「不合格よ。あなた、婚約は破棄よ」
母の一言に、ひまりは言葉を失った。夏から、この日のために両家顔合わせの場が設けられたはずだった。
「お母さん、どうしてですか?夏さんから、夏に銀行の女性と結婚するって聞いてたけど、今回もダメだったわね。顔合わせなんてしなきゃよかった。時間の無駄だったわ」
「何がいけなかったんでしょう」
「そんなことも言われないと分からないの?これだから親なしは」
「望んで親がいなくなったわけではありません。それに、そんなに悪いことでしょうか?」
「だって、しつけしてもらってないんでしょ。やってはいけないことや社会の常識、教えてもらえなかったんじゃない?」
「いいえ、兄にしっかり教えてもらいました。兄のおかげで今の私があるんです」
「いいえ、全然なってなかったわ。あまりにも常識がなさすぎて猿以下よ」
「なら、具体的に教えていただけますか?私としても、ダメなところがあったなら直したいので」
「服装よ。両家顔合わせという大事な場面だってのに、あんな露出の激しい服、下品すぎて吐き気がしたわ」
「そうでしょうか。タートルネックで長袖、膝下でしたが」
「足が見えてたでしょうが。非常識にも程があるわ」
「そんな無茶を言わないでください」
「あんたの兄も、男らしくなくて格好悪かったわ。三十六歳だっけ?だから未だに結婚できないのよ」
「私のことはいくら馬鹿にしても構いませんが、兄を悪く言うのはやめていただけませんか?顔合わせの時は、場所が場所だからと我慢しました。でも、私たちに両親がいないと分かると、お母さん、顔色を変えましたよね」
「そりゃそうでしょ。聞いてた話と違うもの」
「夏さんから聞いてなかったんですか?」
「ただ『絶対気に入ると思うから』ってしか聞いてないわよ」
「ああ、そうでしたか」
「事故だかなんだか知らないけど、兄に育てられた家庭環境って、あまり良くなさそうよね」
「それは偏見です。兄はしっかりしてます」
「でも、高卒なのよね。それは常識がないんじゃない?」
「確かに最終学歴は高卒です。でも、大学には合格していたんです。私を育てるために辞退したんです」
「じゃあ、高卒なのはあんたのせいじゃない?やっぱり親がいないと、まともな判断もできなくなるのね。こんな頭のおかしい人たちと身内になるなんて、とんでもないわ」
「そこまで言う必要はありますか?」
「何よ。本当のことでしょうが。親がなくて兄に育てられたとか、飛んだ底辺ね」
「これから身内になるのに、そんなこと言わないでください」
「はあ?なんで結婚する気満々なのよ。エリート銀行員の息子との結婚は認めないわよ。残念だったわね。ということで、婚約破棄。さようなら」
そう言い捨てて、母は立ち去った。
五分鐘後、ひまりのスマホに連絡が入った。
「婚約破棄って、母さんに言われたんだけど」
「ああ、たか。まあ、親なしで兄貴に育てられたって話を聞いた時、そこでもう嫌な予感はしてたんだよな」
「だから、そのことを私に伝えなかったの?」
「あ、バレた。そう、そう。絶対反対すると思ってさ」
「それでよく私と結婚しようと思ったね」
「だって、ひまりとは本当に結婚したいと思ったんだよ」
「なら、どうして助けてくれなかったの?お母さんに色々言われた時、夏は黙ってたじゃない」
「母さんの言う通りだなと思って」
「だから何も言わなかったの?ひどい。それでも婚約者なの?」
「大事な人だからこそ、間違いに気づかせようとしたんだよ」
「親なしと言ったり、底辺と言ったり」
「そう、そう。あと非常識ってこともな」
「顔合わせでそんなことを言う方が、よっぽど非常識だよ。母さんがそう言うなら、そうなんだろう」
「ああ、それにしても、またダメか」
「また?実は決まりで、五人目なんだ」
「どういうこと?」
「だから、歴代の元カノたちでもダメだったってこと。みんな顔合わせまではしたんだけどさ。やっぱり母さんがなかなか気に入ってくれなくて」
