定年退職したその日に、嫁が言った言葉が忘れられません。「無職なんだから、なんとかしてくださいよ」って。あの瞬間、8年間支えてきたすべてが音を立てて崩れていくのを感じました。私は息子夫婦と孫のために家事も育児も全部引き受けて、毎月の生活費も光熱費も全部負担してきた。それなのに、私が仕事を辞めて家にいるようになった途端、彼らの態度は一変したんです。いや、最初から私のことは都合のいい家政婦としか思…

定年退職したその日に、嫁が言った言葉が忘れられません。「無職なんだから、なんとかしてくださいよ」って。あの瞬間、8年間支えてきたすべてが音を立てて崩れていくのを感じました。私は息子夫婦と孫のために家事も育児も全部引き受けて、毎月の生活費も光熱費も全部負担してきた。それなのに、私が仕事を辞めて家にいるようになった途端、彼らの態度は一変したんです。いや、最初から私のことは都合のいい家政婦としか思...

「私、3月で定年退職することにしたのよ。これからはもっとあなたたちのサポートに時間を使えるわ」

母の突然の報告に、私は驚きつつも嬉しさが込み上げた。長年働き続けてきた母が、ようやく家でのんびりできると思うと安心した。

「マジで? うわ、めっちゃありがたいよ。でも母さんもせっかく仕事辞めるなら旅行とか楽しめばいいんじゃない?」

「まあ、それはおいおい考えるわよ。とにかく、家にいる時間が長くなるから、そのことだけ早苗さんにも伝えておいてちょうだい」

夫はうなずいて、笑顔を見せた。数日後、義母は嫁の早苗さんにも同じ話をしていた。

「え、お義母さん、定年退職されるんですか?」

「そうなのよ。家にずっと義母がいるのは嫌かしら?」

「そんなことないです。実は……ちょっとご相談したいことがありまして。私、パート復帰してみたいんですけど」

「あら、ついに復職するの?」

「子育てとの両立に自信がなかったんですけど、司も4月で小学生になりますし。お義母さんが家にいてくれるなら、私もやってみたいなと思いまして」

「もちろんいいわよ。むしろ子育てにはこれからお金がかかるんだし、働きに出るのはいいことよ。私もできる限りサポートするからね」

「ありがとうございます。私、実家が遠いし、なかなか頼れないので。お義母さんがいてくれて本当に良かったです」

その日は家族みんなが笑顔だった。しかし、この決断がまさか家族を壊すきっかけになるとは、誰も思っていなかったのだ。

数ヶ月後、最初の亀裂が生まれた。

「ちょっと早苗さん、何度も連絡してるのにどうして出ないのよ」

「仕事してたに決まってるでしょ。職場にまで電話してくるなんて、何考えてるんですか?」

「当たり前でしょ。今日は司が午前中で帰ってくる日で、私も病院で留守にするって、1ヶ月前に話してたわよね。どうして家にいないの?」

「パート先で急な対応があったから出てきたんです。私、これでもそれなりに頼りにされてるんで」

実際はその日、司は学校から帰っても家に入れず、義母が病院から戻った頃には学校に戻っていた。担任から「お父さんもお母さんも連絡がつかない」と言われ、義母の携帯に電話がかかってきたのだ。

