その日は本当に普通の火曜日だった。スマホが鳴って、夫からのLINE。「今日、勇気を保育園に迎えに行って」—たったそれだけの頼みが、私たちの結婚生活を終わらせる第一歩になるなんて、あの時は知る由もなかった。彼の返事はこうだった。「お前の稼ぎなんてあってもなくても一緒だ。俺の半分以下の給料のくせに、よくそんなことが言えるな」その言葉が胸に刺さった瞬間、私は静かに決心した。もうこの男には頼らない。…

その日は本当に普通の火曜日だった。スマホが鳴って、夫からのLINE。「今日、勇気を保育園に迎えに行って」—たったそれだけの頼みが、私たちの結婚生活を終わらせる第一歩になるなんて、あの時は知る由もなかった。彼の返事はこうだった。「お前の稼ぎなんてあってもなくても一緒だ。俺の半分以下の給料のくせに、よくそんなことが言えるな」その言葉が胸に刺さった瞬間、私は静かに決心した。もうこの男には頼らない。...

「大輔、ちょっとお願いがあるんだけど」

「なんだよ。こっちは仕事中なんだよ」

「それは分かってるんだけど、どうしても頼みたいことがあって」

「何だよ」

「今日、勇気のことを保育園に迎えに行って欲しいのよ」

「はあ?なんで俺がそんなことをしないといけないんだ。そういうのはお前の仕事だろ」

「いや、息子のことなんだから、どっちの仕事ってわけじゃないでしょ。基本的には私がやってるけど」

「だったらお前がやれよ」

「やりたいけどできないのよ。今日、残業しないとダメになって。だからあなたにお願いしたくて」

「俺だって働いてるんだ。そんなことできるわけないだろ」

「でもあなたは基本的に残業とかないでしょ」

「当たり前だろ。うちは大手で労働環境がしっかりしてるんだ。残業なんてやるのは無能の証なんだよ」

「そこまで言わなくてもいいでしょ。私だってやりたくてやってるわけじゃないんだから」

「じゃあ断れよ。そんな残業、お前がやる必要はない」

「これも家計を支えるためなのよ」

「お前の稼ぎなんてあってもなくても一緒だ。俺の半分以下の給料のくせによくそんなことが言えるな」

「あなたが稼いでるのは知ってるけど、そんな言い方しなくてもいいじゃない」

「いいや、言わせてもらうぜ。お前は俺がいなかったらまともに飯も食えないんだぞ」

「そんなことないから」

「それでも俺の嫁としていい暮らしをさせてやってるんだ。最低限の役割くらいはこなしてくれないと困る。家事なんて誰でもできる簡単なことを大変そうに言うな。それに子供の迎えくらいはやってくれよ。それ以上は求めたりしないからさ」

「子育ては夫婦で協力してやるものでしょ」

「その考えは間違ってるんだよ。家事育児は稼いでない方がやるのが当然だろ。俺にやって欲しければ、俺より稼いでから言え」

「何よそれ。勇気が可愛いとは思わないの?そういうのって、愛情でやるもんじゃないの?」

「可愛がるわけないだろ。お前ら二人は俺にとっちゃ足手まといでしかない。俺の稼いだ金を使うだけしかできない奴らなんだよ」

「私だけならまだしも、子供にまでそんなことを言うなんて」

「俺は事実を言ってるんだ。とにかく子供のことはお前がやれ。俺は絶対にやらないからな」

「ああ、そう。分かったわよ。もうあなたには頼らないから」

その日の夜、薫は友人で弁護士をしている香に連絡を取った。

「香、ちょっと今いいかしら?」

「あら、どうかしたの?」

「弁護士って、今からなるのは大変かな?」

「え?どうしたのよ。急に」

「弁護士として活躍してる香に聞きたくてね」

「もちろん大変よ。今から弁護士になるなら、かなりの時間がかかるから。ロースクールに行って、司法試験合格を目指すって感じね。少なくとも二、三年はかかると思っていいわ。しかもその間、法律の勉強だけを一日十時間くらいやるイメージよ。子育てをしながらやるのはかなりきついと思うよ」