「女性を何だと思ってるの?みんなあなたのことが好きだったでしょう。よくそんな人の気持ちを無にするようなことができるね」
「仕方ないだろう。結婚は二人だけの問題じゃない。家と家との問題なんだから」
「だとしても、そんな簡単に別れるなんて、その程度の気持ちってことだよね」
「俺だって心苦しいに決まってんだろう。残念だけど、今回は縁がなかったってことで」
「私とも別れるってこと?」
「そうだよ。じゃあ、明日からは他人な。銀行でも話しかけんなよ」
「分かった。というか、そもそも部署が違うしね」
「ああ。やっぱ恋愛なんてやめときゃよかった。じゃあな」
五分鐘後、ひまりは兄に電話をかけていた。
「お兄ちゃん、今日は両家顔合わせに来てくれてありがとう」
「ああ、決まりのためなら、いくらでも仕事は休むよ」
「それは普通に困るから。でも、ごめん。私、婚約破棄されちゃったんだ」
「はあ?何それ?どういうこと?」
「なんか、私はお母さんの目鏡に叶わなかったみたい」
「何か言われたのか?」
「それはちょっと言えない」
「俺が原因なんだろ?俺はな、ひまり、自分はいくら言われても構わない。それより、ひまりが悪く言われることの方が、俺にとっては苦痛なんだ」
「お兄ちゃんこそ、自分のことも大事にしてよ」
「それはひまりもだろ。とにかく、何があったか正直に教えてくれよ」
「『頭がおかしい人たちと身内になりたくない』って」
「本当にそんなこと言われたのか?」
「うん」
「そうか。なら、銀行員一家全員首だな」
「え?一体何をするの?」
「まあ、俺の超能力で」
「もう、わけの分からないこと言わないで。ちゃんと教えてよ」
「とにかく、ひまりは俺が守る。それだけは確かだから」
「昔から相変わらずだね。お兄ちゃんは、何も言わず、いつの間にか私を助けてくれる」
「それが兄としての役割だからな」
「だとしても、現役で難関大学の進学も決まってたのに、それを蹴ってまで、十歳も下の妹を養うなんて。私だったら決断できないよ」
「だって、泣いてるひまりを放っておけなかったんだよ」
「そんな理由で」
「だってさ、ひまりが親戚に預けられたら、俺たち家族はバラバラになっちゃうだろう。そんなのは俺が嫌だったんだ」
「お兄ちゃん、本当にありがとう」
「気にすんな。妹の幸せが俺の幸せ」
「シスコン、シスコン」
「で結構。とにかく今日はもう遅いから、もう寝な。寝不足は美容の大敵だぞ」
「はいはい。じゃあまたね。おやすみ」
翌朝、兄は昼休みを利用して、夏の母を訪ねていた。
「おはようございます。昨日はありがとうございました」
「朝から誰かと思えば、親なし高卒底辺の元婚約者の兄じゃない?朝から何の用よ。あんたから連絡が来るなんて、恐怖でしかないんだけど」
「すみません。何かあった時だけ連絡するつもりでしたが、どうしてもお聞きしたいことがあって。早めに終わらせてよね」
「妹から婚約したと聞きましたが、それは本当のことでしょうか?」
「ああ、そうよ。本当よ。だって、あんたらなんかと身内になったら、うちの由緒正しき家系が汚れるじゃない。うちはね、銀行員一家なのよ」
「夏君のお姉さんもお父さんも行員でしたっけ?それはとてもご立派ですね」
「そうでしょ?あんたらとはね、違うのよ」
「妹も同じ銀行で働く行員のはずですが」
「でも高卒じゃない。うちはみんな大卒よ。よくその学歴で銀行で働けるわね」
「お言葉ですが、大学の新卒より高卒の方が倍率が高いんですよ」
「はあ?何?どういうこと?」
「つまり、高卒の採用は厳しいってことです。にも関わらず、妹は見事に採用されました。これは優秀な人材である証明になると思うのですが」
「高卒であることに変わりはないでしょうが。学歴は大事よ。社会的地位にもつがるんだから」
「それも間違いではありませんが、お母さんはどうなのですか?」
「あら、言ってなかった?私はね、国立大学を出てね。その後はメガバンクで働いてたの。二年目で夫と結婚して、今はみんなを支えてるのよ」