「じゃあ、なんで私にも工事にも言わないで仕事に行ったの? 誰かが調整しないといけないことになるでしょ」

「だから私は働いてて忙しいんです。連絡する余裕もなかったんです。そんなの、お義母さんがなんとかしてくださいよ。何のための無職なんですか?」

義母は口を閉ざした。その瞬間、何かが確かに壊れた。

「あのな、早苗さん、パート先で急な対応があったんだって。でも私たちに一言があってもいいでしょ」

後日、夫にそう伝えると、彼はしぶしぶながら早苗をかばった。

「最近の早苗さん、ちょっとどうかと思うわ。仕事を理由に色々雑っていうか……」

「悪いけど、司のことはお願いね。俺もそんな急に職場は抜けられないし」

「それはいいわよ。でも、お願いする態度があるでしょ。私が急いで学校に迎えに行ったのに、早苗さんなんて言ったと思う? 『無職なんだからなんとかしろ』って言うのよ」

「あんまりだと思わない? 失礼すぎるわ」

「ちょっと気が立ってただけだって。俺からも言っておくから、うまくやってよ」

「もしこれからも態度が改まらないなら、気持ちよくあなたたちのサポートはできないからね」

夫は軽く受け流すように「分かった、分かった。行っておくから」と言った。

その日の夕方、私は夫に心の内を打ち明けた。

「今日、母さんに『無職だから』って暴言吐いたんだって? マジありえないんだけど」

「いや、ほら、早苗の気持ちも分かるけどさ、一応世話にはなってるんだし。実際、母さんがいなくなったら困るだろ」

「別に、今日帰りに家のスペアキーを作っていくから。司の留守番くらいできるでしょ」

「ああ、まあ鍵は持たせた方がいいか」

「大げさなのよ。自分が仕事辞めたからって、働きに出た私が羨ましいんじゃない?」

「まあ何にせよ、喧嘩はやめてよ。色々面倒だからさ」

私は仕方なくうなずいたが、義母に対する不満は募るばかりだった。

1ヶ月後、また大きな衝突があった。義母は18時に帰宅しても、早苗さんは連絡もなく遅くに帰ってきた。

「あなた、今何時だと思ってるの? パートが18時までなのは分かってるわよ。連絡もなしにこんな時間に帰ってくるなんて」

「職場には連絡しました。パート先の飲み会が長引いたんです。司も寝てるんだし、別にいいでしょ」

「そういうことを言ってるんじゃないわよ。司が寂しがってるのが分からない? ママに宿題を見てもらう約束をしてたのにって、泣きながら布団に入ったのよ」

「じゃあ何ですか? 仕事やめろって言うんですか?」

「仕事をするなとは言わないわ。働くことにはむしろ賛成よ。でもやり方があるでしょ。あなたは母親なのよ」

「司ももう小学生なんだし、親離れのいいきっかけだと思いません? ていうか、お義母さん最近口うるさすぎません? 定年退職して暇だって、私に難癖つけないでください」

義母は言葉を失った。そして、早苗さんの口から信じられない言葉が飛び出した。

「無職の人って、そうやって人の粗探ししかできないんですか?」

「なんでそんなこと言うの? 話の本質が全く違うわよ。私は仕事を応援してる。その上で司との向き合い方を考えてって言ってるの」

「もうほっといてください。うちにはうちのやり方があるんです」

二人の間の溝は、もう埋まらないところまで来ていた。

数分後、義母は妹の小春にLINEを送っていた。

「夜遅くにごめんなさい。起きてる?」

「むしろ今帰ってきたところよ。どうしたの? 姉さんがこんな遅くにLINEなんて、何かあったんじゃない?」

「息子家族との同居のストレスよ」

「なんでそんなピンポイントなの?」

「実はね……私が定年退職して家のサポートに回るって聞いた時からちょっと心配してたのよ。元々、息子とお嫁さんは姉さんに頼りきりなのに、仕事もなくなったらリミッター外れてとんでもないことになるんじゃないかって」

「うん……そうなのかもね」

「私が定年退職するのと合わせて、早苗さんがパートに復帰したの。それからもうすごいのよ。私のこと、火星人扱いで」

「はあ? 何それ?」

「腹立つわね。今までも姉さんに子守りを押し付けてたのに、姉さんも我慢しすぎない方がいいわよ。今度一緒にランチしない? 定年退職のお祝いがまだできてなかったし、奢らせるわ」