「そうなんだ」

「でも、どうして急に弁護士なんて?」

「いや、ちょっと気になってさ」

「弁護士なんて、今まで興味なかったじゃん」

「そうなんだけど、今よりも収入を増やしたいって思ってて。それで弁護士とかってどうなんだろうって」

「どうしたのよ。あなた、旦那さんが稼いでるんでしょ?大手広告代理店に勤めてるんだから、別にいいじゃない」

「その夫から、お前の稼ぎなんてなくても一緒って言われちゃったのよ」

「そんなことを言われたの?」

「そう。だから家事も育児も全部私に押し付けてきてさ。稼げてないのは事実だけど、全部私がやらないといけないのは大変よ。それで夫に意見できるようになるためには、私が稼がないとダメだなって思って」

「そんなことしなくていいよ。ていうか、あんたの夫、やばいやつだったの?」

「付き合ってた当初は、仕事ができて何事にも自信満々で頼れる人って感じだったんだけどね。今はもうただただ自分勝手な感じになっちゃったのよ。だから私もお金を稼げるようになりたいってわけ。そうしたら関係性がもう少し良くなるかなって思って。実際、稼ぎは頼ってる部分が大きいし」

「まあ、そういうのなら私からは何も言わないわ。でも弁護士はやめておいた方がいい。仕事も家事も育児もやりながら資格を取るなんて、基本難しいから」

「そうよね」

「まあでも、副業で何かやれるものがあるんじゃない?」

「副業ね」

「あなた、学生時代にいつもパソコンで何かやってたでしょ?」

「ああ、サイトを作ったり、バイトでやってたりしたわね」

「そういうのを生かした仕事ってあるんじゃない?」

「確かに。ちょっとやってみようかな」

「多分、弁護士よりもそっちの方が稼げるかもよ。なるまでの労力とコストを考えたら、絶対にそっちの方がいいと思う」

「本当?じゃあ考えてみるね」

「あんまり無理はしないようにね」

「ありがとう。また相談させて」

「そうね。その時に私から色々とアドバイスをさせてもらうわ」

それから三か月後、勇気が風邪を引いて寝込んだ。

「大輔、ちょっとさ、買い物をお願いしてもいい?」

「あのさ、前に話したこと、もう忘れたのか?稼ぎがないからっていうやつ」

「そうだよ。なんで俺が買い物なんてしないといけないんだ?俺は仕事をして稼いでるんだ。それだけでもう十分なはずだろ」

「そのことは感謝してるわ。でも今の状況を考えてよ。勇気が風邪を引いて寝てるのよ。私はその看病で外に出られないんだから、買い物をお願いしてるの。今日だけはお願いよ」

「嫌だ。俺みたいなエリートが庶民的な買い物なんてダサくてやってられない。こんなところを同僚から見られたら、俺は笑い物にされちゃうからな」

「みんながやってることなんだから、誰も笑わないわよ」

「俺たちはエリートなんだ。みんながやってることなんてやってられないんだよ。庶民のお前には分からないかもしれないけどな」

「分かった。それじゃ早く家に帰ってきて。私が代わりに買い物に行くから」

「おいおい。勇気はどうするんだよ」

「あなたが見てあげてよ」

「そんなこと俺がするわけないだろ。あいつの風邪が移ったらどうするんだ?」

「だったらどうするのよ?」

「俺はそっちには帰らない。ホテルに泊まることにする」

「ふざけないでよ。子供が寝込んでるのよ。心配じゃないの?」

「風邪を引くなんて、体調管理ができてないやつが悪いんだ」

「相手は子供なのに」

「俺は子供の時からできてたよ。エリートだからな。勇気は残念ながらお前の血を強く引いてしまったらしいな。そのまま庶民ルートまっしぐらって感じか。俺と同じように優秀だったら、可愛がってやろうと思ったんだけどな」

「エリートとか優秀とか、そんなところでしか判断できないの?」

「俺にとってはそれが全てなんだよ。稼げてない奴に人権なんてない。お前ら二人は、俺の邪魔をすることしかできないやつなんだ。そんな奴らが俺に偉そうに指示なんてするんじゃない」