「そうでしたか。それはとても素晴らしいですね」
「でしょ?あんたの妹にそれができるとは思えないのよね」
「では、今のご自分はどうなのでしょう?」
「だから、私は大学を出てるって言ってんでしょ?」
「僕は今の話をしてるんです。お母さんのそれは過去の栄光ですよね」
「過去って?」
「だって、それは昔の話でしょう。その経歴は今に生かせてるんですか?」
「主婦業に生かしてるわよ」
「もちろん、主婦だってとても大事な仕事です。でも、世代も生き方も違うんですから、妹を否定する権利なんてありません」
「何よ、偉そうに。年上のことを敬えないなんて、やっぱり婚約破棄してよかったわ」
「なら、相応の対応をさせていただきます」
「相応の対応って何よ?はっきり説明しなさい」
「詳しいことは、夏君に直接連絡しますので、後で夏君に聞いてください」
五分鐘後、夏のスマホが鳴った。
「日向さんじゃないですか?今更何の用ですか?」
「そんな冷たい言い方はないだろう。ひまりから聞いてないんですか?俺ら、結婚するのやめたんですよ」
「ああ、聞いたよ。残念だな。ようやく全員との予定が合って顔合わせができて、あとは式を挙げるだけだと思ってたのに」
「仕方ないじゃないですか」
「これを仕方ないで済ませるというのか」
「いや、だって母さんが決めたことだし」
「君は自分の意見がないんだね」
「母さんの意見を尊重したんですよ」
「なら、俺の意見も尊重してくれるね」
「何ですか?」
「婚約破棄の慰謝料を支払ってほしいんだ」
「はあ?なんで俺がそんなの払うんですか?」
「両家の顔合わせも、知人たちへの報告も済んでいた上に、式場の準備まで進めてたんだ。払うのは当たり前だと思うんだが」
「結婚できなくなったのはひまりのせいでしょう。母さんに気に入られなかったんだから」
「俺はひまりのやりたいことは何でも応援したよ。君のお母さんはそうしてくれないんだね」
「その話、今関係ねえだろ。いくらなんだよ」
「まず、式場のキャンセル料が百五十万円。そんなに?」
「婚約したのは二週間前だろう」
「二週間前だと、見積もり金額の五十パーセントかかるそうだ。ああ、ちくしょう。プラス、ひまりへの精神的苦痛で二百万円。合計三百五十万円の慰謝料を請求する」
「それは話が違くないですか?」
「君はひまりが精神科に通ってることを知らないのかな?」
「あ、あいつ休んでると思ったら、サボってたんじゃなくて?」
「サボりじゃない。君に婚約破棄されたことで精神的ショックを受けて、診療内科に通院してるんだ」
「そういう風には見えなかったけど」
「現夫君の君に気を許すわけないだろう。顔合わせを先延ばしにしながら、式の準備も進めてたのに。この仕打ちはあんまりじゃないか」
「それは日向さんの予定がなかなか合わないから、仕方なく式の準備を先に進めてたんじゃないですか?一番の原因は、君のお父さんとお姉さんじゃないか。何日か挙げた日を提案したのに、そのどれも無理だと断ったじゃないか」
「予定があったんだから仕方ないでしょ」
「それは両家顔合わせより大事な予定かな?お父さんはゴルフ、お姉さんの七美さんは彼氏とデートだったっけ?」
「本人たちにとっては大事な用事だったんでしょう」
「普通の人は顔合わせの方を優先すると思うけど。もう過ぎたことをいつまでもネチネチ。日向さんもしつこいですね。そんなんだから持てないんですよ」
「俺が持てないことと慰謝料の話は関係ないだろう。それとも、待たされた分を慰謝料として上乗せしてもいいのかな?」
「分かった、分かった。払えばいいんだろ。たく、これだから親なしの底辺は」
「仮にそうだとして、君たちに何か迷惑をかけたか?親がいない低学歴は社会に不要なんだよ」
「俺とひまりはこうして働いてる。それは社会に必要とされてるということじゃないのか」
「表向きは優しくしてやってるだけ。裏じゃ邪魔者扱いさ」
