九時ちょうどに本店のロビーへ入った瞬間、受付の女性が手をかざして「業者の方は搬入口からお願いします」と言った。四十年、この銀行の基幹システムを守ってきた男に向けられた、初めての言葉だった。秋の東京、高層ビルが並ぶ金融街の一角。グレーの作業服に古びた道具箱を抱えた六十八歳の私は、そのまま地下の控室へ案内された。パイプ椅子が一脚だけの、窓も机もない部屋だ。呼ばれるまで待つ。それが私の流儀だった。…

九時ちょうどに本店のロビーへ入った瞬間、受付の女性が手をかざして「業者の方は搬入口からお願いします」と言った。四十年、この銀行の基幹システムを守ってきた男に向けられた、初めての言葉だった。秋の東京、高層ビルが並ぶ金融街の一角。グレーの作業服に古びた道具箱を抱えた六十八歳の私は、そのまま地下の控室へ案内された。パイプ椅子が一脚だけの、窓も机もない部屋だ。呼ばれるまで待つ。それが私の流儀だった。...

契約更新はしない方向で進めている。今日が最終日だ。もうよしかさんの時代じゃないんですよ。基幹部分のメンテナンスをやっていたと言いますが、どうせ古い技術でしょう。

よしかは何も言わなかった。穏やかな表情のまま、二人を見つめていた。

秋の東京。高層ビルが立ち並ぶ金融街の一角に、キメキ銀行本店はあった。坂木原よしか、六十八歳。グレーの作業服に身を包み、古びた道具箱を抱えた男が正面入り口へと歩いていく。

四十年間、この銀行の基幹システムを守り続けてきた技術者。それがよしかという男だった。システムの中核には、よしかが開発した技術が今も生きている。定年後は外部契約者として保守の依頼を受ける立場だが、正社員でもなければ組織図に名前が載ることもない。

それでもよしかは呼ばれれば必ず駆けつけた。作業服で伺います。作業服姿で現場に赴くこと。それが彼の流儀だった。スーツではなく作業服を着るのは、技術者としての誇りの現れでもある。同時に、自分はもう銀行の中心ではないという自覚。過去の時代の人間だという静かな諦念。

現場はスーツを着た人間が対応すればいい。自分はあくまで裏方だとよしかは考えていた。技術は誰よりも熟知している。この銀行のシステムで、彼が知らない部分はない。だが近年、若手社員たちからは軽んじられることが増えていた。

あの人は古い。どうせ最近のことなんて何も分かっていないだろう。

そう陰で言われているのを聞いたこともある。確かに今の流行や時代の感覚には疎い。SNSや横文字の用語にもついていけない。それでもよしかは知っている。銀行の基幹部分は変わっていない。中核を熟知しているのは、他でもない自分だということを。

だが若手社員たちは、自分たちが今の時代の最先端だと何の根拠もなく思っている。その若さをよしかはどこか距離を置いた目で見ていた。否定はせず、ただ静かに見守る。今の時代は今の若い人間に任せて、自分は現場から静かに身を引くべきだと思っていたからだ。

妻のはる子を五年前に亡くしてから、仕事がよしかの唯一の生きがいになった。はる子はキメキ銀行の元一般職員だった。窓口で働き、お客様の笑顔を見るのが何よりも好きだった。妻はこの銀行を心から愛していた。だからこそ、この銀行を最後まで守りたい。よしかの生きがいは、愛する妻が愛した銀行のために働くことなのである。

携帯電話が鳴ったのは今朝の七時のことだった。ATMセキュリティ障害の緊急対応。簡素な依頼メールが届いていた。詳細は不明だが、ただ来てほしいとだけ記されていた。よしかは朝食もそこそこに支度を整え、道具箱を手に取った。

妻の遺影に一礼してから家を出る。いつもの習慣だった。

行ってきます、はる子。今日もお前の愛した銀行を守ってくるよ。

電車を乗り継ぎ、徒歩で十五分。よしかはいつも通り静かに道具箱を抱えて銀行のロビーへ向かった。自動ドアが開き、冷房の効いた空気が秋の外気と入れ替わる。大理石の床が光を反射し、天井が高く開放的な空間がキメキ銀行本店のロビーだった。

よしかにとっては四十年間通い続けた場所でもある。作業服姿の老人が道具箱を抱えて中に入っていく。誰も声をかけず、誰も気づかない。実はこの男がこの銀行を支えてきた伝説の技術者であることを。

よしかは気にした様子もなく受付へ向かう。穏やかな表情で、いつも通りに今日も仕事をするだけだと彼は考えていた。

受付カウンターに立つ二十代の女性行員。ちょうど九時に到着したよしかが道具箱を置き、依頼書を取り出そうとした瞬間のことだ。

申し訳ありません。女性行員が眉をひそめ、よしかの前に手をかざした。業者の方は搬入口からお願いします。

よしかは穏やかに微笑んだ。いえ、私は保守の依頼を受けてまいりまして。胸ポケットから依頼書を取り出す。女性行員はちらりと目を通し、表情を変えずに言った。

担当の方ですか?それでしたら地下の控室で待機していただけますか?