「稼げるってのはそんなにすごいことなのね」

「そうさ。人間の価値はそれが全てだ。お前みたいに月二十万程度しか稼げてない奴が調子に乗るな。俺と結婚できてるだけありがたいと思え」

「だから私が家事も育児も全部やらないといけないってわけね」

「そういうことだ。嫌なら稼げ。それだけのことだ」

「分かったわ。それじゃ、私も頑張って稼いでみせるから」

「せいぜい無駄な努力をやってみろ。三流大学卒のお前じゃ、どれだけ頑張っても俺には追いつけないだろうがな。それじゃ俺はホテルに泊まるから、明日までに勇気の風邪を直しておけよ。それくらいはやれるだろ」

「そうね。できる限りやらせてもらうから」

それから半年後、大輔が仕事から帰ってくると、食卓には何も用意されていなかった。

「おい、どこで油売ってやがる」

「あら、何?」

「家に帰っても、飯も何も準備できてねえじゃねえか」

「ああ、ごめんね。今日はママ友たちとご飯を食べる約束をしてたの。安心して。勇気はこっちに連れてきてるから、夜ご飯は一人でなんとかしてくれる?」

「はあ?お前、そんな好き勝手に何やってんだよ。お前は俺のために家事をするのが最低限の役割だろうが」

「それってなんだっけ?前にもそんなこと言ってたわよね。稼げてない奴が家事をやらないといけない、みたいなことだったっけ?」

「そうだよ。俺のおかげでいい暮らしができてるんだから、家事や育児はやれよ」

「じゃあ明日から全部よろしく」

「え?」

「今日まで私が家事も育児もやってたから、正確には今日の夜からになるのかな?」

「いや、何を言ってんだよ。どうして俺がそんなことをやらないといけないんだ」

「だって、あなたが私よりも稼いでないから」

「おい、ふざけたこと言ってんじゃねえぞ。お前、俺の給料を知ってるよな。その上でそんな舐めたことを言ってんのか?」

「もちろんよ。知らずにこんなこと言えないわ」

「じゃあ、お前みたいな三流大学卒の三流会社員が、どうやって俺よりも稼いでるって言うんだよ」

「実はね、私、副業を始めてたのよ」

「副業?」

「そうよ。アプリ制作をやってたの」

「お前がアプリ制作?」

「私、大学時代にプログラミングを勉強してね、アルバイトでWeb制作とかをやったりしてたのよ。それでこのスキルを生かしてアプリを作ったってわけ。私が作ったのは、ママ友同士をつなげるマッチングコミュニティアプリよ。ママ友ってみんな大変で孤独だったりするからさ。そういうのを共有できる仲間が作れたら最高だなって、昔から思ってたの。それでアプリを作ってリリースしてみたら、思いのほか当たっちゃって、多くの人に使ってもらえてるのよ」

「そんなアプリが話題だって、聞いたことあったな」

「それで今日も、そこでできたお友達と会ってお話をしてるのよ」

「そのアプリで、めちゃくちゃ稼いでるってことか」

「そうよ。あなたとは稼いでる額が一桁違うの」

「なに?」

「私も、こんなに稼げるようになるんだって、びっくりしてるわ。だから今後は、あなたが家事や育児を全部やってね」

「ふざけるなよ。俺にそんなことができるわけないだろ」

「おかしなことを言うわね。稼げない方がやるって約束だったでしょ」

「いや、だとしても、急にこんなことを言われても、無理なもんは無理だよ」

「無理なんて、そんな言い訳は聞かないわ。まあでも、勇気のお世話をあなたに任せることはできないわね。勇気は正直、あなたに全然なついてないから。そりゃ、ここまで放っておいたんだから当然だけど」

「あいつ、俺のことは好きじゃないのか?」

「当たり前でしょ?もしかして好かれてるとでも思ってた?どういう神経をしてるのかしら。だから勇気の世話は私がこれからもやるわよ。その代わりに、あなたは家事全般をよろしくね」

「だから待てって。俺はそんなことできないって言ってるだろ」

「反論する権利なんて、私には許されなかったわよ。どれだけ忙しくても勇気のお迎えに行かないとダメだったし、風邪を引いてる勇気の世話も、全くしてくれなかったしね。なのに私はあなたの泣き言を聞かないとダメなの?そんなの不公平じゃない」

