「お母さん、心臓の手術をすることになったの」
その知らせは、夕食の席で突然だった。私は手に持っていた箸を置いた。
「ああ、そうなんだ。お母さん、七十歳だっけ?」
「まだ六十八よ」
「ごめんごめん。その年で心臓をいじるって、チャレンジャーだね」
「そうなのよ。だから怖いの。ごまかしながら生きてきたけど、そろそろ限界みたい」
そういえば、昔から薬を飲んでいた。私はなんとなく相づちを打った。
「手術の成功率は五分五分だって、はっきり言われたわ」
「へえ、大変だね」
「頼みがあるんだけど、当日つき添ってくれないかしら。それが明日なのよ」
「無理」
私はすぐに答えた。
「は? 予定があるのよ」
「子供の行事か何か?」
「うん。ママ友五人と旅行」
「それは延ばせばいいじゃん。せっかく前から計画してたけど、それはお前の一存で決めることじゃないでしょ」
「大体、お父さんがいるでしょ」
「その予定だったんだけど、今仕事で海外なのよ。帰ってくりゃいいじゃん」
「現地で感染症にかかって、出国できないらしいの」
「何それ? マジで使えないね」
「か、私が病院行ったって、やることないじゃん」
「そんなことないわ。途中で何かあった時に、家族の同意が必要になるの」
「全部同意しますって伝えといて」
「ねえ、なんでそんなに適当なの? 命に関わる大手術なのよ」
「だってさ、お母さんの手術につきそうなんて、だるいじゃん。はい。勝手に頑張ってよ。私はママ友たちと旅行行くわ」
「いや、家族の同意が必要な場面があったらどうするの?」
「ない、ない。なんでそう言いきれるのよ」
「そういうのはドラマか映画の中の話でしょ。友達やママ友からもそういう話聞いたことないし」
「それがあなたの答えなのね」
「そうだけど」
しばらく沈黙が流れた。そして、私は思い出したように言った。
「ああ、そうだ。ママ友旅行の間、子供預かってくんない? 私、入院中なのよ」
「病室に寝かせといてよ。四歳だし、そんなにスペース取らないからさ」
「無理に決まってるでしょ」
「そっか。じゃあ予定通り、旦那に預けるわ」
「他のママさんたちも子供を置いて旅に行くの?」
「うん。そう。五人とも旦那さんが見てくれるって」
「最近の男の人はすごいわね。お父さんなんて、おむつも変えられなかったから」
「今は育メンばっかりなの。困ったわね。子供はあなたしかいないし」
私はにっこり笑って、本題を切り出した。
「ああ、お母さん、ちょっとお小遣いくれない?」
「は?」
「旅行に行くのに、ちょっと欲しいんだよね」
「私の頼みは断るのに、自分は平気で頼むのね」
「それとこれとは別じゃん」
「たまにお父さんに頼んでお小遣いもらってるの、知ってるんだからね」
「あれはエステとか言って、女磨きに使ってるんだもん」
「はあ。孫の教育費のためだって聞いてたけど」
「そういう設定だった」
「親を騙すなんて、何考えてんの?」
「そんなに怒ると、心臓に悪いよ。突き添いはうちの旦那に頼んであげるからさ。許して」
「ケントさんには仕事があるでしょ」
「有給くらい使えるって」
「だったら、あなたが旅行をキャンセルすれば」
「それは無理だよ。ママ友を失ったら、子供にも影響が出るんだよ」
「もういい。あなたには何も頼まない」
「怒んないでよ。次の手術はつきそうからさ」
「次がないのを願うのが家族よ」
「そうだね。じゃあ、振り込みよろしく。十万でいいよ」
手術前日、玄関のチャイムが鳴った。私が出ると、そこには婿のケントが立っていた。
「お母さん、明日は僕がつき添います」
「え? あ、私はケントさんには迷惑かけられないと断ったのよ」
「いいんですよ。僕なんかじゃ頼りないと思いますが、手術が終わるまで待ってますよ」
「ごめんなさいね。お忙しいでしょうに」
「全然大丈夫ですよ。リホはその時間、保育園ですし」
私は少し口を滑らせてしまった。
「娘はいつもあなたに子供を預けて、遊び回ってるのかしら」
「まあでも、母親にだって休息は必要ですし、僕は有給も取れるので、こういう時くらい羽を伸ばさせてあげないといけないと思ってます」