「いいの? 嬉しい。ありがとう」

1週間後、義母は早苗さんに司の伝言を伝えた。

「早苗さん、司から頼まれたんだけど、週末あなたの誕生日でしょ? ママのためにパーティーをしたいっていうのよ。せっかくだし、外食でもどう?」

「ああ、大丈夫です。その日は職場の人たちが祝ってくれるんで。帰ってきたら司とケーキでも食べますよ。それだけ買ってきておいてくれたらいいんで」

義母は黙ってうなずいた。誕生日当日、義母はケーキを買ってきて、こう告げた。

「パート先の人にも、遅くとも19時には帰るようにちゃんと話を通しておいてね。それより遅いと司も寂しくて待ってるから」

すると早苗さんは、突然感情を爆発させた。

「あの、もうやめてくれませんか? ぶっちゃけ、しんどいんですよ」

「いきなり何? ただ誕生日のケーキを買ったってだけじゃないの?」

「それが鬱陶しいって言ってるんです。この際だからはっきり言いますけど、お義母さんと暮らすのが本当に苦痛です。あれこれ口うるさいし、私がやること全部ダメ出ししてくるし。お義母さんの顔を見てるだけでストレスなんですよ。誕生日だし願いが叶うなら、今すぐ消えて欲しいです」

その言葉に、義母は何も返せなかった。数分後、義母はそのやり取りを妹の小春に転送していた。

「ごめん、今スクショ送ったんだけど、見てくれた?」

「見た見た。で、姉さんはどう返したの?」

「私なんて何て返したらいいか分からなくて……」

「え? 何言ってるのよ。姉さん、やっと自由になれるんだよ。やっと、やっとだよ。これからは自分だけの人生を生きていいのよ」

「そっか……」

「そうよ。もう、今すぐ返事してきなさい」

数分後、義母は早苗さんにこう送った。

「そうね。じゃあ、喜んで消えます。でも今日だけはケーキを司と食べてあげて。ずっと楽しみにしていたの。これを守ってくれるなら、すぐ出ていくわ」

早苗さんは迷わず「分かりました」と返事した。

夫はすぐに電話をよこした。

「ねえねえ、聞いてよ。やばい。超ラッキー。お母さん、出てってくれるってさ」

しかし私は逆に怒りが込み上げていた。

「は? お前、何言ってんだよ。ふざけんなバカ。今すぐ母さんに謝れよ」

「待って。なんであんたマザコンなのよ? こういう時は嫁の味方をするもんでしょ」

「今すぐ母さんに謝れよ。分かったな」

夫は慌てて義母に電話をかけ直した。

「母さん、出ていくって、嘘だろ。頼むから考え直してくれよ。あいつ、ちょっと最近調子乗ってたよな。本当にごめん。俺が注意するから」

「何言ってるの? 8年も支えてきたんだから、もう十分だと思わない? それに工事ももう33歳なのよ。立派な大人でしょ。彼女との間に子供ができたって私に泣きついてきた時とは状況が違うわ。いい加減、親のすねかじりは卒業しなさい」

「とにかく一度ちゃんと話をしよう。俺、今日は急いで帰るから」

「司のことがあっても急いで帰ってこないのに、何言ってるのよ。もう、何をしても手遅れだから」

数日後、義母は引っ越しの準備を始めていた。

「なんだよ、この段ボールの山。どこに引っ越すつもりだよ」

「何って、引っ越しの準備よ。とりあえず小春が一部屋貸してくれるって。おかげで助かったわ」

「頼むよ、考え直してくれって」

「私に許してもらうことを考えるより、これからは夫婦二人で司を養っていくことを真剣に考えた方がいいんじゃない? その方がずっと建設的だわ」

翌日、義母は最後の荷物を運び出した。

「早苗さん、荷物は全部運び出したから、今日の15時には出ていくわね。それと、今まで私が使っていた部屋はあなたが使うといいわ」

「え、いいんですか? やった。自分の部屋欲しかったんですよ」

「そう。喜んでもらえてよかったわ。私からの誕生日プレゼントよ。これからは3人での生活を楽しんでね」

「はい。お義母さんもお元気で」

義母が去った後、早苗さんはようやく自分と司の生活に戻れると思っていた。しかし1ヶ月後、義母から突然の請求が届いた。

「ちょっと、無視しないで電話に出てください」

「なんですか?」

「今月から家賃の徴収を始めますって、しかも12万円? ありえない。それに光熱費の請求書も届くし、何なの?」

義母は冷静に返した。

「まず、その一軒家の名義は私よ。私が買った家よ」

「は? 嘘言わないでください。お父さんから相続しただけのくせに、偉そうに」

「いいえ。私の方がメインで働いていて、夫はパートだったの。夫に聞けば分かることよ」

「だからっていきなり家賃請求なんておかしいです」

「おかしくないわよ。だって私はその家に住んでないんだから。貸し出したってことになるでしょ。払えないって言うなら、出ていって。12万でも借りたいっていう人はいっぱいいるわよ。何度か不動産屋さんから打診されたもの。月額23万でも借りたいですって人もいたわね」