「でも、無理なもんは無理で……」

「今日は私たち、帰りが遅くなるかも。だから今のうちに練習しておいたら?ネットでも何でも見ながらなら、あなたでもできるでしょ」

「なあ、待てって」

「いやよ。明日から全部あなたがやるのよ。これはあなたが言い出したことなんだからね」

一週間後、大輔から薫に電話がかかってきた。

「おい、もう無理だよ。俺が家事なんてできるわけないって。せっかくの休日が、家事だけで終わりになってしまう。早く帰ってきてくれよ」

「私はせっかくの休日を勇気と楽しんでるんだから、邪魔しないで」

「もう勘弁してくれ。俺にはもう無理だ」

「あなたね、まだ一週間も経ってないのよ。私が色々と教えてあげてるんだから、やってよ」

「仕事をしながら、こんなことできるわけないだろ」

「私は仕事をしながら、これに育児をやってたの。そんな言い訳は聞いてられないわ。それに、あなたは家事は簡単なもんだって言ってたくせに、どうしてできないの?一流大学を卒業してるんだから、これくらいはすぐにできるようになるんじゃないの?」

「ふざけるなよ。俺に対してこんなことして、ただで済むと思うな」

「あら、何かするつもり?」

「後で思い知らせてやるからな」

一か月後、薫がリビングで一通の書類を見つけた。

「これはどういうこと?リビングに離婚届があるけど」

「分かるだろ?お前とはもう終わりってことだよ」

「あら、そうなんだ。私は別にいいけどね」

「俺がいなくてもいいってか」

「当たり前でしょ。こっちは家事だってできるし、お金だって稼いでるの。あなたがいなくなって、家事の負担が減ってありがたい限りだわ」

「相変わらず俺のことを舐めやがって」

「こっちとしても、あなたたちと顔を合わせなくていいから、むしろ清々してるわ」

「共働きじゃなくなるけど、それはいいの?」

「そんなもん、俺が稼いでるからいいんだよ。それにお前の稼ぎの半分は財産分与でもらえるしな。邪魔者がいなくなって、なおかつ臨時収入も入ってくる。最高だ」

「なるほどね。だから離婚しようと思ったんだ」

「どうだ?びっくりしたか?」

「ええ、とっても驚いたわ。こんなに私の思った通りに動くなんてね」

「は?」

「後から、私の知り合いの弁護士があなたに連絡をすると思う。今後はその人を通して話し合いをよろしくね」

三日後、大輔の元に弁護士が訪ねてきた。

「お久しぶりです。今回の離婚の弁護を担当する、浅法律事務所の朝田香です」

「やっぱりあんただったか」

「何度かそちらに遊びに行かせていただいたことがありましたもんね」

「弁護士をしてると紹介されて驚いたから覚えてるよ」

「ありがとうございます。では、離婚の話し合いをさせてもらいます」

「ああ、できるだけすんなり終わらせて欲しいぜ。こっちは早くあんな女と縁を切りたいからな」

「分かりました。その前に、里美から財産分与について話すように言われています」

「ああ、そうかよ」

「あなたは、里美のアプリでの収益も財産分与の対象になるとおっしゃったそうですね」

「そうだ。だから俺は少しだけ我慢して結婚生活を続けてやったんだ。そうしたら俺に入ってくる金が増えるからな。あいつのアプリ、かなり稼いでるんだろ」

「とてもすごいですね。月で数千万のお金を稼いでいるようですから」

「いいね。その半分が俺のものになるってことか。ちょうど狙ってた車もあるし、それを買っちまうか」

「勘違いされてるようですが、アプリの収益はあなたには入ってきませんよ」

「は?何を言ってるんだ?財産分与だろうが」

「いいえ、あのアプリの収益は共有財産ではなく、特有財産です。つまり、財産分与の対象ではありません」

「はあ?何だよそれ。俺のことを騙そうとしてんのか?」

「そんなことはありませんよ。理由はしっかりとあります。まず、あのアプリ制作は、里美が自身のスキルを生かしてやったことです。あなたは一つも協力をしていません。さらに、開発にかかったネットの通信費などは、全て里美が払っています」