はい。承知しました。

よしかは静かに頭を下げた。女性行員が先導する形でエレベーターホールへ。地下へ降りるエレベーターの中では重い沈黙が流れていた。

扉が開くと薄暗い廊下が続く。蛍光灯の光も弱く、空調の音だけが響き渡る。案内されたのは廊下の突き当たりにある小さな部屋で、壁には控室と書かれたプレートが貼られていた。ドアを開けるとパイプ椅子が一つ。それだけの部屋だった。窓も机もなく、まるで独房のような場所だ。

担当が来たらお呼びします。動かずここで待っていてくださいね。

冷たく告げた後、彼女は足早に去っていく。よしかは道具箱を床に置き、パイプ椅子に腰を下ろした。時刻は午前九時十五分。呼ばれるまでここで待つ。それがよしかの仕事だった。

三十分が経過した。誰も来ない。一時間が経過した。依然として誰も来ないため、よしかは携帯電話を取り出し、時刻を確認した。午前十時三十分。それでもよしかは動かなかった。

道具箱から小さなノートを取り出し、ペンを走らせ始める。システムの構造図。頭の中に入っている設計を改めて紙に書き起こしていく。

午前十一時、廊下から足音が聞こえた。よしかは顔を上げる。だが足音は通り過ぎていく。誰もこの部屋には来なかった。

正午を過ぎた。よしかは自前の水筒から一口だけ水を飲む。案内してくれた女性は飲み物一つ出さなかったからだ。いつ呼び出しがあるか分からないため、勝手に動かない方がいいだろうと昼食は取らなかった。

午後一時、廊下で若い男性社員たちの声が聞こえる。

まだあのじいさんいるの?マジで使えないよね。ああいう古い人、いつまで待たせるんだろう。

笑い声が響く。よしかは表情を変えず、ノートに線を引き続けた。

午後二時、五時間が経過していた。よしかはゆっくりと立ち上がり、体を伸ばす。腰が少し痛んだ。年齢には勝てない。それでも文句は言わない。呼ばれるまで待つだけだ。

午後三時、六時間が経過した。さすがによしかもこのままではまずいと判断した。道具箱を持ち、控室を出る。エレベーターでシステム部のフロアへ向かった。

受付には別の女性社員が座っていた。

あの、保守の者です。システム部の方にお取り継ぎいただけますでしょうか?

女性社員は面倒くさそうに顔を上げた。

ATMセキュリティの修理で参りました。このままですと間に合わない可能性がありまして。

女性社員は息をついた。担当者には伝えておきますから。いかにも面倒そうに告げて、また下を向いてしまう。

いつ頃お時間をいただけますでしょうか?

そう聞いても、分かりませんと顔も見ずに言うだけ。よしかは深く頭を下げた。

失礼いたしました。

再び地下の控室へ戻る。エレベーターの中でよしかは目を閉じた。修理を急がないとATMに甚大な被害が出る可能性がある。それだけは避けなければならない。だができることは何もなく、ただ待つしかない。

午後四時、七時間が経過した。控室のドアがようやく開く。スーツ姿の男が二人、控室に入ってきた。一人は四十代後半の恰幅のいい男。

ああ、どうも。システム部長の藤堂高弘だ。

もう一人は三十代半ばの女性。

お待たせいたしました。システム家主任の日川みさです。

よしかは立ち上がり、深く頭を下げた。お待ちしておりました。

藤堂は軽く手を振って笑った。ああ、悪い悪い。結局会議が長引いちゃってさ。目上の人間への敬意もなく、当然のようにため口で話す。七時間待たせたことへの謝罪はそれだけだった。

日川が腕を組み、よしかを見下ろすように言った。

よしかさん、今日はもう帰ってもらっていいです。

よしかの表情がわずかに曇った。

障害の原因特定はお済みになりましたでしょうか?

日川が鼻で笑った。大丈夫です。私のチームで最新のAI診断ツール使って解析済みですから。

しかし、このまま放置いたしますと明日の営業時に——

日川が手を上げてよしかの言葉を遮った。

大丈夫だって言ってるでしょ。聞こえませんでしたか?

藤堂が軽い調子で続けた。そもそもよしかさんのその古いやり方、もう時代遅れなんだよね。

日川がよしかの顔をじっと見た。率直に言いますが、あなたの作った古いコード、全部削除する予定なんです。

よしかの表情が一瞬こわばる。

それは特許システムのコア部分もでしょうか?

藤堂が軽く笑った。特許?ああ、契約更新しない方向で進めてるから、本日で最終日ね。

日川がにやりと笑った。もうよしかさんの時代じゃないんですよ。基幹部分のメンテナンスとかおっしゃってましたが、どうせ古い技術でしょ。

よしかは何も言わず、穏やかな表情のまま二人を見つめていた。

修理は間に合いませんよ。

なんとかして伝えなければならない。自分の仕事を失うことを恐れた発言だと思われないよう、冷静に言った。しかし無駄だった。藤堂は短く鼻で笑うと、上から目線にねぎらうようによしかの肩を叩いた。

まあ、長い間ご苦労様ってことで。今までありがとね。

そのままよしかの背中を軽く押し、日川がドアを開けて廊下を差し示した。お帰りはあちらです。お気をつけて。

よしかは深く一礼し、承知いたしましたと静かに答えた。道具箱を手に取り、ゆっくりと立ち上がる。二人の前を通り過ぎ、廊下へ出た途端、背後で笑い声が聞こえた。

やれやれ。やっと帰ったわ。古い人間って本当面倒よね。

まあ、仕事がなくなるんだから無理もないけど。

よしかは振り返らなかった。ただ静かにエレベーターへ向かった。エレベーターの扉が閉まった瞬間、よしかは強く拳を握りしめた。指の関節が白くなるほどに手を握りしめ、目を閉じる。