「駅から12分。スーパーも病院も学校も近いし、子育て世帯に人気のエリアだから。当時も『ここを買えば資産価値になりますよ』って進められたものよ。それに光熱費は、今まで私が負担していたものを解約しただけよ」

「嘘。そんなの工事から一言も聞いてないです」

「言えなかったんじゃない? 男としてのプライドもあるでしょうし。あなたが私に喧嘩腰な態度を取っていたのも、何度か注意されてなかった?」

早苗さんは真っ青になった。「そんなことになってるなんて、本当に知らなくて。知ってたら、そんな態度取らなかった」

「まあどうでもいいわ。とにかく、口座引き落としにしたいなら自分で契約してね」

「待ってくださいよ。お義母さん、誕生日プレゼントとして私に出ていって欲しかったんでしょ? これは全部あなたが望んだことなんだから、もっと喜んでよ」

「お願い、待ってください。そうなってきたら話が違うじゃないですか」

「何も違わないわよ。それじゃ、ちゃんと払ってね。払わないなら立ち退きを要求しますから」

義母は電話を切った。息子と嫁からのLINEは止まらなかった。

数日後、義母は妹の小春に会っていた。

「息子からも嫁からも、すごい数よ。不在着信も止まらないし。もう番号ごと変えちゃえば? 私のサブスマホを貸してあげようか」

「小春、これで本当に良かったのかしら」

「あ、姉さん、ここで優しくしちゃだめよ。その優しさはあの子たちにとってただの毒だわ。必要なのは優しさじゃない。現実社会を夫婦で生きていく力をつけさせるための、スパルタ治療よ」

「そうよね……あの子たちが成長する機会を、私が無意識に奪っていたのね」

「もちろん姉さんの素晴らしさを否定するわけじゃないわよ。姉さんは今までずっと尽くしてきたじゃない。気がどんなに大変でもサポートして、お嫁さんがリフレッシュできるように旅行もプレゼントして、年末年始はお嫁さんの実家に帰省していいんだよって送り出してあげたり。こんないい義母、他にいないわ。それなのに姉さんへの感謝を忘れて、二人揃ってあんな態度。許せないし、痛い目を見ればいいのよ」

「ありがとう。小春がそう言ってくれて、私もやっと目が覚めた気分だわ」

「ああ、そうそう。姉さん、やっておいた方がいいと思ってたことがあって、今日帰ったら相談させて」

数日後、夫から義母への懇願の連絡が届いた。

「なあ、母さん、機嫌直してくれよ。母さんが出てってから本当に大変なんだよ。早苗がこんなに家事できないなんて、俺全然知らなくて。毎日大変で、俺のシャツなんてアイロンすらかけてくれないんだぜ。飯も正直美味しくないし。司もばあちゃんどこって心配してるから、頼むから返事してくれよ」

その日の夕方、早苗さんからも連絡が来た。

「あの、お義母さん、やっぱり帰ってきませんか? ちょっと1日の家のことをやってたらパートなんて全然行く余裕なくて、職場からも戻ってきて欲しいって言われてるんです。お義母さんが家にいてくれたら全部元通りになるから。お願いですよ」