「残念だよ。弟ができるのを楽しみにしてたんだけどな」
「俺より学歴が低い下民が義兄とか、無理すぎる」
「これまたなかなかひどい言い方だね。とにかく、慰謝料はしっかり払ってほしい。よろしく頼むよ」
「いいぜ。それくらい俺は余裕で払えるから。じゃあな」
五分鐘後、夏は母に泣きついていた。
「母さん、ひまりのバカ兄が婚約破棄の慰謝料を払えって」
「え?慰謝料ってどういうこと?」
「なんか式場のキャンセル料だの、顔合わせ済ませたからだの。とにかく金金金うるせえんだよ」
「まあ、やっぱりそういう家庭だとお金もないのね。だから終わってるわ」
「母さんの言う通りだと思う。まあ、俺は優しいから払ってやろうと思うんだけど、五百万円立て替えといてくんない?」
「何、お金ないの?自分の銀行で投資信託やら何やら、色々やってるって言ってなかった?」
「いや、まあ、今ちょっと都合が悪くてさ」
「じゃあ、お父さんにお願いしたら?あの人、貯金好きだから、相当ため込んでるはずよ」
「いや、父さんに頼むのは無理だよ。絶対怒られるやつじゃん」
「じゃあ、どうするのよ」
「俺に考えがあるから、心配しないで」
翌日、夏はひまりに連絡をした。
「なあ、ひまり。お兄ちゃんから聞いてない?俺、診療内科に通ってるの。あなたと話すだけで動悸がする。もう連絡してこないで」
「そんなこと言わないでくれよ。相談があってさ。やっぱり三百五十万円は高すぎだよ。減額してくれないか?せめて百、いや、五十万円」
「馬鹿にしないでくれる?私だけならまだしも、たった一人の家族である兄さんを侮辱したこと、絶対に許さないから」
「本当のことを言っただけだろうが。何勝手に被害者面してんだよ」
「あなたが加害者だからに決まってるでしょう。私は婚約破棄という被害を受けた。従って、三百五十万円の慰謝料を請求します」
「納得いかねえ」
「今後のやり取りは弁護士を通してください。では」
五分鐘後、夏はまた母に電話をしていた。
「見事に玉砕してくれなかったよ。まあ、なんて冷たい女だ。やっぱり母さんの言う通り、あの女と結婚やめてよかったわ」
「そうでしょ。母さんの言うことはね、いつだって正しいんだから」
「三百五十万円請求されたけどね」
「私のせいだって言いたいの?」
「いやいや、別に母さんを責めてはないよ。ただ、もっと違う結末があったんじゃないかなと思って。まさか請求してくるとは思わないでしょ。それより、どうするの?まさか借金なんて真似しないわよね」
「こうなったら、職場で調達してくるよ」
「銀行でどうやるの?」
「まあ、俺に任せて」
一週間後、夏は焦っていた。
「ダメだ。頑張って営業したのに、どこも融資を受けてくれない」
「融資してもらうことが慰謝料の支払いにつがるのよ。融資額を多めに申告するんだよ。で、その差額を俺がもらうんだ」
「なるほどね。夏ってば頭いいじゃない。でも、どこもダメだった。それじゃ慰謝料が払えないじゃない。どうしよう」
「仕方ないわね。一旦、結婚を許すわ」
「え?今更なんで?」
「そうしたら、慰謝料請求をなかったことにできるでしょ」
「母さんも頭いいじゃん」
「ただし、すぐに離婚すること」
「分かった」
翌日、夏はひまりにメッセージを送った。
「ひまり、やっぱりお前と結婚したい」
「連絡しないでって言ったよね。頭痛と吐き気と目まいがする」
「そんなこと言わないでくれよ」
「今後の連絡は弁護士を通じてって言ったよね」
「そうなんだけど、これだけはどうしても俺の口から伝えたくて。口っていうか、LINEだけどね。ひまり、俺と結婚してください」
「お母さんが許さないんでしょ」
「今なら母さんも許してくれるって」
「どういう根拠なのか知らないけど、一度婚約破棄したという事実は消えないよ。人間、一度くらい謝りはあるものだ。だから、それくらい多めに見てくれよ」
「謝罪しても許されないこともあるんだよ。何より、お兄ちゃんにひどいことを言った。お兄ちゃんが許しても、私は絶対に許さないから」