四十年間守ってきたシステム。それを簡単に捨てると言われた。妻が愛した銀行に、もう必要とされていない。

よしかの胸には怒りはなく、ただ深い悲しみだけがあった。妻の愛した銀行を、こんな形で離れるなんて。それに、きっとこのままでは済まない。日本中の人々が困る事態になると、よしかは確信していた。

エレベーターが一階に到着し、扉が開く。よしかは表情を整え、ロビーへと歩き出した。受付カウンターの前で立ち止まり、ポケットから一枚のメモ用紙を取り出す。ペンを走らせ、丁寧な文字で書き記していった。

特許ライセンス契約は本日二十三時五十九分で失効いたします。その場合、翌朝九時に自動ロックが作動いたします。至急ご対応をお願いします。坂木原よしか。

メモを受付カウンターに置く。よしかに最初に対応した受付の女性がちらりと目を向けた。

あの、これは——

システム部長にお渡しください。重要な件です。

よしかは深く頭を下げ、銀行を後にする。受付の女性行員はメモを手に取った。

何これ?

隣にいた若い男性社員も覗き込む。二人で何のことだかさっぱりだと笑った。

契約失効?よくわかんないわね。どうせ年寄りの戯言でしょ。

女性行員はそう言いつつメモを丸め、カウンター下のゴミ箱にぽいと捨ててしまう。二人は何事もなかったかのように業務に戻った。

銀行の外。秋の夕日がよしかの背中を照らしていた。道具箱を抱え、ゆっくりと歩き出す。街路樹の影が長く伸びている。

よしかの脳裏に妻はる子の笑顔が浮かんだ。窓口でお客様に笑顔で接する姿。休憩室で同僚たちと笑い合う姿。今でもはっきりと思い出せる。

よしかは立ち止まり、静かに呟いた。

はる子、お前が愛した銀行は、もう違う場所になったようだよ。

夕日がビルの向こうに沈んでいく中、よしかは再び歩き出した。

自宅に戻り、書斎の引き出しを開ける。古い契約書が丁寧にファイリングされていた。ページをめくり、ある一部に目を止める。

第八条 契約終了時は自動的に認証ロック作動。

よしかは携帯電話を手に取った。システム部の番号を呼び出す。コール音が鳴る。一度、二度、三度。誰も出ない。十回鳴らしても応答はなかった。

よしかは静かに電話を切った。窓の外はすでに暗くなっていた。

同じ夜、キメキ銀行本店のシステム部。まだ明かりがついているフロアがあった。日川みさがデスクの前でモニターを見つめている。周囲には若手エンジニアが数名残っていた。

今日であの老人との契約も切れたし、古いコードを削除するなら今夜よ。

日川が部下たちに指示を出す。若手エンジニアの一人、霧谷が不安そうに声を上げた。

でも、コアシステムに触れるのは危険では?

日川は鼻で笑った。大丈夫よ。私なんかで何百回もやってきたんだから。新システムへの移行なんて慣れたものよ。

霧谷が食い下がる。しかし、よしかさんの設計した部分は特許で保護されていて——

日川が遮った。契約切れたら特許も関係ないでしょ。さっさとやって。

外資系での成功体験が日川の全てだった。目の前の若造や老いた人間の意見など、彼女の耳には届かない。彼女の中は、自分の経験こそが全てであり、他の人間の意見など聞くに値しないという歪んだ自信で満ちていた。

霧谷はしぶしぶキーボードに手を伸ばしつつ、心の中でこれは本当に大丈夫なのかと不安を抱いていた。

日川がモニターを指差す。このフォルダ、全部削除して。

はい。

霧谷がマウスを操作し、削除コマンドを実行する。画面に次々と表示される文字。

プロトコル01削除中。プロトコル02削除中。プロトコル03削除中。

システムのコア部分が次々と消されていく。その瞬間、小さな警告音が鳴った。霧谷が顔を上げる。

主任、警告が——

日川は画面をちらりと見て手を振った。よくある警告よ。無視していいから。続けて。

霧谷は唇を噛み、作業を続けた。最後のファイルが消え、画面に完了の文字が表示される。日川が満足そうに腕を組んだ。

これで古いコードは全部消えた。明日からは私たちの新しいシステムで動くわ。

若手エンジニアたちが緊張した面持ちで画面を見つめている。日川は立ち上がり、コートを手に取った。

じゃあ、お疲れ様。明日は新システムの稼働日よ。楽しみにしてて。

そう言って日川はオフィスを出て行った。残された霧谷は漠然とした不安を覚えつつ、モニターの前に座り続ける。他の若手社員たちが次々と帰っていく中、霧谷一人だけが深夜までシステムの監視を続けた。

午前一時、霧谷のモニターに突然アラートが表示された。

認証システム警告。

霧谷の顔が蒼白になる。

まずい。

慌てて日川の携帯に電話をかける。コール音が鳴り、五回目でようやく繋がった。

何を夜中に——

日川の不機嫌な声が響く。

主任、認証システムに警告が出ています。

はあ?警告?