しかし義母は返事をしなかった。2週間後、義母は夫と嫁を呼び出した。

「急にどうしたの? あ、もしかしてやっと帰ってきてくれる気になった?」

「お義母さん、ずっと待ってたんですよ。無視ばっかりしてひどいです」

「言っておくけど、私は戻ることはないわ。今回、二人を呼んだのは、それぞれ報告することがあっただけよ」

「報告って何だよ。戻ってきてくれる以外に何の報告があるってのさ」

「まず早苗さん。あなた、パートでは頼りにされているみたいね。仕事も任せられる量が増えてきた。飲み会も多くて、忙しいって言ってたわね」

「そうですけど。だからお義母さんがいなくて困ってるんです。サポートしてくれるって言ったのに。こんなの詐欺じゃないですか?」

「詐欺? それはこっちのセリフよ。あなたが本当に仕事も子育ても両立させようと本気で頑張ってることが分かったら、私にだってその気持ちは伝わるのよ。でもあなたからは一切感じられなかった。子育てから逃げて、自分の時間を大事にしたい。まるで独身みたいに。母親の責務から逃れたいみたいにね」

「そんなことないです。言いがかりですよ」

「母さん、さすがにそれは言いすぎじゃない?」

「言いすぎなんかじゃないわ。だって早苗さん、私が出て行ってから、手一杯で仕事を休みがちだとか言ってるけど、そんなことないわよね。工事のために仕事は減らせないから少し家事が適当になるのはごめんって、司にも留守番させて乗り切ろうって言ったって。でも私には出勤日数を減らしてるって言ってるの。どういうことかしらね」

「それは職場にも問い合わせたけど、変わらず出勤してるわ。しかも飲み会の参加率も変わらず、最後まで出てるそうじゃない?」

「付き合いってものがあるんですよ」

「で、学童も始めたそうね。18時くらいに学校から一人で帰宅してる司を、児童相談所が1週間確認してるわ。学校にも問い合わせたけど、利用は間違いないって」

「ちょ、ちょっと待てよ。どういうことだよ」

「いや、たまたまよ。半端なスーパーのパートに何の反論があるのよ。しかも工事の帰りが遅い日は、夜間保育に預けてるらしいわね。これも利用している様子を押さえてるわ。そこまでして飲み会に行きたいの? 夜間保育を利用するお金とパートの収入じゃ、赤字になっちゃうんじゃない?」

夫は顔色を変えた。「おい、早苗、本当なのか? お前、何考えてんだよ。どうかしてるぞ」

義母は続けた。「早苗さんのやってることは最低だけど、あなたにそれを責めることができるのかしらね」

「は? 俺は何も……」

「工事、あなたも出張で家を数日開けることが多いわよね。残業で日付が変わってから帰ってくる日もある。私ももっと早く気がつけば良かったんだけど、それ、全部仕事じゃないのよね」

「いや、仕事だから。何言ってんだよ」

「あなたのアカウント、もう見つけてあるのよ。『番長ガチ押しハッピーマン』ってやつ」

「何、そのクソダサい名前?」

「調べてみたら、『イエス万歳』ってバンドのボーカル兼ギターの『番長』って人を、おっかけしてるのらしいわね」

「な、なんで……なんでそんなこと知ってんだよ。俺、誰にも言ってないのに」

「あなた、先週の土日に『出張だ』って言って家を開けたことがあったでしょう。その時、司のことが心配でね、ちょっと家の様子を見に行ったの。そしたら案の定誰もいなかったから、司を連れ出したのよ。大泣きしてたわ。朝から二人とも出かけて、ずっと一人ぼっちだったって」

「俺が留守にするって言ったのに、お前出かけたのかよ。何考えてんだよ」

「ちょっとくらいいいかなと思ったの。私ばっかり攻めないでよ」

「あんたこそ、出張に行ってなかったら、どこに行ってたのよ。そのバンドのライブよ。ちょうど大阪での開催日と一致したわ。で、弁護士さんを通して聞き込みしてもらったら、そのアカウントにたどり着いたってわけ。あなたはフォロワーに独身って嘘をついて、しょっちゅうライブに参戦。地方だろうがどこだろうが飛んだらしいわね」