「なんていい人なの? 私たちの時代は、女が子供を置いて遊びに行くなんて考えられない時代だったから」
「お母さん、大変な時代を生き抜いてきたんですね。病気を克服したら、好きなことをたくさんしてください」
「ありがとう。なんだか実の娘よりも温かい言葉をかけてもらって、泣きそうになるわ」
「え、ユナに何か言われたんですか?」
「病院行ったってすることないとか、つきそうとかだるいって言われて、落ち込んでたの」
「ユナはそんなひどいことを言ったんですか?」
「私が産んで育てた子だから、愚痴っても仕方ないんだけどね」
「そんなことないです。親にかける言葉じゃありません」
ケントは真剣な顔で私を見た。
「ママ友と以前から約束してたって言うけど、断れば終わるような関係なのかしら」
「あの、……ママ友と旅行って言ったんですか?」
「ええ、そうよ」
「僕には高校の同級生って言ってたんですが。リナとユイと三人で行くって言ってました」
「そうなの? 私には自分以外に五人って言ってたわ」
「卒業してから毎年旅行するって決めてるらしく、妊娠中以外は必ず行ってました」
「なんで私にはママ友って言ったのかしら」
「今度話す時に、ママ友の名前を聞いてもらっていいですか?」
「構わないけど。なんで?」
「ママ友じゃなくて同級生だったと否定すれば、ユナの勘違いだと分かるので」
「確かにそうね。分かった。聞いてみるわ」
数時間後、私は娘に電話をかけた。
「旦那がつきそうって」
「ありがたいわ。さっき連絡いただいて、お礼を言ったところよ」
「手術後も好きに使っていいから」
「あなたがそんな言い方をするもんじゃないわ」
「遠慮しなくていいって。ばあ、あなた、ママ友と思ってたけど、誰と行くの?」
「なんでそんなこと聞くのかな?」
「前に一緒に食事した時、田中さんてママさんに偶然会ったじゃない? あの方かなと思って」
「ああ、リナさんね。あの人は行かない」
「じゃあ誰と行くの?」
「ケイコさんって人と、マコって人」
「五人って言ってなかった?」
「そんなこと言ったっけ? 覚えてないわ。三人だよ。てかなんでそんなこと聞くの?」
「もし私に何かあって、あなたと連絡が取れない時に、その中の誰かにお伝えできればと思って」
「やめてよ。仮にそうなっても、連絡なんかしないで。その人たちは私が病気だって知ってるのかしら? わざわざ言うわけないじゃん。親の手術より自分を優先するとか、私が悪者扱いされるし」
「自覚はあるのね」
「連絡は取れるようにしておいてよ」
「わかった。沖縄土産なんか買ってくるから、手術頑張ってね」
手術当日の午後、病院からケントに電話が入った。彼は急いで病室へ向かった。手術は終わっていたが、母はまだ意識を取り戻していなかった。
「お母さんの手術、終わった」
私は沖縄のホテルのプールサイドで、スマホを耳に当てながら言った。
「あ、そう。そういう報告どうでもいいから」
「良くないだろ。目を覚まさないんだぞ」
「麻酔で寝てるだけでしょ」
「とっくに切れてる。昏睡状態なんだよ」
私は少しだけ眉をひそめた。そして、空を見上げた。
「え、すぐに戻ってこれないか?」
「無理だってば、沖縄だよ」
「飛行機なら二時間半だろ」
「予定が詰まってんの?」
「ママ友にも迷惑かけることになるんだよ」
「あ、同級生じゃなかったのか」
「間違えただけじゃん」
「実の母親が危険な状態なのに、友達を優先するのか」
「うちの母なら大丈夫だって。心臓は昔から悪かったけど、どうにか生きてこれたし、今回だってどうにかなるから」
「なんで素人の君にそんなことが言いきれるんだ。医者が危ないと言ってるんだぞ」
「やぶでしょ」
ケントは何も言わなかった。その沈黙の重さに、私は少しだけ苛立った。
「私は普段、子育てに追われてて、年に一度のこの旅行しか楽しみがないのよ。それを邪魔する権利は、死にかけのお母さんにもないの」
「本気で言ってるのか?」
「もちろん」
「わかった。じゃあいい。残り五日楽しんでくれ」
「ありがとう。お土産、何がいい?」
「いらない」
翌日、今度は父から電話がかかってきた。
「お前、こんな時に何をしてるんだ?」