「怒った顔も可愛いよ」
「気持ち悪いこと言わないでくれる?」
「本心だよ。ひまりは今までの彼女の中でも一番だ」
「誰かと比べられるのって、私は好きじゃないんだよね」
「またそんなこと言って。本当は嬉しいんだろ。いい加減素直になれよ」
「あんまりしつこくすると、警察に相談するよ」
「そんな行き過ぎたツンツンも可愛いよ」
「本当に嫌いなんだってば」
「ああ、どうしたらまた好きになってくれる?」
「もう好きになることはないんだけど」
「そんなこと言わないで、チャンスをくれよ」
「ちゃんと慰謝料を払ってくれたら、少しは見直すかな?絶対好きにはならないけどね」
「分かったよ。払うから、またやり直そう」
「やり直しません。これから病院だから、もう連絡しないで」
「そんなこと言うなよ、なあ、ひまり」
一時間後、またメッセージが届いた。
「既読つかないんだけど。なんか用事か?連絡来るまで待ってるからな」
ひまりは返信した。
「夏からの連絡を無視しないでください。もう婚約者じゃないので。何より、私の精神衛生上、不要なやり取りはしたくありません」
「結婚なら許してあげるから」
「もうそういう問題じゃないんです。私から言えることは、慰謝料をお支払いください。それだけです。もう終わりにしましょう」
「ずっとそんな態度なら、こっちにも考えがあるわ。夫が銀行の役員であることは知ってるわね」
「存じてますが」
「七美が本部の人事部に所属してること、もちろんお姉さんのことも存じてます」
「なら、あんたを辞めさせるわよ。七美も人事に関しては権限があるの。夏と結婚しないのなら、辞めなさい」
「なら、私はしかるべき所に相談しますね」
「どこに相談するのよ。銀行の誰に相談してもいいけど、役員の夫には誰も逆らえないんだからね」
「いえ、財務局の局長に相談します」
「なんでそこが出てくるの?」
「お母さんも元行員だとお聞きしましたけど、何も知らないんですね」
「あんた、よくも私を馬鹿にしないでくれる?」
「知らないんだなと思っただけで、馬鹿にはしてませんよ」
「ほら、馬鹿にしてる。ああ、こんなのが嫁にならなくてよかった」
「私もお母さんが義母さんにならなくて良かったです。お母さんとのやり取りはスクショして、兄に見せますね」
「こんな時までお兄ちゃんに泣きつくの?ブラコンじゃない?結婚できない理由がよくわかるわ」
「兄の幸せはお母さんに関係ないですよね。その後の対応は、兄の方から連絡が来ると思います。なので、私はこれで」
「全く意味不明だわ」
一週間後、ひまりの兄から、夏の母の家に一通の通知が届いていた。
「ちょうど本日、ご家族がお務めの銀行に立ち入り検査の通知書を送りました」
「はあ?え?立ち入り検査?何それ?」
「ご存知ないんですか?金融機関が健全に業務を運営しているか、顧客を適切に保護しているかの調査ですよ」
「はあ。あんた、何の仕事してるのよ」
「顔合わせの時にご説明したはずですが、ちゃんと聞いてくださらなかったんですね」
「いいから、さっさと教えなさいよ」
「金融で公認会計士をやっています」
「え?あんた、高卒のくせに金融なの?」
「本当は公認会計士で監査法人に勤めていたんですが、出向で今は金融にいるんですよ。ああ、そうだ。立ち入り検査したから、どうなるんですか?」
「今はまだ具体的な内容は明かせませんが、ご主人と七美さんと夏君に懲戒処分が下されるとだけお伝えしますね」
「さては、腹いせにこんな嘘をついてるんでしょ?信じないからね」
「どうぞ。僕は確かに伝えたので」
二ヶ月後、夏の母はひまりに詰め寄っていた。
「あんた、何かしたでしょう」
「いきなり何でしょう?」
「夫も七美も夏も、みんな解雇されたのよ。しかも、警察にまで連れて行かれたの。あんた、前に立ち入り検査がどうたらとか言ってたわよね」