十二時間後に自動ロックが作動するって表示が——

日川が大きなため息をついた。そんなの明日でいいでしょ。でも、夜中に電話してくるな。

そう言い放ち、日川はガシャンと電話を切ってしまう。霧谷は震える手でシステムログを確認し始めた。画面に映し出される削除されたファイルのリスト。その中に見覚えのあるコード名があった。霧谷の額に冷や汗が流れた。

まずい。これ、自動ロックの前提条件が崩れてる。よしかさんの特許コードが削除されたことで認証パスが途切れている。このままでは明日の朝九時に全システムがロックされる。

霧谷は何度も日川に電話をかけたが無駄だった。

翌朝、午前九時ちょうど。キメキ銀行の全国支店で一斉に異変が起きた。ATM二千八百四十七台。その全てが同時にダウンしたのだ。画面は真っ暗なまま。

各支店の窓口に客からの苦情が殺到し始めた。ATMが使えない。お金も下ろせない。急いでいるのに一体どういうことか。苦情の電話が鳴りやまず、受付カウンターは怒号と苦情で溢れ返った。

本店のシステム部のモニターには、全国の支店から次々とエラー報告が上がってくる。若手エンジニアたちがパニック状態で画面を見つめていた。

北海道支店が全台ダウン。大阪支店も同じだと。福岡支店、復旧不可能。

その時、会議室のドアが勢いよく開き、藤堂が息を切らして飛び込んできた。

どういうことだ?何が起きてる?

若手エンジニアの一人が震えながら報告する。全国のATMが一斉にダウンしました。認証システムのエラーです。

藤堂の顔が真っ青になった。なぜだ?昨夜は正常だっただろう。

日川が蒼白な顔で、ただ画面を見つめデスクの前で立ち尽くしている。藤堂が日川に詰め寄った。

日川、お前、昨日何をした?

日川の声が震える。わ、わかりません。だ、ただ昨夜古いコードを削除しただけです。

削除?勝手に削除したのか。

霧谷が割って入った。部長、坂木原さんの特許ライセンスが失効し、さらにコアコードが欠損しています。そのため認証システムが完全にロックされました。

藤堂が激怒した。なぜ勝手に削除した?バックアップは?

霧谷が静かに答えた。バックアップも特許認証に依存しているため復元不可能です。

藤堂は顔面蒼白になった。じゃあ、どうすれば——

霧谷が静かに言った。坂木原さんに頼むしかありません。

藤堂は言葉を失った。昨日契約を打ち切ると告げた相手。七時間も放置した相手。その男に今頼らなければならないとは。

システム部のフロアに重苦しい沈黙が広がる。

ふ、ふざけるな。あんな老人に何ができる?お前らの方が詳しいだろう。なんとかしろ。

大声を上げる藤堂に、霧谷は必死に反論した。

無理です。私たちの世代では基幹システムのことを詳しく知る者はいません。だから特許を持った坂木原さんがメンテナンスに定期的に来られていたんです。

周囲の視線に耐え切れず、藤堂は逃げるようにその場を去った。自分たちの判断がどれほど愚かだったのかを、今になって知ったのだ。

霧谷は慌てて車内の電話帳を確認した。よしかの連絡先を探す。だが外部契約者のページにはもうよしかの名前はなかった。契約終了でデータベースから削除済みだ。

どうすれば——

霧谷は立ち上がり、倉庫へ駆け込んだ。古い書類が詰まった棚を漁り、ようやく五年前の名簿を見つける。そこによしかの電話番号が記載されていた。

霧谷は震える指でよしかに電話をかける。コール音が鳴る。一度、二度、三度目で電話が繋がった。

はい、坂木原です。

いつものような穏やかな声だった。

さ、坂木原さん、霧谷と申します。システム部の——

よしかはその声で察した。やはり事態は悪化しているのだと。

霧谷は涙声になった。坂木原さん、日川主任がコアコードを削除してしまって——

電話の向こうで深いため息が聞こえた。

そうか。私が夕方に警告した通りになったわけだ。

申し訳ありません。僕は止めようとしたんですが。

君のせいじゃない。よしかの声は優しかった。今から銀行に向かうよ。

お願いします。

電話が切れた後、霧谷はモニターの前に座り、ひたすら祈った。

そして午前十時、ロビーには報道陣が詰めかけ始めていた。カメラを抱えた記者たちが次々と押し寄せる。

システム障害の原因は?復旧の見通しは?責任者は誰なんですか?答えてください。

スクープを狙って群がるマスコミを警備員が懸命に静止するが、混乱は収まらない。

その時、自動ドアが開き、一人の老人が入ってきた。グレーの作業服で、手には古びた道具箱を抱えたよしかだ。

報道陣の視線が一瞬止まった。記者たちは、なぜこの場にこんな場違いな作業員がやってきたのだと言いたげな視線を向ける。よしかはそんな視線を気に留めることなく、まっすぐエレベーターへ向かった。

受付の女性行員が慌てて立ち上がる。あの、業者の方——

あ、あなたは昨日の——

よしかが穏やかに言った。システム部へ参ります。その声には静かな威厳があった。

受付の女性行員は言葉を失う。昨日、この男のメモをゴミ箱に捨てた。その男が今、銀行を救いに来ている。自分のミスが原因なんじゃないかと気づいた途端、彼女は恐ろしくなった。