「バカな。そういうのは全部俺の給料で払ってるはずだ」

「里美は事前に、ネットの通信費だけは自分で出すように手続きをしていたみたいですね。それだけではなく、里美はアプリをリリースする時に開業届を出していて、すでに法人化しています。あのアプリの収益は会社の収益であり、家庭とは全く関わりのないものだと、整理されているんです」

「何だよそれ。あいつ、まるでこうなることを」

「そうです。里美はアプリをリリースする時に、すでにあなたと離婚するであろうことを予測していたんです。というよりも、離婚するための準備をしていたと言いますか」

「あいつ、俺のことをはめたのか?」

「違いますよ。あなたが自らはまってきたんです。私は親友として、アプリの収益が出た時点で離婚するように言いました。でも里美は最後のチャンスをあなたに与えたんです。家事をすることで家事の大変さを知って、それでもう一度家庭にしっかりと目を向けてくれる人になってくれれば、離婚なんてしないって。里美自身も反省していたんですよ。あなたが変わってしまったのは、自分のせいでもあるってね」

「何だそれは」

「三流に入った時、あなたが仕事を頑張って家計を支えていたそうですね。家族を守るためだった。でもそこで、あなたはその頑張りが認められて、会社内での立場が偉くなった。その結果調子に乗って、態度がでかくなってしまったと言ってましたよ。それでも最初はあくまで家族のためだったし、そんなあなたに感謝も尊敬もしていると、里美は話してました。だから、あなたにどれだけ理不尽な扱いをされても耐えてきたんですよ。だけど、あなたはそんな里美の気持ちを知らずに、離婚届を突きつけた。全てはあなたが招いたことだということを、ちゃんと分かってくださいね」

「じゃあ俺は、あいつの金は一円足りとももらえずに、離婚することになるのか」

「財産分与なので、共有財産は清算となります。まあ、あなたが支払う分が多くなることになりますがね」

一週間後、大輔が薫に直接連絡をしてきた。

「おい、お前、いい加減にしろよ」

「何よ。離婚の話し合いは香とやるように言ってるでしょ。私たちは引っ越しとか最低限のやり取りだけって約束したはずよ」

「俺は必要だから連絡したんだよ」

「何よそれ」

「離婚はしてやるけど、なんで慰謝料まで払わないといけないんだよ」

「はあ。あんた、それマジで言ってんの?」

「俺は慰謝料を払わないといけないことなんて、何もしてないぞ」

「今まで散々私に対してモラハラをしてたくせに、よく言うわ」

「モラハラ?」

「私のことを三流大学卒って言ったり、挙句の果てには人権がないとまで言ったわ。そんなことをしたんだから、慰謝料を払うのは当然のことでしょ」

「そんなことを言った覚えが俺には……」

「ああ、そう。言った側って、こういうの大抵覚えてないのよね。でも安心して。私が全部メモしてるから。香がね、裁判に立つかもしれないから、結婚生活中に何を言われたかはずっとメモしておきなさいってアドバイスをくれてたの」

「それだよ。あなたのことを相談した時よ。私は意味が分からなかったけど、香の言いつけを守って、日記に全部書いてたの」

「あの野郎」

「それで、しっかりと証拠を残さないといけないから。そのために、離婚をせずに耐えていたのよ」

「お前、俺への感謝があるとか言ってたんじゃないのか」

「そんなのは本当に最初だけよ。あとはずっと、離婚の準備を万全にするために結婚生活を続けてただけだから。おかげで私に有利な証拠をたくさん集めることができた。これを証拠にして、慰謝料を請求させてもらうわ」

「マジかよ」

「あと養育費も請求するから、全部ちゃんと払ってよね。それと、あんまりごねないで。私はさっさとあんたと縁を切りたいのよね」

一年後、大輔が薫の会社を訪ねてきた。

「大輔、久しぶりね」

「何だよ。今まで俺のことをブロックしてたくせによ」

「ちょっと話をしたいことがあってね。どうなの?生活はちゃんとしてるの?」

「舐めてんじゃねえよ。俺はめちゃくちゃいい暮らしができてるぞ。そっちが調子いいからって、俺のことを見下してくるんじゃねえ」

「まあ、私もアプリが好調なおかげで、忙しくさせてもらってるわ。そのせいでこんなことになってるんだけどね」

「何だよ」

「私のことを勝手に利用して、情報商材を売っている人がいるって報告があったのよ。具体的に言うと苦情ね。私が制作したアプリの共同制作者を名乗る人間がいて、その人が、アプリを売るために必要なものだって言って商材を売ってると聞かされたの。当然、あのアプリは私が独自で作ったもので、共同制作者なんていないわ。だから業者にお願いして調べてもらったのよ。そしたらびっくり。その商材を売ってたのは、あなただったわ」