「立ち入り検査の結果、様々な不正が発覚したので、それを報告しただけです」
「絶対それのせいじゃない。なんてことをしてくれんのよ」
「相応の処分では?」
「どこがよ。懲戒解雇って、一番重い処分でしょ」
「ご主人は融資を本来の金額より水増し申請して、その分を横領したので、懲戒解雇となりました。七美さんは、金庫から金塊や現金を盗んで、それらを彼氏に渡してたようですね」
「嘘よ。あの子は賢い子。そんなバカな真似をするはずない」
「夏君は出張による経費の横領、そして女性同僚に対する不必要な不快発言」
「そんなことをするのには、何かわけがあるはず」
「理由はどうあれ、皆さんがしたことは犯罪です」
「冤罪よ。ニュースにもなって、ひどいったらありゃしない」
「前代未聞の横領劇ですよ。しかも一家総出で。これは何かの間違いだわ」
「ありえません。しっかり調査した上の結果です」
「お願い。夫だけでも銀行に戻して。みんな辞めさせられたら、うちは食べていけないわ」
「認められません。各々がしっかりと自分の罪に向き合ってください」
「待って。何でもするから、みんなを返して」
五分鐘後、夏の母はひまりに土下座していた。
「ひまりさん、顔合わせの時のこと、謝るから。だから、あんたからお兄さんに伝えてちょうだい。みんな銀行に戻してって」
「私は一介の銀行員です。そんな権限はありません」
「何かしら方法はあるでしょ。あんたが専務や頭取に頭を下げるとか」
「どうして、身内でもない私が頭を下げるんですか?何より、私は休職中の身ですので、無理です」
「婚約者だからよ」
「ですから、婚約破棄しましたよね」
「許すって言ったでしょうが。兄と一緒で、融通の利かないバカね」
「前にも言いましたけど、兄のことを馬鹿にするのはやめてください。私にとって兄は、父であり母なんです」
「だから何よ」
「お母さんだって、家族を馬鹿にされたら嫌でしょ」
「当たり前でしょ。だからこうして必死に頼んでるんじゃない?」
「頼む人の態度ではありませんよね。というか、そもそも無理なので」
「本当に使えない兄妹」
「兄は仕事も家のことも、何でもできますよ。何より、私という一人の人間を育て上げてくれました」
「私だって、二人の子供を育て上げたのよ」
「その結果がこれですか?子育てができてなかったのは、お母さんの方でしたね。兄はしっかり教えてくれましたよ。嘘をついて人の大切なものを取ってはいけないって」
「何よそれ。私への当て付け?」
「そんなんじゃないです。兄のおかげで今の私がある。だから私は兄を誇りに思っています。そんな兄を馬鹿にする人は、たとえ誰であろうと許しません」
「お願い。もう本当に馬鹿にしないから。だから、みんなを元に戻してください」
「無理です。もう連絡してこないでください。さようなら。元銀行員一家のお母さん」
その後、懲戒解雇された夫と七美と夏は、みんな仲良く刑務所にいる。横領罪には罰金がないため、全員が懲役刑となった。銀行員一家総出で横領罪を犯すという失態。世間を揺るがす前代未聞の事件は大ニュースになった。
一人残された夏の母の元には、たくさんのバッシングが飛び交った。SNSはもちろん、ご近所からも煙たがられているようで、地元にいられなくなり、遠いところへ引っ越した。
そうしてどこへ逃げようが、銀行から請求された損害賠償と、ひまりが請求した慰謝料からは逃げられない。朝から晩まで働き詰めの毎日を過ごしていることだろう。
お金を扱う仕事をしていた元エリート一家が、今度はお金に振り回されている。なんて皮肉なのだろう。
ひまりはと言えば、元気になり職場に復帰した。そしてなんと、窓口で詐欺を防ぐことができたのだ。その功績を称えられ、警察から感謝状を送られた。兄は相変わらず仕事に一直線だが、最近ようやく気になる女性ができた様子。兄には幸せになってほしいので、全力で応援する。
ひまりのことか?恋愛はしばらくはいいかな。今は立派な銀行員になれるよう、頑張るだけだ。