エレベーターのドアが閉まる。周囲の視線がよしかに集中していた。

システム部のフロアにエレベーターが到着し、ドアが開く。よしかが静かに降りてくる。その瞬間、若手エンジニアたちが一斉に頭を下げた。

坂木原さん、お願いします。

霧谷が駆け寄ってくるなり叫んだ。他の若手社員たちも口々に声を上げる。彼が基幹システムを作った偉大な存在だと、エンジニアたちも知っていたからだ。自分たちが知らない技術と知識を持った人間に、彼らは敬意を持っている。

私たちではどうにもできないんです。どうか助けてください。

よしかは穏やかに微笑んだ。基幹システムの重要性を知っている若い社員がいて安心したのだ。

まずは状況を見せてくれるかな。

霧谷がモニターの前に案内する。画面にはエラーメッセージが並んでいた。よしかは数秒画面を見つめ、静かに頷いた。

なるほど。コアコードが削除され、認証パスが途切れている。厄介だね。

若手エンジニアたちが固唾を飲んで見守る中、よしかは古い道具箱を開けた。中から小さなUSBメモリとノートパソコンを取り出す。

さあ、始めようか。

その言葉に若手社員たちの目が希望で輝いた。

一方、会議室では藤堂と日川が役員たちに詰められていた。

君たちの判断ミスのせいで損失は膨大だ。一時間で三億を超えているぞ。

常務取締役が怒りをあらわにしている。藤堂が震える声で答えた。坂木原が今、修理を——

役員が遮る。坂木原?君たちが契約を切ったあの技術者か。

日川が小さな声で言った。すぐに治りますから。

役員が机を叩いた。すぐに?もう一時間も経っている。株価が下がり始めているぞ。

藤堂と日川は何も言い返せず、ただ頭を下げるだけだった。

その頃、システム部ではよしかの指示のもと、若手社員たちが次々と作業を進めていた。

霧谷君、このコードを入力してくれ。

はい。

よしかがノートパソコンを操作しながら画面を差し示す。ただし三行目は必ず手動で。

霧谷が不思議そうに尋ねた。あの、なぜ手動なんですか?

よしかが穏やかに答えた。自動化すると認証のタイムスタンプがずれる。それを防ぐためだよ。

霧谷の目が輝いた。なるほど。

他の若手エンジニアもよしかの周りに集まってくる。よしかは一つ一つ丁寧に指示しながら、エンジニアたちに伝えた。

君たちは優秀で飲み込みも早い。ただ基礎を飛ばしてはいけない。

感動した若手の一人がこっそりスマホを取り出し、その光景をSNSに投稿する。

伝説の技術者、坂木原さんが銀行を救ってる。すごすぎる。

その投稿はあっという間に拡散され、車内チャットでも話題になった。

坂木原さんって、あのシステムを作った伝説の技術者らしいぞ。

噂を聞きつけ、システム部のフロアに人が集まり始める。廊下から遠巻きに作業を見守る社員たち。その中に青ざめた受付の女性もいた。昨日坂木原を追い返し、重要だと言っていたメモをゴミ箱に捨てたのは自分のミスだと理解したからだ。その人が今、銀行を救っている。女性行員はただ立ち尽くすことしかできなかった。

午前十時三十分、会議室では藤堂が役員たちに吊し上げられていた。

君の判断ミスで損害額は十億を超えた。

専務取締役が怒りで顔を真っ赤にしている。藤堂は額に汗を浮かべ、震えながら答えた。で、ですから、あの、坂木原が今修理を——

役員が机を叩いた。君が契約を切ったあの技術者だろう。自分で首を絞めて、今更何を言っている?記者会見だ。君が責任者として出ろ。今すぐだ。

藤堂は真っ青になった。私が——

当然だろ。システム部長なんだからな。

藤堂は震えながら頷くしかなかった。会議室を出て記者会見場へ向かう足は、鉛のように重かった。

一方、システム部では日川みさが自分のデスクで呆然としていた。周囲の同僚たちが冷たい目で見ている。社員の一人が日川の近くで聞こえよがしに嘆く。

日川主任がコード削除したらしいよ。最悪だよね。

別の女性社員が通りかかり、聞こえるように言う。外資系出身だって偉そうにしてたくせに、こんなミスするなんて最低。

日川は何も言い返せず、机にうつむいた。自分がどれだけ普段から嫌われていたのかを、知ったからだ。声を漏らしても、誰一人として声をかける社員はいなかった。

そして車内チャットには次々と書き込みが流れる。日川が全部悪い。藤堂部長も同罪だろ。坂木原さんに謝れよ。日川のスマホも通知が止まらない。やがて、人事部長から届いた。

日川主任は午後二時に人事部へ来てください。

日川は震える手でスマホを置いた。

終わった。全てが終わった。

日川は積み上げてきたキャリアが崩れたことを、今思い知ったのだった。

十一時、システム部のフロアではよしかが黙々と作業を続けていた。キーボードを叩く音だけが静かに響く。若手エンジニアたちが息を詰めて見守る中、よしかは淡々と指示をしていた。

まず特許認証を再構築する。これには私の生体認証が必要だ。

霧谷が驚いた表情を浮かべた。生体認証?指紋と虹彩ですか?