「次はお父さん。いい加減にしてよ。母さんが危ない時に旅行だって」
「自分だって海外から戻れてないくせに、偉そうに説教するんじゃないわよ」
「俺とお前じゃ事情が違うだろ」
「ああ、うるさい。邪魔しないでってば」
「本題はこんなことじゃない。お前の旦那さんが事故にあった」
私は携帯を耳から少し離した。
「へ?」
「母さんの容態が心配で寝てなかったらしい。それでふらついて歩いてたら、車道に出てしまって」
「生きてんの?」
「危険な状態だそうだ」
「まあ大丈夫でしょ。あの人、鍛えてるし」
「お前、正気か?」
「何が?」
「母さんもケントも入院ってことは、リホはどうなる?」
「ああ、今すぐ戻れ」
「それはちょっと厳しいかな?」
「冗談だよな」
「今回の旅行はちょっと特別なんだよね。友達と何だろう? また行けばいいじゃないか。そのための金ならいくらだってくれてやる。今はリホを優先すべきだろう」
「うん。でもなあ」
「今病院で看護師さんが見てくれてるが、さすがにこれ以上は無理だと言われた。頼める親戚も近くにいない。施設に預けることになるぞ」
「ああ、じゃあそれでよろしく」
「は?」
「だってその方が安心じゃん」
「ふざけるな」
「ああ、うるさいなあ」
翌日、また父から電話があった。
「俺が事故にあっても、戻ってこないんだな」
「意識戻ったんだ。良かったじゃん」
「リホを一人にしてしまった。情けないよ。ただお母さんはまだ意識が戻らないみたいだ」
「ええ。で、何のようなの?」
「リホが入院した。熱も相当高いみたいだ」
「はあ。一体何なの? こんな立て続けに起こる?」
「突然両親がいなくなって、知らない施設に連れて行かれたんだ。ストレスで限界だったんだろう。今の俺は近くに行ってやることもできない」
さすがに、我が子のピンチには駆けつけるべきだろう。私は飛行機のチケットを調べた。しかし、すぐにその考えを捨てた。
「さすがに我が娘のピンチには駆けつけるよな。私が戻ったら熱が下がんの? 入院してるなら、その方が安心でしょ」
「……母さんからも連絡があったが、本当にひどいな」
「私から言わせれば、あんたらの方がひどいし最低よ。毎日毎日連絡してきて、病気だ事故だって言われたら、楽しめるもんも楽しめないじゃない」
「何を言ってるんだよ」
「年に一度のわがまま、聞いてもらえないの? 母親は何もかも犠牲にしないといけないの?」
「そうだよ。自分の楽しみなんて二の次だろ。優先順位も分からないのか」
「自分が事故にあったことを棚にあげて、私に切れるのは違くない?」
「それは悪かったと思ってるが、仕方ないじゃないか」
「自分のミスでしょ。自分でどうにかしなよ」
「そうだな。俺がどうにかするよ。じゃあな」
一週間後、病院から回復の知らせが届いた。母は意識を取り戻した。私はホテルの部屋で長いこと寝転んでいた。
「まだ旅行中なの? 何日いるつもりなのよ」
「ああ、お母さんじゃん。意識戻ったの?」
「昨日の夜にね。そんなことより、いつ戻るつもり?」
「楽しすぎて、ちょっと延長してるんだよね」
「他のお母さんたちも同じなの?」
「そうだよ。みんな旦那さんの理解があるからさ」
「それにしても長すぎるでしょ。それより、本当に心配したんだからね。よかった」
「よく言うわよ。話は全部ケントさんから聞いたわ。スマホなんか触ってて大丈夫?」
「嘘みたいに元気なのよ。なんでかしらね」
「怒りでパワーがみなぎってくるっていう感じ」
「誰に怒ってんの? うちの旦那がなんかした?」
「あんたに決まってんでしょ」
「私が何したのよ。旅行してただけじゃん」
「家族よりも自分を優先したわね」
「当然でしょ。私にも自由はあるんだから」
「だったら一生自由でいればいいわ。大体、立て続けに全員倒れる方が悪くない? 悪いことが続くことだってあるでしょ。意図的に怪我したり病気したわけじゃないのよ」
「そうかな。私には嫌がらせみたいに思えたけど」
「なんて子なの。こんな失敗を育ててしまって、ケントさんにも世間様にも申し訳が立たないわ」
「ひどすぎる。もう勝手にしなさい」
「言われなくてもそうするわ」