「ちょ、ちょっと待ってよ。どういうこと? いつもお金厳しいって言ってたじゃん。どこにそんなお金があったのよ」

「給料の額を嘘でもついてた。そうすればいけるんじゃない? だって家賃も払ってないし、光熱費は私。食費と雑費と司の学費だけやりくりすればいいんだから」

「それがマジなら、本気でありえないんだけど」

「別にいいだろ。ちょっと息抜きしてただけで。てかお前だって人のこと言えないだろ」

「喧嘩はやめてくれるかしら? 鬱陶しいから。お互いに子供の世話を私に押し付けて、子供気分、独身気分が抜けていなかっただけよ」

「なんでこんなに急に言うんですか? もっと最初から言ってくれてたら、こんなに甘えなかったですよ。家賃も光熱費も頼ってるなんて、私知らなかったし。工事の給料がなかなか上がらないから、私もパートしようと思ったのに」

「俺はただ、ちょっと自分の時間が欲しくて、好きなこともやめたくなくて」

「そんなの私だって同じに決まってんじゃん」

義母は深く息を吸い、語り始めた。

「私はね、仕事が忙しくて夫の世話を奥さんに任せてきた自覚があるの。だから夫が亡くなってから、家に転がり込んできた息子夫婦に、あの時してあげられなかったことを今してあげようと思って、面倒を引き受けたのよ。家賃と光熱費の負担も、司の学費も、もちろん。それに、いつか孫たちが家を出ていく準備をするための貯金がいい具合に進んで欲しいと思ってたの。それをこんな形で裏切られるなんて、私だってショックよ」

「ごめん、ごめんなさい。母さん、悪かったよ。もうこんな風に甘えないから」

「だから『あなたの子供みたい』なんて言い訳は聞きません。家に住み続けるなら、12万円の支払いを絶対にすること。それができないなら、あの家は賃貸に出すから出ていきなさい。家にある家具類も全て私の持ち物だから、住み続ける場合は買い取りも要求するわ」

「そんな金ないよ」

「なんで? 家賃と光熱費を負担するだけでも、毎月相当浮いていたはずよ。ああ、そうよね。貯金だって嘘だったのね。『毎月10万貯金してるから』って。だから節約頑張ろうって言ってたじゃない。どういうこと?」

「それはもちろん工事が悪いわ。でもパートを始めてからの早苗さんも、まあまあなことやってるでしょ。パート代で貯金する余裕なんてないんじゃない?」

「どういうことだよ」

「パート先で聞いたけど、飲み会はみんな自腹よ。あの頻度だったら、月に2万はかかってるでしょうね。それに、部屋を掃除していた時にレシートが床に何枚か落ちてたけど、デパコスのコスメとか、それなりの散財をしているみたいだったし」

「お前、貯金するためにパートするって言っただろう! お義母さんにも助けてもらうって言っただろう!」

「うるさい。あんたに言われたくないのよ。全部あんたのせいじゃん」

「ふざけんなよ」

「とにかく、報告は済んだから。後のことは夫婦で解決してちょうだい。それじゃあ、家賃の件よろしくね」

数日後、義母は妹の小春と話していた。

「そういえば、あれからどうなったの?」

「家を賃貸に出すなら、不動産屋を紹介するわよ」

「お願いできるかしら。結局、12万円は払えないから引っ越すんですって」

「今までの散財をやめれば無理のない金額のはずなのに。何を考えてるんだか」

「でも家具家電を買い取る見積もりが、確か60万円でしょ。新規で買い揃えることを考えれば超安いと思うけど、貯金ない状態じゃね。お互いその感覚が抜けないと、まあ無理なんじゃない?」

「ああ、とにかく今月末には出ていくから、不動産屋さんを紹介してもらえるかしら? 家具家電付きで賃貸に出したいの」

「オッケー。任せておいて」

2ヶ月後、息子が義母を訪ねてきた。

「母さん、久しぶり。結果から言うけど、早苗と離婚することになった。親権は俺が持つよ」

「離婚……そうなんだ」

「弁護士さん付けつけてたんだろ? じゃあ母さんは本当は知ってたんじゃないの? 早苗がパート先の上司と不倫してるかもって」

「待って。それは本当に知らないわ」

「そうなの? じゃあ、うまくやってたんだな」

「俺ら、あれから古いマンションに引っ越してさ。家賃は6万円。これなら何とかできるし。俺らも趣味のお金を月々に決めてお互いにやりくりしていけば、なんとかなるよって。今まで俺も悪かった。反省してるからって、めちゃくちゃ謝ってさ。でも早苗は、パートのお金を渡してくれなくて。『今まで嘘をついて散財した人間には渡さない。自分で管理する』って、その一点張りでさ」

