分けるんだ」

「ああ、どこまで諦めが悪いの? 言ったわよね。この家の名義は私。あなたにその権利はないのよ」

「お前はやっぱり世間知らずでバカだな。家っていうのは夫婦共同の財産なんだよ。だから離婚したら、ちゃんと分けなきゃいけないんだろう」

「あなたって人は、もう忘れたの? この家は、私たちが買った家じゃないでしょ」

「そうだっけ? 確かに新築じゃなかったけど」

「私のお母さんのお姉さん、おばさんがもう使わないからって譲ってくれたじゃない。その家をリフォームしたのが今の家でしょうが」

「そう、そう、そう。や、そうだったな。二十年近くも前じゃ忘れるわ。でも、そうしたらリフォーム費用は出してるわけだから、その分の費用は財産分与できるはずだ」

「できないわよ。何言ってるの? リフォームの費用は私の親族たちが出してくれたのよ。家を処分するつもりだったから、その分のお金をリフォーム費用に当ててくれたの」

「あれ? そうだっけ?」

「どこまで記憶を改ざんすれば気が済むの?」

「してねえよ。お前が嘘ついてんだろ」

「都合のいい頭だこと。いい? 家もリフォーム費用も、私たちからは出してない。だからこれは財産分与の対象にはならないのよ」

「あ、そういうなら家にかかった修繕費は対象になるかもな」

「じゃあ、それを半分よこせ」

「いいけど、おそらく微々たるものよ。確か屋根の塗装費用が五十万円くらいだったから、あなたに入る金は二十五万円ってことね」

「そうなるわな。俺だって長年住んできたのに、納得いかねえ……そうだ。固定資産税は俺も払ったなら、共有財産になるんじゃないか」

「ああ、それは私の独身時代の貯金で払ってたの」

「なんで俺の金で払ってないんだよ」

「結婚当初、あなたには貯金がなかったからよ。仕方ないから私の口座から引き落としにしてたの。それからずっと口座を変えてないから、財産分与は無理ね」

「ならお前の貯金を半分よこせ。婚姻中に築いた財産は夫婦のものだからな。いくらある?」

「いいえ、八百万円ほどあるけど」

「なら四百万円は俺の分だな」

「あなたがそんなこと言える立場だと思ってるの?」

「なんだよ。そんなに金を渡したくねえのか」

「あなた、浮気してたでしょ。だからその分の慰謝料を請求させてもらおうと思ってて」

「慰謝料? 証拠もないのに」

「証拠ならあるわよ。あなたが家を出た後、探偵に調査を依頼したの。浮気相手のところに通い詰めてたでしょ」

「探偵に依頼とか、卑怯だぞ」

「プロジェクトを任されたとか、仕事で出張やビジネスホテルに行ってたのも、全部浮気のためだったのね」

「別れたんだからいいだろうが」

「浮気したことは事実でしょ。ということで、あなたに四百万円を請求するわね」

「待て待て。ちょっと高すぎやしないか。相場は二百万とか三百万って聞いたぞ」

「まゆとみゆの養育費込みよ。財産分与で相殺するなら、慰謝料と養育費の請求はしない。どうする?」

「勝手にしろ。お前と結婚したのは間違いだったわ」

「そうね。私もそう思うわ。ただ、あなたのおかげでまゆとみゆに会えた。それだけは感謝してるわ」

「……負け惜しみか」

「さて、そろそろ家から出ていってくれるかしら」

「嫌だ」

「ああ、今度は何?」

「頼む。考え直してくれ。今まで家族として長く一緒に暮らしてきたじゃないか」

「形式上はね」

「まゆとみゆだってまだ高校生だ。子供は父親がいた方がいいだろう」

「もう高校生よ。父親がいた方がいい時期はとっくに過ぎたわ」

「なんでだよ。子供にとって親は、いつだって親だろう」

「そう思うなら、どうして私が助けて欲しい時に助けてくれなかったの? 私はずっと昔から、SOSを出してたわ」

「何をどう助けろってんだよ」

「まゆとみゆがまだ赤ちゃんだった頃。ミルク、おむつ、お風呂、着替え。他にもいろいろ助けて欲しかったわ」

「そんな、やって当たり前のことできなかったのかよ」

「双子の育児よ。普通の育児とは訳が違うの。頭がおかしくなりそうだったわ」

「情けねえな」

「でも、おかげで今の絆があるんだと思うの。だから、私たち家族の中にあなたがつける隙はないわよ」

「なんでそんなこと言うんだ? 俺だって身内だ。何より血の繋がった親子じゃないか」

「本当にそう思ってるなら、離婚した時、あなたについて行くはずよ」

「それは、母親の方に情がいくのが普通だからだろう」

「なら、どうしてあなたから面会したいって言われないのかしら」

「年頃の娘だから、恥ずかしいんだろう」

「違うわ」

「じゃあ、なんだよ」

「答えは簡単。あなたのことを父親とも何とも思ってないから」

「まゆもみゆも、俺のことパパって呼んでくれるけど」

「あくまで家族間における役割の名称を呼んでるだけで、心の底からパパなんて思ってないわよ」

「そんなことないだろ」

「じゃあ、あなたは手紙をもらったことある? 抱きしめられたことは? 大好きって言われたことは?」

「それはないけど……」

「ないでしょ? 産んだだけじゃ親にはなれない。どう関わるかが一番大事なの」

「だって俺は俺で忙しかったし」

「とっくの昔から、私たちはバラバラだったのよ」

「嘘だ。そんなはずない。だったら、なんで今まで一緒にいたんだよ」

「いつか変わってくれるって信じてたからよ。でも、無駄な時間だったみたいね」

「そんなことない。俺たちは仲良し家族だったはずだ」

「いい加減、この事実を受け止めなさい」

「嫌だ。頼む。もう一度チャンスをくれ。俺たちやり直そう。今度はちゃんと父親やるから」

「もう、結構よ。どうしても出ていかないというのなら、不法侵入として警察を呼ぶわよ」

「大げさな。俺だってこの家に住んでたんだ。だから不法侵入にはならないだろう」

「もう離婚していて赤の他人なのに、何を言ってるの? そろそろ百番通報したいから、LINEは終わりにするわね」

「いやいや、それは待ってくれよ」

「さようなら。夫にも父親にもなれなかった人。この家に住むのは私たち家族三人よ。他人のあんたは、三秒で出ていきなさい」

その後、警察に連れて行かれたテルオは、住居侵入罪に問われ、執行猶予付きの懲役三年という判決が下されました。このことが会社にも知られ、テルオは当然のように懲戒解雇されます。実家からも追い出され、元彼女からも拒絶され、テルオはどこにも行く当てがなく、住まいもありません。

そんなテルオが行き着いた場所は、公園のホームレス生活。当然お金もありません。お腹をすかせたテルオは万引きに手を出してしまい、執行猶予中の再犯を犯したとして執行猶予を取り消され、懲役刑となるのでした。屋根のある住処ができたようで良かったですね。ただ、皮肉にもそこは刑務所ですが。

一方、私はと言いますと、まゆとみゆと三人であの家で幸せに暮らしています。今回の件をきっかけに、まゆとみゆは進路が決まったようです。まゆは困っている人たちを助ける弁護士に、みゆはたくさんの人たちに素敵な住まいを提供する建築士に、それぞれの道を歩んでいます。あの子たちの親である限り、まだ道のりは続きますが、私自身が設計したこだわりのあるこのリビングで、ひと段落した子育てにほっと一息つくことにします。ああ、このコーヒー、美味しい。

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