数日後、私はようやく帰宅した。夫は玄関の前に立っていた。冷たい目をしていた。
「まだ入院してんの?」
「もうとっくに退院してるよ。今日帰ってきた」
「そうか。長い旅行だったな」
「リホは? お前には関係ない」
「ちょっと、あんたまで怒ってんの?」
「怒りの感情すらないな」
「自分が旅行していいって言ったんでしょ? 終わってから文句言うとか、ありえないでしょ」
「じゃあ聞かせてもらうが。俺には同級生との旅行だと言ったな」
「そうね」
「でもお母さんにはママ友旅行だと言った」
「適当に言っただけよ。お母さんには、誰と行こうが関係ないから」
「じゃあ、同級生の女三人旅ってのは間違いないんだな」
「当たり前でしょ。そんな嘘つくわけないし」
「現地で男漁りしたか?」
「は? するわけないじゃん。女子三人で楽しく健全に遊んでただけよ」
「じゃあ、写真に映ってた男は誰なんだろうな」
私は言葉を失った。
「え? 何の話?」
「俺の手元にはたくさんの写真がある。お前が男と腕を組んで歩いてるところや、抱き合ってるところの写真だ」
「え? なんで? こっちが聞きたいんだけど。なんでそんな写真があんの?」
「先に質問に答えてくれないか? 写真には、同級生の女性らしき人物は一切写ってないんだ。これはどういうことなんだろうか」
私は目をそらした。
「実は二人とも都合が悪くなって、ドタキャンされたの。ね、一人で行ったけど暇だから、現地であった人とちょっと仲良くしただけよ。はあ。何疑ってんの?」
「疑惑というレベルではなく、浮気を確信してるよ」
「大体何なの? 写真って誰が撮ったのよ? まさか探偵使った? 最低ね」
「俺じゃない。お父さんだ」
「あの人、海外にいるのになんで?」
「母親の手術より旅行を優先する娘を怪しんだんだ。どうせ男といるに違いないって」
「なんて親なのよ」
「知り合いが探偵業をやってるらしくて、すぐに沖縄で手配してもらったらしい」
「どうやって探したの? 私、宿泊先なんて言ってないのに」
「ホテルの予約サイトは俺と共有で使ってるよな。俺も改めて見て驚いたよ。女性三人グループのはずなのに、二人になってたからな」
私は観念した。
「あっそ。バレたんなら仕方ないわね。ごめんなさい。許してください。魔が差しました」
「今のは何だ? 謝罪のつもりか?」
「そうよ。これで終わり。いいわね」
「何言ってんだ? 許されるわけないだろ」
「なんでよ。私がいてもなくても、母の手術は医者しかできない。あなたの事故だって、リホの病気だって、私の不在と因果関係はないでしょ」
「俺が怒ってるのは、それだけじゃない」
「何?」
「分からないだろうな。しばらくそうやってモヤモヤしてろ」
それから数日後、私は父に電話した。
「お父さん、誰とも連絡取れないの。お母さんの病院も分からないし。旦那からもずっと無視されてんの」
「お、お前か。……お父さん、帰国できたの?」
「昨日戻ってきた。よくも探偵なんか使ってくれたわね」
「海外からの依頼に対応してくれて、助かったよ」
「ふざけないで。そのせいで私は何もかも失いそうなの」
「自業自得だろ。俺のせいにするな」
「もういいわよ。それより病院は」
「なんでそんなことを聞くんだ」
「お見舞いに行って、お母さんのご機嫌を取りたいの」
「もう会えないぞ。お前は、母さんには会いたくても、一生会えないんだ」
「え? なんで? だって私、ちょっと前に話したよ」
「あの時は一瞬意識が戻ったらしいな。その後、息を引き取った」
私はその場に立ち尽くした。
「え、嘘でしょ?」
「家族よりも浮気相手を優先する娘を恨んだだろうな。こんな娘に育ててしまったのは自分だと、自責の念に駆られただろう」
「そんなの嫌よ」
「お前でも、一応後悔するんだな」
「当たり前じゃない。私は最低だったかもしれないけど、お母さんのことは大事に思ってたのよ」
「会話の履歴を見たが、とてもそうは見えないぞ。あんな会話が娘との最後だったなんて、悲しかっただろうな」
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。ケント君にも、散々ひどいことをしたみたいだな。子供を預けて男と旅行だと」