よしかが首を振った。いや、網膜パターンだ。四十年前、私が独自に開発した技術でね。

若手エンジニアたちから感嘆の声が上がった。すごい、網膜認証って四十年前に——

よしかは古い機器を道具箱から取り出した。正確には生体認証の原型になる独自の光学認証だがね。

霧谷は息を呑んだ。霧谷自身も相当優秀で、日本でトップの大学を卒業したエリートだ。だがそんな自分が足元にも及ばないことを痛感していた。この坂木原よしかという人物は天才なのだと。

小型のスキャナーを目に当て、よしかは認証を開始する。モニターに緑色の文字が表示される。周囲から歓声が上がった。

認証、通りました。

よしかが次の指示を出す。霧谷君、次はバックアップコードの展開だ。

はい。

霧谷がキーボードに向かうと、よしかがノートを見せながら丁寧に説明していった。このコード、産業ごとに手動確認を入れてくれ。

なぜですか?自動だと——

自動だとエラーチェックが甘くなる。人の目で確認することが大切だ。

霧谷は真剣な顔で頷いた。わかりました。

周囲の若手エンジニアたちも、よしかの一挙手一投足を見逃すまいと見つめている。よしかの作業を見ながら、若手社員たちは自分たちの未熟さを痛感していた。

午後一時、記者会見で藤堂はカメラのフラッシュを浴びながら壇上に立っていた。汗が止まらない。記者たちが次々と質問を投げかけてくる。

今回の障害は人員的ミスですか?

藤堂は声を震わせながら答えた。その、調査中でございます。

坂木原さんとの契約を打ち切ったのは事実ですか?

藤堂は言葉に詰まった。沈黙が数秒続く。その様子が全国にライブ配信されていた。

記者が畳みかける。四十年、システムを支えた技術者を軽視したんですね。

藤堂が絞り出すように答えた。それは、経営判断として——

あなたの判断ですか?

藤堂は答えられなかった。ただ深く頭を下げることしかできない。その姿がスマホの画面を通じて拡散されていく。ネット上では藤堂の過去の言動が次々と暴露され始めていた。

会見後、藤堂は控え室で一人、頭を抱えて座り込んでいた。携帯電話が鳴る。出てみると妻からだった。

あなたの情けない姿がテレビに出てるわ。これからどんな顔をして外を歩けばいいのよ。

藤堂はただ震える手で携帯を握りしめるだけだった。

一方、日川もまた苦境に立っていた。廊下を歩くと、すれ違う社員全員が露骨に顔を背ける。誰も目を合わせてくれない。社員の一人が日川の前を通り過ぎる時に、聞こえよがしに言った。

外資系出身だと偉そうにしてたけど、結局これかよ。

日川は何も言い返せず、ただ俯いた。食堂では誰も隣に座らない。トイレに行けば、女性社員たちがひそひそと話している。

日川が首になるらしい。

誰かが言い、複数の女性社員がクスクスと笑っていた。それを聞きながら、日川はトイレの個室で一人、涙を流した。

自分のキャリアだけを重視してきたことが、間違いだったのだろうか。いや、そんなことはない。あの老人が全て悪いのだ。私は被害者だと、日川は最後までミスを認めようとしなかった。彼女にとって謝罪を認めることは、自己の崩壊を意味していたからだ。

そして午後二時、システム部のフロアに歓声が上がった。

復旧しました。東京支店ATM全体稼働。大阪支店も復旧。

モニターに次々と緑色のランプが点灯していく。全国二千八百四十七台のATM。その全てが再び動き始めた。

若手エンジニアたちがよしかを囲んで拍手をする。

坂木原さん、ありがとうございました。本当に助かりました。

霧谷が深く頭を下げ、他の若手社員たちも口々に感謝の言葉を述べる。よしかは照れくさそうに笑った。

大げさだよ、君たち。

その様子を遠くから見ていた藤堂の顔には、悔しさと敗北感が刻まれていた。

役員が藤堂に告げる。君はこの銀行にふさわしい人間とは思えない。日川も同様だ。覚悟しておくように。

藤堂は何も言い返せず、ただ頷いた。

一方、よしかの元には銀行の若手社員だけでなく、他所の社員も集まってきていた。銀行中の社員に囲まれて感謝される中、よしかはふと、遠くでぽつんと立っている女性に気がつく。メモを捨て、よしかに冷淡な態度で応対していた受付の女性行員だ。

遠くからこちらを見つめていたが、よしかと目が合うと深く頭を下げた。彼女が静かに涙を流していることによしかは気づく。

すみません。少しいいですか?

よしかは皆に囲まれた輪の中から、彼女の元へと向かっていく。

ごめんなさい。坂木原さん。ごめんなさい。

よしかが近づいていることにも気づかず、彼女は俯いたまま、その場で小さな声で謝り続けていた。

顔を上げてください。

はっと顔を上げ、よしかを見た後、また彼女は涙ながらに謝り始める。

ごめんなさい。私がメモを捨てなければ、こんなことには——

いいんです。大丈夫、大丈夫だから。

よしかは、彼女が心から悔いていると分かっていた。日川とは違って、彼女には未来がある。自分のミスを受け入れられる人間は、何度でもやり直すことができるのだから。

午後三時、夕方のニュース番組が一斉に速報を流し始めた。

キメキ銀行システム障害、四時間で完全復旧。創設者・坂木原よしかの尽力で全国のATM再稼働。

テレビ画面にはよしかの若い頃の写真が映し出される。白衣を着てコンピューターの前で微笑む青年。時代の先を見据えた天才の若き日の姿だと紹介されていた。そして現在の作業服姿が並べて表示された。