「まあ、信用をマイナスにしたのは工事だからね。自業自得だとは思うけど」

「俺も本当にライブに行かないようにして、仕事も早く切り上げられるように色々頑張ってんだよ。でも早苗は今まで通りの生活を変えてくれなくて。俺に対して当たりが強くなるのは構わないし、自業自得だと思ってるけど……もっと司を気にかけて欲しいって。この時、やっと俺も母さんの言ってることが分かって。本当に俺はひどいことをしてたんだなって。父親にすら慣れてなかったんだって気づいたんだ」

「それで?」

「でも早苗は『私も稼がないとでしょ』って。そればっかりで、本当に話が噛み合わなくてさ。俺、職場としてそんなに飲み会があるのもおかしいと思って、職場にお願いしに行ったんだよ。そしたら従業員の人が教えてくれたんだ。そもそもうちはそんなに飲み会やってない。参加してるのは不倫してる人たちばっかりだって。それで俺、本社にクレーム入れたんだよ。そしたら調査が入って、早苗と上司の不倫が発覚。それ以外にも何人か出てきたらしくて、今社内調査でバタついてるらしい。不倫相手は倉庫管理に移動、上司は解雇。早苗は今、実家に戻ってて離婚協議中だよ」

「話し合いの度に『お前のせいだ。私は悪くない。こんなに早く結婚したくなかった。子供だって欲しくなかった』って大泣きで。俺、すごいショックでさ。本当に早苗のこと何も見えてなかったんだって」

「同情なんかしないわよ。言い換えれば、離婚しない選択もできたし、家を出ることもできた。それをせずにうちに来たのはあなたたちよ。自分で選んだ選択肢の責任を、誰かに押し付けないで」

「本当にごめんなさい。とにかく俺は、司のケアに集中するよ。司が8歳になるまで親に慣れてなかったなんて、本当に恥ずかしい話だけど」

「司に罪はないし、私にとって可愛い孫であることに変わりはないわ。本当に助けが必要な時だけ連絡しなさい。分かったわね」

「はい。本当に申し訳ありませんでした」

数日後、義母は妹の小春に提案され、彼女の会社で働くことになった。

「姉さん、私の会社で働く気になった?」

「でも、もう65歳のおばあちゃんだし。今更若い子たちと働けるかしらね」

「姉さんの優秀さは私が一番知ってるの。ずっと一緒に働きたかったんだから。それに働かない方がストレスなんじゃない?」

「そうね……もう一度やってみようかしら。でも最初は時短で慣らしていくから、お願いね」

その後、夫と早苗さんの離婚は成立した。義母は、早苗さんの不倫相手の上司から慰謝料50万円を受け取ることができた。しかし早苗さんは慰謝料も養育費も支払わず姿を消してしまった。それでは義母の腹の虫が収まらない。義母は彼女の両親に連絡し、知人や友人にもあちこち連絡を取ってもらい、居場所を突き止めた。そして、消費者金融に借金までして、慰謝料と養育費として100万円を支払わせることに成功した。さらに今後は、両親の管理のもときちんと養育費を送金することを約束させた。

工事が子供の頃にしてあげられなかったことを今してあげたい。そんな気持ちで息子夫婦と孫と関わってきたが、甘やかしすぎた自分にも責任があったと義母は思っている。もっと早く家賃や生活費について話し合っておけば、こんなことにはならなかったかもしれない。だからこそ、これからは適切な距離で関わっていくつもりだ。孫を助けたい気持ちはあれど、またすり寄られてもたまらない。金銭的には十分再出発できる見込みがあるので、義母はいざという時の連絡先だけを残し、遠くから自分の人生を生きていく。甘やかすつもりは一切ないが、孫の幸せは願っている。

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