「何が悪いんだよ。俺はお前の夫だぞ。共同制作者で間違いないだろ」

「間違いだらけよ。それにあんたはもう夫でも何でもないし。あなたは私がアプリを作ってることなんて、リリースした後も知らなかったでしょ。どうしてこんな詐欺みたいなことをしたのよ」

「稼げるチャンスがあるんだから、それを利用して何が悪い?」

「ああ、そう。お金のためなら人を騙すことも平気なわけだ」

「騙すって」

「あんたの商材を見たわよ。何よ。あの薄っぺらい内容は、ネットの記事を貼り付けただけのしょうもない内容だったわ。あれで十万も払わせるなんて、詐欺以外の何者でもないわ」

「別に騙すつもりなんてなかったんだよ」

「あっそう。それじゃ警察でそのことを話せば?あんたの言い訳なんて、刑事さんが聞くとは思えないけど」

「警察?お前、警察に通報するのか?」

「そりゃそうよ。あんたのせいでうちの会社は風評被害に合ってるんだから。あんたには損害賠償も請求するからね」

「そんな、待ってくれよ。ちょっとした小遣い稼ぎのつもりだったんだ。お前がすごい稼いでるって聞いてさ。それで悔しくなって」

「嘘をつかないで。生活に困ってるから、こんなことをしたんでしょ」

「何だって?」

「もっと夫だったから?あんたの話は私の耳にも入ってくるのよ。会社で偉くなって、部下にパワハラをしてたんでしょ。しかも出世のために部下の手柄を横取りしたりしてたってね。それがバレて降格されて、部署も左遷されたって聞いたわ。それで給料が下がっちゃって、周りに金がないって愚痴ってるらしいじゃない」

「誰だよ、そんなことを言ったのは」

「あんたに恨みがある人が言ってたみたいよ。たくさんいすぎて、誰とは言えないけど」

「くそっ」

「あんたは最低の男だった。人を見下して、家族をないがしろにした。でもあんたは、それでも努力で社会的地位を獲得していた。私はね、そこだけはあなたのことを認めていたの。まあ、それも嘘だったみたいだけどね。でも私はあなたのことを信じていたし、尊敬もしてた。だから私は頑張って、あなたよりも稼げるようになりたいと思って努力をした。それなのに、あんたは努力もせず、人を騙してお金を稼いでしまった。私はそれが許せないのよ。あんたのことは警察に突き出す。そして二度と勇気の前にも現れないで。父親が犯罪者なんて、あの子にとってマイナスでしかないからね」

「ちょっと待てよ。許してくれよ。今回だけ見逃してくれ」

「ダメに決まってるでしょ。罪を犯したら償わないといけないのよ。一流大学卒のくせに、そんなことも分からないの?」

その後、大輔は詐欺の罪で警察に捕まった。裁判では初犯で被害額も小さかったこともあり執行猶予がついたそうだが、それでも会社は当然首になり、薫からも多額の損害賠償を請求された。その結果、今は昼はコンビニのアルバイトをし、夜は配達員の仕事をするために睡眠時間を削ってバイクで走り回っているらしい。住んでいる部屋も安い物件に引っ越して、半額シールのついた食材を食べて、なんとか生活をしているということだ。

一方の薫は現在、社員を雇い、本格的に会社を経営するようになった。社長業はあまり慣れていないが、優秀な社員たちの支えがあって、なんとか切り盛りをすることができている。勇気は今年小学校に入り、お友達もたくさんできたようで、毎日楽しそうに笑顔を見せている。勇気に少しでも負担や寂しい思いをさせないために、これからも母親として頑張っていきたいと思っている。

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