コメンテーターが深刻な表情で締めくくる。彼がいなければ、今日の復旧はありえなかったのは明白ですね。

ネットでもよしかの話題で持ち切りだった。特に若い世代の間で、彼の存在は一種のブランドとして確立された。

坂木原って、知ってる?すごいよな。

誰もがその名を口にする。よしかの影響力は大きくなっていた。キメキ銀行の役員だった男がインタビューに答えていた。

坂木原さんがいなければ、日本の銀行システムは成り立たなかった。彼の開発した特許技術は、今も多くの金融機関で使われています。

元同僚たちも次々と賛同の言葉を表した。

彼は本物のプロフェッショナルだ。技術だけでなく、人格も素晴らしい。

キメキ銀行の株価は午前中に急落していた。だがよしかによる復旧のニュースが流れると、持ち直し始めた。それでも完全には戻らない。株主たちの怒りは収まっていなかった。責任者として藤堂と日川の名前は繰り返し語られていた。二人は車内で完全に孤立していた。

午後四時、システム部のフロアではよしかが最後の確認作業をしていた。若手エンジニアたちがメモを取りながら見守っている。

これで全てのシステムが正常に戻った。ただし、今後のために君たちに伝えておきたいことがある。

よしかの言葉に、若手社員たちは真剣な顔で耳を傾ける。

新しい技術を追い求めることは大切だ。だが、古い技術を軽視してはいけない。

霧谷が頷いた。基礎が大事ということですね。

よしかが微笑んだ。そうだ。基礎があるから応用ができる。基礎を飛ばして応用に走ると、今日のような事態になる。

坂木原さん、これからも教えていただけますか?

よしかは少し考えてから答えた。私はもう老いた。でも、君たちが望むなら、できる限り力になろう。

若手社員たちの顔が一斉に明るくなった。お願いします。週末、勉強会を開いてください。

よしかは穏やかに頷いた。ああ、いいだろう。

その時、役員の一人がフロアに現れた。常務取締役だった。

坂木原さん。

よしかが振り返る。常務は深く頭を下げた。

この度は誠に申し訳ございませんでした。そして、ありがとうございました。

よしかは静かに答えた。私は呼ばれたから来ただけです。

常務が顔を上げる。銀行として正式にお願いがあります。後ほど役員室へお越しいただけますでしょうか?

よしかは少し驚いた表情を浮かべたが、頷いた。承知いたしました。

午後五時、役員室。重厚な木製テーブルを囲んで銀行の役員たちが座っていた。よしかはその中央に案内され、座る。役員たちに囲まれ、よしかの前には銀行のトップである頭取が背筋を伸ばし立っていた。