「全部私が悪いの。ケントはいい人だけど、あまりにも優しすぎて刺激がなくて。お腹が空いたら万引きしていいのか? 腹が立ったら人を殴っていいのか? いや、お前の理屈はそういう犯罪者と同じだ。自分の理性を抑えられなかっただけの話を、正当化しようとするんじゃない」
「はい。すみません」
「二度と小遣いなんかやらん。連絡もしてくるな」
「お父さん、そんなこと言わないで」
「ケント君は離婚を望んでいる。弁護士の連絡先を渡して、全て相手の条件に応じろ」
「はあ。冗談じゃない。その件はケントと話すわ」
数分後、私は夫に電話をかけていた。
「離婚は考え直してくれないかな? なぜ? 母を失って、今一人になったら生きていける気がしないのよ」
「素敵な彼氏がいるじゃないか。あの人はダメなの?」
「相手も既婚者なんだろう。そこまで調べがついてるの?」
「慰謝料請求しないといけないんだから、当然だ」
「離婚のこと、考え直してよ」
「無理だ。顔も見たくない相手と暮らすことはできない」
「じゃあリホだけは渡さない」
「そんなに娘が大事か。旅行を中断して迎えに行くこともしなかったのに」
「あれは悪かったと思ってるわ」
「リホから驚くべき話を聞いたよ。何よ? 男とのデートにリホを連れて行ったな」
「そんなわけないでしょ。子供だから分からないとでも思ったか。だからそんなことしてないって」
「おもちゃ売り場に何時間も放置して、迷子として何回も保護されてるそうだな」
「リホの妄想だってば」
「デパートに行って確認してきた。担当の方がよく覚えてたぞ。迎えに来ても慌てる様子もない母親を見て、通報してやろうかと思ったけど、子供が悲しむと思って思いとまったって」
「違う。リホが売り場から動かなかったの」
「だからと言って、置き去りにする親なんていない」
「仕方ないでしょ。自書は高いし、ホテルに連れて行けないんだから」
「そんなに男と遊びたければ自由にしろよ。俺がリホを育てるから、それでいいだろう」
「たまに会える?」
「リホが望めばな」
「あの子、なんだかんだで私のこと好きだから、悲しむと思うわ」
「だといいけどな」
「どういう意味?」
「弁護士は俺。これで離婚でいいな。財産分与は、お前に家計を預けた結果、貯蓄は三十万のみ。十五万でよければ持っていけ」
「分かった。慰謝料はお前と男に、二百万ずつ請求する」
「高くない? 裁判すれば二人で二百万で済む可能性はあるが、その代わり公開されるから人にバレるぞ」
「嘘でしょ? 病気の親や子供を置いて旅行してたクズだと。世間に自己紹介したいなら、俺は構わない」
「最低。自分に言ってんのか?」
「もういい。離婚でも何でも応じるわよ。彼氏も離婚させて、絶対に幸せになってやるんだから」
「頑張れよ」
三ヶ月後。私は実家の前に立っていた。鍵を開けて中に入ると、誰もいない。しかし、冷蔵庫の上に一通の封筒があるのを見つけた。
「私の失敗作は、今頃どうなったかしら?」
その声に、私は振り返った。そこには、母が立っていた。
「お母さん、どうして? そんなはずない。誰の霊よ?」
「心配性の私よ」
「だってお母さんは、亡くなったはず」
「誰がそんなこと言ったの?」
「お父さんよ」
「俺はそんなことは言ってない」と、父が隣で言った。「もう会えないとしか言ってないそうよ」
「そう言われればそうだけど。あの状況じゃ勘違いするでしょ。資料が足りないのよ。だから早とちりするの」
「お母さん、生きてたんだね。よかった。嬉しいよ」
「術後は色々大変だったけど、どうにか復活したわ。ケント君やリホちゃん、お父さんが帰ってきてくれて、力がみなぎってきたの。私もこれからは支えるよ」
「でも実家には誰も住んでないよね。どこかに引っ越したの?」
「残念ながら、それは教えられないわ」
「どうして?」
「夫婦には離婚届けってものがあるからいいけど、親子にはそんなものがない。だから物理的に縁を切るしかないと思ったの。はあ。あなたには想像もつかない土地で、四人仲良く暮らしてるわ」