頭取は深く頭を下げる。坂木原さん、改めて感謝申し上げます。そして、深くお詫び申し上げます。

他の役員たちも一斉に頭を下げた。よしかは静かに座ったまま、頭を下げ返した。

銀行として、あなたに正式な契約を申し出たい。名誉技術顧問の称号と、技術者育成プログラムの創設責任者をお願いしたい。

よしかは少し考えた。それは光栄なことですが、報酬については大部分を辞退させていただきたい。

役員たちが驚いた顔をした。それはどういう——

よしかが穏やかに答えた。その報酬を、若手の教育に使って欲しい。それが私の条件です。

頭取は目を見開いた。あなたは——

よしかが続ける。私はもう十分に生きた。これからは若い人たちの時代だ。彼らに投資してほしい。

役員たちは言葉を失った。しばらくの沈黙の後、頭取が深く頷いた。

わかりました。坂木原よしか技術者育成基金を設立します。あなたの意思を、この銀行は受け継ぎます。

よしかは静かに微笑んだ。ありがとうございます。

役員室を出た後、よしかは一人、廊下の窓から外を見つめた。秋の夕日が町を赤く染めている。亡き妻はる子の笑顔が脳裏に浮かぶ。

はる子、見てるかい?お前が愛した銀行は、まだ生きてるよ。

よしかの目に涙が浮かんだ。

その夜、自宅のテーブルの上には全国の若手技術者たちから届いた手紙が積まれていた。よしかは一通一通に目を通していく。

坂木原先生、私たちに誇りを教えてくれてありがとうございます。あなたのような技術者になりたいんです。技術を大切にする心を忘れません。

よしかは妻の写真の前に座った。

はる子、たくさんの若い子たちが手紙をくれたよ。みんな真面目でいい子たちだ。

写真の中のはる子が優しく微笑んでいるように見えた。よしかも静かに微笑み返した。

お前が愛した銀行を、彼らが守っていくだろう。だから安心していいよ。

窓の外では秋の夜風が静かに吹いていた。

数日後、藤堂高弘の自宅では、藤堂と妻が向かい合っていた。二人の間にあるテーブルには、離婚届が置かれている。妻が冷たい目で藤堂を見つめている。

あなたのせいでご近所さんから白い目で見られっぱなし。誰も挨拶もしてくれない。もう限界よ。

藤堂は何も言い返せず、離婚届を見つめるしかなかった。

サインして。私と子供は実家に帰ります。

妻は荷物をまとめていき、藤堂は一人取り残される。強い後悔が藤堂を苛んでいた。

翌日、藤堂は転職エージェントのオフィスを訪れた。スーツを着て、履歴書を差し出す。エージェント担当者が履歴書に目を通した後、申し訳なさそうに顔を上げた。

今のところ、ご案内できる転職先はございませんね。

藤堂は告げられ、目の前が真っ暗になる。システム障害の件はかなり大きく報道されていた。藤堂の名前も知れ渡ってしまったせいで、彼を雇おうとする企業は皆無だったのだ。

そんな——

青ざめる藤堂に、エージェント担当者は首を振る。藤堂は力なく立ち上がり、オフィスを後にした。

その後、藤堂は何十社もの企業に応募するが、全て書類選考で落とされる。ある日、珍しく警備会社の面接に呼ばれたことがあった。緊張して座る藤堂の前で、面接官が履歴書を見るなり露骨に嫌な顔色になる。

あの件が、こんなところまで知れ渡っているのか。藤堂は絶望するしかなかった。もちろん採用されるはずもない。コンビニのアルバイト面接も受けたが、同じことだった。

藤堂はどこにも居場所がなく、貯金を切り崩しながら安いアパートで一人暮らしを始める。家具もほとんどない部屋で夜、コンビニの弁当を食べながらテレビをつけると、ニュースでキメキ銀行の特集が流れていた。

坂木原よしか氏、名誉技術顧問に就任。若手育成プログラム大始動。

画面には笑顔で若手社員たちに教えるよしかの姿が映っていた。藤堂はテレビを消し、缶ビールを飲みながら呟く。

俺の人生、終わった。

ある日、町を歩いていると遠くによしかの姿が見えた。作業服姿で銀行へ向かっているようだ。藤堂は慌てて路地裏に隠れた。顔を見られたり、声をかけられたくなかったからだ。ただ、隠れてよしかが通り過ぎるのを待つ。そんな自分を自嘲しつつ、藤堂はよしかから目をそらし、歩き出した。

一方、日川みさ。実家に戻った彼女を、両親は冷ややかな態度で迎えた。

あれだけお金をかけて留学させたのに。

母親は泣き叫び、父親も怒りを隠さない。

首になるような恥晒しは、私の娘ではないわ。

そして両親は日川の目の前で、育てた責任を押し付け合い始めた。たまらず日川は自分の部屋に閉じこもった。こんな私に育てたのは、あんたたち両親だろうと恨む。その後も引き戸の向こうでは争う声が絶えなかった。

そんな家から逃げ出したい一心で、日川はノートパソコンを開き、求人サイトを見る。知っているIT企業に手当たり次第に応募した。だが、どこからも返事は来なかった。SNSのアカウントには、以前として日川をなじるメッセージが届いていた。どれも見るに耐えない言葉ばかりで、仕方なく日川はアカウントを削除する。だが今度は家に匿名の手紙が次々と届くようになった。

どうしようもなくなって、日川は部屋に引きこもる。外に出るのが怖いし、人に会うのも怖い。以前の同僚に連絡してみても、全員から既読無視されるありさま。誰も彼女に関わりたくないのだろうと、日川は絶望した。

ある夜、テレビで坂木原よしかの特集を見た。

伝説の技術者、若手育成に尽力。

画面には笑顔で講義をするよしかの姿と、熱心にメモを取る若手エンジニアたちが映っている。もう見ていたくなくて、日川はテレビを消した。

鏡の前に立ち、自分の顔をじっと見つめる。これまでは自分以外の人間は全員が格下だと見下して生きてきた。キャリアのためなら誰かを踏み台にすることに躊躇はなかった。なのに今は、目の下に大きなくまがある。やつれた顔をした自分がいる。

そして悟る。これがその報いなのだと。

後悔してももう遅いのだと知り、日川はその場に崩れ落ちた。

数週間後、キメキ銀行では新しい動きがあった。坂木原よしか技術者育成基金の設立式典。会場では若手エンジニアたちが集まり、よしかを囲んでいた。

頭取が挨拶をする。この基金は、技術者の誇りを守り、次世代を育てるためのものです。坂木原さんの意思を、我々は受け継ぎます。

会場から大きな拍手が起こった。

式典の後、霧谷がよしかに話しかける。

坂木原さん、今度の週末も勉強会、お願いします。

よしかは微笑んだ。もちろんだ。君たちは将来、この銀行を支える人材になる。

はい。坂木原さんのような技術者になります。

霧谷が真剣な顔で言い、他の若手社員たちも大きく頷いた。よしかは頼もしく彼らを見つめ返していた。

この頃、すでに藤堂と日川のその後は車内でも話題に登らなくなっていた。二人は完全に過去の人間となっていたからだ。

午後、よしかは一人で銀行の屋上に上がった。東京の街並みを見渡すと、高層ビルが立ち並び、人々が行き交っている。よしかは深く息を吸った後、呟く。

はる子、俺はお前が愛した銀行を守れただろうか。

まるではる子が答えているかのように、風が優しくよしかの髪を撫でた。よしかは静かに微笑んだ。

これからも若い子たちを育てていくよ。それが俺の生きる、新たな理由になった。

夕日がビルの向こうに沈んでいく。若手社員たちには教えることがまだたくさんある。そう思いながら、よしかは屋上を後にし、再びシステム部へと向かった。

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