「四人って? ケントと?」
「そうよ。あいつは他人でしょ。可愛い孫を全力で守ってくれた、最高の息子だわ」
「どういう意味? 財産を残せるよう、お父さんと養子縁組をしたの。私という娘がいるじゃない」
「あなたを子供と認めたくないから、こうしたのよ」
「分からない。ひどい。私、浮気しただけじゃん。なんで女が遊ぶとこんなに世間は厳しいの? 男なんて誰だってやってるし、女友達でも浮気してない子なんて、ほぼいないから」
「それはあなたの周りに、そういう人が集まってきてるだけじゃない」
「願いだから、縁を切るとか言わないでよ。こうして連絡してくるってことは、心配だからでしょ」
「違うのよ。じゃあ何?」
「あなたの後悔を確認したかったの」
「はあ。後悔してるに決まってるじゃん。彼氏は奥さんが大事だからって離婚せずに家庭を選んだし。旅行で名前を使った友達やママ友からも絶縁された。あんたらの願い通り、私は一人ぼっちよ」
「そう、それは良かった」
「意味が分からないんだけど」
「あなたの後悔を、私も一緒に抱えて今後生きていくわ」
「そんなことしなくていいから、私も一緒にいたい」
「だめよ。あなたのようなクズを生み落とした私にも責任はある。相手の奥様やケント君は、本来ならば傷つかなくて良かった人たちよ。その方々のために、私もあなたを産んだという後悔を一生抱えて生きていくことにする」
「お願い。一緒にいさせて。孤独なの。今になってリホの笑い声が耳から離れないのよ」
「せめてリホちゃんが入院した時に駆けつけていれば、こうはなってなかったのにね」
「だって、旦那がいると思ったから。ケント君も入院で動けなかったのよ。もう忘れたの?」
「そうだけど、これを後の祭りというの。今更後悔しても、何も始まらないわ」
私は母の顔をじっと見た。
「ねえ、どこに住んでるの? リホは風邪引いてない? 保育園は通ってるの?」
「ああ、そうそう。リホちゃんと言えばね。何? ごめんなさい。これ以上は言えないわ」
「はあ。一生そうやって考え続けなさい。今頃何してるのかな? 元気かなって思うだけの人生ね」
「ひどいわ。あなたにできることは、娘の年齢を数えることくらいかしら。プレゼント一つ送ることもできないのよ」
「謝ってんじゃん。めちゃくちゃ反省してるから。慰謝料も養育費も一円も払わずにいるくせに、今から払う」
「言われてからじゃ遅いわね。ただ、そのお金も不要だとケント君は言ってるわ。なんで? 例え少額だろうと、あなたの力でリホを育てたくない。そう言ってた」
「そこまで言うの?」
「そこまで言わせたのは誰か、よく考えなさいね」
私は最後の言葉を絞り出した。
「お母さん、ごめんなさい」
「これを最後に、LINEはブロックするわ。電話番号も変えるし、二度と話せない」
「最後の言葉は、ごめんなさいでいいの?」
「居場所を教えろって言ってんだよ。クソババア」
しばらく沈黙があった。
「そうでなくっちゃ。じゃないと、後ろ引かれて辛い思いするところだった。これで心置きなく娘と縁を切れるわ。今のは嘘。ごめんごめん。家族を大事にしなかった結果、家族を失っただけの話よ。この世はシンプルにできてるの」
「お母さん、じゃあ、この子をたっぷり満喫してね」
その後、その会話を最後に、私は娘の連絡先を削除し、スマホを新規契約して番号も変えた。
私や夫の親戚に、手当たり次第援助を求めてると聞いたが、決して甘やかさないよう事前に伝えていたせいか、誰とも連絡が取れずに絶望しているそうだ。今は夜の世界で、お客さんにお酒を作ったりカラオケを歌ったりしているらしい。そんな華やかな世界でも、決して満たされることのない孤独を抱えているだろう。
家族という存在は、時に疎ましく感じることもある。しかし、いざ一人になってみると、何よりも心の支えなのだと気づくものなのだ。
ケント君は、普段から押し付けられていたせいか、料理がとても上手だ。リホちゃんは、ただそこにいるだけで可愛くて、癒しになる。夫も定年退職を迎え、散歩の相棒に保護犬を迎えた。私も定期検査で異常もなく、元気にやっている。
四人と一匹の家族で、支え合って生きていく。
